2016年11月
1936年8月4日 香宮希
はじめに
第一次世界大戦の終焉から第二次世界大戦の勃発に至るまでの時代、いわゆる戦間期には欧州各地、とりわけ東ヨーロッパや南ヨーロッパで多くの権威主義的な政権が誕生した。南ヨーロッパに位置するギリシアもその例外とはならず、政治的混乱を経て八月四日体制と呼ばれる権威主義的体制が樹立されることになった。本稿では八月四日体制の成立に至るまでの経緯とその終焉について述べる。
第二共和政とヴェニゼロス
ギリシア王国ではオスマン帝国からの独立以来メガリ・イデアと呼ばれる領土拡張政策がとられていたが、第一次世界大戦後に行われたギリシア・トルコ戦争で敗北した結果ギリシアは第一次世界大戦でオスマン帝国から獲得した領土の大半をオスマン帝国に代わって成立したトルコ共和国に明け渡すことになり、メガリ・イデアは事実上破綻した。この敗戦の結果国王コンスタンディノス1世によって権力の座から追われていたヴェニゼロス派(政治家エレフレリオス・ヴェニゼロスを支持するグループ)が勢力を盛り返し、1922年9月にヴェニゼロス派の将校ニコラオス・プラスティラスがクーデターを起こして権力を握り、コンスタンディノス1世は退位した。コンスタンディノス1世の長男で皇太子であったゲオルギオスがゲオルギオス2世として国王に即位したが、王党派の将軍イオアンニス・メタクサスがクーデターを起こして権力を握ろうとしたが失敗したこともあり、ゲオルギオス2世は1923年12月にギリシアからの退去を強いられた。その後王党派の棄権のもと行われた総選挙の結果ヴェニゼロスが首相となったが、ヴェニゼロス派の中でも急進的な共和派が権力を掌握して1924年3月に共和政を宣言し、同年4月の国民投票によって3分の2以上の支持を得て共和政は承認された。ここにギリシア独立戦争時に短期間成立したギリシア第一共和政に続く共和政体であるギリシア第二共和政が成立した。
王政の廃止後もギリシアの政治は安定とは遠かった。1925年6月には将軍テオドロス・パンガロスがクーデターを起こして権力を握り、独裁体制を打ち立てた。しかし、パンガロスは軍の支持を失い1926年8月に将軍ゲオルギオス・コンディリスが起こしたクーデターによって権力の座から追われ、パンガロスによるクーデター以前に大統領であったパウロス・クンドゥリオティスが大統領に復帰した。同年11月に行われた総選挙では共和派が多数を得たが王党派の勢力も強く、共和派と王党派による連立政権が樹立された。この連立政権の閣僚にはかつてクーデターを企てたイオアンニス・メタクサスも含まれていた。この連立政権は1928年7月に1924年以降ギリシアを離れていたヴェニゼロス派の頭目エレフレリオス・ヴェニゼロスが復帰して首相となったことで終焉を迎えることになった。ヴェニゼロスは選挙制度を比例代表制から小選挙区制に改めて総選挙を行い、ヴェニゼロス派の自由党を勝利に導いた。ヴェニゼロス政権はトルコとの関係改善を含む国際環境の安定を模索し、各種の社会改良政策を進めたが、世界恐慌のあおりも受けて自由党の人気も低迷し、比例代表制がとられた1932年9月の総選挙では自由党の議席はパナギス・ツァルダリス率いる王党派の人民党の議席をわずかに上回るにとどまった。これにより一時的にツァルダリスを首相とする連立政権が成立したこともあり政治の動揺が懸念されるようになったため1933年3月に小選挙区制で改めて総選挙が行われることになったが、予想に反して自由党は敗北して人民党が過半数の議席を獲得した。この結果はヴェニゼロス派に動揺をもたらし、1922年のクーデターの首謀者ニコラオス・プラスティラスがクーデターを画策したが失敗に終わり、プラスティラスは亡命を強いられた。ツァルダリスの人民党政権が成立し、プラスティラスのクーデター計画を口実にウェニゼロスも亡命を強いられた。
王政復古とメタクサス
人民党政権のパナギス・ツァルダリス首相は最初は共和国憲法の受け入れを宣言したが、イオアンニス・メタクサスら過激な王党派を復帰させ、軍内部のヴェニゼロス派を粛清するなど王政復古への布石を着実に打っていった。1935年3年にはエレフレリオス・ヴェニゼロスの黙認の下でヴェニゼロス派高級将校グループがクーデターを起こしたが失敗に終わった。クーデター後の戒厳下で同年6月に総選挙が行われたがヴェニゼロス派は抗議のためボイコットしたため人民党が96%の議席を獲得した。この選挙では共産党も10%の得票を得たが小選挙区制のため議席の獲得には至らなかった。同年10月に王党派高級将校らは首相ツァルダリスに直ちに王政復古をするか辞任するよう迫り、ツァルダリスは辞任した。1926年のクーデターを主導したゲオルギオス・コンディリスが跡を継ぎ、共和政の廃止を宣言した。王政復古は軍による操作が行われたとみられる国民投票によって97%の支持を得て承認され、イギリスに亡命していたゲオルギオス2世が国王に復位した。
1935年11月に復位した国王ゲオルギオス2世は政治犯に対する恩赦を行おうとしたがゲオルギオス・コンディリス首相はこれに反対して辞職したため、アテネ大学法学部教授であったコンスタンディノス・デメルディスを首相に任命して恩赦を行うとともに比例代表制で清新な選挙を行うように指示した。総選挙は1936年1月に行われ、パナギス・ツァルダリス率いる人民党など反ヴェニゼロス派が総議席300のうち143議席を獲得したが、セミストクリス・ソフリス率いる自由党などヴェニゼロス派も141議席を獲得し、議会のキャスティングボートは15議席を獲得した共産党に握られることになった。政治不安の中でエレフレリオス・ヴェニゼロス、コンディリス、パナギス・ツァルダリスら有力政治家が数か月の間に世を去り、1936年4月には首相デメルディスも死去したためゲオルギオス2世は後任の首相にわずか7議席の極右政党自由思想家党の党首であるイオアンニス・メタクサスを任命した。メタクサスはソフリスの提案もあり40人からなる議院委員会の承認に基づく布告によって統治できるようにし、議会を5か月間休会することにした。メタクサスはこの新たに得た権力によって労働界の指導者を逮捕し、闘争的な労働組合を解散し、ストライキを非合法と宣言した。共産主義者らはこれに反発して一連のストライキを組織し、全国的なストライキを8月5日に行うと宣言した。ストライキが行われる2日前の8月3日には自由党党首のソフリスと新たに人民党党首となったイオアンニス・テオトキスがゲオルギオス2世に対して議会の圧倒的多数を占めることになる連立政権を結成する旨を申し出たが、すでにメタクサスの脅しめいた宣伝に染まっていたゲオルギオス2世はこの申し出を拒否した。
1936年8月4日
1936年8月4日、国王ゲオルギオス2世は非常事態を宣言する勅令に親署し、個人の自由に関する憲法の条項を停止し、次の選挙の日を決めることなく議会を解散した。次の選挙の日を定めずに議会を解散することは明確に憲法違反であったが、以後10年にわたって議会が開催されることはなかった。ともあれイオアンニス・メタクサス首相は無制限の権力を手にし、軍事力によってゼネストを阻止した。ここにメタクサス自身も喜んでそう呼称する八月四日体制が成立した。
メタクサスの八月四日体制は法的正当性も民衆の支持も欠いていたが、20世紀の権威主義体制の中では悪質なものではなかった。左翼政治家や労働組合の指導者は追放や投獄こそされたが拷問にかけられたり殺害されたりすることはなかったし、共産党も暴力ではなくコンスタンディノス・マニアダキス公安相率いる秘密警察の巧妙な計略によって無力化された。また、メタクサスは古代ギリシアの異教的価値観と中世ビザンツ帝国のキリスト教価値観を合成させるという「第三ヘレニズム文明」なるものを説き、自らを「第一の農夫」「第一の労働者」「首領」「民族の父」などと称し、農民債務のモラトリアムを導入するなどポピュリズム型の政治を行った。国民はメタクサスの政治に賛同はしなかったが、政党政治の長い混乱から八月四日体制に進んで抗議することもなかった。唯一起こった体制への強い反発は1938年7月にクレタ島で起こった暴動だったが、メタクサスはヴェニゼロス派の強い基盤であるこの島で起こったこの暴動を戒厳下で鎮圧した。
第二次世界大戦と八月四日体制の終焉
メタクサスが八月四日体制を確立する5か月前の1936年3月にはアドルフ・ヒトラー率いるナチス政権のドイツがヴェルサイユ条約によって非武装地帯とされていたラインライトへ軍を進め、2年後の1938年には3月にオーストリアを併合し9月にチェコスロヴァキアからズデーテン地方を獲得するなど、八月四日体制の時代の西欧では次の欧州大戦が近づいていた。八月四日体制下のギリシアは他の東南ヨーロッパと同様に経済的にはドイツの影響を強く受けるようになったが、伝統的な親イギリス政策を転換することはなかった。メタクサスは1938年にはイギリスに正式な同盟条約を提案したが、イギリスは新たな責任を背負うことを嫌ってこれを承諾しなかった。しかし1939年4月にベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権のイタリアがアルバニアに侵攻して保護領にするとイギリスはフランスとともにギリシアが外敵からの攻撃に抵抗するという条件でギリシアに領土保全の保証を提示した。1938年にギリシア・トルコ友好中立条約に調印するなどトルコとの関係強化も図った。また、メタクサスは国内でも戦争への備えを行った。アレクサンドロス・パパゴス陸軍参謀総長の補佐を受けて軍の近代化を進める一方で動員計画も整えた。軍事上の準備を支えるための道路や鉄道の整備という公共事業の形でも防衛力の強化にあたった。
1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦がはじまった。ギリシアはトルコとともに中立を宣言しイタリアもこれにならったが、この戦争がギリシアに波及しないと思うギリシア人はほとんどいなかった。1940年6月にはイタリアが参戦しフランスが降伏するなどもはやギリシアが大戦に巻き込まれるのは時間の問題となっていた。メタクサスは1940年5月には一部の予備役を招集し始めて6月には国家的危機について公然と語った。8月には中立を再確認したが、イタリアの航空機が海上でギリシアの船舶に付きまとい始め、8月15日にはイタリアのものと知れていた「国籍不明」の潜水艦がギリシアの巡洋艦エリィ号を沈めた。メタクサスはドイツとの通商条約の交渉を続けてアドルフ・ヒトラーにイタリアを抑えるよう促したが、もはや無意味だった。10月26日にムッソリーニは国境で一つの事件をでっちあげ、28日にイタリアの公使はメタクサスに最後通牒を手渡した。メタクサスはこの最後通牒を「OΧΙ! (否!)」の一言で拒絶したが、イタリア軍はすでにアルバニアとの国境を越えつつあった。
イギリスはギリシアが第二次世界大戦に参戦することになった段階でギリシアの他に積極的な同盟国を持っておらず、ギリシアに対して空軍による支援を行った。メタクサスの動員は効率が良く、ギリシア軍は数日内に攻撃にかかることが可能になった。ギリシア軍はイタリア軍をアルバニアに追い返すにとどまらず北イピロスで住民のほとんどがギリシア人であったコリツァとアルギロカストロを占領したが、イタリア軍は立ち直りアルバニア南部の主要な港湾であるヴァロナがギリシア軍によって占領されることを阻止した。こうしてアルバニアでの戦闘は膠着状態に陥り、アドルフ・ヒトラーはドイツがこの袋小路に介入する必要があると判断した。イギリスはドイツがバルカン半島に介入することを予見してメタクサスにイギリス軍をギリシアに上陸させるよう促したが、提案された兵力が小規模であり敵を挑発するだけのものであると思えたためメタクサスはこの提案に抵抗した。メタクサスは戦時指導者として申し分のない働きを見せたが、転機は突如として訪れた。1941年1月29日、メタクサスは短い病臥の末に死亡した。ここに八月四日体制はギリシアの行く末を見届けることなく終焉を迎えた。
その後―ギリシア苦難の始まり
国王ゲオルギオス2世は銀行家のアレクサンドロス・コリジスをメタクサスの後継の首相に任命した。1941年2月、イギリスはメタクサスが拒否した派兵提案をコリジスに再度示したが、首相コリジスは北部ギリシアでドイツ軍に対して前線を維持するに足る海軍と空軍の支援を得られる陸上部隊を求めた。ゲオルギオス2世とコリジスはイギリスが計画を調整したうえで提案された兵力が任務を果たしうると納得し、3月にイギリス軍はギリシアに上陸し始めた。そのころユーゴスラヴィアはアドルフ・ヒトラーの圧力に屈して枢軸国に加わることに同意したが、軍のクーデターによって政府は倒され親イギリス的将校たちの新しい政府が権力を掌握した。これによって4月5日にドイツによるユーゴスラヴィアへの攻撃が始まった。ユーゴスラヴィアは数日のうちに占領され、ドイツはギリシアへ軍を進めた。ギリシアは戦争準備を整えていたこともあり懸命に抵抗したが、ドイツ軍の圧倒的軍事力により守備は次々と突破されていった。4月18日に首相コリジスは自殺し、ゲオルギオス2世は別の銀行家のエマヌエル・ツデロスを首相に任命したが、4月23日にゲオルギオス・ツォラコグル将軍が政府の承認なしにドイツ軍と停戦交渉を始めた。4月27日にアテネはドイツ軍の手に落ち、ゲオルギオス2世と首相ツデロス率いる政府は少数の軍とともにクレタ島に撤退した。4月30日にはツォラコグルがドイツ軍によって首相に任命され、対枢軸国協力政権ギリシア国が成立した。ゲオルギオス2世と政府が逃れていたクレタ島に対しても5月20日にドイツ軍は攻撃を開始し、クレタ島は5月末までに完全に占領された。ゲオルギオス2世と政府はエジプトに逃れた。ここにギリシア全土がドイツ軍の手に落ち、ギリシアはドイツ、イタリア、ブルガリアの三国に分割占領されることになった。ギリシアはこのあと占領とその後の内戦による8年間の苦難の時代を過ごすことになる。
おわりに
本邦においてイオアンニス・メタクサスと八月四日体制の名は広く知れ渡っているとは言い難い。これはそもそも近現代ギリシア史にスポットが当たることが少ない故と思われる。しかし、今回取り上げた第二共和政と八月四日体制の他にも近現代ギリシア史にはメガリ・イデアの進展やエレフレリオス・ヴェニゼロス首相の活躍、内戦とその後の政治的混乱や軍事政権と王政廃止など興味深い出来事が数多くある。それらの出来事には古代ギリシアのような輝かしさや中世ギリシア(東ローマ帝国)のような雄大さはないが、大国の狭間で翻弄されつつもたくましく生きる小国の姿が現れており感嘆に値する。また、昨今注目されつつある現在のギリシアの政治や国際関係、とりわけトルコとの関係を知る上でも近現代ギリシア史は多くのヒントを提供してくれるに違いない。拙文を機に近現代ギリシア史に興味を持っていただけるのならばこれに勝る喜びはない。