2015年11月
61年1月10日 えんぴつ
ことの起こり
預言者ムハンマドの死は、マディーナのイスラーム共同体に大きな混乱をもたらしたが、第一代のアブー・バクルを初めとする「預言者の後継者」である正統カリフたちはこれをよくまとめた。第二代カリフ・ウマルの統治下では、ビザンツ・ペルシア軍を破り古代オリエント世界をイスラームの支配に塗り替え、さらにその支配はエジプトに及んだ。しかし、このイスラーム国家の領域の拡大は、非ムスリム・改宗したての信徒を抱え込む結果となり、従来の共同体の合意による都市国家的政治[1]では立ち行かなくなった。第三代カリフ・ウスマーンの時代には矛盾は深刻なものとなり、彼はエジプトから来た不満分子に暗殺される結果となった。その混乱を収拾する期待を背負い第四代カリフとなったのがアリーであった。
アリーは、知恵があり勇敢で、非常に人気がある人物であった。ムハンマドの死の際も、最初の後継者に目されていたのではないかと熱烈な支持者たちは考えていた[2]。このとき50歳台の終わりに近づいていたアリーは、共同体の最長老としての揺ぎ無い地位を確保し、アリーの熱烈な支持者にとっても、そうでない者にとっても円満な解決に達したはずだった。
しかし、大きな版図を抱える故に首都マディーナからの統治が行き届かず、イスラーム国家のパワーバランスは既に崩壊の兆しを見せていた。マディーナの長老の合意は得ることが出来たが、シリア総督のムアーウィヤは態度を保留したのである。ムアーウィヤは先代カリフ・ウスマーンによってシリア総督に任命され、シリアを地盤にウマイヤ家の権力を固めた[3]。アリーをカリフとして承認すれば、総督を罷免されて折角固めた権力も元の木阿弥になると考えたため、彼はアリーにウスマーン暗殺の責任の一端があるとして反対した。アリーはこれをイスラーム国家分裂の危機と判断し、クーファに遷都し、ムアーウィヤ討伐のため出陣した。
アリーの党派
アリー軍・ムアーウィヤ軍によるスィッフィーンでの戦いは長引き、軍事的に勝敗はつかなかった。そのため、ウマイヤ軍は知将アムル・アースの献策により、槍の先にクルアーンを付け和議を提案[4]し、カリフ位を巡る紛争について両者で調停を行なうこととなった。
ところが、この調停が思わぬ事態を呼び起こした。アリーの支持者の一部がいきなり怒り出し、袂を分かったのである。彼らは正統なカリフであるアリーがカリフの位を反乱者のムアーウィヤと調停することなど有り得ず[5]、そのような罪を犯してしまう指導者は見捨てるとし、ハワーリジュ派[6]という分派を形成した。
ハワーリジュ派はまず手始めに、「大罪を犯した統治者」であるアリーとムアーウィヤの暗殺を企てた。アリーに遣わされた刺客、イブン・モルジェムは、その命を奪うことに成功した。クーファのモスクでの朝の礼拝中を襲われたアリーは、血を流しつつも礼拝を最後まで続けたという。しかし、ムアーウィヤに遣わされた刺客は暗殺に成功せず、彼は生き延び、アリーの死を契機にシリアのダマスカスを首都としてウマイヤ朝を開き、正統カリフ時代は終わった。アリーにはムハンマドの娘・ファーティマから生まれた長男のハサン・次男のフサインという二人の息子[7]がいて、長男のハサンは第五代カリフを称したが、その政治的実体はなく、ごく短期間のことであった。彼はウマイヤ軍との初戦で敗退するとカリフ位を放棄しムアーウィヤに譲る代わりに、巨額の報酬・年金を受け取る密約を結んだ。彼はマディーナに隠棲し、享楽的な一生を送った。45歳で没するまでに100回以上の結婚と離婚を繰り返し、「離婚の達人(ミトラーク)」と綽名される程であった。
「シーア」という言葉は「党派」を意味する。アリーとムアーウィヤが戦っている間はそれぞれ「シーア・アリー」、「シーア・ムアーウィヤ」と呼ばれたが、ムアーウィヤが王朝の主となった後は、「シーア」といえばアリーの党派を指すこととなった。現在に至る「シーア派」という言葉の由来はこの戦いにある。ムアーウィヤの父親アブー・スフヤーン(ウマイヤ家)とムハンマド(ハーシム家)の対立はムハンマドによるマッカ征服まで続いていたという歴史的経緯もあって、シーア派はウマイヤ朝統治下では弾圧されることとなった。また、ウマイヤ朝の政治は現実的な安定支配のため部族的血縁原理が採用され、非アラブ人ムスリムマワーリーの反感を買っており、反乱の機運は高まっていた。
ムアーウィヤの後継者
とはいえムアーウィヤも生前のムハンマドから直接教えを受けた者の一人であり、表立って反イスラーム的態度を取ったわけではなかった。しかし、晩年の彼はウマイヤ家による支配を続けるべく、互選による長老政治の原則を破り、あらゆる策を弄して息子ヤズィードをカリフ位につけようとした[8]。ヤズィードは、統治者たる資格・能力を身につけた人物ではなく、それどころか酒を人前で飲み、音曲に耽溺して、イスラーム的価値を公然と否定した人物であり、ウマイヤ朝を肯定する歴史書にもヤズィードの悪徳が並べられるほどであった。
これに対して立ち上がった者がアリーの次子、フサインである。フサインは、ムアーウィヤが生きている間は兄のハサンと同様に宥和的な平和路線を取った。これはハサンがムアーウィヤと結んだ恭順の約束を尊重したためであった。しかし、ヤズィードに対しては真っ向から対立する意志を見せた。この頃、イラクの中心都市であったクーファは、ウマイヤ朝政権に対抗するシーア派ムスリムの重要な活動拠点であったが、ウマイヤ朝から派遣された知事の無理な要求に苦しんでいた。彼らは、マッカに暮らしていたフサインに密書を送り続け[9]、ウマイヤ朝に対して共に決起することを促した。これを受けたフサインは「不正の王朝」と戦うため、武装した72人の一族郎党、女・子供を率いて密かにマッカを抜け出し、クーファへと向かった。フサインは決起に先立ちクーファに代理人を遣わしており、18000人がフサインへの臣従を誓ったという。
カルバラーの悲劇
しかしこれより先、クーファの不穏な動きを察知したカリフ・ヤズィードは、ウバイド・アッラーフをクーファ総督に任じて、シーア派ムスリムの取り締まりに乗り出した。クーファの民は新総督に動きを封じられ、再三にわたって勧誘しておきながら、臣従を誓った18000人は結局弾圧策の前に沈黙してしまい、決起することが出来なかった[10]。ウバイド・アッラーフは、4000人の兵力を動員し、バグダードの南約100km、ユーフラテス川西岸のカルバラーに布陣し、フサインの到着を待ち構えていた。
両者の戦いは、ヒジュラ暦61年ムハッラム月(1月)10日(西暦680年10月10日)に行なわれた。朝から始まった戦いは昼過ぎには終わり、フサインと72人の従者達は全滅した。戦闘の3日前から水分の補給が断たれ、全員が喉の渇きに苦しんだ。全ての兵が倒れた後、フサインが喉の渇きに泣き叫ぶ赤子を抱き上げたとき、飛んできた矢が赤子を刺し殺したという。フサインの首は敵将シムルの手によって切断され、ヤズィードのいる首都ダマスカスで晒し首にされた後、40日後にカルバラーに戻されたと伝えられる[11]。捕虜となったフサインの妹は「預言者ムハンマドの死後わずか50年にして、彼の最愛の孫がムスリムによって惨殺されるとは!」と悲嘆にくれた。
アーシューラーの日
フサインに援軍の約束をしながら、カルバラーにはせ参じなかったクーファの人々は、この悲惨な結末に大いに改悛した。2年後、これらの人々はフセインに倣い、自殺行為とも言える蜂起を敢行し、全滅した。彼らは「悔悟する者たち(タウワーブーン)」と呼ばれた。
フサインの殉教は、現代に至るまでシーア派にとって最も重要な宗教的シンボルとなっている。その殉教の日(ヒジュラ暦1月10日)は後のシーア派王朝・ブワイフ朝が10世紀に悼む習慣を始めて以来、今日まで伝わっている。1月10日はムハンマドの時代から「アーシューラーの日[12]」と呼ばれ預言者・モーセにちなんだ断食が行なわれていたが、カルバラーの悲劇以降は、アーシューラー=フサイン殉教の日としてシーア派に縁の深い日となった。イラン・イラク・レバノンなどシーア派の多い地方では、男たちが鎖で裸の背中を打ち、ナイフで額を割る荒行が行なわれている。シーア派の国イランでは、渇きに苦しみながら、ウマイヤ朝騎士の刃に倒れたフサインの殉教を再現する演劇(ターズィエ)が各地で催される。少数派のシーア派ムスリムがフサインの敗北を通して同朋意識をさらに高める日として、1月10日は大きな意味を持っている。
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