2015年11月
敗者の防人  三波


 10世紀の京都、朝廷においては藤原氏の面々による権力争いが続いていた。当時はまだ兄弟が別々に一家を立てる慣習は制度として確立しておらず、兄弟間で宗家の座を巡る争いが起こっていたのである。その争いを左右する要因は、一つは皇室との縁戚関係であることは有名だが、もう一つは当時の寿命の短さにあった。たとえ長男であり、自身が栄達を極めていたとしても、自身が天皇の外戚となることができないか、或は自身が若くして死にその息子が幼ければ、年長の弟に宗家の座を奪われかねない。実際に、藤原氏の内でそのような例が頻発していた。藤原氏の始祖鎌足から第十世にあたる「小野宮流」祖の実頼(900 - 970)は、関白太政大臣として人臣位を極めたが、天皇の縁戚となることができず、嫡流はその弟の師輔(909 - 960)を祖とする「九条流」へと移った。師輔嫡男の伊尹(これただ、924 - 972)、次いで弟の兼通(925 - 977)が続いて関白となるが、兼通は死の直前、更に弟の兼家(929 - 990)に跡を継がせることを断固拒否した。この二人の兄弟は仲が悪かったのである。兼通が関白職を渡したのは、実頼の嫡男である小野宮流の頼忠(924 - 989)であった。
 やがて永観2年(984年)、伊尹の孫にあたる花山天皇(968 - 1008)が即位し、伊尹嫡男の義懐(957 - 1008)が頼忠を上回る権勢を誇る。このままでは伊尹の一族の天下となりそうであったが、兼家は奇策を出した。丁度花山天皇の寵愛する女御が死し、天皇が悲嘆に暮れていた時であった。兼家三男の道兼(961 - 995)が天皇に「ともに出家をいたしましょう」と説得し、寛和2年(986年)、密かに天皇を宮中より連れ出し、まんまと天皇一人を出家させることに成功した。天皇は退位し義懐もともに出家、関白職は頼忠の下を離れ、一条天皇(980 - 1011)の外祖父たる兼家が待望の摂政となった(寛和の変)。新帝の東宮となった居貞親王(花山上皇の弟)も兼家の孫であったので、兼家の天下は決したといえるだろう。師輔、兼家と、二世連続して弟の家系が摂関家の嫡流を確保したことになる。
 兼家はこれまで冷遇された埋め合わせとして、寛和の変で息子たちの強引な引き上げを行った。関白在任中の4年間の間で正室の子はそれぞれ、長男道隆(953 - 995)は従三位から正二位内大臣、三男道兼は正五位下から正二位権大納言、五男道長(966 - 1028)は従四位上から正三位権中納言と、異例のスピードで昇進を遂げた。特に道長は、当時最年少のレベルでの昇進であった。

 兼家没後、その息子たちの間で再び争いが起こる。まず永祚2年(990年)、長男道隆が順当に関白となる。同年、道隆長女の定子(977 - 1000)が一条天皇の下に入内、皇后に立つ。そして、三男の伊周(974 - 1010)が同世代としては最初に参議に上ったかと思えば、同年中に権中納言となる。この時伊周は数え17歳、道長を上回る最年少記録である。道兼と道長にはまだ適齢の男子がいなかった。正暦5年(994年)には伊周が叔父の道長を追い抜いて内大臣に昇進、更に伊周の弟隆家(979 - 1044)も従三位となり、公卿に加わった。
 道隆は酒量が多く、これ故に人前で醜態を晒すことも多かったと伝わる。長徳元年(995年)、道隆は糖尿病が悪化、死の床にあった。道隆は、内大臣伊周に関白職を継がせる心算であったが、天皇はこれを受け入れなかった。伊周は、任務として関白に準ずる「内覧」に留まり、関白には道兼が就いた。然し都ではこの年、麻疹が流行していた。道兼は関白の宣旨を受けて間もなく、麻疹に斃れた。世に云う「七日関白」である。残ったのは更に弟の道長であるが、当時関白は一種の名誉職であると捉えられており、道長はこの職に永らく就かなかった。その後、伊周と道長の間で軋轢が高まり、従者同士が街中で小競り合いを起こす事態まで発生していた。
 事態が動いたのは長徳2年(996年)正月16日、伊周側の失態によるものであった。この時、花山法皇は亡き愛后の面影を求めて、その妹の下に通い詰めていた。これを伊周は自身の愛妾を法皇に奪われると勘違いして隆家と謀り、月夜の晩、隆家の従者が法皇目掛けて矢を放ち法皇の袖を射抜いた。経緯は法皇にとっても体裁が悪かったので口をつぐんでいたのだが、噂は広まった。これが法皇に対する不敬と見做されて、道長は伊周・隆家兄弟の追放へと動いた。4月24日、伊周は大宰府、隆家は出雲への左遷となる。この後、両者出頭を拒否したうえ伊周が逃亡して出家、更に両者ともに病を訴えるなど一悶着あり、結局両者それぞれ播磨・但馬に留める処置に変更された。両者は翌年には赦されて帰洛したが、天下が道長の下へ転がり込んだのは誰の目にも明らかであった。

 長保元年(999年)2月9日、道長の長女彰子(988 - 1074)が裳着の式を行い、成人となる。彰子が近い将来入内することは確実であり、公卿らは軒並み祝いの席を占めた。丁度この頃、皇后定子が懐妊し、8月9日、中宮職の縁で平生昌の邸へ宿下がりをしたが、公卿はみな道長について宇治の別荘(後の平等院)へ行ったため指揮を執るものがおらず、当日になって藤原実資(957 - 1046)が指揮を名乗り出た。実資は小野宮流の嫡流であり、道長に対する反骨精神を常日頃から示していた。下級公卿であった生昌邸は中宮行啓という栄誉を受けることは想定しておらず、清少納言(966 - 1025)ら定子付きの女房は表門から筵の上を歩かされるという有様であった。
 11月1日、彰子が入内する。7日、定子は生昌邸で男児を出産した。敦康親王(999 - 1019)である。伊周・隆家らは一家再興の望みをつかんだが、同日彰子が一条天皇の女御となったため、この吉報はかすんでしまった。天皇は宮中の彰子の居室に行幸し、道長以下公卿大勢を交えて祝宴を張った。
 然し、女御は天皇の妻としては中宮に次ぐ二番手であり、同時に複数が在任することもある。道長はこの際、曖昧に混同されていた「皇后」と「中宮」を明確に別の称号に切り分けて、定子を皇后、彰子を中宮とした。長保2年(1000年)2月25日のことである。公卿らは例のごとく大宴会である。そしてその年の暮れ、定子が没した。
 彰子は幼少であったため、しばらくの間、天皇の皇子は敦康親王ただ一人であった。その為道長も伊周一家に配慮をし、長保4年(1002年)には隆家が権中納言に復帰、寛弘2年(1005年)には伊周のためにわざわざ「准大臣」なる称号を創設し、伊周はその初代となった。道長嫡男の頼通(992 - 1074)は翌寛弘3年(1006年)にわずか15歳で公卿となり伊周の記録をさらに更新したが、まだ伊周にも逆転のチャンスは残っていた。
 寛弘5年(1008年)、彰子がついに男児を生んだ。敦成親王(1008 - 1036)である。道長はこれで安心とばかりに、敦康親王のことは放り出して敦成親王にかかりきりとなった。悲嘆にくれた伊周は、寛弘7年(1010年)に没した。残る隆家は権中納言から進階せず、一家の運は傾き続けた。

 寛弘8年(1011年)、一条天皇崩御。直ちに東宮が践祚した。三条天皇(976 - 1017)である。新東宮は無論、道長お気に入りの敦成親王となった。この三条天皇は叔父である道長とそりが合わず、日ごろから道長に対抗する実資を重用して道長と全面対立した。
 両者の対立が頂点に達したのは、立后の問題である。天皇の即位直後に道長の娘妍子(994 - 1027)が女御となり、寛弘9年(1012年)に中宮となっていた。ところが天皇にはもう一人、藤原?子(972 - 1025)という女御がおり、こちらには間に子が6人いた(妍子との間には、後に女児一人)。?子は藤原氏の中でも傍流の出身で、父の故大納言済時(941 - 955)は生前道隆の側近であった。然し天皇は、無理を通して?子を皇后とした。再び二后の成立である。一条天皇の際に道長が採用した先例を逆利用したのである。すると道長は、?子の立后と同じ日に、一旦宿下がりしていた妍子の参内の日をぶつけてきた。「時刻が違うから構わない」という口実であるが、明らかにこれは道長の妨害である。
 4月27日、立后の儀の当日になり、隆家は立后の儀に参列、気骨を示した。ところが、主宰するはずの大臣が三人とも来ない。已む無く大納言の実資に役目が繰り下がり、実資は妍子の側に供奉する予定を変更して参内した。結局当日在任中の公卿26名の内参内したのは実資のほかに、実資の兄の参議兼平(953 - 1017)、皇后の兄の参議通任(974 - 1039)、そして権中納言の隆家のみであった。事務方の役人も多くが欠席し、儀式の挙行にも支障が出る。ようやく体裁を整えたその晩、中宮の参内の行列が華やかに街中を練り歩いた。隆家は、皇后宮大夫に任ぜられた。
 長和3年(1014年)2月9日、内裏が火災で焼失した。その直後、天皇は左目の眼病を悪化させ、年末にはほぼ失明し片耳の聴力も失った。道長からは、しきりに譲位の要求がくる。翌長和4年(1015年)9月には内裏の新造が終わるが、11月17日、またしても火災が発生し、消失する。いよいよ天皇は譲位を認め、長和5年(1016年)2月7日、東宮敦成親王が立つ(後一条天皇)。新東宮は三条天皇皇子の敦明親王(994 - 1051)であるが、道長の権勢を前にして、明らかに分が悪かった。

 同じ頃、隆家もまた眼病に悩んでいた。隆家は、地方へ下ってこれを癒そうと考える。丁度、甥の敦康親王が太宰帥であった[1]ため、その縁で長和3年11月7日、太宰権帥に任ぜられる。翌長和4年、大宰府へ下る。
 また寛仁元年(1017年)、天皇の代替わりごとに宇佐八幡宮へ報告する勅使が派遣されており、隆家の長男良頼が宇佐使に選ばれた。

 寛仁元年5月9日、三条上皇が崩御した。道長はたちまち上皇との約束を反故にし、敦明親王に東宮辞退の圧力をかけた。元から東宮はけっして天皇の器たりえないと噂されており、従者も道長ににらまれることもあってまともな人材は少なく、東宮自身もその地位を負担に感じていた。道長は、東宮本人から巧みに東宮辞退の言質を引き出した。新東宮は、天皇の弟の敦良親王(1009 - 1045)、やはり道長の孫である。直ちに立太子礼の準備を始めようとすると、次の吉日はわずか2日後だという。普段の朝廷の日常からすれば不可能なことであったが、この時は違った。公卿から下級官吏に至るまで、道長に気に入られたい一心で準備に奔走、9月9日には盛大な立太子礼が行われた。記録的な速さであった。
 翌寛仁2年(1018年)10月16日、道長の娘威子(1000 - 1036)が中宮として立った。この時点で大皇太后は彰子、中宮から皇太后に転じた妍子、皇后に留まった?子を挟み、中宮に威子と、4人の后の内3人を道長の娘が占めるという状況になった。摂政位も既に道長を経て頼通に受け継がれており、仮に将来摂関を巡る争いが起こったとしても、道長の系統の外には出ようがないことは確実であった。その晩、道長邸で行われた宴の席、道長はあの有名な一首を詠んだ。

此の世をば 我世とぞ思ふ 望月の
  欠けたることも なしと思へば

 隆家の大宰府赴任中の実績は定かではないが、目立った大きな事件が起こらなかったことからすると、概ね善政を強いていたようである。
 寛仁3年(1019年)、隆家の任期は残り1年となっていた。4月7日、対馬から急報が届いた。3月28日、対馬を北方の海賊50隻が襲来し、荒らしまわっているというのである。そもそも大宰府とは、地方数か国を統括する地方政府という意味の一般名詞であったが、西海道(九州全島)を統括する筑紫大宰府のみが国防の観点から強大化、他の大宰府が廃されたため、大宰府すなわち西海道筑前国のそれを表していた。その独立性や権限の大きさは律令制が衰退していたこの時代にあっても強く、だからこそその長官は皇族による名誉職であり、有力貴族の左遷先として副長官がよく充てがわれていたのである。
 隆家は直ちに平安京に向けて飛駅を発した。すると7日中に、壱岐島の情報が入った。国司藤原理忠以下兵士は防戦するも、海賊相手には衆寡叶わず玉砕した。更に国寺である島分寺の指揮の下で住民も戦い、三度まで敵を撃退したがついに敗れ奪の限りを尽くされたという。更に急報が着いた7日中に海賊は筑前本土へ来襲、海岸部の怡土郡、志麻郡、早良郡を荒らしまわり、大宰府から兵を派遣してこれを撃退した。隆家は8日付で続報を都へ送った。
 8日、隆家は地元の有力豪族らを博多の警固所に派遣して迎撃態勢を固め、自身も合戦すべし、と意気盛んである。9日、警固所の攻防戦が行われたが、大宰府軍はこれを守り切った。次いで筥崎宮の焼き討ちも撃退し、賊は博多湾に浮かぶ能古島へ引き揚げた。10日、11日は強風で戦闘が中断したが、その間に大宰府は船団を調達した。12日午後、賊は志摩郡の船越津に上陸したが、待ち受けた精兵に敗れた。ここで賊は博多湾を出て逃亡を始め、大宰府の兵船を振り切って姿を消した。隆家は、対馬より先まで深追いすることを厳に禁じた。この数日の間で殺されたものは、大宰府の把握した内で365名、更に捕虜となった者が1289名という被害であった。

 17日、賊来襲の報が都に届いた。翌18日までに8日付の続報が届き、朝議が行われた結果、国内諸道に警護の強化を命ずることを決し、大宰府へは警備、追討、有功者への行賞を命じた。21日、伊勢大神宮以下国内諸社に奉幣が行われた。戦闘終結を告げる16日付の報告が届いたのは、25日のことであった。
 この襲来の始終を通じて、京の都は平穏そのものであった。6月29日、行賞についての審議が行われていたが、一部公卿は、今回の行賞は全て命を発する18日以前のものだから、これを賞するのは近頃多発する地方での武士の専横に拍車をかける、として行賞そのものに反対した。然しここで実資が、以前行賞の宣言なしに行賞を行った先例を出し、結局今回も行賞を行うことと決した。結果、地元豪族出身の大宰少監大蔵種材が今回の戦役の功労第一級とされ、空席となっていた壱岐守に任ぜられた。しかし他の行賞はあまり芳しいものではなく、総大将の隆家は何も与らなかった。

 7月になって、賊に関する詳報が入った。その主は、長岑諸近(ながみねのもろちか)である。諸近は対馬国府の役人であったが、先の賊の来襲で一家もろとも絡めとられ、博多来襲の帰り道で対馬近くを通りかかった際に一人脱出、対馬帰還を果たしたが、家族ら同朋を救うべく小船を出して単身高麗へ密航した。そこで得た情報では、賊の正体は満洲に住む女真族であったという。賊ははじめ高麗を襲った後日本へ向かい、帰り道で再び高麗を来襲、待ち構えた高麗側と烈しい戦闘になった。その後高麗は追撃してこれを破り、日本人捕虜300名近くを救助したという。諸近は捕虜に会って自身の家族の安否を確かめたが、伯母一人を除いて全員死亡という悲しい結末であった。再度の高麗来襲の際、賊は高麗の捕虜で船室がいっぱいになると、日本人捕虜を弱いものから順番に海へ放り込んだという。
 諸近は捕虜帰還に先立ち報告のため帰国することとし、通謀者と疑われないために捕虜代表として女10名を伴って7月7日に対馬へ着いた。直ちに諸近は大宰府へ出頭し、事の次第を報告、13日に報告が都へ送られた。9月19日、高麗から使者が来訪、併せて日本人捕虜270名余が帰国を果たし、隆家は使者を労った。この賊は「東夷」の高麗語読みから「刀伊」と一般的に呼称される。すなわち、「刀伊の入寇」である。
 その後程なくして隆家は権帥を辞め、翌寛仁4年(1020年)、京へ還った。

 この時代、古代律令制は崩壊の危機にあった。律令制とは、揉め事の実力行使による解決を許さず、中央政府が法の定めに基づいて公正に対処する、という中央集権制度である。しかし時代が下るにしたがって、法の支配はただの慣例主義に堕し、中央官吏は専ら皇室や上級貴族を主体とする国家儀礼、そして権力闘争を行うようになった。地方の騒擾はおろか、平安京の町中の揉め事に至るまで一切の無関心を決め込み、全国に実力主義が蔓延りだした。刀伊の入寇をもってしても、或は長元元年(1028年)、道長が没したまさにその年に発生した平忠常の乱をもってしても、中央貴族の意識は変わることがなかった。地方豪族は徐々に力をつけ、武士として律令制を浸食し始めていた。

 長久5年(1044年)、隆家は没した。その子孫は下級公家として地歩を築き、幾系統かは明治の代にまで至った。


    注釈
  1. ^ 大宰府の長官たる大宰帥は、慣例として親王が就任することになっていた。実際に現地で最高指揮官となるのは、副長官たる大宰権帥か、次官たる大宰大弐であった。

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