2016年12月17日
ラーンサーンの後継者たち  月瀬 まい


 王国の分裂
 ラーンサーン[1]王国は現在のラオスとその周辺を支配したラーオ人の国で、1353年にファーグムがシェントーンで即位したことで建国されたとされる。ファーグムの子サームセーンタイの死後15世紀後半まで王朝は安定せず、1479年にはベトナムの黎朝による侵攻を受けた。しかしその後勢力を伸ばしていく。ウィスン(r.1501〜20)はパバーン仏を都の守護仏とし、寺院を建立したほか年代記の撰述にも携わった。その孫セーターティラート(r.1548〜71)はラーンナーの王位にも就いてチェンマイから瑞祥あるエメラルド仏を持ち帰った。また1560年にシェントーンからヴィエンチャンに遷都[2]しアユタヤ朝と同盟を結んでビルマのタウングー朝による侵攻を撃退、さらにルアンパバーンにワット・シェントーンを建立するなど輝かしい業績を残した。
 その後17世紀に入って、スリニャウォンサー(r.1637〜94)の治世にラーンサーン王国は最盛期を迎える。王都ヴィエンチャンは交通の要衝として交易で栄えた。しかし、内陸にあり海上交易に参入できないラーンサーン王国の繁栄には限界があった。
 スリニャウォンサーの死後、継承争いで王国は乱れた。ベトナムから帰った王族がヴィエンチャンを奪うと、スリニャウォンサーの孫二人がルアンパバーンへ逃れた。彼らは母方で縁のあったシップソーンパンナーから援軍を得てヴィエンチャンを攻めた。ヴィエンチャンはアユタヤ朝に支援を求めた。1707年、アユタヤ朝の介入によってヴィエンチャン王国とルアンパバーン王国の分立が決定した。さらに1712年、ヴィエンチャンからさらに別の勢力が離反し、チャンパーサック王国を建国した。こうしてラーンサーン王国の系譜は三つの王国に分裂して継承されることになった。

 チャクリー朝による支配
 しかし、これら三王国はいずれも1770年代末にシャムのチャクリー朝による支配を受けることになった。その契機はビルマのコンバウン朝による侵攻であった。1767年にアユタヤが陥落してアユタヤ朝が滅亡したが、タークシンによりビルマの勢力は駆逐された。タークシンは続いてラーンサーン三王国に目を付けた。まずチャンパーサック、続いてヴィエンチャンが侵略を受けた。1778年、ヴィエンチャンは4ヶ月の包囲の末に陥落した。ヴィエンチャン王シリブンニャサーンは逃亡したが、都は略奪を受けエメラルド仏も持ち去られた。ルアンパバーンはシャムを支援したにも関わらず、朝貢国に転落した。
 当時のシャムは近代の中央集権国家ではなく、ラーンサーン三王国では完全な自治が行われた。シャムによる承認が必要だったのは、出兵、高官の任命、死刑執行のみであった。ラーンサーン三王国に対しては、王と副王(ウパラート)は承認を受けねばならないこと、近隣諸国と戦端を開いてはいけないことだけであった。ラーマ1世はシリブンニャサーンの長男ナンターセーンがヴィエンチャン王に即位することを許し、ヴィエンチャンは再建された。1804年、ナンターセーンの弟アヌウォンがヴィエンチャン王となった。アヌウォンはワット・シーサケートを建立し、阮朝との朝貢関係を復活させた。シャムはアヌウォンを信用しており、彼の息子をチャンパーサック王として認めた。
 1826年の末、アヌウォンは突如シャムに反旗を翻し、独立を目指した。アヌウォンは英国と対峙している[3]シャムには介入する余裕はないと踏んでいたが、それは誤りであった。シャムと英国は既に条約を結んでおり、反乱は鎮圧されてアヌウォンはバンコクで監禁され死去した。ヴィエンチャン王国の王統は絶え、街は徹底的に破壊され住民はシャムへ強制移住させられた。以後ヴィエンチャンとチャンパーサックはシャムの直接支配下に置かれ、ルアンパバーン王国だけがシャム、阮朝、清に朝貢して生き延びることができた。しかしこの反乱は、現代ラオスにとっては最初の独立闘争と捉えられている。

 フランスによる植民地化
19世紀後半、フランスが東南アジアの植民地化を開始した。ラーオ地域への本格的な進出は、カンボジアやコーチシナを足がかりにして始められた。その目的は、メコン川を遡行して中国南部へ至る通商路を開拓するためであった。1866年から1868年にかけて、ドゥダール・ドゥ・ラグレが指揮する調査団がサイゴンからメコン川を遡って雲南に達した。この時ヴィエンチャンは廃墟となっており、ルアンパバーンはプノンペン以北で唯一の活気ある都市であった。この踏査の結果、メコン川の通商路としての有用性は否定され、フランスはトンキンへの進出を図った。1883年、トンキンを獲得して阮朝を保護国化したフランスは阮朝の権利を継承すると称してラーオ地域への関与を強めた。同じ1883年、シャムが中国人匪賊[4]の討伐を名目にメコン東岸へ軍を送った。
 1885年、フランスはルアンパバーンへの副領事館設置をシャムに認めさせ、オーギュスト・パヴィが初代副領事として1887年2月に着任した。同年6月、ホー軍[5]がルアンパバーンを襲撃した際にパヴィが炎上する王宮から国王ウンカム(r.1873〜94)を救出したことで国王の信任を得た。ウンカムはシャムの代わりにフランスの保護を受けると述べた。
 一方、メコン川流域一帯では1880年代後半からシャムとフランスの間に衝突事件が起こっていた。1893年にフランスは武力行使で問題を解決することを決定し、タイ湾に砲艦を派遣して威嚇した。1893年7月20日にメコン川の支配権とメコン東岸の支配権を要求する最後通牒を突きつけるとシャムはこれをのまざるを得ず、10月3日に条約が締結された。また1895年7月には清との境界が画定してシップソーンパンナーの一部がフランス領となり、1896年1月には英領ビルマとの境界が画定された。1899年、ラーオ地域はラオスとして仏領インドシナ連邦に編入された。ルアンパバーン王国では、王の儀礼上の特権を伴う統治権が認められ、貴族による支配組織が維持された。しかし、行政や財務、経済に関してはフランス人の官僚が行い、1914年以降は王室財政も国家予算に統合された。一方チャンパーサックではかつての王国の子孫が権力を保っており、中心がメコン西岸にあったために1893年以降もシャムの支配下にあったが1904年2月にチャンパーサックを含むメコン西岸の一部分がフランス領となった。この時王族の多くがバンコクへ亡命したが王子チャオ・ニュイはチャンパーサックに残った。フランスはチャンパーサック王国を復活させなかったが、チャオ・ニュイの特別な地位を認めてチャンパーサック県の知事に任命した。フランスはラオスを11の県とルアンパバーン王国に編制した。

 独立へ
 第二次世界大戦が勃発して1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、9月に日本が仏領インドシナに進駐、情勢が一変した。この機に乗じてタイ[6]が失地回復を掲げ11月28日にラオスへ侵攻、日本の介入で停戦し1941年5月9日の東京条約によりメコン西岸がカンボジア北部とともにタイ領となった。これによってラオスでは対仏不信が強まり、フランスはこれに対処せねばならなくなった。まず1941年8月にルアンパバーン王国との間に正式な保護条約を初めて締結し地位を確定させ、ヴィエンチャン以北をルアンパバーン王国に編入した。また教育を通じて親仏意識を人々に植え付けようとしたが、民族主義的な反仏志向を持った青年を育てる結果になってしまった。
 1945年3月9日、日本軍が明号作戦を発動してフランスの権力を除いた。4月8日、日本軍はルアンパバーン王シーサワンウォン(r.1904〜59)に独立を宣言させたが、王家は親仏的であり日本降伏後の8月30日にシーサワンウォンはフランスによる保護の継続を宣言した。一方、首相ペッサラート[7]は9月1日に独立を再確認する宣言を行い、次いで15日にラオスの統一を宣言した。王はペッサラートを解任しようとしたが、10月12日にヴィエンチャンでラーオ・イサラ[8]暫定政府が樹立され20日にシーサワンウォンの廃位が決定された。
 しかしフランスはインドシナの再植民地化を図り、1946年9月までにラオス全域の再占領を完了、ラーオ・イサラ臨時政府はバンコクへ亡命した。また11月には、タイは東京条約で獲得した領土の返還を余儀なくされた。
 フランスは直ちに行政機構の再編にとりかかった。1946年8月27日に調印された暫定協定によってフランス連合内での立憲君主国家としてラオス王国が誕生しシーサワンウォンがラオス王となった。またこの時チャンパーサック王家のブンウム・ナチャムパーサックが国王への即位を求め、これに対しては王国の終身総監の地位が保証された。そして1949年7月19日の協定で一応の独立が認められた。しかし王国の実権はフランス人の長官が握っており、実質的には以前の行政機構の維持であった。
 これに対してラーオ・イサラは、協定に反対するペッサラートら、ベトコンと関係を持っていたスパーヌウォンら、協定を利用して完全独立を目論んだスワンナプーマーらに分裂した[9]。スワンナプーマーら穏健派はラオスに帰国し、1951年にスワンナプーマーは首相となった。スパーヌウォンはパテート・ラーオを組織して王国政府に対抗し、解放区を建設した。

 王国の終焉
 一方でフランスはベトナムで敗退を重ね、ジュネーブ会談でインドシナ諸国を独立させることで戦争の幕引きを図った。1954年のジュネーブ協定によって統一選挙の実施が決定し、1957年にはスパーヌウォンらを入閣させた第一次連合政府が生まれた。しかし翌年には共産化を嫌う米国の策略によって第一次連合政権が崩壊、パテート・ラーオ軍は王国政府との戦闘を再開し内戦状態となった。その中で1959年10月、ペッサラートと国王シーサワンウォンが相次いで死去しシーサワンワッタナー(r.1959〜75)が国王に即位した。新しい国王はカリスマ性に欠け、最後の国王になる予感がすると述べる始末であった。
 慌ただしく事態が動く。1960年8月に軍事クーデターが発生し、スワンナプーマーを首相とする中立派内閣が樹立された。しかし右派勢力がタイと米国の全面支持のもとで反攻を開始し、12月にスワンナプーマーと閣僚らはカンボジアへ亡命した。ブンウムが首相となり、ラオスは右派政権、中立派、パテート・ラーオに三分裂することになった。1961年、勝利を断念した米国がラオスの中立化を打ち出し、1962年6月にスワンナプーマーを首相とする第二次連合政府が誕生した。しかしこの政権は極めて不安定で、1963年10月に中立派閣僚が暗殺された事件を機に崩壊した。以後、スワンナプーマー政権は右派と共同してパテート・ラーオと対決する道を選び内戦が長期化することになった。パテート・ラーオは解放区を広げていき、1964年に米国による爆撃が開始されたにもかかわらず次第にパテート・ラーオが優位となった。また、ベトナムで和平交渉が進展していることも影響してパテート・ラーオが王国政府に対して和平交渉の呼びかけを始めた。
 1973年2月、ラオス和平協定が調印され長い内戦が終結した。次いで1974年4月に第三次連合政府が成立、ここでもスワンナプーマーが首相を務めたが、パテート・ラーオと右派をまとめることはもはやできなかった。1975年4月にクメール・ルージュがプノンペンに、ベトナム人民軍がサイゴンに入城すると右派政治家の不安が高まり、国外への脱出を図る者が相次いだ。スワンナプーマーは連合の崩壊を食い止めようとしたがパテート・ラーオは完全勝利に向かって突き進んだ。1975年6月にはラオスのほぼ全土がパテート・ラーオによって制圧された。12月1日、シーサワンワッタナーは退位を求められ、王領と王宮が国家に引き渡された。12月2日、ラオス人民民主共和国の成立が宣言されスパーヌウォンが国家主席となった。ラオスの王政は終焉し、ラーンサーンの末裔による支配もここに終わった。


    注釈
  1. ^ ラーンサーンは「百万の象」の意。
  2. ^ この時以降、シェントーンはルアンパバーンと呼ばれるようになった。
  3. ^ 1826年、第1次英緬戦争の結果テナセリムが英領となっていた。
  4. ^ 黒旗軍、白旗軍などと呼ばれた。
  5. ^ 19世紀後半に清に追われてベトナム北部に拠点を移した中国人匪賊。
  6. ^ 1939年に国名をシャムからタイに変更した。
  7. ^ 副王でもあった。
  8. ^「自由ラオス」の意。
  9. ^ ペッサラート、スワンナプーマー、スパーヌウォンはみな副王ブンコンの息子で、兄弟同士であった。

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