2015年11月
アイン・ジャールートの戦い〜勝者から敗者へ〜  月瀬まい


 怒涛のモンゴル軍
 時は13世紀、チンギス・ハーンが産んだモンゴル帝国は彼の死後も膨張を続け、ユーラシア大陸を覆わんとしていた。1251年、モンゴルではモンケが第4代大ハーンに即位、次弟クビライを南宋攻略に派遣する一方で西征には三弟フレグを派遣した。また末弟アリク・ブケはモンゴルに残した。
 フレグは1253年にモンゴル高原を発ち、西へ向かった。率いたのはモンゴルの各部族から成る新軍団であった。

アイン・ジャールートの戦い地図

図 1 フレグの進軍経路(黒線)とイル・ハーン朝の版図(灰色の線の内側)
(http://www.sekaichizu.jp/atlas/western_asia/p800_western_asia.htmlの地図を利用)

 彼はアム・ダリヤ川を渡りイランの地に入るに先立ち、進軍先であるイラン、アゼルバイジャン、グルジア、アナトリアの有力者たちにモンゴルへの協力を呼びかけた。彼の陣営には各地の首長たちが集ったが、イスマーイール教団はこれに加わらなかった。最初の敵はイスマーイール教団となった。この教団は刺客を放って政敵を葬ることから暗殺教団と呼ばれ、イランに堅固な山城をいくつも持ち大きな勢力を持っていた。しかし、モンゴルの軍勢が迫ると政変が起こり、1255年12月、教主ムハンマド3世が側近に殺害され息子のルクヌッディーン・フルシャーが後を継いだ。フルシャーはモンゴルとの交渉を試みたが失敗、彼は1256年11月19日に降伏し、その後大ハーン訪問を許されたがその帰途に殺された。こうしてイランの一大勢力がわずか1年で消滅することになった。
 フレグは軍を再編した後、アッバース朝の都バグダードへの進攻を図った。1257年、フレグはバグダードを包囲した。モンゴルの下準備は徹底しており、バグダードを救援しようという者は現れなかった。モンゴルの調略によって、アッバース朝の宰相は守備兵を減らした。そして包囲の末に1258年2月、カリフのムスタースィムは降伏しバグダードは戦闘もなく開城。ムスタースィムは幽閉されて餓死させられたとも絨毯に巻かれて馬に踏み殺された[1]とも言われている。5世紀に亘って続いたアッバース朝はこうして滅亡した[2]。この時に何十万人もの人々がモンゴル軍に殺されたと言われている。スンニ派ムスリムの間ではフレグの名は恐怖の的となり、キプチャク高原を支配していたジョチ家のベルケはこれに抗議した[3]。一方シリアのキリスト教徒たちは彼をプレスター・ジョンであると信じた。フレグの妻と母、また配下の将軍キト・ブカは実際にネストリウス派キリスト教徒であった。
 フレグは軍を一旦アゼルバイジャン高原に移動させて休養させたのち、再び南下した。イラクやシリアのムスリムの首領たちやキリキア、アルメニアのキリスト教軍団などがこぞってフレグに忠誠を誓い、その軍に加わった。

 巻き込まれるマムルーク朝
 シリアのスルタン、アル・ナースィル・ユースフはモンゴルの力を借りてエジプトのマムルーク朝を攻撃しようと考え息子のアズィーズを派遣したが、フレグはスルタンが自ら赴かなかったことに怒りシリアの中心地ダマスクスを引き渡すよう求めた。モンゴル軍が進撃し1260年2月にはアレッポが陥落、さらにアンティオキア公国とトリポリ伯国の君主がフレグに従った。アル・ナースィル・ユースフは一転してマムルーク朝に援助を求めた。彼は逃走したものの捕虜となり、 4月にはダマスクスが陥落した。
 続いてフレグはエジプトへ進攻しようとした。マムルーク朝では、マムルークの武将であるクトゥズが「若年のスルタンではこの難局に対処できない」としてスルタンのアリーを退位させ1259年4月に自らが即位、反対意見に対しては「モンゴル軍を撃退した後に他の人物を立てればよい」と言った。彼は、以前に対立しシリアに逃亡していたバイバルスとバフリー・マムルークの武将らに領地と官職を与え、マムルーク勢力を結集させ戦争の準備を進めていた。
 一方、東方では事態が急変していた。1259年8月、南宋への親征を行っていた大ハーンのモンケが死去していたのである。その結果、南宋を攻撃中であったクビライとモンゴルに留守役として留まっていたアリク・ブケとの間に帝位継承戦争が勃発した。しかし、大ハーン死去の報がフレグのもとに届いたのは翌年4月になってからのことであった。情報伝達が非常に遅いが、これはアリク・ブケによる妨害があったためだと考えられている。ともかく大ハーンの死と東方の動乱を知ったフレグは東に戻ることを決意し、キト・ブカが率いる部隊を押さえとしてシリアに留め、ベルケを監視し西征軍とイランを確保するために自らはアゼルバイジャンへ引き返した。

 決戦
 シリアを任されたはずのキト・ブカであったが、彼はマムルーク朝に降伏を迫る使者を送った。当初クトゥズは降伏を考えたがモンゴル軍の大半が引き返したことを聞くと思い直し、使者たちの首をカイロの城門に釘で打ち付けて服従拒否を示した。1260年7月26日、クトゥズ率いるマムルーク軍がカイロを出発、パレスティナを経由してダマスカスに向かった。
 一方キト・ブカはモンゴル人やグルジアとアルメニアのキリスト教徒からなる軍勢を率いてダマスカスを出発、南下した。キト・ブカ率いるモンゴル騎馬軍は対イスマーイール教団戦、バグダード侵攻、シリア制圧いずれの戦闘でも先陣に立っており疲弊していた。マムルーク朝側の記録ではモンゴル軍10万、マムルーク軍12万というがこの数字は相当誇張が入っており通説では実際は双方1万人程度で、ややマムルーク朝側が多勢であったと考えられている。
 ガザに滞在していたモンゴル軍先遣部隊はバイバルス率いるマムルーク軍の先遣隊に遭遇、これに敗れてガザから撤退した。キト・ブカはアッカの十字軍勢力に同盟を提案していたが、この勝利を利用してクトゥズは十字軍勢力から中立の保障を取り付けることができた。クトゥズはマムルーク軍の主力を森林に隠し、バイバルスの先遣隊を前進させた。
 9月3日、モンゴル軍はゴリアテの泉[4]でバイバルスの先遣隊に遭遇した。ゴリアテの泉をアラビア語で「アイン・ジャールート」というため、この戦いはアイン・ジャールートの戦いと呼ばれている。モンゴル軍はマムルーク軍前衛に突撃しこれを破り、バイバルスは逃げ出した。しかしこれは罠であり、その先にはマムルーク軍本隊が控えていた。キト・ブカはマムルーク軍の前衛と側面を打破したが、クトゥズはマムルーク軍に一斉攻撃を命じ、乱戦になると自らも兜を脱ぎ捨て敵兵と闘った。こうしてモンゴル軍の中央が突破された。キト・ブカは戦死したとも言われ、また捕虜となったとも言われている。後者の言説では、マムルーク軍の捕虜となったキト・ブカはクトゥズの前に連行されたのち処刑され、彼の首はマムルーク軍の兵士によってポロ競技のボールに使われたとされる。一方、勝者のクトゥズはダマスクスに凱旋したがまもなくバイバルスの家臣に暗殺されてしまった。その後バイバルスがマムルーク朝の繁栄を築き上げることになる。

 敗者のその後
 それまでとは一転してモンゴルは敗者となり、その後はついにエジプト・シリアを領有することは叶わなかった。アイン・ジャールートの戦いの後、地中海沿岸にあったモンゴルの拠点は次々とマムルーク勢力に奪われモンゴルの勢力はシリアから追い出された。しかしフレグはアゼルバイジャンで支配体制を整え、アム・ダリヤ川からアナトリアに至る地域を確保し、フレグ・ウルス(イル・ハーン朝)の礎を築くことに成功する。
 その後のフレグ・ウルスには北方のジョチ・ウルスとの対立も生じた。もともとイランはジョチ家の影響下にあった。それをフレグが西征のためにイランを制圧し、続いて支配することになったためである。フレグがイランの支配を固めると、1261年から62年にかけて、ジョチ家当主のベルケは攻撃を仕掛けた。しかし、この対立関係は両者の足枷となり、両者とも東方情勢に介入できなくなった。マムルーク朝はベルケと同盟を結び、フレグに対抗した。フレグは1265年2月8日に死去、その後は息子のアバカが跡を継ぎ、ジョチ・ウルスとの対立も引き継いだ。さらに時代が下ってガザンはイスラームに改宗、また大ハーンによる即位の承認を得ることもなくなり、イル・ハーン朝はモンゴル色を薄めていきペルシアの王朝として脱皮していく。アイン・ジャールートでの敗北がイル・ハーン朝の成立を促したと言えよう。


    注釈
  1. ^ モンゴルでは伝統的に貴人の血を流すことを嫌うため、これが貴人を処刑する方法であった。
  2. ^ その後、マムルーク朝のバイバルスがカイロにアッバース朝の一族を招きカリフとして擁立した。
  3. ^ ベルケはムスリムであった。
  4. ^ ダヴィデがこの地でゴリアテを倒したという伝説にちなむ地名。

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