2016年11月
秋田蘭画概論  堂島米市


 はじめに
 江戸時代中期に興った洋風画の一派、「秋田蘭画」の発生と後世への影響について、簡単にですが論じていきたいと思います。所謂、美術史になるのですが、大人の都合で作品の掲載はできません。ネットで検索すれば大体は出ると思いますので、皆さん各自で調べるなりして下さい。

 今回の主役、曙山と直武
 佐竹家は常陸国に545,800石を領有した大大名でありましたが、関ヶ原の戦いの際に西軍と密通していたために、出羽国に転封され、205,800石に減らされてしまいました。その後、江戸時代を通して現在の秋田県のほぼ全域を統治します。
 江戸時代中期頃の久保田藩は、幕府から課役を任じられる一方、宝暦九(1759)年に大水害、間に凶作、安永元(1772)年の江戸大火で藩邸が焼失、同七(1778)年には久保田城が焼亡するなど、藩財政は散々なものでした。そんなさなか誕生したのが今回の主役の一人である、第八代久保田藩藩主の佐竹義敦よしあつ(曙山しょざん)(1748〜1785)です。
 曙山は近親同士の子であったためか、生来病弱で癇癪持ちなところがあり、鋭い感性と進取性を併せ持つ一種の天才肌でありました。藩主であった二十八年間で三十人余りの家老を「御叱御免おしかりごめん」として更迭したことや、窓の障子に古い物を使用し、鷹狩りの弁当を質素にしたというエピソードからは、彼自身の激しい性格がうかがえます。後世では「明暗常なき暗主なり」と評されたこともありました。
 もう一人の主人公は久保田藩の支城角館の槍術指南役の四男である給人小田野直武(1749〜1780)であります。ちなみに、直武も曙山も幼い頃から狩野派の絵師に習っておりました。
 しかし、この二人が独自に秋田派と呼ばれる洋風画を起こしたわけではありません。直武がとある人物に会うところからお話は始まります。その人物とは、エレキテルで有名な平賀源内(1728〜1779)、その人でありました。

  源内の秋田招聘
 当時の久保田藩の重要な財源の一つが阿仁銅山でした。ところが、明和元(1764)年に幕府が10,000石と引き替えに阿仁銅山を没収しようとしました。久保田藩は幕府に銅山没収の契機を与えないためにも、藩財政を豊かにするためにも、早急な鉱山経営向上が求められていました。
 安永二(1773)年正月、江戸詰の秋田藩士であった太田伊太夫が医者の千賀道隆せんがどうりゅうの下に新年の挨拶に向かい、偶然に源内と鉱山師の吉田利兵衛の二人と出会いました。話題が阿仁銅山産出の銅鉱石に銀が多く含有されているという話になり、後日同じく秋田の院内銀山の鉱石を取り寄せると、品質がかなり良かったのです。道隆の仲介により、多忙であった源内・利兵衛は鉱山開発のために、同年六月、秋田へ向けて江戸を発ちました。
 源内は秋田に入ってからのおよそ三ヶ月の間に角館で直武と出会い、西洋画法を伝授しました。口伝では、源内が直武に真上から見た鏡餅を描かせ、これでは餅か皿か分からないと言って、洋画の技術を伝えたとあります。少しできすぎた話ではありますが…。

  直武の江戸詰めと『解体新書』
 源内が江戸に帰ってしまった後、直武は安永二年から四年までの期間、産物他所取次役として、江戸詰を命じられました。その内実は、源内の説く西洋画法に興味を持った藩主曙山が直武を引き立て、源内の下で本格的に修行させようとしたのです。大名という身分的拘束や、江戸に流入する洋書・洋画の存在も、直武出向の理由の一つでしょう。
 源内の下で修行していた直武ですが、蘭画を描いて司馬江漢(1747〜1818)を指導したという記録もあります。江漢は後にエッチング(腐食銅版画)や油彩風景画などを描き江戸期洋風画の主流を形成した人物です。
 なお、源内は西洋画法を理論的に伝授することは上手かったようですが、技術的には及ばなかったらしく、直武の描いた絵を取り上げて売り払って酒代にしたという記録が残っています。
 そして、安永三(1774)年八月、杉田玄白らが翻訳した『解体新書』の挿絵を直武が担当しました。当時、彼は26歳という若年でありましたが、原画の忠実な模刻が可能であったこと、木版の彫師・摺師の技術が改善したことなどが、彼を江戸中期における偉業に参加させ得たのです。
 曙山は参勤中に直武を呼び、修学していた洋風画を学んでいたようです。身分上外出が困難な曙山のために、また自身の技能向上のために、直武は普段から写生を熱心に行なっていました。

  秋田帰国と秋田蘭画の最期
 安永六年暮れに直武は秋田に帰国しました。そのときに、師の源内から「小田野直武に示す」という一文を贈られました。内容は本来の目的に帰れとか、酒に溺れるなとか、厳しく戒めていますが、直武自体の生活態度の悪さが見受けられます。彼は酒色に溺れがちなところがあったようでした。
 帰った後に直武は本来の目的である産物他所取次役としての成果が上がっていないことについて上役から詰問されましたが、画業の良き理解者であった角館城代の佐竹義躬よしみの取り計らいによって、特に罰せられることもありませんでした。その後、曙山の命により久保田城詰となり、御側御小姓並に就いて曙山に西洋画法の伝授を行ないます。
 安永七(1778)年、源内が会得した西洋画法は曙山が記した『画法綱領がほうこうりょう』『画図理解がとりかい』において結実したのです。『画法綱領』では、東洋画の写実主義に立脚してですが、西洋画の優位性を説き、『画図理解』では、より具体的な西洋画法の方法について記しています。少し時代が下ると、司馬江漢が『西洋画壇』で曙山の説いた理論に似た内容を記しています。これは師である源内・直武の理論を共有していることに加えて、当時流行していた洋学的批判主義と古学的実証主義の影響も、二人の論が似通う物となった理由かと思われます。
 しかし、安永八(1779)年の冬、源内が死去した前後に、直武は曙山から遠慮を申しつけられ謹慎を命ぜられます。角館給人に過ぎなかった直武の好待遇に対して、久保田藩重臣からの批判があり、直武自身の酒色に溺れるだらしのない性格もあって、曙山も直武を庇いきれなくなったのでしょう。
 直武は謹慎の翌年に死亡し、秋田蘭画は急速に衰退、息を引き取ることになります。しかし、秋田蘭画の理論や画風は直接ではないが、直武が指導した司馬江漢という後継者を経て、近世洋風画・近代洋画に多大な影響を与えたのでした。



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