2016年11月
2つの大発見‐江田船山と稲荷山‐ ムールン
はじめに
歴史を考えるとき、一番重視されるのがその時代に書かれた文字史料である。文字史料は大体の場合紙に書かれており、古文書としてかなりの量が残されている。しかしそれはどの時代でも同じではなく、時代が古くなるにつれて残された文書は減っていく。特に7世紀以前となると、文字史料はほとんど残されていない。そのため、一つだけであってもそれが持つ価値は計り知れないものがある。今回は、教科書などでもよく扱われる、熊本県江田船山古墳出土の鉄刀と埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣について取り上げる。
江田船山古墳鉄刀
江田船山古墳は熊本県北部の
1873年1月1日[2]、近くに住む農民の池田佐十の初夢に神が現れ、自分の所有地である船山の山頂を掘れというお告げがあった。3日後に彼は発掘を行い、石棺の中から刀剣、鏡、冠、馬具などが出土した。この話はすぐに近隣に行き渡り、夜を徹して見物人が訪れたという。噂は白川県[3]にも伝わり、2月25日付けで県から司法卿・司法大輔[4]宛に遺物の処置について伺う文書が出された。司法省は県に対して、遺物を大蔵省に差し出すよう指示した。その後遺物は6月に博覧会事務局[5]に80円で購入された。このように遺物に適切な処置が行われたことで、遺物の散逸を免れた。現在でも実物は東京国立博物館で保存されている。
遺物の中には背に文字が書かれた大刀があった。文字の存在は白川県が司法省に宛てた書類にも記されており、早くから知られていた。全長90.9cm、刀身85.3cm、幅4cm、厚さは1cmである。文字は厚さ1cmの背の部分に書かれている。また文字の他に、刀の身の部分の柄のそばには、魚や馬、鳥や花の
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
内容は、「獲□□□鹵大王」の治世下で「典曹人」として王権に「奉事」した「
東京国立博物館の資料の中には、1892年ごろに取られたという記述のある拓本がある。1899年には若林勝邦によって66文字の銘文があることが指摘されたが、解読には至らなかった。ただ彼はこの時、馬や花形の文様が象嵌されていることを示していた。1910年には古谷清が解読を試み、29文字を明らかにした。しかしこの段階では十分に内容が判明できなかったので、彼はこの大刀が魏で作られ、邪馬台国の女王である卑弥呼に渡されたものであると考え、古墳の被葬者を卑弥呼かその一族とした。
昭和に入ると銘文の理解が深まっていき、1927年に銘文の鮮明な写真が公表された。この写真には現在とほぼ同じ状態で75文字が確認できる。1933年には福山敏男が解読を行い、彼の示した説は以後長い間定説となった。彼は「大王」の前の文字について、「(獣偏に復の右側)□□□歯」と考えた。そして、一文字目は「たじひ」と読むことと、18代反正天皇の和風諡号が「
そんな中、稲荷山古墳から出土した鉄剣(後述)に「
また「典曹人」は財務に関わる官人と見られている。6世紀ごろ、王権には倉人・酒人・文人など、「人」がつく官人たちが存在し、様々な事務を行っており、このシステムが後の律令官僚制のもととなったが、「典曹人」はその一種または起源ではないだろうか。
稲荷山古墳鉄剣
埼玉県の北東部に位置する行田市には、9基の前方後円墳と日本最大の円墳である丸墓山古墳(直径105m)を含む40基近くの円墳、1基の方墳からなる埼玉古墳群がある。
1966年、埼玉県はこの古墳群を「さきたま風土記の丘」構想の下で整備することとした。その際、1基の古墳を発掘し、横穴式石室の内部を見学できるようにするという計画が立てられた。第一候補として挙げられたのは前方後円墳の中で最も小さい愛宕山古墳(53m)であり、小さいので発掘調査は簡単ではあったが、完全な形を保っていたので発掘するには惜しまれた。そこで第二候補とされたのが、当時前方部が破壊されていた稲荷山古墳(120m)であった。調査は1968年8月1日に始まった。当時埼玉古墳群に関する研究はあまり進展しておらず、稲荷山古墳の石室は、近くの古墳が横穴式石室をもっていることから同じく横穴式石室であると推定されており、年代も6世紀中ごろから7世紀初頭と考えられていた。
調査では、まず横穴式石室の入り口を探すために、トレンチ[6]を墳丘の南側斜面に何か所も設定したものの、3日経っても石室を掘り当てられなかった。4日目に横穴式石室は存在しないという判断が下され、後円部の墳頂部にトレンチが入れられた。すると翌日遺物が出土し、次の日には石が貼られた礫槨と粘土槨の二つの埋葬施設が見つかった。礫槨は盗掘を受けておらず、鏡や鞍、
1978年、出土から10年が経ち、鉄剣の腐食が進んでいた。このため鉄剣に保護処理を施すこととなり、事前にX線による検査が元興寺[7]文化財研究所で行われた。7月27日、そのうちの一本で長さが73.5cm、中央部の幅が3.15cmで発掘当時には被葬者の左の腰付近にあった剣を、研究員の一人がサビ落としのためにブラシで土を落としていると、サビの中に金色に輝く光が見つかった。9月11日、鉄剣のレントゲン撮影が行われた。フィルムを現像してみると、鉄剣の表面に記された文字が写し出された。この時撮影に当たっていた増田文武室長は「文字が出た!」と言って部屋を飛び出したという。翌日の午後5時過ぎ、このフィルムは奈良文化財研究所に持ち込まれ、文献学の狩野久・田中稔、考古学の田中
「都から遠く離れた東国武蔵の地、しかも、わが郷土埼玉の地から、日本古代国家成立にまつわる長文の記録が発見されようとは、私の全く夢想だにしないことでした。聞くところによりますと、我国における往時の確かな記録は、熊本江田船山古墳出土大刀の七三字、和歌山隅田八幡宮鏡の四八字、計一二一字が知られていたにすぎないということでしたから、ここに、稲荷山古墳出土鉄剣の一一五文字が新たに加わったということは、まさに『世紀の発見』というにふさわしく、学術上計り知れない価値を有するものと思われます」
銘文は次のようなものである。銘文の文字は金で象嵌されている。
(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比(土偏に危)其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
内容は、まず前半で乎獲居臣につながる系譜を述べ、後半は「
・辛亥年
西暦を60で割って51余る年である。471年と531年の二つの説があるが、稲荷山古墳の造営年代は、出土した須恵器や
・乎獲居臣
この銘文を書かせた人物。これがどのような者なのかは諸説ある。
(1-a)中央の豪族であり、「杖刀人」として王権に仕えるために中央にいた稲荷山古墳周辺の豪族に、「杖刀人首」として「杖刀人」を束ねていた乎獲居が、その豪族を評価して鉄剣を与えた
(1-b)中央の豪族であり、乎獲居本人が稲荷山古墳周辺に派遣され、そこで葬られた
(2)稲荷山古墳周辺の豪族であり、被葬者も乎獲居本人である
現在は(1-a)がやや有力ではあるが、乎獲居が自身の系譜まで書かれた鉄剣を他人に渡すのかという批判もあり、他の説も根拠は弱くないので定説はない。被葬者も、(1-a)では現地の豪族、(1-b)と(2)では乎獲居となるが、鉄剣は人から人へと渡すことができるので、断定できない。もちろん鉄剣を乎獲居本人が作ったものであり乎獲居が愛用していたものとして考えることもできる。ただ、稲荷山古墳が造営された年代はこの鉄剣が出土した礫槨よりも遡ると見られており、埋葬施設がもう一つあると考えられている。従って、この鉄剣の持ち主は稲荷山古墳の一番重要な被葬者ではない可能性が高い。ただしここで注意したいのは、もし(1-a)が正しいとするならば、他の地方豪族も畿内の豪族からこのように銘文が記された刀を受け取った可能性が高くなるということである。
・
乎獲居の七代前に当たり、「上祖」とされている。乎獲居がいた年代が471年付近なので、一世代を20〜25年とすると意富比こは295〜330年ごろの人物となる。ところでこの年代は、崇神天皇がいたと考えられる時期にもあたる。あまり知名度は高くないが、彼は『古事記』『日本書紀』では第10代の天皇とされているものの、実在した初代の天皇ではないかとみられている。そして『古事記』『日本書紀』では、崇神天皇の時代に「大彦命」が将軍として北陸に派遣されたと記されている。もちろんこの銘文だけで大彦命が実在したということはできないが、少なくとも大彦命に関わる伝承が5世紀後半の時点で存在していたことが考えられる。そしてこの銘文が大彦命を系譜の一番始めに置いていることにも大きな意味がある。なぜなら、崇神天皇の時代に活躍した大彦命を特別扱いすることは、崇神天皇の時代を特別な時期として考えていることにつながる。そして『古事記』『日本書紀』では大彦命が中央豪族の阿部氏[10]・膳氏[11]の祖先と伝えられていることから、(1-a)の立場からは、乎獲居は阿部氏・膳氏系の豪族だとされている。しかし「大彦」は「偉大な男」を指す抽象名詞に過ぎず、大彦命とは結び付かないという反論もある。
・杖刀人首
「杖刀」は刀を杖として使うという意味であり、王を護衛する役目を表しているとみられる。「人」は、江田船山古墳の鉄刀に記されていた「典曹人」の「人」と同じように、人制の存在をうかがわせている。おそらく当時の王権は官僚制の原型を持っていたのではないだろうか。
・獲加多支鹵大王
「支」「鹵」はそれぞれ「き」「ろ」と読まれることが多いが、「け」「る」と発音が似ているので混同された可能性が強い。そしてそのように考えると、この人物は、和風諡号が「おおはつせわかたける」である雄略天皇を指していることになる[12]。
・斯鬼宮
「斯鬼」は奈良県の磯城郡一帯を指す。雄略天皇の宮は奈良県桜井市にあったとされる泊瀬朝倉宮であるので、地域が一致する。しかし、「斯鬼」と「泊瀬朝倉」で宮の名前が一致しないこと、また「しき」という地名は大阪府などにも存在することから、斯鬼宮は泊瀬朝倉宮とは別の宮であるという説もある。
ここまでは固有名詞についてみてきたが、この銘文には「世々」「奉事」「左治」「百練」「利刀」「根源」など、漢語が多く使われている。この点は、漢語を自由に扱うことのできる渡来人が関与していた可能性を示しており、江田船山古墳の鉄刀の銘文を「張安」が書いたとされていることからも、稲荷山古墳の鉄剣にも同じことが十分に考えられる。
新発見はまだあるのか?
ところでこれらの銘文はどこで刻まれたのだろうか。王権の中心である大和であるならばまだしも、仮に古墳のある九州や関東で刻まれていたならば、5世紀後半には日本でかなり広範囲にわたって文字が普及していたことになる。またこの両者の銘文には類似する語句が多い。例えば「奉事」はどちらにもあり、「七月中」と「八月中」「百練」と「八十練」、「利刀」と「好刊(利?)刀」もよく似ている。このことを考慮すれば、当時関東から九州北部にかけて王権の支配が行き届き、王権が地方の豪族を文字を通して組織していたことになる。
そして見逃せない点が、この二つの鉄刀および鉄剣が出土した古墳の規模が、全国的に見れば決してそれほど大きくはないということである。先に述べたように、江田船山古墳は62m、稲荷山古墳でも120mである。日本全体では、墳丘の長さが120m以上の古墳は125基もあるのである。規模の大きい古墳には、地位の高い人物が葬られたとみられており、副葬品も質量ともに豪華であるに違いない。
つまり、他にもこのような銘文が現れる可能性がある。これらの銘文が、発掘の進展によって「世紀の発見」ではなくなるかもしれない。