2015年11月
もう一人の敗者・レピドゥス  skrhtp


 はじめに
 マルクス・アエミリウス・レピドゥスは、オクタウィアヌスとアントニウスと共に第2回三頭政治を行ったことで知られており、高校の世界史においても重要人物とされているが、他の2人に比べ印象が弱いところがある。実際、高校の世界史の用語集を見ても、彼の業績として記されているのは第2回三頭政治への参加くらいのものである。これには、他の2人が熾烈な争いを繰り広げたのに対し、レピドゥスは三頭政治の中でも弱い立場にあり早くに失脚したことが理由にあるだろう。本稿では、第2回三頭政治の後の争いのもう1人の敗者であるレピドゥスの一生について記述していく。

 カエサル暗殺まで
 マルクス・アエミリウス・レピドゥスは、前90年頃に同名の父親の息子として生まれた。この父親は前78年に執政官に就任したが、その翌年父はかつてのルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクスの行動を真似てローマへ進軍しようとした。しかしこの試みは元同僚執政官のルタティウス・カトゥルスと、グナエウス・ポンペイユスに阻まれて失敗に終わった。
 レピドゥスの名は前52年に、プブリウス・クロディウス・プルクルス[1]とその政敵アンニウス・ミロとの争いに関与したことで初めて記録に現れる。その3年後の前49年、レピドゥスは法務官[2]に就任した。まさにこの年、ガイウス・ユリウス・カエサルが軍を率いて国境であるルビコン川を渡り[3]、内戦が勃発した。レピドゥスはカエサル側につき、イタリアを制覇したカエサルから内政を一任された[4]。同年レピドゥスはカエサルを独裁官に指名した[5]。以降レピドゥスはカエサルから厚く信頼されるようになった。同年末、レピドゥスはカエサルから上ヒスパニア総督に任命された。
 前46年、レピドゥスはヒスパニアから帰還して凱旋式を挙行し、そのままカエサルの同僚執政官に就任した。翌前45年、レピドゥスはカエサルの下で騎兵長官[6]となり、前44年3月15日にマルクス・ユニウス・ブルトゥスとカシウス・ロンギヌスらによってカエサルが暗殺されるまでその地位を保った。このため、一時はレピドゥスも暗殺の対象に含まれていたが、ブルトゥスがカエサル以外の殺害を認めなかったため難を逃れた。

 混乱のローマ
 カエサルが暗殺されると、レピドゥスは直ちに市街に[7]軍団を集結させた。3月17日、執政官マルクス・アントニウス召集の元老院会議が開かれた。この場でカエサル派と暗殺者たちの間での妥協がなされ、カエサルが決めた翌年と翌々年の人事を容認する代わりに、暗殺者たちは処罰を免れることになった。その夜、レピドゥスはブルトゥスを家に招いて夕食を共にした。しかし翌日カエサルの葬儀が行われると、民衆の暗殺者たちに対する怒りが爆発し、ブルトゥスとカシウスはローマから逃亡した。
 暗殺者たちがローマを去った後、アントニウスは自らがカエサルの後継者であることを既成事実化しようとした。その中で、レピドゥスはカエサルの後継の最高神祇官に就任した。その後、レピドゥスはカエサルの人事に従いガリアへと向かった。
 8月、ブルトゥスとカシウスは東方へ逃れた。一方、アントニウスは元老院と激しく対立するようになっていった。前43年、アントニウスは前執政官としてガリアに赴いたが、間もなく元老院はアントニウスを公敵であると宣言し、ヒルティウスとパンサの両執政官率いる追討軍を差し向けた。この追討軍には、カエサルにより相続人に指名されていたオクタウィアヌスも参加していた。両軍は衝突し、結果アントニウスは敗れたが、両執政官はこのとき死亡してしまった。その後オクタウィアヌスは軍を率いてローマに帰還し、補充執政官に就任した。
 アントニウスはアルプス山脈を越えてガリアへ逃れ、レピドゥスはこれを待ち受ける形となった。しかし兵士たちはレピドゥスに対しあまり忠誠心を持っていなかったため、レピドゥスはアントニウスと戦うのは危険だと考え、彼に味方することにした。一方でレピドゥスは元老院に対しては、アントニウスに味方したのは兵士たちに迫られたからであり、元老院への忠誠は忘れていないと弁明した。しかし元老院はレピドゥスを公敵と宣言した。
 レピドゥスとアントニウスはイタリアへと南下し始めた。オクタウィアヌスは2人と戦うのを避けるのが得策だと考え、和解が成立した。3人はそのままローマへと進軍し、政権を奪取して第2回三頭政治が始まった。

 第2回三頭政治
 第2回三頭政治を開始した3人が最初に行ったのは、復讐と反対勢力の壊滅であった。これにあたって「処罰者名簿」が作成された。そこにはかつてポンペイユス側にいた人々を中心に2千人以上の名が記載され、内130人は即死刑とされた。その中にはレピドゥスの兄弟も含まれていたが、結局は処刑を免れた。
 前42年、オクタウィアヌスとアントニウスはカエサルの暗殺者たちのいるギリシアへと遠征に向かい、その間レピドゥスは執政官としてローマを含むイタリアの統治を任された。更に、レピドゥスはヒスパニアとガリアも総督として勢力圏に収めていた。
 しかしオクタウィアヌスとアントニウスは、カエサルの暗殺者たちの討伐に成功してローマに戻ると、すぐさまレピドゥスの追い落としにかかった。当時グナエウス・ポンペイユスの息子セクストゥス・ポンペイユスが元老院と敵対していたのだが、レピドゥスはこの人物に好意的であった。そこで2人はレピドゥスがセクストゥスと陰謀を企てているとして、レピドゥスから両属州を奪い取った。結果ローマ領はアントニウスとオクタウィアヌスの2人の勢力圏に分けられる形となった。
 その後、アントニウスはプトレマイオス朝エジプトのクレオパトラ7世に接近し、オクタウィアヌスが事実上のイタリアの支配者となった。このときには、オクタウィアヌスはまだ元老院や民衆から警戒されていた。更に彼は、海賊の首領と化してシキリアを占領していたセクストゥスの討伐にも失敗した。そんな中でアントニウスの妻と義弟が反乱を起こし、しかもアントニウスはその「調停」のため艦隊を率いてローマに向かっていた。オクタウィアヌスは急いで反乱を鎮圧し、アントニウスとの開戦を回避した。この後、3人はイタリア南部のブルンディシウムで協力関係の再確認を行った。更に3人はローマ世界を三分割し、レピドゥスがアフリカ、オクタウィアヌスが西方属州、アントニウスが東方属州を統括することを決めた。

 失脚
 前37年、三頭政治の向こう5年間の延長が決定したが、この時レピドゥスには殆ど相談もなかった。レピドゥスの三頭政治における地位はそれほど弱いものだったのである。
 翌前36年、オクタウィアヌスが再びセクストゥスを攻撃した。レピドゥスは勢力挽回を狙い、この遠征に参加した。オクタウィアヌスの艦隊はセクストゥスに敗れたが、レピドゥス率いる陸上軍はセクストゥスを破り、やがてシキリアの大部分を奪回した。ここでセクストゥス派の軍団を従えたレピドゥスは、その兵力で以てオクタウィアヌスに対抗しようとした。
 この時オクタウィアヌスの軍団は殆ど機能しない状態だった。しかし間もなく、レピドゥスの兵士達はカエサルの養子たるオクタウィアヌスの側に寝返り始めた。遂にはレピドゥス自身、オクタウィアヌスの陣営を訪れて命乞いをするしかなくなった。
 この時オクタウィアヌスは普段の冷酷さを抑え、レピドゥスを国外追放するに留めた。財産没収や最高神祇官の地位剥奪も行わなかった。その数年後、レピドゥスは許されてローマに戻った。前27年、オクタウィアヌスは「アウグストゥス」の称号を得て事実上の帝政を開始した。それから約15年が経った前13年か前12年、マルクス・アエミリウス・レピドゥスは老齢で死去した。彼の死により、最高神祇官の職もアウグストゥス帝が継承することになった。


    注釈
  1. ^ クラウディウス氏族出身の前58年の護民官で、マルクス・トゥリウス・キケロを追放したことで知られる。
  2. ^ プラエトル。執政官に次ぐインペリウム(指揮権)を保持し、属州統治・軍隊指揮・刑事訴訟裁定などにあたった。
  3. ^ 当時のローマでは軍を解散せずに本国に入ることは禁止されていた。
  4. ^ この時執政官は2人ともポンペイユスと共にローマを去っていた。
  5. ^ 本来独裁官は元老院決議に基づき執政官が指名するのであるが、前述の通り執政官が不在であったために法務官のレピドゥスが指名したものと思われる。
  6. ^ マギステル・エクイトゥム。独裁官の補佐官。
  7. ^ 軍もその統率者も、ローマ市の城壁内に入ることは禁じられていた。

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