2017年4月8日
九州探題  skrhtp


 初めに
 九州探題は南北朝時代、足利尊氏によって博多に置かれた機関である。九州統治を主導し、大陸との外交も担当する立場にあった。しかしその立場は土着勢力との対立などの要因で全く安定しなかった。今川了俊の登場により一時は隆盛を誇るも、やがて九州探題は周囲の情勢に翻弄され衰退、博多も失って地方勢力に過ぎない存在と化していった。本文では、そんな九州探題がどのような経緯で成立し周囲の勢力と関わっていったのかを見ていく。

 成立と混乱
 建武三(1336)年、京都で新田義貞と北畠顕家に敗れた足利尊氏が九州へと逃れてきた。尊氏は少弐氏や大友氏らを従え、同年三月二日に多々良浜の戦いで宮方の菊池武敏と阿蘇惟直を破って勢力を立て直した。尊氏は九州支配の基礎固めを行った後、軍の統括のために一門の一色範氏(道猷)を筑前国博多に配してから再び都に向かった。ここに九州探題が成立する。
 同年末、義貞に従って京都にいた惣領菊池武重が九州に帰還した。翌年、武重の挙兵を受けて範氏は討伐のための兵を集めた。範氏は肥後へと弟の頼行を派遣したが、犬塚原で武重に大敗し頼行は戦死した。しかし武重が南方の合志城攻略に手間取っている隙に菊池を攻め、同年の内に範氏は武重に対し優位に立った。だが決定打を与えることはできず、暦応二(1339)年に少弐氏が菊池氏に味方したことで情勢が変わった。
 康永元(1342)年、後醍醐天皇が派遣した懐良親王が薩摩に上陸した。これに対し範氏は幕府の命を受けて大友氏康と共に軍を派遣し、翌年筑後国竹井城を攻め落とした。
 貞和二(1346)年に範氏は息子の直氏に地位を譲り、自身は鎮西管領となって父子で共に九州の経営にあたるようになった。しかしこの際、九州探題の地位は大幅に削減され武士たちの所領争いを独自に裁定する権限も奪われた。また、九州探題は存立基盤そのものが脆弱なものだった。筑前国に根付いていた少弐氏は新参の九州探題とは対立的であったし、菊池氏を中心とする宮方も活動を続けた。更に足利尊氏とその弟直義が対立すると、少弐氏は尊氏の庶子で直義の養子である直冬と結びついた。これにより九州では、将軍方の九州探題、宮方、佐殿方(直冬派)が鼎立し、ときに連合しながら相争う状態となった。
 貞和六(1350)年、佐殿方が大宰府を攻めこれを掌握した。探題方は苦戦を強いられ、尊氏に救援を求めたが直義の強大化により支援を受けられなかった。翌年、尊氏が已む無く直義と講和し、直冬が九州探題に任じられた。権限を失った範氏と直氏は宮方に降った。探題方の力を得た宮方は直冬を攻撃したが、苦戦し敗北を続けた。しかし京都で尊氏が南朝方と和解し更に直義が敗れたことで力を得て、翌文和元年には直冬を急襲から放逐することに成功した。これにより直氏は元の地位を完全に取り戻した。
 直冬の権威を失った少弐氏は、今度は菊池氏と結んで一色氏を攻めた。文和二(1353)年、一色範氏は針摺原の戦いで少弐・菊池連合軍に敗れた。更に文和四年、懐良親王にも敗れ、一色父子は遂に九州統治を放棄して京都へと去っていった。これにより、九州探題は九州に不在となった。宮方は進撃を続け、延文四年菊池武光が幕府方に復帰した少弐頼尚を大保原の戦いで破った。
 延文五(1360)年、斯波氏経が九州探題に任命された。翌年六月に氏経は京都を出発し、十月に大友氏時の協力で豊後に至った。氏経は宮方攻撃の手筈を整え、周辺の諸豪族を味方につけた。しかしその間にも宮方は勢力を強め、懐良親王は大宰府に入って征西府を置いていた。貞治元(1362)年、氏経は少弐冬資や大友氏時と連合して長者原で菊池武光と激戦を繰り広げたが敗北した。翌年、大内弘世が九州に入り菊池軍を破ったが、弘世はほどなく帰国してしまった。菊池軍は豊後を攻め、氏経は周防へ逃亡して九州探題はまたも九州からいなくなった。
 次いで貞治四年に渋川義行が九州探題に任命された。彼は備後国守護に任じられそこで準備を整えることになった。しかし宮方勢力の脅威もあって備後の国人たちの支持を得られず、九州下向は繰り返し延期され続けた。結局、義行が九州に来ることはなかった。

 今川了俊の九州制圧
 応安三(1370)年、幕府は切り札として今川了俊(貞世)を九州探題に任命した。翌年了俊は京都を出発し、毛利氏・大内氏といった中国地方の勢力を懐柔しつつ九州へ向かった。了俊はまず嫡子の義範を豊後国高崎山に、弟の仲秋を肥前国松浦に向かわせた。仲秋の進軍に遅れが生じて予定に狂いは生じたが、両者は九州で諸勢力の支持を得て戦線を展開、了俊も十二月に大内弘世らと共に九州へ渡った。翌応安五年二月に了俊は進撃を開始し、そのまま大宰府を攻撃して遂にこれを占領した。これにより宮方の12年間に亙る大宰府支配は終わり、懐良親王は筑後に退いた。これにより宮方は肥後の小勢力へと急転落した。
 了俊は大宰府近くの城山を拠点とし、九州の武士たちを懐柔し組織していった。応安7年、菊池武光・武政父子の死を機に了俊は肥後への進軍を開始し、翌年には肥後国水島の台城に陣を構えた。この際了俊は島津・大友・少弐に来援を求めた。島津氏久はこれまで了俊の参陣要求を無視していたが、この時初めて参陣し了俊との対面が実現した。しかし3人の内少弐冬資だけは来陣しなかった。了俊は島津氏久に頼んで来陣を促させ、結果冬資は遅れてやって来た。しかし了俊は冬資に脅威を感じ、宴の間に隙を見て弟の頼泰に冬資を暗殺させた。冬資の死で少弐氏は力を失い、一方了俊は少弐氏から筑前国守護職と大宰少弐の権限を奪い取ることに成功した。これにより九州探題は対外関係の権限をも掌握した。
 その一方で、冬資暗殺という強硬な手段は九州の武士たちの不信を招いた。氏久は了俊の行動に激怒して帰国してしまい、了俊は菊池氏に大敗して肥前国府へと逃れた。勢力挽回のため了俊は一族の今川満範を南九州に派遣し、禰寝氏・渋谷氏ら反島津派の一揆を統率させた。了俊はこの一揆に、島津氏の所領を没収して恩賞とすることを約束した。これと同時に、了俊は水島の陣に於ける行動を口実に島津氏の大隅国・薩摩国守護職を奪った。これにより了俊は豊後以外の諸国全ての守護を兼任することになった。豊後国についても、了俊は戸次氏や田原氏を取り込むことで大友氏に対する牽制を行った。
 島津氏とも対立することになった了俊は幕府に救援を求め、これに応じて大内義弘が九州に入った。義弘は豊前、豊後と西進して了俊と合流し、永和三(1377)年には千布・蜷打の戦いで菊池軍に大勝した。この年義弘は豊前国守護に任命され、以降大内氏は九州での影響力を強めていくことになる。
 同年、島津氏久が突如降伏してきた。了俊は島津氏の本領安堵を認めたが、このことは一揆の不信を招いた。しかもこの降伏は偽装であり、氏久は再び離反して永和五年に満範を都城で破った。一方了俊はその前年に詫磨原合戦で菊池武朝に敗れていた。その後了俊は体勢を立て直し、永徳元(1381)年には都城を包囲した。氏久は再び了俊に降伏し、了俊も菊池氏討伐を優先するためこれを認め島津氏は日向国・大隅国・薩摩国守護職を回復した。同年、了俊は南朝方の拠点菊池城を陥落させることに成功した。了俊は進撃を続け、明徳二(1391)年遂に南朝勢力を帰順させた。
 了俊は外交面では倭寇の鎮圧を行って高麗とは半ば独自に外交を行った。その一方で、了俊は九州全体を掌握できていたわけではなかった。島津氏は再び了俊と対立し、了俊への不信から反島津の一揆は崩壊した。以降、南九州の情勢は島津氏優位の展開に終始した。また、康暦元(1379)年に支持者であった管領細川頼之が失脚して以来、守護職も了俊の手を離れていっていた。
 一方京都では、明徳三(1392)年に足利義満が南北朝を統合した。南朝の力が失われたことで、九州探題に大規模な権限を持たせておく理由はなくなった。了俊の独自外交も義満の対明外交策の障害であった。義満は了俊の強大化を警戒し、応永二(1395)年閏七月に突如了俊を解任して京都に召還した。了俊は困惑し暫く躊躇したが八月に九州を去った。京都に入った了俊には、ただ駿河半国が与えられたのみであった。

 九州探題渋川氏
 新たな九州探題には渋川義行の子満頼が任命された。満頼は自身の勢力を九州に配置し、また積極的な朝鮮外交を行った。しかしやはり幕府からその強大化を警戒され、更に少弐氏や菊池氏の勢力も依然として強かったため、満頼は大内親世や大友義弘に接近した。応永四(1397)年、両者は連合して少弐氏を破り大宰府を占領した。以降北九州は、対大陸貿易のため博多を狙う大内氏の後援を受けた九州探題渋川氏と、大宰府支配に拘り続ける少弐氏の対立を中心に展開していく。
 翌応永五年、満頼は独自の勢力を誇る千葉氏を服属させるため肥前に攻め込み、翌年には養父郡の綾部城に入って活動の拠点とした。応永十一年には、千葉胤基とその家臣の内紛に介入した。しかし応永十二年、菊池方の赤星氏に綾部城を攻められて満頼は博多に撤退した。
 応永二十六(1419)年、満頼の子義俊が九州探題に就任した。これ以降九州探題の地位は渋川氏が継いでいくことになる。同年、朝鮮軍が対馬に侵攻してきたが義俊は少弐満貞と共にこれを退けた。この頃には九州探題の権威は九州全体に及び、九州の政治で中心的役割を担っていた。しかし応永三十年、満貞が菊池兼朝と組んで義俊を攻め、博多でこれを破った。義俊は肥前に逃れ、再起を図ったが果たせなかった。これ以降、九州探題は大内氏を後ろ盾に存在する東肥前の地方勢力と化していった。

 地方勢力・九州探題
 正長元(1428)年、頼満の甥である渋川満直が大内氏の支持で九州探題となった。このときには九州探題の没落は明らかであり、永享四(1432)年には幕府内で適任者を下向させようという議論がなされたが、結局大友・大内両氏の争いが収束しない限り無意味であるという理由で先延ばしになった。
 永享六年、満直は少弐氏一族の横岳頼房や肥前の国人の千葉[1]・高木・龍造寺氏らと戦って敗れ、神埼で討たれた。満直の跡は息子の渋川教直が継いだ。教直は基肄・養父・三根郡に九州探題として所領を持ったが、最早九州探題は完全に有名無実化していた。教直は朝鮮外交に力を入れたため朝鮮からは九州の統括者と見られていたが、一方で日本の中央政界は肥前東部を掌握しているのは千葉氏であると見てすらいた[2]
 応仁元(1467)年、教直は今川胤秋とともに千葉教胤を攻めたが、これは失敗し胤秋は戦死した。文明九(1477)年には、教直は大内正弘の命で千葉氏の内紛に軍を出した。その翌年、大内政弘が少弐政尚を破り筑前から追い出した。少弐氏は肥前国三根郡の地方勢力となり、渋川氏と小規模な勢力争いを繰り返すようになった。
 文明十一年に教直は死去し、12歳の渋川万寿丸が九州探題となった。文明十四年、少弐政尚(頼忠・政資)が綾部城を攻め、万寿丸は筑前に逃れた。幕府は大内氏に九州探題の援護を命じたが、長享元(1487)年、万寿丸は後見の森戸・足助氏に裏切られて岩戸の亀尾城で殺害された。
 万寿丸が殺害されると、弟の渋川刀禰王丸が家督を継いだ。延徳元(1489)年、刀禰王丸は大友氏や少弐氏の攻撃を受け、犬塚城が陥落した。刀禰王丸は筑前の筑紫満門の下へ逃れ、そこから大内氏の保護下に入った。更に延徳三年には大宰府を奪われるなどしたものの、大内義興の協力により何とか一族を存続させることができた。
 明応九(1500)年、刀禰王丸は大内氏の下に身を寄せていた足利義尹(義稙)から諱を与えられて尹繁と名乗り、九州探題に任命された。しかし間もなく、少弐資元と大友親治が連合して攻めてきた。大内氏の下で九州探題は大宰府の支配を取り返していたが、永正三(1506)年には再び奪われることになった。翌年、足利義尹は大内・少弐・大友・渋川諸氏に和睦を命じたが、少弐・大友氏が応じるはずもなかった。

 終焉
 その後、天文年間の初めには家臣が大内氏派と少弐氏派に分裂し、九州探題渋川氏は完全に没落する。天文十(1541)年、渋川貞基が大内義隆に擁立され、足利義晴から諱を与えられて義基を名乗った。しかし義基は正規の九州探題となったわけではなかった。この頃には、九州探題は事実上消滅していた。
 永禄二(1559)年、北九州を平定した大友義鎮(宗麟)が九州探題に補任された。これにより九州探題は義鎮の北九州支配の一部に過ぎないものとなり、その役目を完全に終えた。


    注釈
  1. ^ 肥前千葉氏は、鎌倉末に下総国の千葉氏から分離したものである。
  2. ^『世祖実録』には、九州探題は鎌倉公方と日本を東西で分治している、とまで書かれている。その一方で、朝鮮は千葉氏についても肥前を代表する豪族であると見ていた。

2016年度例会発表一覧に戻る
日本史に戻る

inserted by FC2 system inserted by FC2 system