2016年11月
ハプスブルク家の黎明  月瀬 まい


 はじめに
 ハプスブルク家は中世から近代にかけてヨーロッパに君臨した家系であり、歴史好きなら誰でも知っているはずの名家である。しかしそんなハプスブルク家も最初は決して強い勢力ではなかった。幸運と努力によって広大な領土を手にしたのである。ここでは、あまり知られていない初期のハプスブルク家について述べ、大勢力になるまでどのような変遷があったかを語る。

 ハプスブルク家の登場
 ハプスブルク家の中心はウィーンとの印象が強いが、家系の発祥の地は現在のスイス、アールガウ地方である。アールガウ地方のアーレ川とロイス川の合流点近くに、10世紀終わりごろハビヒツブルク(Habichtsburg)城が建設された。これは「鷹の城」という意味で、ハプスブルクの語源とされている。1090年にはハプスブルク伯の名が現れた。
 ハプスブルク家はアルプスの峠道の監視役となってホーエンシュタウフェン家との結びつきを深め、勢力を拡大した。ハプスブルク伯ルドルフ2世は皇帝フリードリヒ2世に与し、1218年5月1日にルドルフ2世の孫が生まれたときフリードリヒ2世が名付け親となった。これが後のドイツ王ルドルフ1世であった。1232年にルドルフ2世が死去し、息子アルブレヒト4世とルドルフ3世は所領を分割した。この分割が裁判で決定された直後にアルブレヒト4世は十字軍に従軍して戦死し息子のルドルフ4世が後を継いだ。ルドルフ4世もホーエンシュタウフェン家に協調し、フリードリヒ2世の子コンラート4世に忠実に仕え教皇から破門されるほどであった。
 その後、神聖ローマ帝国は大空位時代に突入した。大空位時代はホーエンシュタウフェン朝の断絶に始まり、その後は諸侯が傀儡の王[1]を立てることが続いた。これに業を煮やした教皇グレゴリウス10世は1272年、諸侯に対して新国王を選出しない場合自分が新国王を選出すると通告した。そのため七選帝侯は会議を行い、その結果ルドルフ4世が選出された。1273年9月20日、ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ・フォン・ニュルンベルクがルドルフのもとを訪れ、選帝侯会議で国王に選出されたことを伝えに来た。その時ルドルフはバーゼル司教ハインリヒ・フォン・ノイエンブルクと交戦中で、バーゼルを包囲する陣中にいた。ルドルフはバーゼル司教と直ちに和議を結んで会議が行われていたフランクフルトへ向かった。バーゼル司教はその後ルドルフがドイツ王に選出されたことを聞き、「主なる神よ、しかと座しておられますように!さもなければルドルフの奴が御身の玉座を奪い取ってしまうでしょう!」と言ったとされる。
 こうしてルドルフはドイツ王ルドルフ1世となったが、選帝侯の一人ボヘミア王オタカル2世がルドルフへの臣従を拒否した。オタカルはボヘミアの他にモラヴィア、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンを領有する大諸侯で、王位を狙っていた。ルドルフがオーストリアへ進軍するとオーストリアの貴族はルドルフ側につき、オタカルは戦わずに降伏した。オタカルはボヘミアとモラヴィアの領有は認められたがそれ以外の領土は放棄することになった。しかしオタカルはこれに不満でオーストリアへ進軍、ルドルフはハンガリーの同盟軍を呼びオタカルと決戦、伏兵を置くという戦術を用いてルドルフが勝利し、オタカルは戦死した。1278年8月26日、マルヒフェルトの戦いである。ケルンテンはマインハルト家へ褒賞として与え、1282年12月27日、オーストリアとシュタイアーマルクを2人の息子に与えた。ルドルフは慎重に家領を拡大し、イタリア政策には見向きもしなかった。そのため教皇からの戴冠も受けないまま、1291年7月15日に没した。

 拡大の挫折
 ルドルフは生前息子アルブレヒトへの王位継承を確保しようと努めたが、諸侯はハプスブルク家の勢力拡大を恐れ、アドルフ・フォン・ナッサウを国王に選出した。更に、スイスではルドルフの拡大政策への反感からウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3州の永久同盟が1291年8月1日に結成されハプスブルク家に敵対した[2]。更にオーストリアとシュタイアーマルクで反乱が起こり、またザルツブルク大司教もハプスブルク家に敵対した。アルブレヒトはこれらを抑え込んで自領を安定させた。それまでハプスブルク家は成員の名前に主にルドルフとアルブレヒトを用いてきたが、アルブレヒト1世の息子の代からは元々オーストリアを支配していたバーベンベルク家の名前フリードリヒとレオポルドが加わった。
 そして王位は再びハプスブルク家へ回って来た。アルブレヒトはハンガリーと同盟を結んだ後アドルフを攻撃、アドルフは選帝侯の支持を失い廃位されるに至り、1298年にアルブレヒトが国王に選出された。アルブレヒトはフランスと同盟を結びボヘミアに介入し、1306年には息子ルドルフをボヘミア王にすることに成功するがその翌年ルドルフは急死してしまった。そして1308年5月1日、アルブレヒトは甥のヨハンに暗殺された。暗殺の動機はアルブレヒトの政策によって自分が継承する遺産が減少するためであったとされている。
 アルブレヒトの死によって、王位はまたしてもハプスブルク家を離れた。選帝侯たちはハインリヒ・フォン・ルクセンブルクを国王に選出した。ハインリヒ7世である。ハインリヒはボヘミアを自家にもたらしてルクセンブルク家の勢力を伸ばし、スイス原初三州ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンを帝国直属としてハプスブルク家からの独立を認めた。1315年、モルガルテンの戦いでハプスブルク家はスイス誓約同盟に敗北を喫した。これ以降、ハプスブルク家の中心はオーストリアに移ることになる。
 ハインリヒはローマに赴いて戴冠式[3]を行い皇帝となるが、1313年に急死してしまう。1314年に二重選挙が行われ、アルブレヒトの子フリードリヒ[4]とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒが国王に選ばれた。二人は争い、1322年9月28日のミュールドルフの戦いでルートヴィヒはフリードリヒを捕虜とした。フリードリヒは形式上共同統治権を認められたが、事実上ルートヴィヒが単独の国王であった。ルートヴィヒはアヴィニョン教皇庁と対立し、1328年1月に自らローマで民衆からの推挙という形で皇帝となった。しかし教皇側はルートヴィヒを破門、ルクセンブルク家のカールを対立国王とすることで対抗した。ルクセンブルク家はフランスと同盟していた。1346年、カールは国王に選出された。その矢先、1347年にルートヴィヒは狩猟中に急死してしまった。こうしてカールが単独国王となった。カール4世である。
 一方、フリードリヒは1330年に死去し弟アルブレヒト2世が後を継いだ。アルブレヒトは「賢公」と呼ばれた名君で、平和路線の外交を行ってボヘミア王ヨハン[5]と同盟を結んだ上ルートヴィヒとも和解してオーストリアを安定させ、更に1335年にケルンテンとクラインを獲得した。カール4世の即位後は彼との結びつきも深めた。また1355年11月25日に家内法を発布して領地の分割を防ごうと試みた。
 アルブレヒトは1358年に死去し、息子のルドルフ4世が後を継いだ。その少し前の1356年、皇帝カール4世が金印勅書を発布した。金印勅書は対立国王の擁立を不可能にし、国王選挙の結果は教皇の承認を必要としないという画期的なものであったが選帝侯に大きな特権を認めていた。ハプスブルク家は当時3人の国王を輩出した大勢力ではあったが選帝侯ではないのでこの特権を得られなかった。1359年、これに対抗してルドルフ4世はオーストリア公、ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、プファルツ大公[6]であると自称し、更に自領内で爵位や封土を授ける権利まで主張した。これは選帝侯にも認められていない権利であった。この主張の根拠を提示するよう求められると、ルドルフ4世は五通の特許状[7]と二通の手紙を発表した。カール4世は人文主義者ペトラルカに鑑定を依頼した。手紙はカエサルとネロのもので明らかな偽書であり、ペトラルカは「この御仁はとんでもないうつけ者です」と報告した。しかしカール4世はハプスブルク家と真っ向から対立することを避け、これをうやむやにした。
 ルドルフ4世は領内では税制改革[8]、ツンフト制度の再編、ウィーン大学創設などさまざまな改革を行った。またシュテファン聖堂を改築し、1359年3月31日自ら最初の鍬を入れた。このためルドルフ4世は「建設公」と呼ばれる。更に1363年にチロルを獲得し、続いてイタリア進出を図ったが1365年、ミラノ滞在中に25歳の若さで死去してしまう。

 分裂と混迷
 ルドルフ4世を継いで弟のアルブレヒト3世とレオポルド3世が共同で統治を行った。それぞれ当時15歳、14歳と年少であり、兄弟間の個人的対立もあって先の家内法は守られず1379年に領地が分割された。アルブレヒトは上下オーストリアを領有し、レオポルドはそれ以外を領有した。分裂後もハプスブルク家は相続や購入といった平和的手段で領土を拡大していった。1382年にはトリエステがハプスブルク家の保護下に入った。しかし、1386年にゼンパッハの戦いでレオポルドがスイス誓約同盟に敗れ、戦死してしまった。レオポルドの長男ヴィルヘルムは1406年に、次男レオポルド4世は1411年に死亡し、残ったエルンスト鉄公とフリードリヒ4世によって、1411年更に領土が分割された。エルンストはシュタイアーマルク、ケルンテン、クラインを領有し、フリードリヒはチロルとフォアラントを領有した。フリードリヒは教皇ヨハネス23世がコンスタンツ公会議から逃亡するのを幇助したために1415年に帝国外追放とされて所領の没収を宣言されてしまい、その上家系の発祥地アールガウがスイス誓約同盟に占領されてしまった。しかしチロルの支配は守った。
 レオポルド系では1424年エルンストが死去し息子のフリードリヒ5世が、1439年フリードリヒ4世が死去し息子のジークムントが後を継いだ。一方、アルブレヒト系では1393年にアルブレヒト3世が死去し、後を継いだ息子のアルブレヒト4世も1404年に死去しその息子アルブレヒト5世に代わっていた。アルブレヒト5世は皇帝ジギスムントの一人娘エルジェーベトと結婚していたため、ジギスムントの死後ハンガリーとボヘミアの王位を継ぎ、更に1438年3月ドイツ王[9]に選出された。しかしボヘミアではポーランド王カジミェシュ4世を国王に望む勢力が強く、またハンガリーでは貴族の要求を呑まざるを得ず王権は制限された。1439年、オスマン帝国の攻勢に対抗するためハンガリーで軍勢が招集されたが陣中で疫病が流行してアルブレヒトも感染し10月に病死してしまう。彼の死後にエルジェーベトが息子ラディスラウスを産み、彼がオーストリアの領土とボヘミア王位を相続するが、その支配は名目的なものに過ぎなかった。ハンガリーの王位はヤゲウォ家のヴワディスワフに奪われてしまった。
 アルブレヒトの死で、フリードリヒ5世が1440年2月ドイツ王[10]に選出された。エルジェーベトはラディスラウスの身柄と聖王冠をフリードリヒに委ねた。1444年、ヴァルナの戦いでハンガリーはオスマン帝国に敗れヴワディスワフは戦死、ハンガリー議会は翌年ラディスラウスを国王に選出するがフリードリヒはラディスラウスがハンガリーへ行くのを許さなかった。1452年、フリードリヒはローマで戴冠式を行って皇帝になった。ローマで戴冠した神聖ローマ皇帝は彼が最後だった。また、フリードリヒはローマでポルトガル王女エレオノーレと結婚した。更に、フリードリヒは皇帝になったものの権力基盤が脆弱であったのでルドルフ4世の「大特許状」を皇帝として承認することでオーストリアの地位向上を図った。
 国王不在の間、ハンガリーは摂政フニャディ・ヤーノシュが治めていた。彼が死ぬと1456年にラディスラウスはハンガリーに戻ることができたがフニャディ派との抗争のためプラハへ逃亡、そこで急死した。アルブレヒト系は断絶した。こうしてオーストリアはフリードリヒの領土となったが、ここで弟のアルブレヒトが領土の相続を求めて反乱を起こした。上オーストリア諸身分がアルブレヒトに味方したためフリードリヒは弟に上オーストリアを与えた。その後1461年にアルブレヒトは再びフリードリヒに敵対、今度は下オーストリア諸身分とウィーン市民もこれに呼応し、ウィーンにいたフリードリヒはヴィーナー・ノイシュタットに逃れて下オーストリアの支配権も弟に渡した。アルブレヒトが1463年に急死したことでフリードリヒは再びオーストリアを回収した。
 一方、ハンガリーとボヘミアではラディスラウスの死によってハプスブルク家による支配が終わり、1458年にハンガリーの議会でフニャディの息子マーチャーシュが国王に選出された。王冠はフリードリヒの許にあったが、教皇ピウス2世がマーチャーシュを支持したためフリードリヒはハンガリー王位の請求を諦めて1463年に王冠を返還した。マーチャーシュはボヘミアに攻め込み、モラヴィアとシレジアを支配下に置いた。1471年にボヘミア王となったヤゲウォ家のヴワディスワフ[11]はフリードリヒと同盟を結んでマーチャーシュに対抗した。ところがヴワディスワフがマーチャーシュに敗れて1479年にマーチャーシュはモラヴィア、シレジア、ラウジッツの支配権を認められた。その後マーチャーシュとヴワディスワフの関係は良くなるが、一方で1477年にフリードリヒがヴワディスワフをボヘミア王として認めたことでフリードリヒとマーチャーシュとの関係は悪化し、1482年マーチャーシュはハプスブルク家領に侵攻、まずケルンテンを奪われ、続いてウィーンも陥落した。マーチャーシュはウィーンに宮廷を移すが、1490年4月に急死した。フリードリヒはこうして三度ウィーンに戻った。
 フリードリヒ3世は「神聖ローマ帝国の大愚図」と呼ばれた冴えない皇帝であったが、ただ長生きすることで敵が死んでいった。ちなみに彼は身の回りのあらゆるものにA・E・I・O・Uという文字を刻印した。これは「地上の全てはオーストリアのもの[12]」の頭文字とも言われるがはっきりしない。1493年8月19日、78歳でフリードリヒは死に、息子のマクシミリアンが後を継いだ。

 幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ
 マクシミリアンは1459年3月22日に産まれた。彼はブルゴーニュ公シャルル突進公の一人娘マリーと結婚し、ハプスブルク家に当時毛織物産業で栄えたブルゴーニュをもたらした。シャルル突進公はハプスブルク家と組むことでゆくゆくは自らが皇帝になろうとの野望を抱いていたとされるが、1477年1月5日にナンシーの戦いで戦死した。するとブルゴーニュを狙うフランス王ルイ11世が攻め込んできたが、マクシミリアンは1479年8月7日のギネガテの戦いでこれを撃退した。マリーは息子フィリップと娘マルガレーテを産むが1482年に死去してしまう。するとマクシミリアンの地位は揺らぎ、これを突いてルイ11世がフランドルの有力者を唆してマクシミリアンに反抗させた。マクシミリアンはマルガレーテとルイ11世の息子シャルルとの結婚を認め、フランシュ・コンテ、アルトワ、シャロレを婚資とさせられた。しかしその後フランドルの反乱は鎮圧し、ここは確保した。その後1493年にマクシミリアンはチロルを領有していたジークムントから領地を譲られ、チロルの銀山収入と銀行家フッガー家との関係を手に入れ財政事情を好転させた。
 一方、妻を亡くしたマクシミリアンは1490年、ブルターニュ公国の継承人アンナと婚約し代理人を派遣して結婚式を行った。しかし、ブルターニュを自領に編入したいフランス王シャルル8世がマルグレーテと離婚し、ブルターニュに侵攻してアンヌに結婚を迫りこれを認めさせてしまった。
 1486年2月、フリードリヒ3世から王位を譲られ、マクシミリアンがドイツ王となった。マクシミリアンは潔い性格から「中世最後の騎士」と呼ばれたが、彼自身は中世と決別しようとした。彼は教皇の政治的基盤を崩そうという意図から、1508年に教皇による戴冠を受けないまま皇帝を称した。以後、皇帝即位には教皇による戴冠は必要ではなくなった。1494年のシャルル8世によるナポリ遠征が契機となってイタリア戦争が始まるが、ここでマクシミリアンは騎士を馬から下ろし歩兵隊長にしようとした。既に騎士の時代は去り、歩兵の時代に移ろうとしていた。こうして傭兵隊長が生まれ、この傭兵隊長が編制する歩兵中心のドイツ傭兵部隊ランツクネヒトが生まれた。だが彼の外征はよい結果にはならず、また内政でも永久平和令で重犯罪の裁判権を諸侯に認めてしまい、またクライス制度導入の際に各クライスに軍編成権を与えてしまったことで帝国の分裂を促進することになってしまった。
 しかし、マクシミリアンは婚姻政策によってハプスブルク家に広大な領土をもたらした。ハプスブルク家の婚姻政策は「戦争は他国に任せておけ、幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」という言葉で知られている。まずマクシミリアンはスペインと相互相続契約を結んだ二重結婚をした。フィリップがアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの娘フアナと、マルグレーテが息子フアンと結婚した。1497年にフアンが死去したことで、ハプスブルク家はスペイン獲得の道筋をつけた。更に、ハンガリーとボヘミアを領するヤゲウォ家とも相互相続契約を結んだ二重結婚を結んだ。フィリップの次男フェルディナントをヴワディスワフ2世の娘アンナと、娘マリーを息子ラヨシュと結婚させたのである。1526年にモハーチの戦いでラヨシュが戦死したため、ハプスブルク家はハンガリーとボヘミアをも手に入れることになる。

 世界帝国の誕生
 カスティーリャ女王イサベルが1504年11月26日に死去したことで、フアナがカスティーリャ王位を継承した。だがフアナは夫フィリップの不義によって精神を病んでおり、フェルナンドが統治に当たった。しかし1506年4月、フィリップはフアナを伴ってカスティーリャの首都バリャドリードに向かい、貴族の支持を得て王を宣言しフェルナンドと対立したが1506年9月25日に急死してしまった。カスティーリャの統治は貴族評議会に委ねられたもののフェルナンドによる統治を支持する派閥と、フィリップとフアナの長男カルロスの即位と皇帝マクシミリアン1世の摂政就任を望む派閥に分かれていた。フェルナンドはマクシミリアン派と和解した後、1509年12月のブロア協約でカルロスの王位継承権の保障と引き換えにマクシミリアンからカスティーリャの摂政になる意志を放棄させた。また、1512年7月にナバラ王国に侵攻し教皇ユリウス2世の支持を取り付けて1513年にナバラ王を宣言した。フェルナンドは1516年1月23日に死去した。
 フェルナンドの死を受けてカルロスは3月14日にブリュッセルで王を宣言し、翌1517年9月にスペインへ渡航、トルデシリャスに幽閉されている母フアナを統治権移譲に同意させ、バリャドリードに入った。ブルゴーニュ出身の外国人であるカルロスに対する不信は当初強かったが、ブルゴーニュでの最高の栄誉である金羊毛勲章を主だった貴族に授与するなどして連携を図った。
 1519年1月12日、皇帝マクシミリアン1世が死去。長孫であるカルロスは皇帝選挙に立候補したが強力な対抗馬がいた。フランス王フランソワ1世である。この時の皇帝選挙はすさまじい金権選挙となり、カルロスはフッガー家やヴェルザー家、更にジェノヴァやフィレンツェの銀行家から融資を受けて82.5万ライン・グルデン[13]という莫大な金額を使いその結果6月28日、満場一致で皇帝に選出された。皇帝カール5世である。
 一方、1526年8月29日のモハーチの戦いでハンガリーとボヘミアの国王を兼ねるヤゲウォ家のラヨシュ2世が戦死したため、フェルディナントに継承の道が開けた。
 こうしてハプスブルク家はヨーロッパと新大陸に跨る広大な領土を手に入れた。更にその後は神聖ローマ皇帝位をほぼ独占することになり、欧州最強の名家へと成長したのである。


ハプスブルク家系図

図1 ハプスブルク家系図(筆者作成)

ハプスブルク家関係地図

図2 主要な地名
(http://abysse.co.jp/world/map/europe_map_off.html の白地図を用いて筆者が作成)



    注釈
  1. ^ 選帝侯がドイツ王を選出し、王が教皇に戴冠されて神聖ローマ皇帝になる。大空位時代にもドイツ王は選出されていたが戴冠された者はいなかった。
  2. ^ シラーの戯曲『ヴィルヘルム・テル』で描かれたのはこの時代である。
  3. ^ 当時教皇庁はアヴィニョンにあったため、ハインリヒは枢機卿の一人によって戴冠された。
  4. ^ フリードリヒ美王と呼ばれる。
  5. ^ ハインリヒ7世の子で、カール4世の父。
  6. ^ 大公という称号はこの時まで存在せず、ルドルフ4世が創作したものである。
  7. ^ これを大特許状と呼び、かつて皇帝フリードリヒ1世がオーストリア公爵領を創設するときに与えた本物の特許状を小特許状と呼ぶ。
  8. ^ 慣例で毎年行われていた品位低下を伴う貨幣の改鋳を廃止する代わりに消費税を導入した。
  9. ^ ドイツ王としてはアルブレヒト2世。
  10. ^ ドイツ王としてはフリードリヒ3世。
  11. ^ ボヘミア王としてヴワディスワフ2世、のちにウラースロー2世としてハンガリー王にもなった。
  12. ^ Austriae est imperate Orbi universo.
  13. ^ 現在の金塊約2t分に相当する。

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