2017年4月8日
小弐氏の興亡  skrhtp


 はじめに
 少弐氏は鎌倉時代の北九州で成立した一族である。少弐氏は古くからの権威である大宰府の事実上の長という権威を持って勢力を誇り、蒙古襲来では防衛の中心的役割を担った。しかし南北朝以降周囲の勢力と激しく衝突して次第に衰退、最後には下剋上を受ける形で滅亡した。本文では、少弐氏の成立から滅亡までの約300年間の歴史を見ていく。

   起源
 少弐氏の歴史は、嘉禄二(1226)年に東国の有力御家人であった武藤資頼が大宰少弐に任命されたことで始まる。資頼は大宰府の指導者[1]として 、また三前二島(筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬)の守護として北九州で大きな勢力を築いた。その後息子の資能が大宰少弐の地位を継ぎ、やがて職名から少弐氏を名乗るようになった。
 少弐氏は在庁官人の宗氏を対馬の守護代とした。以降対馬は宗氏が治める土地となり、少弐氏は対外交易の要衝を押さえることになった。

 蒙古襲来と岩門合戦
 文永四(1267)年、高麗使潘阜が博多に到来した。翌年正月、武藤資能は潘阜からモンゴル皇帝クビライの国書を受け取った。資能は使節を大宰府に留め、国書を大田長盛・伊勢法橋に持たせて幕府に届けた。結局朝廷の判断で返書を出さないことが決まり、幕府は侵攻に備えて西国諸国に警戒を命じた。また資能と大友頼泰には、鎮西全般の軍事指揮権を含む守護の範疇を越えた権限が与えられた。
 文永八年には、クビライは最後の使者として趙良弼を送ってきた。趙良弼は国書を「国王」に直接見せることを求め、資能に渡すことを拒んだが、結局資能は国書の写しを受け取った。この国書はクビライからの最後通牒であった。この年になって、幕府は九州に所領を持つ東国御家人に下向して防御にあたるよう命じた。これ以降、島津氏や大友氏の土着化が進行することになる 。[2]翌年九月に趙良弼は帰国した。数ヶ月後、趙良弼は大宰府に戻って一年にわたり交渉を行ったが、成果を上げられずに帰国した。
 文永十一年、モンゴル・高麗連合軍が対馬・壱岐に来襲した。資能はすぐさま来襲を幕府に報せ、大友頼泰と共に武士たちを統率した。資能の子の少弐景資は博多息浜方面の大将を務め、敵の軍将を討ち取る活躍を見せたが苦戦を強いられて水城まで退却した。その後元軍が撤退して文永合戦は終結した。
 文永合戦を受けて、資能の跡を継いだ少弐経資は文永十二年二月、鎮西9ヶ国を4期に分けてそれぞれの御家人に3ヶ月ずつ警護をさせる蒙古警護結番を定めた。異国警護には非御家人も動員された。翌建治二年には、経資は管国内御家人に博多湾沿岸に石築地を構築することを命じた。
 弘安四(1281)年五月、モンゴル・高麗連合軍が再び来襲した。日本側は苦戦を強いられ、経資は連日幕府・六波羅に援軍を要請した。その後日本側の抵抗にあった元軍は壱岐へと戻った。この壱岐防衛戦では経資の長男資時が戦死した。同時に資能も負傷し、後にこの傷が元で死亡した。結局、暴風でモンゴル軍が壊滅したことで弘安合戦は終息した。
 蒙古襲来後には、少弐氏は恩賞分配を直接担当することになった。前線となった九州では襲来の影響による問題が顕著となった。そこで幕府の有力者である安達泰盛は弘安七(1284)年、「弘安の徳政」として九州の神領の回復と名主職の保護・回復を命じた。経資は大友頼泰・安達盛宗と共にこれに協力した。しかし翌年、霜月騒動が起こって安達泰盛が倒された。その余波で、盛宗と景資が岩門城で反乱を起こして幕府軍に討たれた。これにより、改革は1年足らずで頓挫した。結局恩賞地については、岩戸合戦により盛宗と景資の所領が配分可能になったこと、更に肥前国最大の荘園神埼荘の大部分が宝治合戦で闕所地となっていたことなどが幸いし、これらが鎮西御家人に孔子配分された。しかしこれらの恩賞地は、給付者の本貫地から遠いなどの悪条件により不知行地化することも少なくなかった。一方神領については、永仁の公家徳政や繰り返し発せられた鎮西神領興業令によって回復がなされたが、同時に武家と寺社の激しい対立を招いた。
 蒙古襲来を機に北条氏は九州を自ら統括する意志を明確にし、弘安四年に北条時宗の叔父の時定(為時)が肥前国守護となった。これにより少弐氏は資頼以来の肥前国守護職を失うことになった。更にその後、やはり北条一族が務める鎮西探題が置かれ、少弐氏の肥前での勢力は排除されていった。

 三つ巴の南北朝
 正慶二(1333)年、倒幕の動きを進める後醍醐天皇の動きに呼応して、菊池武時と阿蘇惟直が鎮西探題を攻撃した。経資の孫の少弐貞経はこのとき探題の命令で軍勢を集めていたが、武時に挙兵を約束していた。しかし貞経は武時が派遣した「宣旨の使」を堅糟で殺害し、大友貞宗と共に探題側に寝返って犬射馬場で武時を敗死させた。しかし中央ではことは後醍醐天皇の有利に進み、遂には鎌倉幕府の滅亡に至った。これに驚いた貞経はその3日後の五月二十五日、大友氏・島津氏と共に寝返りを行い、招集した武士たちを率いて鎮西探題北条英時を滅ぼした。
 親政を開始した後醍醐天皇の下で、貞経は筑前・豊前両国の守護に任命された。後醍醐天皇は改革を断行したが、間もなく不満が噴出し再び動乱が起こった。北九州では建武元(1334)年、鎮西探題金沢政顕の子である規矩高政・糸田貞義が筑前・筑後で反乱を起こした。貞経と筑後国守護宇都宮冬綱は下向し、翌年この反乱を鎮圧した。
 一方、中央では同年に足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻した。尊氏は京都に進軍したが翌年に摂津国豊島河原で新田義貞らに敗北し、兵庫から海を渡って九州に逃れてきた。貞経の子少弐頼尚は長門国赤間関で尊氏を迎え、その軍に従った。その頃、武時の子である菊池武敏は少弐氏の勢力が分断されている隙に貞経を攻め、二月二十九日有智山城に滅ぼした。
 貞経を滅ぼした武敏は進撃を続けたが、間もなく多々良浜の戦いで尊氏に敗れた。九州の掌握を進めた後、尊氏は一色範氏(道猷)を九州探題として博多に残して東上し頼尚もこれに従った。五月、頼尚は和田岬で新田義貞を破った。頼尚は尊氏に従って京都に入り、建武式目の作成にも参加した。
 暦応元(1338)年、頼尚は九州に戻った。同年、宇都宮冬綱が宮方に寝返り頼尚はこれを討伐した。更に頼尚は菊池氏を攻撃し、同年十月には菊池郡稗方原に攻め入った。しかし頼尚もまた新たな勢力である九州探題の一色氏と対立し、翌年十二月頃には菊池武敏と手を結ぶに至った。更に中央で尊氏とその弟直義が対立すると、頼尚は尊氏の庶子で直義の養子である直冬を奉じて探題方に対抗した。結果九州ではこれに宮方を加えた3勢力が並び立つ状態となった。
 貞和六(1350)年、直冬は探題方を攻め、七月に筑後に入った。同じ頃頼尚も大宰府を掌握し、その後暫く一色氏と激戦を繰り広げた。その翌年、尊氏と直義が講和したことで直冬が九州探題に任じられ、一色氏は宮方に帰順した。間もなく佐殿方と宮方は衝突した。最初は佐殿方が優勢であったが、中央で尊氏が南朝方と講和し更に直義を破ったことで直冬は立場を失った。直冬は勢力を維持できず、一色軍に敗れ九州から逃れた。
 直冬が中国地方に去ると、筑前国は宮方の勢力下に入っていった。そこで頼尚は菊池武光と結び、一色氏に対抗することにした。正平8(1353)年 [3]、頼尚は武光と共に針摺原の戦いで一色直氏を破った。直氏は肥前へ逃れ、翌年一色氏は九州から撤退した。
 探題を放逐したことで、頼尚には宮方と組む理由はなくなった。延文三(1358)年頼尚は大友氏時と共に蜂起して幕府方に復帰、更に肥前国守護職を得た。しかし翌年には大保原の戦いで激戦の末に宮方に敗れ、嫡子忠資が戦死、次男の頼泰も捕らえられた。頼尚自身は大宰府に退却し、宝満山に立て籠もった。一方宮方も被害は少なくなく、菊池へと撤退した。 

 筑前国を巡る争い
 翌延文五年、頼尚は息子の少弐冬資に家督を譲った。しかし冬資の下で、弟の頼澄が宮方に就いて自ら大宰少弐を名乗った。頼澄の活動は冬資の動きを阻害した。翌康安元年、冬資は菊池武光に攻められて大宰府を奪われた。更に翌貞治元年には、冬資は九州探題斯波氏経と共に長者原の戦いで菊池武光に敗れた。
 この頃、本州では山名時氏と大内弘世が幕府に帰服したことで南北朝内乱は終息していったが、この後も暫く九州では宮方優勢の状態が続いた。またこれと同時期に頼尚は肥前国守護職を失い、以降少弐氏が再び肥前国守護職に補任されることはなかった。応安四(1371)年、頼尚は死去した。
 一方幕府方は応安三年、九州対策の切り札として九州探題今川了俊を派遣した。冬資はこれに協力し、翌年麻生山攻めに参加した。了俊はそのまま大宰府を占領し、宮方の制圧を進めていった。更に了俊は菊池氏を攻め、冬資にも援軍を依頼した。しかし冬資は肥後に向かおうとしなかった。結局、冬資は島津氏久に促されて永和元(1375)年援軍に向かった。八月二十六日、冬資と了俊は肥後水島で会見し、酒宴が行われた。その最中、酌取りを行っていた武士が突如冬資に襲い掛かり、了俊の弟の頼泰が冬資を刺殺した。了俊は厄介な勢力である冬資を排除することにしたのである。このことは九州勢力の反発を招き一時了俊の九州経営を困難なものとしたが、了俊は少弐氏の筑前国守護職を奪い大宰少弐の権限をも接収してこの問題に対処した。これにより少弐氏は立場を失い急速に力を失っていった。
 冬資が殺害された後、頼澄は南朝方に移って活動を続けた。頼澄の子少弐貞頼は嘉慶元(1387)年に筑前国守護に復帰した。更に貞頼は応永四(1397)年に菊池武朝と結んで九州探題渋川満頼に対抗したが、大内・大友連合軍の攻撃を受けて大宰府を奪われた。また応永十一年には、肥前で千葉胤基とその家臣鎰尼泰高が対立して合戦が起こり、貞頼は泰高に、満頼は胤基に味方して戦った。その後貞頼は一族の勢力を回復させ、筑前を中心に北九州で勢力を誇った。しかし貞頼の子少弐満貞の時代には大内氏が筑前へと激しく侵入してくるようになり、再びその勢力は不安定なものとなった。大内氏の進出とそれへの対抗という構図は、これ以降戦国時代まで続いてゆくことになる。
 応永二十六(1419)年、当時活発化していた倭寇の活動に業を煮やした高麗が侵攻してきた。満貞は九州探題渋川義俊や宗貞茂と協力し、これを撃退した。応永三十年には、満貞は義俊を博多から追い出した。これにより九州探題は肥前の一地方勢力と化した。しかしこの行動は将軍足利義教の警戒を招き、永享元(1429)年に筑前国は御料国(幕府直轄国)とされ、大内盛見が料国代官に任命された。これにより、少弐氏は再び筑前国守護職を失うことになった。
 翌年盛見は筑前国に侵攻し、満貞は大友持直・菊池兼朝と連合してこれを迎え撃った。盛見は立花城を攻め落としたが、怡土郡萩原で大友・少弐軍と交戦中の六月二十八日、猿楽を見物していた時に菊池勢の奇襲を受けて自殺した。この事態は京都に伝わり、驚いた将軍足利義教は、中国地方の諸氏に大内氏を補佐させて討伐を行うことを決定した。こうして討伐の態勢が整えられたが、その大内氏内部で後継者争いが勃発した。これにより討伐計画は一時膠着したが、永享五年に争いを制した大内持世が満貞治罰の御教書と旗を与えられて筑前に侵攻した。八月、満貞は秋月城で敗死した。
 持世の下で豊前・筑前は平定されて大内氏の支配下に入り、満貞の弟横岳頼房は肥前に逃れた。頼房は大内軍が撤退すると高木氏・龍造寺氏[4]などの東肥前の国人たちに呼び掛けて挙兵し、九州探題渋川満直を敗死させた。
 その後少弐氏は筑前奪回を狙うが果たすことができず、宝徳二(1450)年、満貞の子少弐教頼は大内教弘の圧迫で肥前に逃れ対馬の宗氏の下に身を寄せた。康正元(1455)年には教弘が肥前国守護となったが、少弐氏は肥前に多くの所領を持っていたため勢力を維持することができた。
 応仁元(1467)年に応仁・文明の乱が始まると、西軍に就いた大内政弘は軍を率いて京に向かった。これを見た教頼は筑前奪回のために挙兵し、博多を占領したが大内・大友連合軍に敗れて戦死した。

 政資の活動
 大友・大内連合軍に敗れた少弐氏であったが、東幕府が大友氏を味方に引き入れると教頼の子少弐政資(頼忠・政尚)はすぐさま筑前に侵攻し博多・大宰府を占領した。更に文明二(1470)年には、政資は東軍方から肥前国守護に任命された。同年政資は対馬から筑前国箱崎津に上陸し、大内勢を駆逐して筑前・豊前を手中に収めた。しかし文明十年に京から帰還した大内政弘の侵攻を受け、再び肥前に押し戻された。これを機に政資は宗氏にも見限られ、以降は肥前国与賀城を拠点に、同じく肥前の地方勢力と化していた九州探題と小競り合いを繰り返すようになった。
 政資は文明十五年、綾部城の九州探題渋川万寿丸を攻撃して筑前へと追いやった。文明十八年には、政資は千葉氏[5]の内紛に介入し弟を千葉氏の後継者として千葉胤資と名乗らせた。これにより政資は肥前東部での勢力を強化することに成功した。一方で、千葉氏の内これに反対する一派が大内氏を頼ったことで、千葉氏は胤資の西千葉氏と東千葉氏に分裂した。
 長享元(1487)年に万寿丸が家臣に討たれると、政資は万寿丸の弟刀禰王丸を攻め、延徳元(1489)年犬塚城を陥落させた。政資は勢いのままに肥前・筑前の大半と筑後を制圧し、延徳三年遂に大宰府への帰還を果たした。明応三(1494)年には、政資は平戸の松浦弘定と怡土郡の原田氏を攻め更に勢力を拡大させた。
 明応五年、少弐方の龍造寺氏や千葉氏が大内方の筑前高祖城を乗っ取った。大内義興はこれらの動きを見て、明応六年に幕府の同意の下で筑前に侵入した。政資は岩門城、その子少弐高経は肥前勝尾城でこれを迎え撃ったが、2城は相次いで陥落し、更に肥前国晴気城も陥落すると親子はともに自殺した。義興は千葉興常を肥前国守護代とし、少弐氏の勢力は再び減退した。

 資元の抵抗
 政資が死ぬと、その子少弐資元が大友氏に擁立された。翌年、資元は綾部城の刀禰王丸を攻めたが大内方の仁保護郷の反撃で失敗した。しかし文喜元(1501)年、逃亡中の足利義尹(義稙)を庇護する大内義興に対する討伐命令が西国に発せられ、これを機に資元は大友親治と連合して永正三(1506)年大宰府を奪回した。これに対し義尹は諸氏の和睦を命じたが、資元と親治は応じなかった。
 享禄元(1528)年、資元は子の松法師丸(冬尚)に家督と大宰少弐の地位を譲って勢福寺城に置いた。松法師丸はまだ元服前であったが、既に資元と共に執務を行う立場にあった。更に資元は松浦党[6]の勢力を利用して大宰府に帰還、これを見た大内義興は少弐征討を幕府に申請したが許可されなかった。
 義興が死ぬと、子の義隆は享禄三年に今度は将軍の支持を得て少弐氏攻撃のために筑前国守護代杉興運を派遣した。資元は勢福寺城に逃れ、大内軍は肥前東部まで侵攻した。このとき肥前の武士の多くは大内方に寝返ったが、龍造寺家兼や鍋島清久、一族の馬場頼周らは神埼郡田手畷でこれを迎え撃ち、資元は大内軍を撃退することに成功した。資元は戦功の目覚ましかった家兼に河副荘[7]千町を与えた。
 資元は享禄四年には、大内氏が大友氏に反抗する筑後の妙見山城主星野親忠を支援したのに呼応して筑前に出兵、岩門城を占領した。大内義隆は天文元(1532)年に陶興房(道麒)を派遣して資元を攻めさせたが失敗した。義隆はこれに激怒し、2年後自ら九州に赴いて勢福寺城を攻めた。少弐方は苦戦を強いられ、冬尚は蓮池城の小田資光の下へ逃れた。その後龍造寺家兼の仲介で和議が成立し、同年に資元は再び肥前守護に就任した。しかし義隆の少弐氏攻撃は止まず、天文五年に大宰府に至ると資元は降伏した。義隆は少弐氏の所領を全て没収し、自ら大宰大弐となった上で資元を多久城で自殺させた。これにより少弐氏は一時的に勢力を喪失した。 

 滅亡
 大内氏に敗れた後、少弐冬尚は大友義鑑の協力で勢力を回復しようと試みた。また、小田資光は資元の死は龍造寺家兼が大内義隆と通じたためであるとして家兼を攻撃した。結局これは撃退され和議が結ばれた。
 天文九(1540)年、冬尚は足利義晴の諱を受けることを求めたが許されず、代わって支援を求めて家兼(剛忠)の庇護の下に入った。しかし間もなく馬場頼周が家兼と対立し、冬尚はこれに協力して家兼を討とうと計画した。天文十三年、冬尚は家兼に西肥前の国人たちが反旗を翻したと偽って討伐を要請し、兵力が分散しているうちに水ケ江城を包囲した。この内紛で水ケ江龍造寺家[8]は壊滅的被害を受け、翌年家兼は筑後へ退いた。しかし間もなく鍋島清久らの協力で家兼は筑後から帰還し、頼周は小城郡で討たれた。冬尚は庇護を失って筑後に逃れた。
 天文十五(1546)年から同二十年の間には、龍造寺家兼・龍造寺胤栄[9]・大友義鑑・大内義隆が相次いで死去して北九州の勢力関係が大きく変化することになる。そんな中の天文十七年、家兼の曾孫である胤信が村中・水ケ江両龍造寺家を継いだ。村中家の家臣たちは反発し、それを見た冬尚は勢福寺城を攻撃した。ここには大内方の江上隆種が城番としていたが、江上氏は元々少弐氏の旧臣だったため開城して冬尚を迎えた。胤信はこれを静観するしかなかったが、挽回のため大内義隆と通じて名も隆信と改めた。一方、反隆信派では土橋栄益が大友義鎮と通じて龍造寺鑑兼を擁立した。大友氏は少弐氏を支援していたので、この対立は少弐派と反少弐派の対立という性質も持っていた。両者の対立は暫く膠着状態にあったが、大内義隆の死で均衡が崩れた。栄益らは冬尚を奉じて挙兵し、佐嘉城を攻撃した。隆信は筑後へと敗走し、冬尚は神埼・三根郡に於いて勢力を回復することになった。
 しかし隆信は筑後蒲池氏の支援を得て天文二十二年七月に肥前に帰還し、土橋栄益を誅殺した。翌年には隆信は弟長信を水ケ江城に据えて支配体制を固めた。更にこの年、大友義鎮が少弐氏は既に断絶状態であると主張して幕府に肥前国守護職を求め、多額の献金の末に任官された。これにより冬尚はこれまで後楯であった大友氏からも幕府からも立場を否定される形となった。
 その後冬尚は陶晴賢に対する後方攪乱を期待する毛利元就と通じた。弘治元(1555)年には、少弐配下の諸氏が筑前国人に呼び掛けて大友氏に対して挙兵した。更に冬尚は弟政興を綾部城に配して勢力回復を狙ったが、これにより少弐氏と龍造寺氏は正面から対決することになった。間もなく隆信は肥前制圧を開始した。永禄元(1558)年十一月、隆信は冬尚が江上武種らとともに佐嘉城を攻めようとしていると聞き、勢福寺城を攻撃した。少弐方は隆信方の小田政光を戦死させたが、他方で武種は隆信に降った。翌年、冬尚は弟の千葉胤頼の晴気城に入った。これに対し、西千葉氏の千葉胤連は隆信と組んで冬尚兄弟を攻めた。胤頼は戦死し、冬尚は勢福寺城にいた江上武種を頼った。しかし武種は冬尚を拒み、冬尚は自殺した。これにより少弐氏は実質滅亡した。
 更に同年、隆信は少弐一族の横岳鎮貞を服属させた。これに対し、義鎮は資元の子少弐政興を擁立し、少弐氏復興を名目に肥前への干渉を強めた。これに有馬晴純らが呼応し、隆信はそれを討つために西進した。元亀元(1570)年、大友勢と龍造寺勢の全面対決が起こった。龍造寺軍は包囲され大友軍有利に戦いが進んだが、鍋島信生(直茂)による今山での夜襲攻撃により戦況は逆転、龍造寺軍の勝利に終わった。この後結ばれた和議によって、大友氏の肥前での影響力は弱まることになった。更に元亀三年、隆信は横岳氏を攻めた。その後政興は天正4(1576)年に筑後国で挙兵したが、少弐氏を復興させることは最早不可能だった。


    注釈
  1. ^ 大宰帥や大弐は既に大宰府に赴任しなくなっていた。なお、大宰府は九州各地に不輸領を持っていたが、これらは少弐氏の所領と化していった。
  2. ^ 鎌倉時代の守護に於いては、少弐(武藤)氏のように守護正員が初めから現地に常任するのは稀であった。なお、これら九州へ移った御家人たちは西遷御家人や下り衆と呼ばれる。
  3. ^ 1352年以降少弐頼尚は南朝年号を採用したため年号が変わっている。後の延文4年も同様の理由で元号を変更している。
  4. ^ 龍造寺氏は高木氏一族の南季家に始まる。
  5. ^ 九州千葉氏は関東を本貫とする一族で、小城郡を拠点に東肥前を支配した。千葉氏は守護ではなく支配域も広くはなかったが、守護と同格に扱われるなど大勢力を誇っていた。
  6. ^ 肥前国松浦地方の中小領主たち。元々は松浦郡宇野御厨の贄人一族だったが、武士化して地域の武士を取り込み、南北朝期以降には党(一揆)を結んで連合を形成した。
  7. ^ 佐嘉郡に最勝寺領として設定された荘園。正応五(1292)年までに肥前国で3番目に広大な荘園となった。
  8. ^ 龍造寺氏の惣領は村中家と呼ばれ、水ケ江家は庶家。家兼は水ケ江家の祖である。
  9. ^ 龍造寺家当主。

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