2016年10月29日
佐賀の城郭  skrhtp


 はじめに
 日本では古代から現代までの長い歴史の中で様々な形態の城郭が存在してきた。その中で佐賀では、その立地や地形といった条件もあってときに城郭が特殊な発展を遂げることもあった。本稿では、佐嘉の城郭の歴史を個々の主要な城郭の概要を中心に記していく。なお、ここでの城郭とは堀と土塁を有する防御施設のこととする。また、現在の状況の一部は筆者が実際に見て確認したものである。

   原始の城郭・弥生環濠集落
 佐賀における初期の城郭として挙げられるのが弥生時代の環濠集落であり、その代表が吉野ケ里(吉野ヶ里町・神埼市)である。吉野ケ里は丘陵を利用した集落であり、弥生時代前期に集落が成立し、中期になると大きな環濠が出現、後期には約2.5kmにも及ぶ巨大な外濠の中に中濠と内濠で二重に囲まれた北内郭・南内郭が成立した。濠沿いには土塁が設けられ、濠の底から土塁上部までは5〜6mにも達したとみられる。弥生中期を過ぎると、物見櫓も築かれるようになった。弥生末期になると外濠が埋まったことが確認されている。現在は吉野ケ里歴史公園として整備され、施設や構造物が復元されている。

   神籠石式山城と朝鮮式山城
 6世紀になると、西日本、とりわけ北九州に「神籠石」とよばれる構造物が造られた。これらの列石は版築土塁の基礎と考えられ、このような形態をとる古代山城を神籠石式山城と呼ぶ。神籠石は日本の最初期の石垣といえる。佐賀県内では帯隈山神籠石(佐賀市)と、おつぼ山神籠石(武雄市)の2つが確認されている。帯隈山神籠石は2.4kmに及ぶ長大な列石線であり、土塁とその前面の木柵で囲み北側に入り口を持った防御施設であったとみられる。但し門と見られる施設の痕跡はなく、また内部には遺構も確認されていない。一方おつぼ山神籠石は比較的小規模ではあるが、列石には丁寧な加工が見られ、また帯隈山と同様の土塁と柵、更には複数の門や水門を有する城郭だったと考えられている。なお、神籠石式山城は西国防備の施設だったとみられるが、文献資料に登場しないためその詳細や本来の名称などは確認できない。
 神籠石式山城より少し遅れて、朝鮮半島の築城技法を用いた朝鮮式山城も築かれた。その代表が基肄城(基山町)である。天智天皇二(663)年の白村江の戦いでの敗北の結果、朝鮮半島に近い北九州は侵略の虞を警戒せねばならなかった。このため北九州には百済の技術者の指導の下で複数の防御施設が築かれ、基肄城はその一つであった。基肄城は天智天皇四年から大宰府の南8kmの所に築城され、谷を抱き込む形の4.4kmに及ぶ土塁、3つの城門、1カ所の水門、2カ所の石垣を有した。基肄城は福岡の大野城とともに大宰府襲撃時に退避することを目的としたもので、攻撃的な性格は持っていなかった。基肄城は倭と唐・新羅の友好関係の回復により間もなくその本来の役目を終え、肥前国防衛の拠点としての役割を強めていった。このことは、基肄城の南東に構造的に北面した土塁が存在することから確認できる。その後の基肄城については明らかではないが、9世紀までは実質的機能を持っていたと考えられている。基肄城には水門や石塁、土塁が現存し、当時の礎石も確認できる。なお、城中に「いものがんぎ」という遺構があるが、これは中世の城郭の跡である。

   肥前国の官衙
 奈良時代になると各地に官衙が造られたが、これらはときに軍事拠点となることもあり、版築土塁や周濠で囲まれた施設であった。肥前国府(佐賀市大和町)もまた、東西77.2m、南北104.5mの築地塀で囲まれていたことがわかっている。内部は前殿・正殿・後殿が一直線に並ぶなど、大宰府と同じ配置を持っていた。現在は南門と築地塀の一部が復元されている。また郡衙については、中園遺跡が神崎郡衙の中心域と見られているが、この郡衙は上面幅2.7mの溝で囲まれており、郡衙が国衙に劣らぬ規模を持つ施設であったことを示唆している。

   東妙寺と崇福寺城館
 鎌倉時代、肥前は小地頭が割拠する状態で、大規模な城館を築くことのできるような在地武士は存在しなかったとみられる。その中で、北条氏の拠点として大きな規模を有していたのがと東妙寺と崇福寺城館である。
 東妙寺(吉野ヶ里町)は、蒙古襲来時に北条氏の援助で創建された西大寺系の寺である。寺の周囲には堀がめぐらされ、土塁と築地塀で囲まれていた。当時西大寺派律宗は北条家の援助を受けて各地の交通の要地に寺を建立していた。東妙寺はその1つと考えられ、脊振山の麓に位置し大宰府・久留米・筑後川方面にも睨みを利かせる場所にあった。東妙寺は蒙古合戦の主戦場に近いという点でも重要であり、また後代にも足利尊氏が祈祷所にするなど北九州の要地であった。なお、東妙寺は本来尼寺である妙法寺と対をなしていたことが知られ、その規模は東妙寺に劣るものではなかったことが分かっている。
 崇福寺城館(佐賀市久保泉町)は、崇福寺跡で発見された城館であり、東西一町(約110m)、南北二町にも及ぶ堀で囲まれた巨大なものである。前述の状況や立地条件などから、この城館は北条氏との関連が想定され、北条時定以下の守護所であった可能性も指摘されている。

   中世山城
 佐賀における中世山城の代表が勝雄城(鳥栖市)である。勝雄城は戦国期に肥前東部で勢力を誇った筑紫氏の居城であり、鳥栖市北西部の城山の山頂に位置し山麓一帯を城域とする。15世紀前半に九州探題渋川義俊によって築かれ、その後筑紫氏によって幾度か改築された。立地としては、大宰府と九州各地を結ぶ要地にあった。周囲には支城として葛籠城、鏡城、鷹取城、若山砦、鬼ガ城の5城を本城に続く谷に沿って配し、さらに「総構」をはじめとしたそれを取り巻く複数の大規模空堀を有していた。また谷の外にも朝日山城が配されている。「総構」の内側には50軒ほどの町屋も存在したことがしられている。筑紫氏は15世紀後半に大内氏を後ろ盾として勢力を拡大し、その後龍造寺方に移った。しかし天正十四(1586)年に島津氏の侵攻を受け、勝雄城は落城、城主筑紫広門は島津氏に降った。この時の戦闘で町屋も焼き払われたとされる。現在残るのは16世紀末の状況と見られ、土塁や堀などがよく残るほか、枡形虎口[1]も確認できる。
 勝雄城の他に、佐賀の山城として重要なものとして千葉城、晴気城、勢福寺城が挙げられる。千葉城(小城市)は吉田山山頂に主郭をおく山城であり、戦国時代前期に東肥前を掌握した九州千葉氏の拠点である。九州千葉氏は下総の千葉氏から分かれたもので、蒙古襲来を機に小城に定着した。千葉氏は正和五(1316)年に祇園社から勧請して須賀神社を創建し、14世紀後半に社殿東側に千葉城を築いた。このことから千葉城は祇園城、牛頭城、牛頸城[2]とも呼ばれる。城の前面には祇園川が流れ、後面は断崖となっている。千葉城は砦としての役割が強く、千葉氏は平時には北側にある北浦集落に居を構えていた。祇園川の東西には小城町が形成された。やがて千葉氏は勢力を強め、実質的に肥前国の支配権を掌握するに至った。千葉氏は15世紀半ばの千葉元胤の時代に最盛期を迎え、小城町は商業都市として発展した。しかし元胤が死去すると内紛が起こり、文明二年には土一揆合戦が発生、小城町は焼失し千葉城も荒廃した。その後千葉氏は東西に分裂し、以降両家は少弐氏と大内氏の代理戦争で消耗し衰退していった。16世紀には千葉氏は龍造寺氏に降ったが、内紛が起こり天文15(1546)年に千葉城は龍造寺家兼の攻撃で焼失したようである。
 晴気城(小城市)は典型的な中世山城であり、千葉氏によって南北朝時代に築城されたと見られる。戦国期には少弐氏の拠点となった時期もあり、また鍋島直茂も千葉胤連の養子として10年間を過ごした。現在城跡一帯は雑木林と化しているが、頂上部には石垣や井戸の一部が現存している。
 勢福寺城(神埼市)は佐賀平野に面した城山に位置し、東肥前の主要城郭として機能した。建築時期は勝雄城よりも早く、文和二(1353)年に九州探題一色直氏によって築城されたとされる。その後菊池氏や渋川氏の手に移り、文明四(1472)年に江上氏の居城となった。以降は少弐氏の活動の拠点ともなったが、少弐氏は龍造寺隆信によって滅ぼされ、江上氏も隆信に服属した。その後天正十七(1589)年に江上家種が蓮池城(佐賀市蓮池町)に移ったことでその役目を終えた。

   クリーク地帯の中世平城
 佐賀では中世に山城のみならず平城も発達した。これらは佐賀平野を走るクリーク(溝渠網)を利用したものであった。その代表例が姉川城である。
 姉川城(神埼市)は南北朝時代に菊池武安によって築かれたとされ、その子孫が16世紀中ごろから姉川氏を名乗ってここを居城とした。「館」地名がある台形の大きな島を中心として、多数の島が集まった環濠集落の様相を呈する城であり、西の中地江川沿いには城下町的存在も確認される。西側には池状の入り江があり、水運の利用も推測される。現在姉川城跡は田圃に埋没するようにして存在している。
 佐賀平野には他にも横武城や直鳥城(ともに神崎市)といった同様の構造を持つ平城が存在しており、またこれら2つはともに公園として整備されている。

   松浦党の城郭
 佐賀県北西部から長崎県平戸・五島一体では、松浦党と呼ばれる領主・武士団が活動していた。彼らは漢字一字を用いた名前を共通とした擬制的同族集団であり、南北朝期には党(一揆)を結ぶようになった。松浦地方には松浦党が築いた小規模な山城が散在する。その代表が岸岳城と獅子城(ともに唐津市)である。
 岸岳城は岸岳の尾根沿いに造られた山城であり、上松浦党の中心的存在であった波多氏の居城である。周囲には波多城、島村城、青山城などが配され、上松浦地支配の拠点となっていた。岸岳城は古くは鎌倉初期まで遡るが、本格的な築城は室町時代に入ってからとされる。室町時代には一帯に多くの窯があったことで知られ、これらで焼かれた岸岳系古唐津は唐津焼の起源といわれる。岸岳城は17代に亙って波多氏の居城であったが、文禄の役(1529年)の際に城主波多親が豊臣秀吉の怒りに触れて改易されたことで廃城となった。現在は古井戸や石垣などが残っている。
 獅子城は標高228mに位置する山城であり、佐賀と唐津の間の交通の要衝にある。西端の主郭は3つの曲輪が連立することで構成され、周囲に帯曲輪が巡っている。東側には竪堀を持った出丸が存在し、その東には堀切[3]が設けられている。獅子城は源披によって12世紀後半に築かれたが、披の子源保が平戸に移ったことで以降約350年に亙り放置された。しかし戦国期になると、松浦党と龍造寺氏の抗争の中で松浦党が天文14(1545)年に獅子城を改修し、波多氏分家の鶴田前を城主として配した。天正元(1573)年には獅子城は龍造寺軍の攻撃を受けたが、籠城戦を行って最終的に和議を結んだ。しかし前の子鶴田賢は多久氏に仕えて東多久に移り住んだため、獅子城は再び廃城となった。江戸時代になると、松浦の支配者となった寺沢広高が獅子城を改造した。現在みられる石垣づくりはこの時のものである。

   中世平山城・須古城
 須古城(白石町)は高城とも呼ばれ、杵島山東麓にある丘に築かれた平城である。鎌倉時代に御家人の白石五郎通頼が築いたとされる。室町時代には千葉氏配下の平井経治が須古城を居城として白石地方を支配したが、天正二(1574)年に平井氏は龍造寺隆信に敗れて滅亡し須古城は隆信の手に渡った。その6年後、隆信は須古城に移り西九州方面への拠点とした。しかし隆信が死去した後には須古城は放置されその役目を終えた。当時最大級の平山城だったと推定され、また中心部は当時としては稀な総石垣づくりであった。現在は全体を藪が覆った状態であるが、調査により曲輪や虎口、石積みが確認されている。

   巨大城郭・名護屋城
 安土桃山時代、全国統一を進める豊臣秀吉は大陸への侵攻を企てた。そのために肥前に築かれたのが名護屋城(唐津市)である。天正十九(1591)年、秀吉は加藤清正らに名護屋城築城を命じ、十月に起工して翌年二月に完成した。名護屋城は五重七層の天守を持つ山城で、本丸、二の丸、三の丸、遊撃丸、弾正丸などを中心としその下方にも複数の曲輪を持っていた。構造としては、三の丸から直接本丸へつながるようになっていた。規模において大阪城に次ぐ程の巨大な城であり、「聚楽に劣ることなし」といわれるほどの豪壮さを誇った。周囲には諸大名の陣屋が築かれ、その数は120以上に及び、日本第二の人口を有する程の巨大軍事都市が突如として出現することになった。城の中には秀吉の居住空間として山里丸が造られ、本丸や山里丸では連日茶会や能、連歌が催された。しかし慶長三(1598)年に秀吉が死去すると、大名たちは皆撤退し名護屋城は廃城となった。その後建物の大部分は唐津城に流用され、また石垣も時期は不明だが一部破壊された。現在城跡には建物はないが石垣が残っている。築城から廃城までの期間が非常に短く、しかも多数の陣屋跡が残るため、安土桃山時代の城について知る上で格好の遺跡となっている。


   佐賀藩の本城・佐賀城
 江戸時代には佐賀藩の本城となった佐賀城(佐賀市)の原形は、龍造寺氏の居城村中城である。龍造寺氏は土着の武士で、少弐氏や千葉氏の配下にあったが、庶家である水ケ江家の龍造寺家兼の下で勢力を強めた。その後龍造寺胤信(隆信)の下で村中家と水ケ江家は統合され、八千町を知行する大領主となった。隆信は肥前で大いに勢力を拡大した。元亀元(1570)年には大友軍によって村中城が包囲されるということも起こったが、鍋島直茂らによる今山での奇襲を機に大友軍は放逐された。その後隆信はさらに勢力を拡大し「五州の太守」とも呼ばれたが、天正十二(1584)年に沖田縄手で隆信が敗死したことで龍造寺勢力は後退した。その後佐賀の政治の実権は鍋島直茂に移っていった。
 慶長四(1599)年、直茂は村中城を近世的城郭として拡張する工事を開始し、同十八年に完成して現在の佐賀城が成立した。この佐賀城は平城で城域は九町四方、周囲には多数の堀がめぐらされた。堀沿いには土手が造られ、松が植えられた。本丸は北と西に石垣をもち西北部に五層の塁上天守が築かれた。天守が完成した後、鍋島直茂らは元の居城であった蓮池城から移り住み、佐賀城は鍋島家の居城となった。三の丸北側の内曲輪には上級家臣の屋敷が造られた。佐賀城は江戸時代には幾度も火災に見舞われたことで知られる。とりわけ、享保十一(1726)年の火災では本丸施設が失われ、その後天守を除いて再建された。しかし天保六(1835)年には二の丸からの出火で三の丸以外が焼失した。
 明治時代には、佐賀城は江藤新平・島義武を中心とする佐賀の乱の戦場となった。明治七(1874)年、両者が指導する征韓党・憂国党は二月に挙兵し、権令岩村隆俊が熊本鎮台兵を率いて県庁に入るとこれを攻撃し敗走させた。しかし大久保利通が福岡に到着し政府軍の反撃が始まると反乱軍は敗走し、3月1日に佐賀城は落城して焼失した。現在、佐賀城には本丸の石垣と北門である鯱の門、続櫓及び水堀が残っている。鯱の門では佐賀の乱のときの銃痕が確認できる。また、一帯は佐賀城公園として整備されており、本丸御殿の一部が復元されている。

   蓮池城
 佐賀藩には、鍋島一族が藩主を務める支藩が存在していた。成立順に鹿島藩、小城藩、蓮池藩の三支藩である。これらの藩主たちは独立した大名として参勤交代や幕府の普請役も行っていた。
 蓮池城(佐賀市蓮池町・諸富町)は蓮池藩主の居城となった平城である。小田城、芙蓉城、小曲城とも呼ばれる。蓮池城ははじめ小田直光によって築かれたとされ、以降小田氏の居城となった。しかし元亀二(1571)年に小田鎮光が龍造寺隆信に謀殺されたことで蓮池城は龍造寺方に移り、隆信死後は鍋島直茂・勝茂親子の居城となった。その後直茂らは佐賀城に移り住み、蓮池城は元和元(1615)年の「一国一城令」で破却された。しかし寛永十六(1639)年勝茂が子の直澄に約三万五千石を分与して蓮池藩が成立したことで、蓮池城には再び屋敷が設けられ御館と呼ばれた。現在は蓮池公園となっており、堀が残っている。 

   唐津城
 唐津城(唐津市)は唐津藩の本城となった平山城である。西の松原・虹の松原を鶴翼に見立てて舞鶴城とも呼ばれる。豊臣秀吉の下で大名に取りたてられ、後に初代唐津藩主となった寺沢広高が慶長十三(1608)年に築城した。北側は玄界灘に面し、工事で松浦川の流路を東に移し西側は町田川を外堀として利用して防備を固めた水城・海城でもあった。松浦川河口には船番所が設けられ、藩の水軍が常駐した。築城に際しては、前述の通り名護屋城の資材が利用された。城内には天守台は築かれたが、天守は造られなかった。築城と同時に城下町の町割りも行われ、大手門の前を東西南北に走る道に沿って12の内町が形成された。
 佐賀城とは対照的に、唐津城は城主一族が頻繁に交代したことで知られる。まず二代目藩主寺沢堅高の代に島原の乱が起こって天草四万石が没収され、正保四(1467)年堅高が自殺して寺沢家は断絶した。その二年後、大久保忠職が城主となったが次の代には大久保氏は下総に転封となり、松平乗久が入部した。ここから唐津藩は譜代大名が転封を繰り返す藩となる。松平氏は三代続いた後元禄四(1691)年に転封となり、土井利益が城主となって4代続いた。土井氏は宝暦十二(1762)年下総国古河に転封となり、代わって三河国岡崎から水野忠任が入部した。4代目水野忠邦が文化十四(1817)年に厳木を上知して遠江国浜松へと転封したことで再度城主が変わり、陸奥国棚倉から小笠原長昌が入部して以降4代幕末まで続いた。唐津城は多くの城と同様明治時代に破却された。その後昭和四十一(1966)年に郷土資料館として伏見城を模した模擬天守が建てられた。現在は水堀や、三の丸にあった埋門[4]の石垣が残っている。そのほかに石垣の修復が行われているほか、三の丸辰巳櫓が復元されて存在している。


    注釈
  1. ^ 虎口は城の出入り口のことをいい、枡形虎口は二辺に出入り口を持った方形の虎口を指す。
  2. ^ 須賀神社の祭神素戔嗚命は牛頭天王ともされるため。
  3. ^ 峰続きを遮断するために掘り切られた空堀。形状としては薬研堀に分類される。
  4. ^ トンネル式、あるいは内側が方形に凹んだ門。土門ともいう。戦時に内側から埋めて塞ぐことができるためこう呼ばれる。

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