2015年11月
南朝と北朝〜両統迭立の原則を擁護して  リトルフ


 コードゲンジ反逆の鎌倉幕府
 鎌倉幕府はその始まりより苦難の連続であった。もとをただせばただの反乱軍なのである。だから味方を増やすために平氏政権から弾かれたものを集め、かつてからの利権を認め、敵を倒せばその土地を中央の許可なく与えることが必要だった。平氏のようにもともとある機構や制度を利用したわけでもない苦肉の策だったが、それがいつの間にか後付けて中央から認められてしまったのである。さらに、源頼朝の義朝流河内源氏は全国にそれなりにある軍事貴族の家の一つでしかなく、確かに一旦は中央で躍進したが今は果てしなく落ち目であった。だから、平家だけでなく他の有力武家[1]を倒してようやく武家の棟梁という立場に立ったのである。
 頼朝は皇族への接近を望みながら1199年にその生涯を終えた。そしてハッピーエンドにはならなかった。御家人同士の主導権争いによってあらかたの有力御家人が滅ぼされ[2]、気づけば未亡人として頼朝一門の後見人を務めた北条政子の兄弟の子孫である北条義時、北条時房らが幕政の中心にいたのである。
 源実朝は子供ができず、自分の後継者を作ることを放棄して皇族からそれを迎えようとした。勘違いされがちだが、そもそも鎌倉幕府と天皇家が対立していた時期は殆どわずかしかない。後鳥羽上皇と協調関係にあった源実朝が何の因果か1219年に暗殺され、その後の鎌倉幕府の運営を行った者たちを信用しなかった上皇は、ほぼ秒読み段階だった皇族将軍を拒み、さらに鎌倉幕府の排除を目論み、その数少ない対立関係に陥ったのであった。
 この1221年の承久の乱における後鳥羽側の武力は院政期以来の北面の武士、さらに新たに設けた西面の武士を代表する藤原秀康兄弟などとは別に、足利氏と並ぶ幕府内の有力門葉であった平賀氏の大内惟信や幕府の重役であった三浦義村の弟三浦胤義など畿内より西を任されていた幕府の有力御家人たちが集まった。彼らは別に幕府を裏切ったわけでも上皇に忠誠を誓ったわけでもない。そもそもこのころまだ御家人を幕府が一手に管理していたわけではなく、平安時代以来並存していた中央の武力としての指示系統にそのまま従っただけであり、そして結果は
鎌倉幕府大勝利! 希望の未来へレディ・ゴーッ!!
といった感じであった。
 幕府はこの際後鳥羽側の勢力を皇族も公家も武家も徹底的に排除し[3]、六波羅探題の設置などようやく西国も落下傘的に自分の管理下に収めた。皇統もこの時後鳥羽の兄弟である守貞親王の子、後堀河天皇に移る。13世紀の日本は天候が悪く非常に乱れやすい社会状況となっており、当時そのような事情を知らないながらも東では北条泰時が、西では後堀河や摂関家がその対応に追われた。その結果が1232年の御成敗式目などである。ただし、やはりその対応は難しく後鳥羽上皇の復帰工作が水面下で行われていた。
 しかし、そのような社会状況が施政者に影響しないわけもなく、隠岐では後鳥羽上皇が、鎌倉では三浦義村、北条時房、名越朝時といった有力者が相次いで亡くなり、同時期に後堀河が、そして間の悪いことにこのような事情とは全く無関係に、まだ幼い四条天皇が1242年に女官を驚かせようと廊下に石をまき自分が誤って転んでそのまま11歳で亡くなる、という事態が起きてしまったのである。
 九条道家をはじめとした公卿は、順徳天皇[4]の子孫である忠成王を皇位につけ、天皇自身も中央復帰させようとした。しかし幕府としては承久の乱で否定した後鳥羽の体制が戻るのは困るのである。そこで対立候補だった、土御門天皇[5]の息子を迎え入れ後嵯峨天皇として即位させたのである。執権である北条泰時はそれを見届けるようにして亡くなった。幕府としてはそれでは困る程度の話だったのだが、これがすべての始まりとなってしまった。
 一方鎌倉幕府は九条道家とつながりのある摂家将軍が発言力を増し、名越氏や三浦氏といった将軍派を形成する。しかし北条氏は将軍を京都に送り返し、これらの派閥を順次弱体化させ、北条時頼の代に母方の安達氏の協力のもと1247年に宝治合戦で三浦氏を取り除いた。そのあとも足利泰氏の突然の出家など九条家がまだ何らかの動きを見せるも、幕府は皇族将軍と北条家のもとついに体制を整える。
 このままいけばもしかしたら平和な未来が待っていたかもしれない…。しかし我々は歴史が日本列島だけで完結しておらず、世界レベルの様々な事象が影響しあっていることを思い出さなければならない。そう、1274年の文永の役と81年の弘安の役、つまり元寇である。元寇自体は意外と強かった日本の抵抗、混成軍のための指揮系統の混乱、そしてとどめの暴風雨で何とか乗り切ったものの、このことが大きくかじ取りを変えることを幕府に要求した。つまり元軍に対応するための指揮系統の一本化と、戦時体制の構築である。北条時宗は潜在的な不安要素を1272年の二月騒動で取り除き、西国にも幕府の権限を拡大、さらには非御家人の動員など様々な方針転換を行った。これは幕府の権限が強化されたといえば聞こえは良いが、要するに抱え込まなければいけない案件が増えたのだ。
 そのため執権権力の強化が何よりの課題になったのだが、北条貞時の代にその方針において二路線に分かれお互いに対立。将軍の強化と御家人の増加で執権を補強しようとした安達泰盛が1285年の霜月騒動で排除され、従来路線での増強をもくろんだ平頼綱も失敗して1293年の平禅門の乱で排除、執権自体1305年の嘉元の乱で強大化を図るも上手くいかず、次第にお飾りの得宗を身内人など一部御家人が支えるというにっちもさっちもいかない状況になって、とうとう1316年に北条高時政権になってしまったのである。

 りょうとうてつりつ!
 さて鎌倉幕府の混乱とは別に朝廷も問題が生じていた。後嵯峨は1246年に後深草天皇に皇位を譲っていたのだが、健康な弟の亀山にそれを移そうと考えた。それを幕府に相談し、
後嵯峨「それじゃ皇統変えちゃっていいかな?」
北条時頼「いいともー(俺はどっちでもいいけど)」
という感じで1260年にあっさり変わってしまう。幕府としては特にこの件に関わる必要性があったとは思えず、西園寺家の暗躍があったもののせいぜいただのおせっかいという代物だったと思える。しかしこれが着火点となる。
 当たり前のことだが後深草は17歳にして天皇を廃され、自分の子供を天皇につけて自分が政治を握るということができなくなってしまったのである。1267年亀山の息子が皇太子(のちの後宇多)につけられたことでそれは明らかに不可能な道になってしまう。1272年後嵯峨は亡くなるが、皇后の大宮院の言葉通り特に何も起こらず1274年に後宇多が天皇になるのである。その結果ついに後深草は鎌倉幕府に泣きつき
後深草「それじゃ皇統変えちゃっていいかな?」
北条時宗「いいともー(俺はどっちでもいいけど)」
という感じであっさり後宇多の皇太子に後深草の息子がつけられ、1280年に伏見天皇となる。この後深草の系統が持明院統、亀山の系統が大覚寺統である。前者は長講堂領、後者は八条院領とかねてより二つあった天皇家の荘園をそれぞれ継承したため財政面で皇統の維持に支障は出ず、また貴族もそれぞれに分かれて仕えたため支える人材に困ることもなかった。後深草はさらに1289年には伏見の息子(後の後伏見)を皇太子につけたのである。
 と、ここまではずっと後深草のターンであり1290年に浅原為頼が御所に侵入するという事件の裏には亀山がいたのでは、と当時から言われていた。しかしここで西園寺実兼と京極為兼の争いなどの末に関東申次であった西園寺家が大覚寺統につき、後伏見の次の天皇は後宇多の息子の後二条がつけられるのである。とはいえもうこの時点ではどっちの皇統も絶やしてはいけないという認識が一般化していたのか、後二条の次に息子のいない後伏見の弟の花園が皇位についた。
 皇位が割れるという事態は格段珍しいものではない。奈良時代に天武系の皇族と併存する形で天智系の皇族が存続し、本来なら中継ぎであったはずにもかかわらず復権したり、藤原氏内の勢力争いで清和系の皇統が廃されたり、院政期には先代の上皇の望んでいた皇統が次の上皇に望まれなかったためにたびたび皇統が割れたり、源平合戦の際には平氏に支えられた高倉系、鳥羽上皇の本来の構想であった後二条の系統を受け継ぐ八条院、高倉に代わる新たな皇統を作ろうとした後白河の三つ巴一歩手前に至ったりといった具合に、これまでも何度か見てきたものである[6]。加えて言うなら両統迭立自体も、最終的に藤原道長に全部チャラにされるとはいえ、摂関時代に冷泉系と円融系の皇統が交互に天皇につくということをしているのである。
 しかし摂関期には単なる政治抗争で済んでいたそれが保元の乱に代表されるように軍事力と結びついたこと、院政期を経た結果上皇が少なくともミウチのことに関しては強く出られるようになったこと、同じく院政期に天皇家そのものに荘園領という強固な私的財政基盤が生じたこと、鎌倉幕府という言ってみれば異質物が存在すること、単純に時代が変わったことで社会に蔓延している思想などが変化していること、そういった時代の変遷に伴った社会状況の変化がこの皇統の分裂をとんでもないことにしてしまったことを後嵯峨や時頼、後深草や時宗は知らなかったのである。

 後醍醐天皇の野望 元弘独立戦争記
 そして1318年の後醍醐即位である。おそらく日本史上における歴代の天皇の中で最もキャラが濃いと言われている人である。しかし即位にあたっての彼の立場というのは後白河と似たようなもので非常に弱いものであった。花園上皇に続いての立太子であったが持明院統が後の光厳天皇を推したのに対し(当然両統迭立がある程度共有されていたこの時代にもうそんな無理は通らない)、大覚寺統は後二条天皇が早く亡くなっていたこともあり、彼の息子の邦良親王の成長までの中継ぎが必要になり、亀山天皇の寵愛した恒明親王も有力でその候補に挙がっていたが譲ってしまうとさらに皇統が分裂する事態が高いという判断もあって、後二条の弟である後醍醐となったのである。つまり大覚寺統自体が恒明派、後二条派、後醍醐派の三陣営に分裂を始めていたのである。
 そんな後醍醐天皇がどうして討幕を決意したのかということはよくわかっていない。大覚寺統が天皇中心主義だの、宋学からの影響だの、本来中継ぎに過ぎない自分の皇統を存続させようだの、様々言われている。花園上皇が残した記録によれば、後醍醐天皇がこれまでになかったタイプの施政者だということはわかり、上皇は彼の在り方について批判している。ただし、彼がある程度復古主義的だったことも忘れてはいけない。
 とにかく彼が最初に幕府を倒そうとしたのが1324年の正中の乱である。無礼講でおなじみのこの計画だが、日野資朝・日野俊基に銘じて各地の武士を集め、六波羅探題南方の大仏維貞がいない隙を狙っていたが、あっさりばれて実働部隊だった多治見国長らが敗死した。しかしこの際は日野家の二人が罪をかぶり、後醍醐天皇が表に出されはしなかった。
 しかし、それにもかかわらず後醍醐天皇は討幕計画を進めた。そのような彼の姿勢に不安を感じた側近の一人の吉田定房は鎌倉幕府に密告した。これが1331年の元弘の変である。後醍醐天皇は京を脱出し、息子の護良親王が吉野で、楠木正成が河内の赤坂で挙兵した。幕府はこれに対し討伐軍を差し向け、後醍醐天皇がこもる笠置山はあっさり陥落する。一方楠木正成は幕府軍を苦戦させるも長期戦は無理と悟り脱出した。さらに護良親王も吉野を脱出しこの二人がこの先の戦いの伏線となる。幕府は先に捕まえていた日野らを処刑し後醍醐天皇を隠岐に流してこれですべてが終わる…はずだった。
 1332年に楠木正成が、翌年に護良親王が再度挙兵する。幕府は再び軍勢を差し向け楠木正成のこもる千早・赤坂両城のうち赤坂城を攻略する。しかし残る千早城に籠る楠木正成を破ることができず、護良親王も潜伏したまま長期戦になっていたのである。そのため本来の計画に噛んでいたのか、それとも機を見て後醍醐方についたのかはわからないが赤松則村らによって全国で蜂起が相次ぐ。さらに1333年の閏二月に後醍醐天皇が隠岐を脱出し船上山の戦いで隠岐守護の佐々木清高を撃破、一緒に流されていた千種忠顕や合流した名和長年、塩冶高貞といった人々が軍勢を形成し赤松軍とともに畿内へ進軍を始めた。
 この軍勢の討伐に向かわされたのが名越高家、そして足利高氏である。しかし、高氏のその後の戦いの展開を考えると、この時点ですでに討幕側と結んでいたのではないかと考えられている。何はともあれ畿内まで上がった両軍であったが、名越高家は4月に討たれ高氏は離反、そして高氏は赤松軍らと六波羅探題を攻め落とした。
 さらに次いで新田義貞が挙兵する。しかし、誤解されがちだがこの時点の新田一門はただの一弱小御家人に過ぎないのだ。その挙兵の理由も討伐軍のために臨時の軍資金の催促があまりにも横暴だったためとも言われているが、むしろ新田一門は鎌倉時代足利一門の一部であり、まだ幼い足利義詮の代官として活動した、彼がたまたま挙兵してしまったため連鎖的に足利方の挙兵が引きずられたなどとも説明されている。とはいえ彼の鎌倉攻略での活躍は華々しく、ついに北条高時を含めた鎌倉幕府の重臣たちは東勝寺で一斉に自害する。ただ北条高時の弟である北条泰家、高時の息子である北条時行らは脱出しこれが禍根となる。また同じ時期鎮西探題の北条英時も、つい二か月前に後醍醐方だった菊池武時を滅ぼしたばかりの少弐貞経・大友貞宗・島津貞久の九州三人衆に滅ぼされた。英時側の援軍に向かおうとした長門探題北条時直は間に合わず降伏、さらに北条氏の有力一門が何人もいた楠木正成討伐軍も降伏し、後醍醐方の完全勝利に終わった。

 足利尊氏の憂鬱
 かくして、終わってみれば意外にあっさり1333年に鎌倉幕府が滅んでしまったのだった。しかし前の政権を滅ぼしたからといって、次に誕生した新しい政権がうまくいくかどうかは両者に因果関係があるわけでもないので正直分からない…というのが古今東西歴史の宿命である。そして後醍醐天皇の興した建武政権はそのうまくいかなかった方なのであった。
 一般的な理解では、後醍醐は貴族を優先して武士を迫害したというものだがそうではない。建武政権では鎌倉幕府以来の主要な機構や政策はある程度継承されており、武士出身の人々が守護のみならず受領や雑訴決断所といった役職に確かについているのだ。赤松則村が受領になれなかったくだりが引用されるが、彼は守護には就いておりその辺りは少弐や大友、島津といった九州三人衆などと変わらないのである。鎌倉幕府の重臣であった二階堂貞藤も北条家の残党の蜂起が相次ぐまでは建武政権で登用されている。
 一方で貴族が武士に比べて重用されたかというとそうでもない。後醍醐の政権方針は天皇が直接主導権を握ることや今後の伝統になる新しい政策を行っていくことだったので、たとえば四位の貴族が就くことが伝統になっていた省の長官クラスの卿に公卿クラスがこぞって就けられたり、いつの間にか家伝となっていた受領職なども盛んに人事が刷新されたりしたのである。ある意味後の西園寺家の爆発の伏線になっていることも考えられる。
 ではそもそも建武政権の何が問題だったかについてだが、平時から戦時への移行の中で機構としてパンクした、というのが案外的を射ているのではないだろうか。討幕の際できるだけ多く味方につけるために手あたり次第ばらまいた恩賞を、平時体制に移行して運営機関がさばききれなかった…というのが武士層に不満が蔓延した原因だったと考えられる。建武政権の運営については近年実証的な研究が進んでいており、ある程度室町幕府に継承されるような側面を持っていたことが明らかにされつつあるが、それはそれとして彼らは政権として軌道に乗る前に不満を盛大に爆発させてしまったのである。
 建武政権を崩壊に導いた着火点であるのが1335年中先代の乱だ。信濃で潜伏していた北条高時の息子北条時行を旗頭に、諏訪氏や滋野氏、三浦氏といった人々が蜂起し鎌倉を占拠したのである。しかし、そもそも旧北条勢力の残党、それも高い地位についていた北条一門は北は東北から南は九州までそこかしこで反乱を起こしていたのである。それらの反乱は容易に鎮圧されており、ここまでの成功を収めたものは初めてだった。とはいえこの反乱も、京都で西園寺家を通して持明院統皇族を味方につけようとしていた北条泰家の動きが察知されて失敗し、本来の計画とは異なる突発的なものだったともいわれている。その証拠に初戦では渋川・小山・岩松といった関東の有力な武士団を壊滅に追い込んだものの、肝心の関東のトップである足利直義が逃げ延び、足利尊氏率いる全軍が総力を挙げるとあっさり鎮圧されてしまったからである。
 しかし、これが建武政権を支えるか一度リセットする必要があるかという葛藤を方々でうむきっかけになったのは事実である。そもそも建武政権が発足当初から政権運営の方針を巡って争いがあり、討幕の一つの要素であった護良親王は後醍醐天皇に失脚させられ、乱の際に足利直義にちゃっかり殺されている。そして関東で乱を鎮圧した尊氏が新田義貞との対立を表面化させ独自の行動を起こすようになると、後醍醐天皇は尊氏ではなく義貞を選び、軍を送るのだった。
 周知のとおりこの段階においても尊氏はまだ迷いがあったのだが、足利党の人々は完全にもうその気であり、三河で直義が率いる軍が義貞に敗れるのを見ると、いよいよ尊氏も建武政権を離反する決心を固めるのである。派遣されてきた軍のうち、本来足利党の一部の人々をふたたび味方につけ、残りは箱根・竹ノ下の戦いで破ると京都に上り、持明院統の皇族を皇位につける。また、この段階では尊氏のみならず、四国では細川、九州では少弐といったように足利党の人々が挙兵していた。これで尊氏は目標を達成したかに思えた。

 I Just Wanna Be With Authorities〜北朝と南朝の狭間で〜
 しかし、ここで奥州にいた北畠顕家が驚異的な速度で上洛を開始し、尊氏は京都から追い落とされるのである。尊氏は中国地方に有力一門と現地の有力者による何重もの防衛陣を張ってかろうじて九州に落ち延び、少弐の協力のもと九州の親南朝勢力の代表にある菊地を破って軍勢を整えた。そして再度京へと進み、遂には楠木正成まで破り後醍醐天皇を追い落としてしまった。後醍醐天皇は比叡山と結び、軍を率いて立てこもったが有力な武将はあらかた破られ、結局新たな天皇を認めざるを得なかったのである。しかし彼もしぶといもので、1336年吉野に脱出し南朝が成立…というのが南北朝の誕生の瞬間である[7]
 さて実際に南朝が成立したわけだが、この南朝の陣営は正直微妙なものであった。まず三木一草[8]といった後醍醐に登用されて建武政権で活躍していた武将たちは、そもそも揃って1336年に亡くなるからそういう名前がついているのであり、この時点ですでに全滅。また、北畠顕家も関東を任されていた斯波家長を敗死させ畿内まで侵入するも、その時点で力尽きており38年に敗死、新田義貞は親王と北陸方面軍を形成するもこれまた同年斯波高経との藤島の戦いで死に、と有力な軍事指揮官クラスはこの時点で誰もいなくなっていたのである。おまけに1339年に後醍醐天皇もあっさり寿命で死んだ。
 とはいえ逆に全国に落下傘式に後醍醐の息子たちをばらまくという作戦が功を奏す。彼らが親南朝・反北朝問わず地元の武士の旗頭となって戦略レベルでの勝利を実現できないながらも、勢力そのものは掃討されないといういい塩梅の、言ってしまえば完全に無視を決め込むことができないいやらしい敵があちこちで北朝に対し戦線を開いているのである。しかし懐良親王が相当大きい勢力になった九州はともかく、奥州に行くのに失敗してそのまま小田氏などと結んで関東の南朝の旗頭になっていた北畠親房は、結城に既読無視された挙句北朝につかれただの、自分の権限が無視されて味方の近衛経忠が勝手に軍勢を統率しようとしただのでついにあきらめて吉野に帰ることになった。加えて楠木正成の子供たちが1348年の四條畷の戦いで高師直らに壊滅させられ、吉野まで侵入を許し後村上天皇は賀名生でかろうじて南朝を維持するという風前の灯火レベルまで追い詰められたのである。
 が、これが逆に高一族の力をつけすぎて、今まであるにはあったがそこまで表面化するには至っていなかった北朝内の対立を一気に吹き上がらせる。そう、死にかけたと思ったら敵が勝手に内ゲバを始めたのである。北朝は足利尊氏の下、執事の高師直と足利直義に権限が分割されていた。この二つはそれぞれの権限から、戦をできるだけ有利にするように味方を増やしたいというのと、戦を終わらせいろいろさっさと安定化させたいというのでジレンマが発生し、それぞれの利害対立から党派までできてしまったのである。というか正直勝ちがほぼ確定しているので戦時体制から平時体制への移行期にあったことがお互いの役職のダブルブッキングを引き起こしてめんどくさいことになってしまったのである。
 その結果高師直などの権限を削ぐために1349年に足利直義党の人々が動きを始めた。これは察知され、高一族派が尊氏の支援の下直義党の勢力を削ぐことに成功するのである。が、これが逆に直義党の全国的な蜂起につながる。その最たる例が尊氏の息子かつ直義の養子になっていた足利直冬で、九州で派遣されていた一色範氏に悪感情を持っていた少弐冬尚が彼と結び一大勢力になってしまったのである。これを討とうと高一族派、もとい尊氏派の軍勢が京都を離れた際、直義派が一気に集まり、彼らは南朝についてまで尊氏派と争うことになる。観応の擾乱である。
 もっとも対立自体は1351年に、護送中の高一族が全員殺されるというアクシデントもあったが、尊氏と直義の和議が成立して平穏が戻った。しかし平穏(笑)というのは歴史の常で、復権を狙う尊氏は自派の勢力を増し、遂に直義派は京都から脱出するに至る。尊氏は関東にいる直義を打つただそのためだけに、南朝と和議を結ぶという手に出たのである。これが正平の一統である。もちろんこんなことが長く続くわけもなく、尊氏はあっさり直義に勝ったものの、南朝方が京都にまで侵入し北朝皇族をごっそり攫って行くという事態になったのである。後村上天皇も男山八幡にまで迫ってきたが、京を任されていた足利義詮は何とかこれを追い落とすことに成功する。北朝は後光厳天皇を成立させ、何とか治天の君を失うという事態を避けることにも成功した。
 この観応の擾乱の意義は、北朝が内ゲバに利用するために南朝という存在が明確に意識されたということである。この後も義満政権に至るため北朝内部の政治対立で敗れたものは南朝に身を寄せるということが盛んに繰り返された。とりわけ足利義詮が尊氏の跡を継いだころに高い地位にいた仁木義長、細川清氏、畠山国清は最終的に全員排除されて死ぬなど、鎌倉時代あんなに一体感があったのが嘘のように幕府内での勢力抗争が続いていくのである。
 しかし、足利直冬が没落し、山名時氏や大内弘世が北朝に帰順して中国地方が安定化、懐良親王が活躍し、島津氏久が仲裁してくれたにもかかわらず今川貞世(了俊)が少弐冬資を殺したことで、有力大名全員に離反され泥沼化していた九州も何とか北朝優位に持っていくことができ、正直南朝はもはや吹けば飛ぶような、権威だけはやたらと高い大和河内あたりの一地方勢力レベルという状態でずっと存続していたのである。そして武闘派であった長慶天皇に代わり、和平派の後亀山天皇にトップが変えられて[9]ようやく和平交渉が成立し、1392年にようやく南北朝時代は終わるのである。

 南朝の野望 後南朝の脅威V
 いよいよ南北朝が終わったわけだが、それで平和になったかというとそういうわけではない。そもそも有力大名の権限が大きい北朝および室町幕府内の勢力抗争は依然続き、義満時代からそれらを削ぎ、自身の権限を拡大しようとする将軍、京都の将軍に代わって血縁も近く関東をほぼ治めている鎌倉公方が加わって余計ややこしいことになるのである。
 主要なものでも、河越直重が畠山国清に代わって復権した上杉憲顕に対する1368年武蔵平一揆の乱、似たような経緯で足利氏満に対して起こされた80年の小山義政の乱に86年の息子の小山若犬丸の乱とそれと連動した87年の小田氏の乱、足利義満が守護クラスを相次いで討伐した1390年の土岐康行の乱、91年の明徳の乱、99年の応永の乱(1395年の今川貞世の失脚もこれに含まれるかもしれない)、篠川・稲村両公方を設置して奥州に鎌倉公方が権益を拡大しようとしたことに対抗した1400年の伊達政宗の乱、信濃で前年に来た守護小笠原長秀に反する勢力が結集した同年の大塔合戦、鎌倉公方と関東管領の対立がついに表面化した16年の上杉禅秀の乱、ついに鎌倉公方の足利持氏が討伐されてしまった37年の永享の乱とその息子を旗頭にした40年の 結城合戦、そしてついに将軍が殺されるに至った41年嘉吉の乱に至る。さらに復権した鎌倉公方の足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに端を発する51年の享徳の乱と67年の畠山氏の当主争いから将軍家の後継者をめぐる分裂にまで飛び火した応仁の乱でもって戦乱の時代に逆戻りするのであった。
 その一方で南朝勢力もまだ地味に生き残っていた。というかそもそも本来の和議の条件が鎌倉以来の両統迭立の復活だったのである。しかしそんなことをしたらまたややこしいことになるので当然守られるはずもなく、かといって皇統を絶えさせるのもダメという鎌倉時代と同様の意識が働き小倉宮など一部の南朝皇統の子孫が続いていくのである。
 もちろん彼らも自分たちに皇統が回ってこないことに不満を抱いていた。後亀山天皇が単身京都を脱出して吉野に引きこもったり、それを旗頭にしようとした伊勢国司の北畠満雅が1414年に反乱をおこしたりといった事件があったのである。かといってとくに誰かが罰されるというわけもなく時代は流れていった。
 そして1428年に称光天皇が後を残さず亡くなったことがさらなるきっかけを与えた。かつて南朝にさらわれた崇光天皇の子孫である伏見宮家から後花園天皇が後継者に選ばれたことで、それまで北朝体制の中で生活していた一部の南朝皇統が自発的な活動を行うようになるのである。その最たる例が、小倉宮聖承が北畠満雅に担がれて蜂起したものだが、もののあっさり鎮圧された。こうしたこともあってか足利義教は方針を一転し旧南朝勢力の取り潰しを行っていった。
 さらに1443年には嘉吉の乱の混乱に乗じて自称後鳥羽上皇の子孫源尊秀や日野家の日野有光、楠木氏の残党らが御所から三種の神器を奪い南朝皇族の通蔵主と金蔵主の兄弟を旗頭にして比叡山に籠る禁闕の変が起きる。乱自体は管領の畠山持国にあっさり鎮圧されるが三種の神器の神爾が見当たらなかったのである。そして、その奪われた神爾を取り戻すことで赤松氏の再興を目指す遺臣たちによって、後南朝の尊秀王、忠義王兄弟を殺害の末神爾が取り戻される長禄の変をもってついに南朝勢力は表舞台から消えた。
 その南朝勢力の歴史上確認される最後の活動が応仁の乱である。小倉宮の末裔は山名宗全の率いる西軍の旗頭になろうとしたのである。もちろん具体的に彼らが西軍に利用されたという記録は残っておらず、これを最後に南朝皇統は伝承の世界にのみ息づいていくことになる。ちなみに、第二次世界大戦後に南朝の子孫を自称する人々が相次いで登場したことは多分この中で特に言及する必要はないと思われる。


    注釈
  1. ^ 常陸源氏佐竹氏、義国流新田氏、木曽義仲、甲斐源氏、その他京武者もろもろ、そして最後には弟とともに奥州藤原氏を飲み込んだ。
  2. ^ まず、梶原景時が排除され、比企氏もろとも将軍である源頼家が取り除かれ、武蔵に権益を持つ畠山重忠が、将軍の後継争いに介入した牧氏と北条時政が、さらに相模の有力者である和田義盛が取り除かれた。
  3. ^ 公卿クラスでも鎌倉に送る(途中で殺さないとは言っていない)というものであり、幕府御家人でも近畿、中国、四国の守護は殆ど総入れ替えレベルで粛清された。
  4. ^ そもそも彼の正室が九条家出身なのが大きい。
  5. ^ 確かに後鳥羽の息子なのだが、ほぼ乱には無関係で自分から勝手に流されることを選択した。
  6. ^ そもそも天皇家に荘園が二つあるというのは、その際鳥羽が自分が集めた荘園をほとんど八条院に渡してしまったため、後白河が自力で荘園を集めることになってしまったからである。
  7. ^ なお先述した後二条派と恒明派はともに北朝に残っている。
  8. ^ 楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕の4人。
  9. ^ 史料が少なすぎて天皇がいつ代替わりしたかもわかっていない。

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