2016年12月10日
エジプト・神々の変遷  skrhtp


 はじめに
 古代エジプトにおいて重要な地位を占めた神々としては、ラー、アメン、オシリス、イシスなどが有名である。しかし古代エジプトの歴史は3000年という長きに亙るものであるがために、時代ごとに国家神や大きく信仰を集める神々は変化し、また個々の神格も必ずしも一定したものではなかった。本稿では、古代エジプトの各時代において重要性を獲得した神々及び各時代の特徴的な変化について記していく。なお、ここでは国王の神格化などについては扱わない。

   統一期・初期王朝時代
 エジプトの統一期においてとりわけ重要であったみられる神々としては、ホルス、セト、ネイト、バトが挙げられる。ホルスはハヤブサの姿で現される神であり、エジプト全土で、王朝時代を通して信仰された神である。その名hrは「高みにいる者」といった意味を持ち、その本来の性質は天空神であった。「ナルメルパレット」などに見られるハヤブサ神はホルスであると考えられている。ホルスは統一の中心となったとみられる都市ネケン(希:ヒエラコンポリス)との関わりを持っており、統一期から王権と強く結びつた国家神であった。エジプト王の正式名の最古のものは「ホルス名」であり、これは王がホルスの顕現であることを示していたようである。
 セトはおそらく上エジプトのヌブト(希:オンボス)を発祥地とする砂漠の神であり、暴力や混乱と結びつけられた。セトは初期には彎曲した頭部に先端が四角く長い耳、直立した尾を持つ動物として描かれた。セトは力の象徴とされ、「サソリ王」の棍棒頭にもその姿を確認できる。
 ネイトはサイスを崇拝の中心地とし、おそらくは初期王朝期の下エジプトで最も重要であった神である。ネイトは戦いと狩猟を司り、その神格は王朝期を通じて発展し続けた。初期王朝期には既に人型で描かれており、エジプトに於いて最も早くに人の姿で表現された神の一柱である。初期王朝期の女性名にはしばしばネイトの名が含まれている。
 バトは上エジプト第7ノモスの主神で、牛の耳と角のついた人間として表される女神である。バトの名が初めて現れるのは古王国後期になってからだが、先王朝時代から初期王朝期のいくつかの遺物に描かれた図像がこの女神であると思われる。バトは天空の女神であったと見られ、またエジプトの統合を象徴する性質を持っていた可能性もある。
 エジプトが統一されると、首都としてメンフィスが築かれた。これにより重要度を増した神がプタハである。プタハは人間のミイラとして表される神であり、メンフィス地域の地方神だったようである。プタハは職人の神さらには創造神として崇拝され、その信仰は次第にメンフィス以外の地域にも拡大していった。
 第2王朝期には、初めて太陽神ラーの名が確認される。また後半のペルイブセン王の治世にはホルス名に代わってセト名が用いられており、セトが国家神として優勢になったことが窺える。次のカセケムイ王は両者を統合したホルス・セト名を用いており、セトはホルスと同等の存在とされたようである。しかしその次の代には、ホルス・セト名はホルス名に戻された。以降セトは重要性をいくらか失ったようである。

   古王国時代から第一中間期
 古王国時代になると、ラーがその重要性を増していった。ラーはエジプト全土で崇拝され、その信仰は第4王朝期に頂点に達した。第4王朝にはラーを名に含む王が複数存在し、またこの時期には王の正式名の一つとして「ラーの息子名」が採用された。王はホルスの顕現であると同時に、ラーの息子でもあるとされたのである。そして第5王朝期までにラーは実質的な国家神となり、第5王朝の王たちはオベリスクを持つ太陽神殿を築いた。またラーは早い時期にハヤブサ神ホルアクティと習合してラー=ホルアクティとなっており、ゆえにしばしばハヤブサの姿で描かれるようになった。
 古王国時代には、古代エジプトの国境の町アスワンの主神クヌムも非常に重要な神となった。クヌムは主に波打つ角を持つ羊(Ovis longipes)の頭部を持つ人間として表される神で、ナイルの増水を管理しまた轆轤で人間を作る神とされた。この神の名は第4王朝のクフ王の名にも現れている。クヌムはこの後もナイルの支配者・出産の守護者として、エジプトで最も有力な神の一柱の地位を保ち続けていくことになる。
 葬祭に於いては、古王国前半において重要な地位を占めていたのはアヌビスであった。アヌビスはイヌ科の動物と結びつけられた神であり、おそらくその神格は墓を掘り返す砂漠のイヌに由来すると思われる。この神は上エジプト第17ノモスの主神であったが、その信仰は全エジプトに広がっており、また古王国の供養文はこの神に直接呼びかけを行っている。
 後に様々な側面を持つ重要な女神として知られることになるハトホルが、その重要性を増してきたのも古王国前期のことである。その信仰は少なくとも第1王朝にまで遡るが、第3王朝期にはジェベレインにハトホル神殿が建造され、第4王朝期には末にハトホルは特に重要な神の一柱となっていた。その名hwt-hr、即ち「ホルスの家」が表すように、ハトホルはホルスの母であり天空の女神として崇められていた。なお、ハトホルと対応する形でライオンの女神バステトも重要な存在であったようである。
 古王国後期には葬祭文書としてピラミッドテキストが出現し、その中には多くの神々が登場する。はじめ葬祭の中心にあったのはアヌビスであったが、まもなくその葬儀はオシリスに吸収されることになる。オシリスの起源ははっきりしないが、もとは地下を司る豊穣神だったようである。その名が初めて現れるのは第5王朝末だが、この時には既にオシリスは葬祭の中心を担う神となっていた。死後の世界の王オシリスはホルスの父であり、王は死後にオシリスと同化するとされた。このことを裏付ける物語は古代エジプトで最も包括的な神話として発展していくことになる。オシリスはその信仰が広がるとともに多くの神々の信仰を吸収した葬祭の面ではアヌビスのそれを吸収したし、死後に復活した王という側面はおそらく下エジプトで有力だった神アンジェティから受け継いだものと見られている。アンジェティはこの後も独立した神として存続したが、オシリス信仰から隔たることはなかった。一方アヌビスは葬儀の中心でこそなくなったものの、その重要性が失われることはなかった。
 オシリスが現れたのと同時期に、はるか後に最も重要な女神となるイシスもその姿を現した。イシスの起源はオシリス以上に闇に包まれた状態で、またこの女神は特定の信仰地というものを持たなかった。第5王朝以前にはその存在を確認できないがこの時点で既に非常な重要性を持っており、オシリスの夫でありホルスの母、即ち王の母としての地位を得ていた。以降イシスは、多くの女神−とりわけハトホル−の性格を吸収しながら発展していく。
 ピラミッドテキストにはこのほかに、死せる王がラーと融合するという信仰も確認できる。またこのほかにしばしば言及される神としてトト(エジプト語ではjhwtyと呼ばれた)が挙げられる。トトはトキあるいはヒヒの姿で現される神で、元は月神であったが次第に文字と学問の神としての性質を強めた。この神の信仰は先王朝時代に遡ると見られ、古王国時代には有力な神の一柱となった。
 第一中間期には、中部エジプトの町ネン・ネスウ(希:ヘラクレオポリス・マグナ)を首都とする王朝が成立したことでこの町の主神ヘリシェフが重要な地位を得た。ヘリシェフは牡羊の姿をとり、根本的には生殖の神であったが神話的にはオシリスやラーの「霊魂」であるとされた。

   中王国時代から第二中間期
 テーベの第11王朝がエジプトを再統一したことで、中王国前期にはこの地域のハヤブサ神であるメンチュが国家神となった。統一後の第11王朝の王たちは代々メンチュヘテプ(メンチュは満足する)を名乗っている。メンチュは軍神であり、古くは古王国時代に信仰が確認されている。やがてメンチュは下エジプトのラーに対応する存在と見做されるようになり、複合神メンチュ=ラーとして信仰されることになった。
 第12王朝が成立するころには、後に最も重要な神々の一柱となるアメンもテーベの地方神として台頭してきた。第12王朝にはアメンエムハト(アメンは卓越する)の名を持つ王が複数在位し、アメンは次第にメンチュを押しのけていった。この時代に、アメンの巨大神殿であるカルナク神殿の建造が始まっている。アメンの根本的な性格は「隠された神」であったようだが、中王国時代のアメン崇拝についてはあまり分かっていない。一方、アメンの台頭によりメンチュはその重要性を落としたが、その後も軍神としては高い地位を保った。
 葬祭の面では、本来王のみの特権であったオシリスとの同化が貴族にも広がった。また中王国時代に出現した棺に記された呪文であるコフィン・テキストの中では、オシリスの死者を裁く判事としての役割も明確なものとなっている。
 コフィン・テキストにおいては、ハトホルも非常に重要性な存在となっており、この女神は来世の女神とされ、女性は死後にハトホルと同化するとも考えられた。またハトホルは中王国時代までにバトを完全に吸収し、原初の雌牛の女神メヘトウェレトとも同一視されてその性格を複雑化させたようである。
 このほか、中王国時代にはカルナク神殿境内にプタハの聖域が存在しており、少なくともこの頃までにはプタハが上エジプトでも重要性を持っていたことが分かっている。また中王国時代までにプタハはオシリスとメンフィスの墓地の神ソカルとも結びつけられ、プタハ=ソカル=オシリスとなった。以降この複合神は有力な葬祭神として崇拝されていくことになる。
 第二中間期に入ると、ヒクソス政権の成立と国土の分裂により信仰にも変化が起こった。ヒクソスは様々な神々をエジプトにもたらしたが、その中でも彼らの主神バアルをセトと同一視し、それによってセトはヒクソス政権の主神となった。一方ヒクソスに対抗したテーベ側は戦死の神たるアメンに加護を求めたが、この性質はメンチュから吸収されたものだったかもしれない。

   新王国時代
 ヒクソス政権が放逐されると、この戦勝はアメンの加護によるものと見做され、続く第18王朝でアメンは遂にエジプトの最高神の地位を得るに至った。アメンはラーと習合してアメン=ラーとして崇拝され、太陽神としての性質も有した。第18王朝においては多くの外征が行われたが、これらの成功もアメンの加護によるものとされ神殿には多くの寄進が集まりアメンの影響力は絶大なものとなった。
 新王国時代までには、オシリスの重要性も非常に大きなものとなった。オシリスとの同化は遂に全ての人が期待できるものとなった。オシリスは「神々の王」や「世界の主」といった称号を有し、冥界に於いてラーにあたる存在ともされた。両者は完全に同化することはなかったものの、この同一視からは日没はラーの魂が遺体であるオシリスと結合するために冥界に下る旅であるという考えが生まれた。
 このほか、第18王朝前期に於いてはトトメスの名を持つ王が複数存在しており、トトが王家によってかなりの崇拝を受けていたことが窺える。
 第18王朝後半には、古代エジプトの宗教史で最も特異な出来事が起こった。アクエンアテンの宗教改革である。この改革に於いて、ほとんど唯一神と呼べる存在になったのがアテンである。アテンはラー=ホルアクティの一部として崇められていたようであり、アメンヘテプ3世の下で大きく台頭した。そしてアクエンアテンはアテンを普遍的で超越的な存在とした。この改革ははじめ他の神を必ずしも排除していなかったが、後にはアテンは他の神々から切り離され 、一部の神々、とりわけアメンの祭儀は禁止されたようである。この改革の下でアテンは光線を放射する日輪として表された。この姿は以前から存在していたが、改革の下で唯一の姿とされたのである。この姿でアテンは光線の先から「生命」を象徴的に与えるのである。こうして普遍的な神とされたアテンだったが、その教義は王のみがアテンについて真の知識を持つという排他的なものだった。このこともあり、王以外で(少なくとも形の上では)新教義を信奉したのは首都の支配階層程度であり、改革に伴って築かれた新首都アケトアテンでも、人々は旧来の信仰を続けたことが分かっている。そしてアクエンアテンが死去すると、アメンをはじめとする旧来の神々が力を取り戻し、間もなくアテンは無名の神へと転落した。
 続く第19王朝時代には、プタハがアメン、ラーと並ぶ重要な神となったことが分かっている。ラメセス2世が築いたアブ・シンベル神殿の至聖所に祀られているのは王とこの3柱であり、またプタハの名はこの時期の王や高官たちの名にしばしば現れる。またこの頃には、プタハを中心とする「メンフィス神学」も形成されていたようである。
 第19王朝期にはセトも再びその地位を高め、最も重要な王の守護者たちの一柱とされた。当時のエジプト軍の4つの師団の名には、アメン、ラー、プタハと並びセトが採用されている。この傾向は第20王朝まで続き、セトを名に含む王も現れた。またこの時代には王権の中心が下エジプトへ移ったことで、中王国以来その重要性をいくらか失っていたとみられるネイトが地位を回復した。ネイトはこの頃には創造神としての役割も持つようになり、ときに人類の創造者ともいわれた。
 一方宗教改革の後に権威を取り戻したアメンとその神官団は、第19・20王朝期にさらに勢力を増した。第20王朝のラメセス3世の時代には全土の可耕地の3分の1以上がアメンの所領となっていたとされる。

 第三中間期から末期王朝時代
 新王国時代のアメンの台頭は、遂にアメン大司祭が王と国土を分割して統治する状態を形成するまでに至った。第21王朝時代には、北部を支配する王が娘を「アメン神妻」という神官職に就けるという慣行が確立された。一方、新王国後期に勢力を誇ったセトは、第三中間期になるとその地位を急速に落としたようである。
 第三中間期の後半にはヌビアのクシュ王国の王たちがエジプトを支配した(第25王朝)が、彼らはかつてエジプトの支配下にあった間にアメンを自分たちの神として受け入れていた。そのためアメンはこの時代にも大きな力を持ち、王たちは「アメン神妻」の慣行も継続した。その後第25王朝はアッシリアの侵攻によって崩壊し、その際テーベも略奪されたがアメン崇拝が衰えることはなかった。
 サイスを首都とする第26王朝が成立すると、ネイトが最も有力な神の一柱となった。またこの頃になるとエジプトに於けるギリシア人の活動も活発化し、ネイトはアテナと同一視されてギリシア人の間でも大いに崇められた。
 このほかにギリシア人の間で特に崇拝された神としてバステトが挙げられる。バステトは中王国以降猫の姿をとるようになり、母性の象徴として崇拝された。ギリシア人からはアルテミスと同一視されたほか、ヘロドトスはバステトの祭礼はエジプトで最も手の込んだものと評している。しかし最も巨大な影響力を持つことになったのはイシスだった。イシス崇拝はギリシア人にも受け入れられ、エジプトの外にも広まった。これに伴い、オシリスの信仰も国外へと拡大することになった。また末期王朝時代の終わりには、この女神の最初の重要な神殿であるイセイオンとフィラエのイシス神殿の建造が始まった。
 このような状況の中で、末期王朝期には新たな神の台頭も起こった。その代表例といえるのがイムヘテプである。イムヘテプは元々ジェセル王の階段ピラミッド建造を指導した第3王朝時代の神官・廷臣・学識者だったが、死後に医術や学問を司る半神と見做されるようになった。末期王朝時代になるとイムヘテプは神格化が進み、広範囲で崇拝される神となった。この神はギリシア人からはアスクレピオスと同一視された。
 これらの変化の中でも、ラーやホルス、オシリスといった神々はその地位を保ち続けた。その一方で、幾度かの盛期を迎えたセトは末期王朝時代になると外敵などとの結びつきが強くなり、第25王朝時代にはセトの広範な崇拝は終わりを告げた。

   プトレマイオス朝
 ギリシア人が支配階層となったプトレマイオス朝において、最も重要な地位を占めた神はサラピスとイシスであった。サラピスはプトレマイオス1世によって創出され国家神とされた神である。その原型はオシリスとメンフィスの聖牛アピスが習合したオセラピスで、この神は前6世紀には既にイオニア系のメンフィス住民によって崇拝されていた。サラピスはオセラピスにギリシアの神々の特徴を加えることで確立された。その神々とはゼウス、ヘリオス、ディオニュソス、ハデス、アスクレピオスであり、故にサラピスは太陽神・豊穣神・冥界神・治癒神といった側面を持ったが、その中で最も重要だったのは常にオシリス豊穣と来世の側面であった。サラピスは基本的にモディウス(穀物計量枡)あるいはカラトス冠を頭上に乗せたギリシア風の男性として描かれた。アレクサンドリアには壮大なサラピス神殿が築かれ、その信仰はギリシア人の間で徐々に広まっていった。その一方でサラピスはエジプト人には完全に受け入れられることはなかったようである。
 一方サラピスの配偶神とされたイシスは、サラピスとは対照的にエジプト人とギリシア人の双方から崇拝を受けた。イセイオンはプトレマイオス3世の下で完成し、フィラエのイシス神殿は繰り返し増築が行われた。イシスは数多くの女神と同一視され、偉大な力を持ち現世と来世両方で守護を行う女神として崇められた。またこの女神とギリシアのアフロディテが結合したイシス=アフロディテも地中海世界で広く人気を集めた。
 古王国以来イシスの息子とされてきたホルスも、変わることなく広く崇められた。とりわけ子供としてのホルスであるホルパケレド(希:ハルポクラテス)が描かれた「ホルスのキッピ(装飾版)」は治癒の護符として高い人気を誇った。またこのハルポクラテスはイシスの膝の上に座る姿でもしばしば描かれた。
 新王国以来の最高神アメンの崇拝は、この時代にも続けられた。アメンはアレクサンドロス大王が神託を求めた神であり、この時代までにゼウスと同一視されていた。アメンはギリシア人たちによってアメンラーソンテルと呼ばれたが、これはアメン=ラー・ネスウト・ネチェルウ(神々の王であるアメン=ラー)に基づく可能性がある。一方ラーはかつてほどの存在感はなくなったものの、有力な神としての地位を保った。
 このほか、末期王朝期以来のイムヘテプ崇拝はさらに発展した。イムヘテプ崇拝の中心地は病気治癒の巡礼地となり、サッカラの聖地はアスクレピオンと呼ばれた。またテーベ周辺では、イムヘテプは同じく神格化された第18王朝の廷臣「ハプの息子」アメンヘテプ」と共に崇拝された。

 ローマ時代以降
 前30年、プトレマイオス朝はローマによって滅ぼされ、エジプトの王朝時代は終わりを迎えた。しかし、神々の崇拝が失われることはなく、むしろ更なる発展・拡大を遂げたものもあった。ローマ皇帝が神殿や祠堂を造営することもしばしばあった。アメン、ラー、ホルス、オシリスのような神々はローマ時代になっても重要な神として崇拝を受け続けた。そしてローマ時代に最も大きな影響力を持ったのは、やはりイシスだった。イシスは東方の「秘儀宗教」としてローマ人にも受け入れられ、帝国各地に神殿が建設された。この女神の崇拝はイラクやイギリスでも確認されている。またフィラエのイシス神殿はローマ皇帝たちによっても繰り返し増築された。
 しかし4世紀になると状況は変化した。383年テオドシウス帝の命で帝国内の神殿は閉鎖され、その後の度々の勅令ではそれらの破壊が認められたのである。間もなくエジプトの神殿の多くは破壊されるか転用されるかしていき、神々の崇拝は失われていった。しかしキリスト教が帝国の唯一の宗教とされた後も、神々が全く失われたわけではなかった。とりわけフィラエのイシス神殿はその後も機能を果たし続け、その崇拝は6世紀まで続いた。またエジプトの宗教は、これにとって代わったキリスト教、まさにその形成に深い影響を与えることになった。とりわけハルポクラテスを抱くイシスの図像は、聖母子像の原形になったと考えられている。さらに遥か後の時代になっても、エジプトの宗教は新プラトン主義などに影響を与え、またイシスをキリスト教と結びつける主張が現れたこともあった。神々の崇拝が失われても、その影響力は非常に根強く残り続けたのである。



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