2016年11月
山内の英雄・神代勝利  skrhtp


 はじめに
 神代勝利くましろかつとしは現在の佐賀県東北部を中心として活動した戦国武将である。勝利は「五州の太守」龍造寺隆信と幾度となく対決し、勝利と敗北を繰り返してついぞその決着がつくことはなかった。本稿では、神代勝利とその息子の神代長良ながよしの生涯について記していく。なお、勝利については夢を買った話や小河信安との酒宴といった逸話が知られるが、これらは本稿では省く。

 誕生から天文十四年まで
 神代勝利は永正八(1511)年に生まれた。神代氏は勝利の父神代宗元の代に筑後から肥前に移ったといわれている。勝利は山内さんない[1]を拠点に剣術指南役として活動し、三瀬みつせ宗利むねとしに擁立されて能渡氏・松瀬氏・ゆずりは氏・一番ヶ瀬いちばかせ氏などを従えた。勝利は宗利が築いた山城・三瀬城を居城とし、山内の勢力をまとめ上げていった。当時の山内は多数の盆地それぞれを支配する武士たちが相争うことも団結することもなく散在している状態だったが、勝利の活動により一体化し強力な勢力へと変化していった。しかし天文十四(1545)年より前の勝利の活動については詳しくはわかっていない。

 龍造寺氏との対立
 天文十四年、勝利は馬場頼周よりちかの求めで龍造寺氏に対する謀略に加担した。一月、勝利は川上で龍造寺勢を攻撃し、川上社で龍造寺家純を自殺に追い込んだ。更に勝利は、少弐冬尚を攻めるため勢福寺城へ向かっていた龍造寺周家ちかいえらを神崎郡尾崎村祇園原ぎおんばるで頼周と共に襲撃した。この戦いで神代家人馬場左衛門が馬場家与力土肥新五郎と共に周家を討ち取り、また龍造寺家泰と龍造寺頼純は自殺した。この結果、龍造寺剛忠(家兼)は筑後に逃れた。しかし同年三月には剛忠は鍋島清久に迎えられて肥前に帰還し、頼周を誅殺した。その後龍造寺胤栄たねみつが神代家臣の福島守利・千布家利が籠る千布城を攻め、神代勢は耐え切れず山内へと引き揚げた。こうして、勝利は龍造寺氏と対立していくことになった。
 翌天文十五年に剛忠は死去し、龍造寺胤信(のち隆信)が跡を継いだ。しかし家臣の中にはこれをよく思わない者もいた。そして天文二十年、土橋つちはし栄益みつますら反隆信派による内紛が起こった。勝利らは少弐冬尚を奉じて挙兵し、水ケ江城を攻めた。隆信はこれを防ぎきれず、筑後の柳川城主蒲池かまち鑑盛あきもりの下に逃れた。しかし2年後に隆信は勢力を取り戻して肥前に帰還した。勝利はこれを迎え撃とうとしたが、小田・江上が内通しているという情報を得たため領地の境に番兵を伏せ置くに留めた。隆信はこの分裂の隙を衝いて進軍し、水ケ江城へ帰還、栄益は誅殺された。その後隆信は陰謀に加担した八戸やえ宗暘むねてるを攻めた。勝利は宗暘を支援するために出兵したが、結局八戸城は攻め落とされた。そこで勝利は隆信と和平を結び、宗暘を伴って山内に戻った。
 同年十月に隆信は蓮池城の小田政光を降し、十一月には江上武種の勢福寺城へ向かった。武種は勝利に援軍を求め、勝利はこれに応じた。両軍は牟田縄手で衝突し、勝利は小田軍と対峙した。勝利は政光を敗死させ隆信の本陣へと追撃を行おうとしたが、東側では江上軍が打ち崩されていたため挟撃されることを恐れて山内へと退却した。その後神代・江上と龍造寺の間で和平が成立した。その翌年に隆信は綾部城の少弐冬尚を攻め、勝利はこれに協力した。

 鉄布峠の戦い
 弘治元(1555)年、勝利は多布施たふせ館で隆信と会見した。しかしこのとき、龍造寺側が勝利を毒殺しようとしていたという風聞が立ち、両者の和平は破綻した。同年閏十月には、勝利は江上氏などと共に筑前国人に呼び掛けて大友氏の勢力拡大を防ぐために挙兵した。しかし同年十月、隆信が勝利のいる谷田城を攻めた。谷田城は強固な要害であったが、大軍を相手に勝利は防ぎきれず城を脱出、筑前の原田了栄の下へ逃れた。これにより、隆信は初めて山内を手中に収めた。
 翌弘治二年末頃から勝利は再び活動を始め、翌年のはじめには山内に帰還した。勝利は宗暘と結び、隆信と再び対峙した。一方同じ頃、宗暘が隆信の急襲を受けて敗れ勝利の下へ逃れた。以降宗暘は山内の杠山に居住して勝利に従うことになった。
 同年九月、勝利は隆信方の小河氏が守る春日山城を攻めて落城させた。この報せを佐嘉で聞いた小河信安は隆信に神代氏討伐を進言した。隆信はこれを認め、十月に軍を率いて山内へと向かい、信安をその先鋒とした。信安は山内に入って鉄布かなしき峠(金鋪峠)に至ったが、日没によりそれ以上の進軍を断念した。一方勝利はこれに気付くと軍を2つに分けて進発した。勝利は鉄布峠に偵察に向かい、そこで同じく偵察に出ていた信安に遭遇しこれを討ち取った。これを知った小河軍は山内勢に攻め寄せたが壊滅した。その後隆信自らが鉄布峠に来攻し大規模な戦闘が起こった。このとき、神代家臣で薩摩出身の山伏阿含坊あごんぼうが鉄砲を用い、これが肥前で初めて鉄砲が使われた戦いとなった。龍造寺軍は散々に打ち破られて敗走し、戦いは神代軍の大勝利に終わった。
 この頃から勝利の名は筑前国にまで知られるようになり、肥前千葉氏[2]から支援を求められるまでになった。また鉄布峠の戦いの後勝利は筑前に目を向け、小田辺おたべ氏を破って原田氏をはじめとする筑前の諸氏と和睦を結んだ。

 川上合戦
 永禄元(1558)年十一月、隆信が勢福寺城の少弐冬尚と江上武種を攻めた。勝利は少弐方の求めに応じて派兵したが、龍造寺軍に敗れて山内へ引き揚げた。翌年には勝利は隆信と和平を結び、隆信に協力して冬尚を滅ぼした。
 筑前側との和睦を結んだ後、勝利は肥前の掌握を企てるようになった。これを知った隆信は勝利に合戦を申し入れ、永禄四年九月に両軍は川上で対決した。戦いは初め勝利の子長良率いる神代軍の優位に進み、神代軍の攻撃で龍造寺軍は大いに乱れた。しかし龍造寺軍が川東の陣を攻撃したとき、陣内で謀反人が現れ大将を殺害したことで神代軍は混乱し、戦況は逆転した。神代軍は龍造寺軍の攻撃を防ぎきれず、退却を始めた。長良は自害しようとしたが神代備後守がそれを押しとどめ、長良を落ち延びさせた。勝利も山内へと退却した。神代軍の大敗だった。この戦いで福島守利や神代備後守らが討死した。
 川上での敗北を受けて、勝利は山内から逃れ大村純忠の下に身を寄せた。一方隆信は余計な消耗を避けようと山内の武士たちに自ら降伏してくることを求めた。しかし武士たちはこれに応じず、寧ろ勝利帰城の方策を練った。そして同年末、山内武士は龍造寺方の代官を襲撃し、一斉に蜂起した。これにより、勝利は山内への帰還に成功し領地をも取り戻した。

 和平と勝利の死
 勝利の帰還に業を煮やした隆信は、鳥羽院城主西川伊予守に勝利を暗殺させようとした。西川伊予守は協力を求めて知り合いの三瀬又兵衛という人物に相談した。しかし又兵衛は勝利にこのことを報せ、自ら西川伊予守を殺害したため計画は失敗に終わった。
 永禄五(1562)年、隆信は勝利に使者を送り和議を求めた。神代家臣団内で意見は割れたが、結局和議は成立し、長良の娘と龍造寺隆信の三男善次郎の縁組が行われた。しかしこのとき、隆信配下の和平に反対する者たちが勝利を倒そうと密かに企てた。隆信はこの企てを察知して勝利に報せた。勝利は隆信に対面し内部分裂を狙う策を伝えた。隆信は勝利の助言に従い、結果隆信に反する者が現れたのでこれを誅した。
 和平がなった後、佐嘉との交通の便を考えて勝利は畑瀬はたけせ城を、長良は千布ちぶ城を居城とした。2年後、勝利は長良に家督を譲って隠居した。その年の暮れ、勝利は体調を崩し次第に衰弱していった。病状は遂に回復することなく、翌永禄八(1565)年三月十五日、神代勝利は畑瀬城で死去した。55歳であった。

 長良の活動
 勝利の死後間もなく、長良の2人の子供らが相次いで病死した。これを知った隆信は長良を千布城で攻めた。長良は再起を図るため山内を退き、筑前国那珂なか岩門いわと大津留おおつる宗周むねちかの下に逃れた。このことを聞いた大友家家臣戸次べつき鑑連あきつらも長良の下を訪れた。
 一方隆信は山内の支配を固めようとしたが、武士たちは従おうとしなかった。そして八月、山内で一揆が起こり三瀬城にいた代官たちが殺害された。これを知った長良は原田了栄らの協力を得て山内への帰還を果たした。領地を取り戻した長良は、三瀬城を補強して居城とした。そして少弐氏再興を掲げ、大友宗麟に味方して再び隆信と対立した。永禄九(1566)年五月には、龍造寺家家臣の納富のうとみ家繁いえしげを敗死させて村中城目前まで迫った。
 永禄十二年、大友宗麟が隆信を攻めるため筑後高良山に布陣した。長良はこれに応じて軍を長瀬村南無堂なんむどう具留利くるりに派遣した。神代軍は先陣として龍造寺軍を打ち破り、大友軍と共に村中城近くまで追撃した。窮地に陥った隆信は鑑連の下に和平の使者を送り宗麟もこれに応じた。宗麟は豊後へ引き揚げ、長良も三瀬城に戻った。
 しかし翌元亀元(1571)年になると大友宗麟は再び肥前に侵攻し、長良もこれに応じた。戦いは初め大友軍優位に進んだが、隆信配下の鍋島直茂[3]による今山での奇襲を機に戦況は逆転した。神代軍も大打撃を受け、また八戸宗暘も戦死した。
 敗れた宗麟は肥前から撤退したが、それでも諦めず隆信打倒の策を案じていた。しかし長良はまず和平を整えるべきと考え、和平調整の使者を宗麟の下に送った。宗麟はこれに応じ、結果大友・龍造寺の間で和平が成立した。翌元亀二年、神代氏と龍造寺氏の和議が鍋島直茂を仲介として成立した。
 天正二(1574)年、隆信が松浦の草野鎮永しずながを攻めると長良はこれに協力し、この時初めて隆信と対面した。この戦いで長良は草野六山を獲得した。しかし鎮永は原田了栄の嫡子であったため、天正四年原田軍が神代勢を襲撃した。神代軍ははじめ手痛い打撃をこうむったが、その後反撃に出て原田軍を筑前に追い帰した。
 その後了栄の子親種が隆信に降伏したため、了栄は怒り親種を討とうとした。隆信は親種を助けるため筑前へ出兵し長良もこれに協力したが、隆信は長良と了栄が共謀しているのではと警戒して肥前へと引き揚げた。その後隆信は軍を強化して再び筑前に侵攻し、長良もこれに従った。了栄はついに和睦を求め、三者の和平が成立した。
 天正七年、継嗣のいなかった長良は鍋島直茂の甥の犬法師丸(神代家良)を養子とした。これにより神代・鍋島の繋がりはより強固なものとなった。そして2年後の天正九(1581)年、神代長良は45歳で死去した。

 神代氏のその後
 長良が死去すると家良がその跡を継いだが、若年であったため直茂が後見人となり、結果的に神代家は鍋島家に従属することになった。天正十二年、隆信が島原に遠征すると神代勢はこれに従った。しかし隆信は沖田縄手で島津・有馬軍に敗れて戦死し、神代勢も大打撃を受けることになった。
 隆信の死後実権を握った直茂は、神代家を有力家臣としたがその一方で山内勢の団結力に警戒心を持っていた。そこで直茂は神代家を山内から引き離すことにした。天正十四年、家良は山内三瀬から小城郡芦刈に所替となった。神代家はその後鍋島家の家臣として活動し、朝鮮出兵や島原の乱にも参加した。江戸時代には家良は川久保に館を移し、以降神代家は御親類同格とされ川久保邑一万石を支配することになった[4]


    注釈
  1. ^ 現在の佐賀県東北部の山間地域の総称。
  2. ^ 鎌倉から室町時代にかけて小城を拠点に肥前国で大勢力を誇った一族。
  3. ^ 鍋島直茂は幾度か改名しているが、本稿では便宜的に直茂で統一する。
  4. ^ 佐賀藩は内部に3つの支藩と7つの邑を含み、御親類3家と御親類同格4家が各邑を支配した。

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