2016年11月
山内の英雄・神代勝利 skrhtp
はじめに
誕生から天文十四年まで
神代勝利は永正八(1511)年に生まれた。神代氏は勝利の父神代宗元の代に筑後から肥前に移ったといわれている。勝利は
龍造寺氏との対立
天文十四年、勝利は馬場
翌天文十五年に剛忠は死去し、龍造寺胤信(のち隆信)が跡を継いだ。しかし家臣の中にはこれをよく思わない者もいた。そして天文二十年、
同年十月に隆信は蓮池城の小田政光を降し、十一月には江上武種の勢福寺城へ向かった。武種は勝利に援軍を求め、勝利はこれに応じた。両軍は牟田縄手で衝突し、勝利は小田軍と対峙した。勝利は政光を敗死させ隆信の本陣へと追撃を行おうとしたが、東側では江上軍が打ち崩されていたため挟撃されることを恐れて山内へと退却した。その後神代・江上と龍造寺の間で和平が成立した。その翌年に隆信は綾部城の少弐冬尚を攻め、勝利はこれに協力した。
鉄布峠の戦い
弘治元(1555)年、勝利は
翌弘治二年末頃から勝利は再び活動を始め、翌年のはじめには山内に帰還した。勝利は宗暘と結び、隆信と再び対峙した。一方同じ頃、宗暘が隆信の急襲を受けて敗れ勝利の下へ逃れた。以降宗暘は山内の杠山に居住して勝利に従うことになった。
同年九月、勝利は隆信方の小河氏が守る春日山城を攻めて落城させた。この報せを佐嘉で聞いた小河信安は隆信に神代氏討伐を進言した。隆信はこれを認め、十月に軍を率いて山内へと向かい、信安をその先鋒とした。信安は山内に入って
この頃から勝利の名は筑前国にまで知られるようになり、肥前千葉氏[2]から支援を求められるまでになった。また鉄布峠の戦いの後勝利は筑前に目を向け、
川上合戦
永禄元(1558)年十一月、隆信が勢福寺城の少弐冬尚と江上武種を攻めた。勝利は少弐方の求めに応じて派兵したが、龍造寺軍に敗れて山内へ引き揚げた。翌年には勝利は隆信と和平を結び、隆信に協力して冬尚を滅ぼした。
筑前側との和睦を結んだ後、勝利は肥前の掌握を企てるようになった。これを知った隆信は勝利に合戦を申し入れ、永禄四年九月に両軍は川上で対決した。戦いは初め勝利の子長良率いる神代軍の優位に進み、神代軍の攻撃で龍造寺軍は大いに乱れた。しかし龍造寺軍が川東の陣を攻撃したとき、陣内で謀反人が現れ大将を殺害したことで神代軍は混乱し、戦況は逆転した。神代軍は龍造寺軍の攻撃を防ぎきれず、退却を始めた。長良は自害しようとしたが神代備後守がそれを押しとどめ、長良を落ち延びさせた。勝利も山内へと退却した。神代軍の大敗だった。この戦いで福島守利や神代備後守らが討死した。
川上での敗北を受けて、勝利は山内から逃れ大村純忠の下に身を寄せた。一方隆信は余計な消耗を避けようと山内の武士たちに自ら降伏してくることを求めた。しかし武士たちはこれに応じず、寧ろ勝利帰城の方策を練った。そして同年末、山内武士は龍造寺方の代官を襲撃し、一斉に蜂起した。これにより、勝利は山内への帰還に成功し領地をも取り戻した。
和平と勝利の死
勝利の帰還に業を煮やした隆信は、鳥羽院城主西川伊予守に勝利を暗殺させようとした。西川伊予守は協力を求めて知り合いの三瀬又兵衛という人物に相談した。しかし又兵衛は勝利にこのことを報せ、自ら西川伊予守を殺害したため計画は失敗に終わった。
永禄五(1562)年、隆信は勝利に使者を送り和議を求めた。神代家臣団内で意見は割れたが、結局和議は成立し、長良の娘と龍造寺隆信の三男善次郎の縁組が行われた。しかしこのとき、隆信配下の和平に反対する者たちが勝利を倒そうと密かに企てた。隆信はこの企てを察知して勝利に報せた。勝利は隆信に対面し内部分裂を狙う策を伝えた。隆信は勝利の助言に従い、結果隆信に反する者が現れたのでこれを誅した。
和平がなった後、佐嘉との交通の便を考えて勝利は
長良の活動
勝利の死後間もなく、長良の2人の子供らが相次いで病死した。これを知った隆信は長良を千布城で攻めた。長良は再起を図るため山内を退き、筑前国
一方隆信は山内の支配を固めようとしたが、武士たちは従おうとしなかった。そして八月、山内で一揆が起こり三瀬城にいた代官たちが殺害された。これを知った長良は原田了栄らの協力を得て山内への帰還を果たした。領地を取り戻した長良は、三瀬城を補強して居城とした。そして少弐氏再興を掲げ、大友宗麟に味方して再び隆信と対立した。永禄九(1566)年五月には、龍造寺家家臣の
永禄十二年、大友宗麟が隆信を攻めるため筑後高良山に布陣した。長良はこれに応じて軍を長瀬村
しかし翌元亀元(1571)年になると大友宗麟は再び肥前に侵攻し、長良もこれに応じた。戦いは初め大友軍優位に進んだが、隆信配下の鍋島直茂[3]による今山での奇襲を機に戦況は逆転した。神代軍も大打撃を受け、また八戸宗暘も戦死した。
敗れた宗麟は肥前から撤退したが、それでも諦めず隆信打倒の策を案じていた。しかし長良はまず和平を整えるべきと考え、和平調整の使者を宗麟の下に送った。宗麟はこれに応じ、結果大友・龍造寺の間で和平が成立した。翌元亀二年、神代氏と龍造寺氏の和議が鍋島直茂を仲介として成立した。
天正二(1574)年、隆信が松浦の草野
その後了栄の子親種が隆信に降伏したため、了栄は怒り親種を討とうとした。隆信は親種を助けるため筑前へ出兵し長良もこれに協力したが、隆信は長良と了栄が共謀しているのではと警戒して肥前へと引き揚げた。その後隆信は軍を強化して再び筑前に侵攻し、長良もこれに従った。了栄はついに和睦を求め、三者の和平が成立した。
天正七年、継嗣のいなかった長良は鍋島直茂の甥の犬法師丸(神代家良)を養子とした。これにより神代・鍋島の繋がりはより強固なものとなった。そして2年後の天正九(1581)年、神代長良は45歳で死去した。
神代氏のその後
長良が死去すると家良がその跡を継いだが、若年であったため直茂が後見人となり、結果的に神代家は鍋島家に従属することになった。天正十二年、隆信が島原に遠征すると神代勢はこれに従った。しかし隆信は沖田縄手で島津・有馬軍に敗れて戦死し、神代勢も大打撃を受けることになった。
隆信の死後実権を握った直茂は、神代家を有力家臣としたがその一方で山内勢の団結力に警戒心を持っていた。そこで直茂は神代家を山内から引き離すことにした。天正十四年、家良は山内三瀬から小城郡芦刈に所替となった。神代家はその後鍋島家の家臣として活動し、朝鮮出兵や島原の乱にも参加した。江戸時代には家良は川久保に館を移し、以降神代家は御親類同格とされ川久保邑一万石を支配することになった[4]。