2015年11月
平安初期の御霊たち  


 0.はじめに
 京都の祭りの中で、一番有名なものといえば7月の祇園祭だろう。17日と24日の山鉾巡行が有名だが、全体の期間はそれ以外の行事も含めて7月中にもわたる。観光客も多く現在では華やかな祭りというイメージがあるが、もともとの目的は、非業の死を遂げた人々が怨霊となって祟りをなすのを鎮めることだった。
 日本では古代から、神は祭祀を怠ると人々に災厄をもたらす恐ろしい存在とする考えがあった。また、奈良時代頃から仏教と神への信仰が融合すると共に、神も人間と同じように人格を帯びるものだとされるようになった。こうして神に人格が与えられるようになると、怨霊という概念が成長する背景が整うこととなる。怨霊は最初から死んだ人間の人格をまとっていたので、怨霊は神の一種としてとらえられ始めた。怨霊を恐れた人々は、それらを祭ることで彼らを慰撫した。こうした習慣は庶民の間から始まり、やがて朝廷にも及んだ。そして怨霊はまた御霊とも呼ばれた。貞観十一(869)年に疫病を追い払うために、六十六本の矛を立て、神輿を神泉苑[1]に担いで行き、御霊を慰める祭事が行われた。これを御霊会(ごりょうえ)と言い、この時に行われた御霊会が祇園祭の起源であるとされる。
 朝廷で行われた初めての御霊会は少しさかのぼり、貞観五(863)年5月20日のことである。この時も神泉苑で行われ、供え物として花などが置かれ、雅楽が演奏され、金光明経[2]や般若心経が公演された。会場は貴族だけでなく、平安京の庶民にも開放された。ここで祭られた御霊は、早良親王、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂の六人である。多くの人に知られているわけでもなく、歴史的にはあまり有名ではない彼らが、なぜ怨霊として恐れられるようになったのだろうか。
 なお、文中の日付は全て旧暦である。また、当時の人名の読み方は諸説ある。

 1.早良親王
 早良親王は桓武天皇の13歳下の同母弟で、天平勝宝二(750)年に生まれた。父の光仁天皇は即位までは目立って活躍していなかったので[3]、彼も奈良時代ではほとんど何もしておらず、皇太子となる以前は出家して東大寺で僧侶として生活していた。天応元(781)年に桓武天皇が即位すると還俗し、皇太子となった。
 この時期は平城京から長岡京への遷都が行われていた時期であった。延暦元(782)年4月には、平城京の造営に関わってきた造宮省が廃止された。また翌年の10月、桓武天皇は交野(かたの、交野市・枚方市付近)に行幸・狩猟した。長岡京の予定地を遠望できる場所だったので、遷都のための下見とみられる。
 延暦三(784)年5月16日、中納言藤原小黒麻呂・中納言藤原種継・左大弁[4]佐伯今毛人(いまえみし)らが、予定地の山背国[5]乙訓(おとくに)郡長岡村(向日市・長岡京市付近)の視察を命じられた。そして6月10日には、種継・今毛人・参議紀船守・石川垣守など18人が造長岡宮使に任命され、遷都が本格的に始まることとなる。しかし遷都に反対する者も多く、平城京では略奪や放火が横行した。そんな中でも11月11日、桓武天皇は平城宮から長岡宮に行幸し、遷都を行った。翌延暦四(785)年1月1日、長岡宮大極殿では朝賀が行われ、8月には諸国の百姓31万人余りを造営のために雇い入れることを決定するなど、遷都は順調に進んでいるように見えた。

 9月23日の夜、松明を炊きながら陣頭指揮にあたっていた種継が射殺された。この時桓武天皇は斎王[6]として伊勢に向かう皇女の朝原内親王を見送るために平城宮に行幸していたが、翌日急遽長岡宮に戻り、その日のうちに大伴継人・竹良ら数十人を犯人として捕らえた。関係者の自白により、事件の1か月前に亡くなっていた中納言兼春宮(とうぐう)大夫[7]大伴家持が中心となり、大伴氏・佐伯氏と早良親王を結びつけ、遷都を推進する勢力を倒し、早良親王を天皇とする計画を立てたということが分かった。これらの氏族は律令制以前からの名門で、保守的な貴族でもあったので、遷都に反対していたことは十分考えられる。事件に関与したとされた者たちは斬首や配流に処され、中には種継の棺の前で罪状を告げられ斬首された者もいた。家持は遺体が埋葬されないうちに罪が発覚し、生前の位階を剥奪された。
 しかし、東大寺で生活していたことがあり、平城京を拠点とする勢力に結びつきやすい立場にあったとは言っても、早良親王自身がどの程度この事件に関わっていたかは不明である。それでも処罰は親王にも及び、彼はこの事件で皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。さらに親王は淡路国に配流されることとなり、彼は抗議のために十数日も飲食を断ち、その途中で亡くなった。遺体はそのまま淡路国に葬られた。

 事件の2か月後、今度は皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)との間に生まれた安殿(あて)親王が11歳で皇太子となった。こうして混乱は収まったかのように思われたが、延暦七(788)年頃から桓武天皇の周囲で不幸が連続する。まず5月には、夫人[8]の藤原旅子が30歳で没した。彼女の父は桓武天皇の立太子に貢献した百川(ももかわ)である。続いて翌年の12月には、母の高野新笠が亡くなり、3か月半後の延暦九(790)年閏三月には、皇后の藤原乙牟漏が亡くなった。同じくこの時期には、天然痘が大流行して多くの死者が出たほか、多くの国が飢饉に襲われたので、大赦が行われた。この年の秋にも、大宰府管内で8万8千人が飢餓に苦しみ、さらに同じ頃から安殿親王が病気になり、翌年の冬に一時回復したが、しばらくして再び病状が悪化した。
 桓武天皇はこれらを怨霊の祟りだと考えた。延暦十一(792)年になっても親王の病気が回復しなかったので、原因を占わせると、早良親王の祟りだとする結果だった。加えて8月には洪水が長岡京を襲った。これらの事態に滅入ってしまった桓武天皇は、ついに長岡京を捨てることを決意し、延暦十二(793)年正月、長岡京の遷都の時にも視察を命じられた大納言藤原小黒麻呂らが山背国葛野(かどの)郡宇太村(京都市)の視察を命じられ、いよいよ平安京への遷都が着手される。
 同時に早良親王の名誉回復も行われた。延暦十六(797)年には二人の僧が淡路国に派遣されて読経を行い、親王のための寺も建立され、仏教による供養も行われた。延暦十九(800)年7月には祟道天皇の称号が送られ、墓を陵と呼ぶこととし[9]、墓守として陵戸が置かれた。さらに『続日本紀』[10]に記されていた廃太子から死までの記述を削除させた。そして延暦二十四(805)年には親王を改葬することとなり、八島陵(奈良市)に葬られた。しかし、桓武天皇は死ぬまで早良親王に対する謝罪と恐れの気持ちを持ち続けることとなった。

 2.伊予親王・藤原吉子
 大同元(806)年3月、桓武天皇は70年の生涯を閉じた。これを受けて安殿親王が践祚[11]し、平城天皇となった。5月には即位の儀が行われ、皇太子に同母弟で21歳の神野親王が立てられた。この時平城天皇には阿保親王や高岳(たかおか)親王といった子供がいたが、彼らは皇太子とはされなかった。当時皇太子となるためには母が皇族または藤原氏でなければならなかったとも言われている。
 ところで、桓武天皇には有力な皇妃が三人いた。一人目は、平城・嵯峨天皇の母の藤原乙牟漏である。父は光仁天皇を即位させた功労者で、光仁天皇の即位後は内臣という天皇の政治を直接補佐する地位についた、藤原式家[12]の良継である。二人目は、淳和天皇の母の藤原旅子で、父は桓武天皇の立太子の際に活躍し、良継と同じ式家の藤原百川である。式家はこのように光仁・桓武天皇と深い結びつきがあったが、良継は宝亀八(777)年、百川は宝亀十(779)年に亡くなり、前述のように、旅子・乙牟漏も30歳過ぎで亡くなっていた。
 一方、三人目の藤原吉子は藤原南家[13]出身で、父は桓武天皇の即位後、死去するまで右大臣として公卿のトップにいた是公(これきみ)である。また兄の雄友は正三位大納言であった。そして彼女の子供が、桓武天皇にとって平城天皇の次の第二皇子であった伊予親王であった。つまり、伊予親王は神野親王よりも年上であったにもかかわらず皇太子に立てられなかった。
 さらにもう一人重要な人物として、采女の百済王永継(ながつぐ)がいた。夫は藤原北家[14]の内麻呂であり、二人の間には子供もいたのだが、彼女は桓武天皇の皇子の良岑(よしみねの)安世[15]の母でもあった。つまり、内麻呂は妻を桓武天皇に差し出した。当時北家はあまり大きな勢力を持っていなかったが、このことが彼の出世につながることとなる。

 延暦二十(801)年、桓武天皇は娘の大宅・高津・高志内親王をそれぞれ安殿・神野・大伴親王[16]に結婚させた。これは、この三人の母である乙牟漏又は旅子の血統に属する男子に皇位継承の資格を優先的に与えることを意味する。しかし、このようなことが三兄弟の間での皇位をめぐる争いを引き起こすことは明白であった。大同元(806)年、桓武天皇が死去する直前、大伴親王と高志内親王の間に恒世親王が生まれた。彼は桓武天皇を父方・母方双方の祖父とし、祖母はどちらも式家に属する。血統から見て、恒世親王はかなり優位な地位にあり、大伴親王も兄弟の間で独特の位置を確保した。そのため、安殿親王は皇位が大伴親王の血筋に継がれるのではないかと不安に思っていたと思われる。
 このような状況で即位した平城天皇は、体が弱く、疑り深く、感情が揺れやすい人物であった。桓武天皇が亡くなった時は、悲しみのあまり一人で立つこともできず、臣下に抱えられてようやく移動できたほどだったという。そうではあるが、即位後は国政の改革に打ち込み、精力的に働いた。皇位をめぐる不安からの焦りもその背景にあったのかもしれない。例えば、即位の6日後には、有能な参議を観察使に任じて、諸国の国司の監督や民政に関する建議を行わせた。また、職務の重複する官職や実際にはほとんど機能していない官職を統廃合し、業務のスリム化・効率化がもたらされたほか、官人も削減できたため、支出の削減につながり、民衆の負担も軽減された。このように、平城天皇は華美なもの、贅沢なもの、実質のないものを好まなかった。服装にまでも口を出し、帯・太刀・鞍や毛皮の使用に厳しい禁制を出した。

 対照的に、伊予親王は平城天皇とは全く逆の性格だった。延暦十一(792)年に元服すると、式部卿、中務卿などを歴任し、政治の経験を積んでいた。また財力もあり、延暦二十三(804)年には近江国蒲生郡(滋賀県中部)の田53町を与えられたほか、母の吉子の兄、つまり伯父にあたる雄友が提供したのか、各地に別荘を持ち、しばしば桓武天皇を迎えて興を尽くした。管弦が得意だったとも言われている。桓武天皇も彼を寵愛し、彼の邸宅に行幸することもあった。また、この時雄友に次ぐ地位にあった従三位中納言の藤原乙叡(たかとし)も同じように桓武天皇に気にいられ、別荘での遊興を好んだ。皇太子時代の平城天皇に酒の勢いで不敬をなしたこともあり、平城天皇はこれをずっと根に持っていたという。

 そして両者の対立が限界に達する。大同二(807)年10月、伊予親王に謀反を勧めている人物がいるという噂が流れ、このことを聞いた雄友は自ら内麻呂に報告した。伯父として善処を相談したのだろう。すぐに藤原宗成という人物が逮捕され、尋問されたところ、彼は謀反の首謀者は親王だと述べた。平城天皇は激怒し、関係者をさらに厳しく取り調べ、親王の邸宅を包囲させた。関係者は処罰を受け、雄友は流罪、乙叡は官を解かれ、藤原南家は没落した。親王と母の吉子は川原寺[17]に幽閉され、飲食を絶たれた。親王の地位も廃され、資財や荘園、別荘もすべて没収された。そして11月12日、親王と吉子は毒を仰いで自殺した。
 こうなれば平城天皇が二人の怨霊に悩むのは当然である。元々神経質な性格だった上に、折からの忙しさも加わり、大同四(809)年春、彼は体調を崩し、「風病」にかかった。ノイローゼなどの疾患を指すと言われる。病気になっても次々に法令を出していたが、ついに4月、神野親王に譲位した。神野親王は固辞したものの、天皇の意思は固く、同月中に即位の儀が行われ、親王は嵯峨天皇となった。皇太子には平城天皇の皇子の高岳親王が立てられた。弘仁十(819)年には親王の称号を戻された。
 ちなみに、この時内麻呂は右大臣であり、天皇の侍従職となっていた。そのため、彼は労せずして南家を蹴落とすことができ、北家が躍進する基礎を固めた。

 3.藤原仲成
 譲位した後も平城上皇の病気はなかなか治らず、11月には藤原真夏らがどの地に移るべきかを決めるために派遣された。その結果、昔の平城宮が選ばれ、藤原仲成らが派遣され、造営が始められた。上皇は早くも翌12月に平城宮に移った。
 藤原仲成は長岡京造営のさなかに暗殺された藤原種継の子である。764年生まれと774年生まれの二つの説があるが、すぐ後で述べるように785年に従五位下になっていることを考えると、おそらく764年生まれであろう。種継が暗殺された延暦四(785)年の11月、安殿親王の立太子の当日に、正六位上から従五位下に昇進し、初めて史書に現れる。次の従五位上への昇進は12年後とあまり早いものではなかったが、各地の国司[18]や大宰大弐[19]となったり、弁官[20]、衛府などで勤務していた。この時には平城上皇の信任を得て北陸道観察使に任じられ、平城宮の造営にもあたっていた。欲深い性格で、酒の勢いで行動することが多く、評判は悪かったという。『日本後紀』[21]の記述では、伊予親王に謀反をそそのかしたとされている。
 彼の妹が藤原薬子である。彼女は娘が皇太子時代の平城天皇に入内したということもあり、皇太子の信任を得ていた。天皇が即位すると、彼女は間もなく宮中に召されて尚侍(ないしのかみ)となり、天皇のそばに仕え、臣下からの奏上を取り次ぎ、天皇の命令を下す権限を握った。位階も順調に昇進し、大同三(808)年11月に従四位下から正四位下に、翌年正月には従三位、次いで正三位に至った。この間、薬子の発言で聞き入れられなかったものはなかったと言われている。

 平城宮に戻った後しばらくは、平城上皇と嵯峨天皇との関係は悪くはなかったらしい。天皇が上皇のもとを訪れたり、親王や公卿たちが上皇に贈り物をしたりしていた。もちろん平城宮にいた上皇の下にも官人たちが使えており、『続日本紀』には「二所朝廷」と書かれている。しかしまだこの時期は、平城上皇はそれほど活発な動きを見せていなかった。
 そんな中、大同五(810)年3月に蔵人所が設置され、長官の蔵人頭に左近衛中将巨勢野足(のたり)と先に出てきた内麻呂の息子でもある左衛士督藤原冬嗣が任命された。蔵人所が設置された理由は、一般的には尚侍であった薬子によって天皇側の機密が上皇に漏れることを防ぐため、天皇の秘密を守り、蔵人所に詔勅の発布に関与させるためとされている。ただし、この時期の蔵人所がどのような職務を行っていたかについては、史料がほとんどなく、不明な点が多い。巨勢野足と藤原冬嗣はどちらも武官であるので、彼らに上皇との武力衝突に備えさせたという見方もある。
 4月ごろには上皇も健康を取り戻し、政治に関与する姿勢を取り始めた。6月末、上皇は自らが設置した観察使を廃止して参議を復活させるという詔[22]を下す。これに伴って仲成も参議となった。この措置は、嵯峨天皇が即位直後に諸国の疲弊を理由として観察使の食封を廃止する勅を出したことに対抗し、上皇に近い官人で占められていた観察使を保障することが目的だった。直後、天皇は病気になり、上皇に皇位を譲ろうとしたが、上皇は拒否した。ともかく、この頃から「二所朝廷」の意味が重くなっていった。

 9月6日、平城上皇は突然平城宮への遷都を命じる。この頃は平安京に遷都してそれほど時間が経っていなかったため、平安京の廃都という選択肢は十分に考えられた。『日本後紀』には、仲成と薬子の二人が上皇をたきつけたと書かれているが、『日本後紀』はこの二人を悪く書きがちなところがあり、どこまで信用できるかは分からない。これを受けて嵯峨天皇は、坂上田村麻呂や藤原冬嗣などの側近を造宮使に任命し、上皇の命令に従うふりをした。10日、天皇は遷都によって人々が動揺したという理由で、伊勢・近江・美濃国に使者を送り、国府と関所を警護させて東国への道を遮断した。そして宮中の警備を高め、上皇の使者として平安宮に来ていたとみられる仲成を捕らえて監禁した。また、薬子と仲成の罪を告発する詔を出し、薬子の官位を奪い、仲成を佐渡権守[23]に左遷することを布告した他、平城宮にいる官人たちに引き上げを命じた。これを受けて上皇は、側近の中納言藤原葛野麻呂らが止めるのも聞かず、官人と兵士たちを率いて伊勢に向かおうとした。ところが官人たちは上皇の命令に戸惑い、参議藤原真夏・従四位下文室綿麻呂ら多くは、天皇に従って平安京に向かった。
 翌11日、上皇が挙兵のために東国に向かったという情報が入ると、天皇はすぐさま坂上田村麻呂・文室綿麻呂に迎撃させ、宇治・山崎(京都府大山崎町付近)にも兵士を配備した。そして、監禁していた藤原仲成を射殺した。12日、上皇は天皇側の軍が待ち受けていることを知り、元の平城京の南端付近で引き返すことを決め、髪を剃って出家した。薬子も服毒自殺した。しかし怨霊として恐れられたのは仲成だけであり、なぜか薬子はその対象となっていない。こうして、南家に続いて式家も没落し、残るは北家のみとなった[24]。13日には皇太子の高岳親王を廃し、天皇の異母弟の大伴親王が皇太子とされた。上皇についた官人たちは左遷され、上皇が亡くなった直後に平安京に戻ることが許された。
 この事件は従来、『日本後紀』の記述に従い、薬子と仲成が首謀者であるとされていたので、「薬子の変」と呼ばれていた。しかし、近年では平城上皇が主要な役割を果たしていたと考えられるようになり、「平城太上天皇[25]の変」と呼ばれるようになっている。最近では嵯峨天皇側が積極的に動いたクーデターであるという見解も出ている。

 仲成と薬子に対する処罰の重さに対して平城上皇に対しては何の処罰もなく、彼は平城宮で政治と無縁の生活を送ることとなった。彼の生活を支える人々はそのまま残り、衛士たちの警備も受けていた。弘仁十三(822)年4月、上皇は東大寺で空海から灌頂[26]を受けた。翌年、嵯峨天皇が譲位するとき、上皇は自らの家政機関を停止するように求めたが、受け入れられなかった。そして天長元(824)年7月、平城上皇は51年の生涯を終えた。
 余談になるが、高岳親王はその後一風変わった人生を送る。上皇が灌頂を受けた時、高岳親王も灌頂を受け出家し、真如と名乗り空海の弟子となった。空海が死去した後も東大寺で暮らしており、斉衡二(855)年に大仏の首が落ちると、修理の責任者となった。この頃から唐に行き仏教を学ぼうと考え始めたらしく、貞観三(861)年に朝廷の勅許を得て、翌年長安に到着する。唐では密教を学び、高僧たちに疑問を訪ねたりしたものの満足のいく答えが得られず、貞観七(865)年皇帝の勅許を得てインドに行くことになったが、行方不明となった。元慶五(881)年に唐にいた僧の中?(ちゅうかん)が送ってきた書状では、途中の羅越国(マレー半島南端)で亡くなったとされる。

 4.橘逸勢
 平城太上天皇の変の9年前の延暦二十(801)年8月、平安時代に入って初めての遣唐使が任命された。前回の任命からは26年が経過していた。大使は後に平城太上天皇の変に関与する藤原葛野麻呂、副使は石川道益である。菅原道真の祖父の清公(きよきみ)も同行し、留学僧には最澄や空海がいた。多くの留学生も参加していたが、その中の一人が橘逸勢である。生年が不明なので年齢は分からない。橘氏は6世紀前半に在位した敏達天皇を祖とし、奈良〜平安初期にかけて活躍し、聖武天皇に仕えた諸兄や、8世紀中頃に反乱を起こした、逸勢の祖父の奈良麻呂などを輩出した。
 延暦二十二(803)年4月、一行は難波津を出発したが、直後に暴風雨に遭い、多数の溺死者を出した。態勢を立て直して翌年7月再度出発するも、またもや嵐に遭い、大使・副使の乗った第一・第二船のみが辛うじて唐にたどり着いた。逸勢は第一船に乗っていたが、漂流して現在の福建省付近に漂着し、上陸しようとしたものの現地の長官に海賊ではないかと疑われ、上陸の許可を与えられなかった。この時同じく第一船に乗っていた空海が許可を求める書状を書き、11月3日にようやく上陸を許された。11月21日に彼らは長安にたどり着き、皇帝の徳宗に拝謁した。
 一行は翌年の2月に長安を出発したが、逸勢はそのままとどまった。中国語が苦手だったので、語学の負担が少ない書や琴を学んでおり、その腕前は唐人からも高く評価された。大同元(806)年の帰国後もそれらの分野で活躍し、平安宮の北側の三つの門の額を書くなどの業績を残し、書に関しては嵯峨天皇・空海と並んで「三筆」と呼ばれるほどの技量を持った[27]。ただ、真筆と確認されている書は現存せず、伊都内親王願文[28]や興福寺南円堂銅塔台銘[29]が彼の作品として伝えられている。承和七(840)年には但馬権守となったが、年老いていたのであまり活発に活動していなかった。そのため、これ以外に彼が何をしていたのかということについては資料が乏しい。
 逸勢が帰国して17年が経った弘仁十四(823)年4月、嵯峨天皇は平安宮の南東に接する離宮の冷泉院に移り、藤原冬嗣に譲位の意思を伝えた。冬嗣は、平城上皇に加えてもう一人上皇がいると財政負担が大きいので、譲位を止めさせようとしたが、天皇の意思は固く、大伴親王が即位し淳和天皇となった。譲位後、嵯峨上皇は国政への権限は放棄したものの、前天皇であり現天皇の兄として私的・社会的に大きな影響力を持っていた。一方淳和天皇は、まず皇太子に自らの第一皇子の恒世親王を立てるが、彼はすぐに辞退し、代わりに嵯峨上皇の皇子の正良(まさら)親王を皇太子とした。淳和天皇もまた嵯峨天皇と同じように平安京内に西院[30]という離宮を持ち、しばしば訪れてくつろいでいた。天長十(833)年2月、天皇は西院に移り正良親王に譲位し、親王は即位して仁明天皇となった。そしてこの時皇太子となったのが、淳和天皇の皇子で当時9歳だった恒貞親王である。これは、嵯峨−仁明の皇統と、淳和−恒貞の皇統が順番に皇位につくことが合意されたことを物語っている。
 しかし、皇位が兄弟とその子の間で交互に継承され、しかも彼らが皇太子である期間が長いという状況が続くと、皇太子時代に結ばれた関係によって貴族の中に派閥のようなものができることも否定できない。つまり、この時は嵯峨−仁明派と淳和−恒貞派が存在していたのである。当時の中納言以上の公卿では、大納言藤原三守・中納言直世王・源常(ときわ)が前者、右大臣清原夏野・中納言藤原愛発(ちかなり)・権中納言藤原吉野が後者に属していた[31]。こうした人々は「藩邸[32]の旧臣」と呼ばれ、皇太子の信頼を得ておき、皇太子が即位すればその縁故で高位高官に抜擢されることを期待していた。
 承和元(834)年、藤原冬嗣の次男の良房が参議へと昇進し、翌年には権中納言となった。彼は仁明天皇が即位すると蔵人頭となり、嵯峨−仁明派に属していた。さらに彼の同母妹の順子(のぶこ)は仁明天皇が皇太子だったころにその妃となり、天長四(827)年には道康親王を生んでいたので、この慣行が続けば、恒貞親王が即位した後に道康親王が皇太子となり、良房が伯父として権力を振るうという可能性が出てきた。

 承和七(840)年5月、淳和上皇が55歳で淳和院で没した。遺言によって、彼は平安京の西の物集(もずめ)村で火葬され[33]、大原野の西山(京都市西京区)で散骨された。陵墓を築くと鬼が取りついて祟りをなすのを嫌ったという。二年後の承和九(842)年7月15日、今度は嵯峨上皇が57歳で世を去った。彼も徹底した薄葬を行うよう命じ、上皇としての葬礼を行わないことを希望した。前述のようにこの二人は嵯峨−仁明と淳和−恒貞の両統が交互に皇位を継承することを意図していたが、貴族たちに大きな影響力を持った彼らが亡くなると、いよいよ水面下での対立が現れてくることとなる。特に次に天皇に即位する予定だった恒貞親王にとっての影響は大きく、嵯峨・淳和二人の間での了解が失われかねない状態になった。

 嵯峨上皇が亡くなる5日前の7月10日、春宮坊帯刀[34]の伴健岑(こわみね)が平城天皇の皇子の阿保親王の下に来て、天皇が亡くなる隙を突いて恒貞親王を奉じて東国に入るという反乱計画を述べ、共謀を持ちかけた。逸勢もこの計画に関与していたとされた。この時阿保親王は上総太守[35]の地位にあり、当時の東国の国司には恒貞親王の関係者が多かったので、こうした計画が生まれる条件は存在していた。恒貞親王の側で天皇に対する呪いが行われているとか、謀略が練られているという噂も流れていたという。阿保親王は驚いてこの内容を封書し、嵯峨上皇の妻の橘嘉智子[36]に密告し、彼女は嵯峨上皇が亡くなる直前に良房を呼び、天皇に報告させた。
 17日、兵士が派遣されて内裏を護衛するとともに、健岑・逸勢の自宅を囲み、彼らを逮捕した。尋問の結果、恒貞親王も拘束されて皇太子の地位を追われ、60人余りの春宮坊の官人も処罰された。さらに、淳和−恒貞派に属していた藤原愛発・藤原吉野・参議文室秋津らも左遷された。健岑は隠岐国に配流され、逸勢は姓を非人とされた上伊豆国に配流されることとなり、途中遠江国の板築(浜松市)で亡くなった。こうして淳和−恒貞派が一掃され、新しい皇太子に道康親王が立てられ、良房は大納言に昇進し、皇太子の伯父として実権を握ることとなる。一方逸勢に対しても名誉回復が行われ、嘉祥三(850)年に正五位下、仁寿三(853)年には従四位下が贈られた。

 5.文室宮田麻呂
 今回扱う六人のうち、最も知名度の低い人物である。六人の中では、伊予親王や藤原吉子も知名度が低いが、この二人よりもさらに知られていない。ほとんど事績が無い人なので仕方がないことではあるが…。

 文室氏は天武天皇を祖とし、孫の智努王が臣籍降下[37]して文室浄三(きよみ)となったところから始まる。宮田麻呂は彼の孫にあたる。生年は不明だが、承和六(839)年に従五位上となり、翌年に筑前守に任じられた。しかし次の年の正月に別の国司の任用記事が見られるので、この時までに解任されたと見られる。

 ところで、この当時は海の向こうの新羅の混乱が著しくなっていた。8世紀後半頃から支配体制が緩み、各地で反乱が起こるようになった。そのためか、この頃から935年に滅亡するまで、新羅は歴史の表舞台から姿を消す。国内の混乱とそれに伴う各勢力の台頭は、日本とも無関係ではなかった。当時日本には多くの新羅人がやって来ており、彼らがそのような新羅国内の勢力と結びつく可能性があったからである。
 新羅にいた有力な人物の中に、張宝高(保皐とも書かれる)という者がいた。彼は若い頃に唐の徐州(現在の江蘇省)に渡り、その地の節度使[38]の配下に入って昇進していった。しかし821年に帰国すると、当時の新羅国王に対して海賊の取り締まりなどの名目で、莞島(ワンド、現在の韓国の全羅南道の南端)に清海鎮という軍事拠点を置くことを進言し、828年にそれが認められるとその大使となった。これにより、張宝高は清海鎮を拠点として付近の唐や新羅の商船への影響力を強め、自身も積極的に唐・新羅・日本を結ぶ交易に従事した。こうして得た権力と財力を背景に、彼は新羅の王位継承戦争にも関与したが、そのさなかの841年に暗殺された。

 彼はこの争いのさなかの承和七(840)年12月に日本に使者を送り新羅の特産物を献上した。この時朝廷は、使者が王によって送られていないことから献上物を返却し、民間の貿易のみを認めることとした[39]。翌年の中頃には部下の李忠がやって来て交易を行ったが、彼は帰国した直後張宝高が殺害されたことを知り、張一派の財物を持って再び来航した。すると今度は、張宝高を暗殺した閻丈が部下の李少貞を派遣して、張宝高が死んだことを報告し、李忠らの身柄と彼らが持ってきた財物の引き渡しを要求した。朝廷はこれを拒否したが、財物を調査していたところ、この時は筑前国守ではなかったが、宮田麻呂が以前に張宝高の財物を買うために代価を?[40]で前払いしていたこと、張宝高の死を知って、李忠からその代価に相当する財物を差し押さえていたことが判明し、朝廷は宮田麻呂に財物の返却を命じた。宮田麻呂と張宝高との交易自体は問題がなかったが、張宝高が新羅の内乱に介入していてそれにより殺害されたので、朝廷は新羅の内乱が日本に波及する危険性を認識した。

 承和十(843)年12月、宮田麻呂は部下によって謀反の疑いを告発され、平安京と難波の家にあった武器を押収された。本来は死刑にあたるところだったが、刑を減ぜられて伊豆国に流罪とされた。息子の忠基は佐渡国、安恒も土佐国に流された。その後彼についての記述はなく、流された先で亡くなった可能性が高い。しかし後に彼は無実であるとされ、御霊会で祭られることとなった。なぜ濡れ衣を着せられたのかははっきりしていないが、3年前の承和の変で兄の秋津が処罰されたことの影響や、交易をめぐっての藤原北家との対立といったことが原因として考えられる。流罪となって亡くなったとは言っても、中央の政界に進出したわけではなく、そうであるのに怨霊として恐れられたということは藤原北家の関与があったのかもしれない。

 6.あとがき
 今回述べた6人の内、早良親王・文室宮田麻呂以外は全て藤原北家が何らかの形で関わっており、宮田麻呂にもその可能性がある。北家の勢力はこの後も拡大を続け、道長・頼通の時代に最盛期を迎える。しかしその陰で何人もの人々を追い落としてきたということに対する後ろめたさは消えなかったのだろう。この6人の後にも、北家によって排除された人は数多い。表向きは政治の権力を完全に握ったが、怨霊への恐れを持ち続けた彼らは、御霊会によって必死に彼らを慰めようとした。そして御霊に対する信仰は中央・地方双方で広まり、菅原道真に対するものをはじめとして社会一般に定着する。このように考えると、祇園祭もまた違ったように見えてくるのではないだろうか。


    注釈
  1. ^ 平安宮の南隣に接する庭園
  2. ^ 四天王がこの経を読む国を保護すると説く内容であるため、朝廷に重視され、奈良時代にはこの経を納める寺として国分寺・国分尼寺が建設された
  3. ^ 桓武天皇や光仁天皇は天智天皇の血統に属していた。これに対して、奈良時代の天皇は天武天皇の血統で受け継がれていた。そのため光仁天皇は皇位の候補とされることはなく、即位時には60歳過ぎだった
  4. ^ 弁官(注20参照)は左・右の二つがあるが、そのうち左弁官の長官
  5. ^ 山「城」国への改名は平安京遷都直後の794年11月
  6. ^ 伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女、斎宮とも言う
  7. ^ 皇太子の家政を司る春宮坊の長官
  8. ^ 后妃の身分の一つで、皇后・妃に次ぎ、定員は三人
  9. ^ 皇族の墓には二種類の呼び方があり、天皇・皇后・皇太后・太皇太后の場合は陵、その他の皇族は墓と呼ばれる。この場合は後に天皇の称号が送られたための措置
  10. ^ 797年に完成した歴史書、697~791年について記述
  11. ^ 天皇の位につくこと。皇位の象徴である三種の神器を受け継ぐ。古くは即位とは区別がついていなかったが、桓武天皇以後区別されるようになり、践祚の後に改めて皇位についたことを布告するために即位の儀が行われるようになった。現在では、新天皇は前天皇の死後ただちに即位すると定められており、神器は受け継ぐが践祚の語は用いられない
  12. ^ 藤原不比等の三男・宇合(うまかい)を祖とする。家名は宇合が式部省の長官の式部卿であったことに由来
  13. ^ 藤原不比等の長男・武智麻呂を祖とする
  14. ^ 藤原不比等の次男・房前(ふささき)を祖とする。南家と北家の家名は、武智麻呂と房前の邸宅の位置関係に由来
  15. ^ 皇子ではあったが、母の永継の身分が低かったので皇族とはされなかった
  16. ^ それぞれ後の平城・嵯峨・淳和天皇
  17. ^ 長岡京の川原寺か飛鳥の川原寺のどちらかと言われている
  18. ^ 朝廷から諸国に派遣された地方官。守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)で構成
  19. ^ 大宰府の次官
  20. ^ 太政官の事務局で、各省との連絡を行う
  21. ^ 840年に完成した歴史書、792年〜833年について記述
  22. ^ 上皇は天皇と同等の機能を持っていたので、天皇と同じように命令は詔または勅と表記される。詔と勅の違いは、詔は臨時の大事、勅は通常の小事に用いるなど諸説ある
  23. ^ 「権」は、定員外に仮においたものであることを示す
  24. ^ 藤原氏にはこの他に、不比等の四男の麻呂を祖とする京家があるが、他の三家に比べて勢力は振るわなかった
  25. ^ 上皇の正式名称。「上皇」が史料に現れるのは平安中期頃からとされ、日本史の教科書などではこのように書かれる。今回は分かりやすくするために、事件名以外では「上皇」とした
  26. ^ 密教で、広く一般の人に仏縁を結ばせるための儀式
  27. ^ 実際にこの称号が使われ始めたのは江戸時代とされる
  28. ^ 桓武天皇の皇女の伊都内親王が荘園を興福寺に寄進した時の文章
  29. ^ 興福寺の国宝館で展示されている
  30. ^ 現在の京都市右京区にあった。離宮の付近も西院と呼ばれるようになり、阪急電鉄・京福電気鉄道の西院駅の駅名もこれに由来する
  31. ^ 左大臣は藤原緒嗣であったが、高齢(仁明天皇の即位時59歳)のため、大きな政治的役割を果たしていなかった
  32. ^ ここでの「藩邸」は皇太子の居所を指す
  33. ^ この時に火葬が行われたとされる場所が向日市にある
  34. ^ 「たてわき」と呼び、皇太子を護衛する
  35. ^ 823年に親王任国の制度が制定され、常陸・上総・上野国の国守(長官)には親王が任じられるようになり、彼らは「太守」と号した
  36. ^ 橘逸勢のいとこ
  37. ^ 姓を与えられて、皇族の身分を離れること。前述の橘諸兄と同様
  38. ^ もともとは辺境防衛のために置かれた軍団の司令官だったが、安史の乱(755)以後それ以外の地域にも設置されるようになり、民政も掌握して大きな権力を保持した
  39. ^ この立場は当時の朝廷の一貫した立場であった。国内の君臣関係の秩序の維持と、貿易しつつも他国の紛争への介入をしない、他国に介入の口実を与えないということがその目的だった
  40. ^ 「あしぎぬ」と呼び、太い絹糸で織った荒い織物

   系図

皇室系図

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藤原氏系図


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