2016年11月
室町幕府 #とは  リトルフ


 はじめに
 室町幕府、それは日本史上一番パッとしない政権である。このように考える人は多くいるのではないだろうか。
 昨年度書いたとおり、南北朝時代はまだそこそこ人気があると考えてもよい。カオスには違いないのだが魅力的な人物が戦前からもてはやされ、日本中を巻き込んだダイナミズムに心を奪われる人も近年徐々に増えてきている。…のだがそれってぶっちゃけ観応の擾乱までであり、二代将軍足利義詮などが主役になる太平記より後の時代ってよく知られていないのではないだろうか。
 さらに言ってしまえば室町幕府の次は、よりにもよってあの戦国時代である。綺羅星のごとく現れたあまたの英雄たち、彼らに決して及ぶことのないもののどこか惹かれる部分のある凡庸な同時代人たち、観光の誘致もあって全国津々浦々で彼らはアピールの対象となっているのである。はっきり言って壁サークルが大量に存在する超人気ジャンルである。今年の真田丸だって大人気だし…。
 この戦国時代を作った原因が室町幕府なのは誰もが認めるところである。じゃあ実際室町幕府ってどんな政権だったよ、といわれると権力も権威も満ち溢れていた足利義満と、ろくに政治も顧みず権力を自分から地に落とした足利義政を対比させる小学校の教科書レベルの認識があればまだいい方かもしれない。じゃあそもそもナチュラルに源氏として登場する足利氏ってなんだよとか、南北朝時代から応仁の乱まであった70年くらいの時期何やってたんだよ、とかそういや応仁の乱から織田信長の登場まで100年近く間があるけどこの期間なんだよ、とかまあいろいろ突っ込もうと思えば突っ込めるのである。
 そこで今回は室町幕府ってどんな政権だったのか、室町幕府が一番安定していた足利義持〜足利義教の時代を中心に概観を見ていこうと思う。通史は通史本を読んでくれという感じなので、そこらへんの通史本じゃなかなか入手しづらい南北朝以降の「室町の平和」、「室町的秩序」、「足利氏の時代」ともいうべき戦後レジームがどのようなものだったかをざっくり見ていこうと思う。去年南朝をやったので今年は北朝というわけだ。

 足利氏ってそもそもなんだ
 足利氏とは義国流河内源氏である。こう言ってしまえば終わりなのだが、まあいろいろと突っ込みが入るだろう。日本史の図説などに源氏の家系図が載ってはいるのだが、じゃあ実際に何やった人やねんという人物が大量に登場するのが、この足利氏の系図なのではないだろうか。
 そもそも河内源氏ってなんやねんというところから始めると、都の軍事をつかさどる中小貴族の一つである。彼らは受領(ずりょう)として地方に下向し、そこで旧来の郡司の子孫である地元の有力者と結びついて都の大貴族や院、寺社のために荘園を作り、それを管理することで生計を立てていた。その一つが足利荘を建てた源義家の庶子源義国なのである。
 どうやら彼は叔父であり、武田氏や佐竹氏の祖となる源義光と北関東で勢力抗争を行っており、白河法皇に源氏が疎まれる原因となった源為義の同族統制力の低さの一つの事例となっていた。また上野や下野にかねてよりいた軍事貴族、秀郷流藤原氏の下野の両虎ともいうべき小山氏や藤姓足利氏とも権益を争うこととなった。
 とはいえ彼の息子である在地担当の源義重(新田氏の祖)と京都担当の源義康(足利氏の祖)はうまく立ち回り、保元の乱で後白河が勝利した際には、義国流源氏は平家、義朝流源氏に次ぐ第三の軍事貴族と化したのである。が、ここでまさかの源義康が早世、平治の乱にはほとんどかかわることなく平清盛の天下がやってきた。
 残された源義重や義康の息子たちはこの後異なる道を歩むこととなる。義康の息子源義清、源義兼は平氏、後白河法皇と異なる第三勢力・八条院に仕えていた。つまり源平の戦いのきっかけとなった以仁王の勢力である。その結果兄・義清は以仁王の蜂起に参加、さらには八条院ルートで木曽義仲の軍勢に参戦し、水島の戦いで戦死した。一方源義兼も源頼朝の蜂起に一二もなく参加しそのまま源氏の重鎮となっていくのである。
 一方、源義重ははっきり言って何もしなかった。源氏と平家どちらにもつかず、甲斐源氏や志田義広、木曽義仲のような独立した勢力になろうとしたと思われる。しかし源頼朝の勢力の広がり具合を見て、ついに麾下につく決断をしたのである…… 彼の息子の山名義範や里見義康はとっくの昔に頼朝に味方をしていたのだが。さらに義国は頼朝が計画していた自身の娘の再婚話を断った。そしてこれが源氏の重鎮として鎌倉幕府で重用された足利氏と一御家人として弱小勢力と化した新田氏の運命を決めたともいわれている[1]
 さてここで鎌倉時代以降の足利氏の動向を見ながら庶家の皆さんに登場してもらおう。まず新田一門だがこれについては詳しい説明は省かせていただく。ただ室町時代的に注目すべきなのが、山名氏、里見氏、大舘氏といった人々である。
 次に水島の戦いで戦死した源義清の子孫である。彼らは本家の庇護を受け、一族というよりは被官として活躍した。この子孫が高一族の後を受けて執事、さらには管領になっていく仁木氏と細川氏である。
 源氏の御門様となった足利氏は鎌倉時代になってからも活躍の機会が多く訪れた。そこで畠山重忠の乱後、彼の武蔵での権益を受け継ぐために足利氏から足利義兼の庶長子が後家、あるいは娘と結婚させられた。これが畠山氏である。
 足利義氏が本家を継いだものの、彼の兄たちもまた独立した御家人として扱われ、元寇の際には守護を務めてすらいる。これが吉良氏である。
 足利義氏の嫡子足利泰氏は何らかの政争に巻き込まれたらしく、突然出家してしまった。一方、本来嫡子だった北条家の分家名越氏からの妻との間に生まれた兄たちがまだ幼い足利頼氏のサポート役として、父である義氏とともに活動し、こちらもまた独立した御家人として活動した。これが斯波氏、石橋氏、渋川氏である。一方で長子ではないものの同じく義氏の庶子として一色氏や上野氏などが存在する。
 この後足利尊氏を経て室町幕府が成立する過程は有名すぎるのでカットしようと思う。

 室町幕府ってどんな政権だったんだ
 さてここからがいよいよ本題なのだが、そもそも室町幕府がどんな政権だったかということについて一つの誤解がある。それは将軍の力が弱体で、有力大名の連合政権だったということだ。確かに室町幕府のスタートは内乱を勝ち抜いた軍閥のリーダーが自分への協力者を権益そのまま各地で放任したものである。研究史においても「室町幕府−守護」体制という枠組みがあり、各地の守護は地方では自分の管轄地域の国人たちをまとめ、中央では幕政に関与する大名へと変化を遂げる。
 しかし、実際のところ将軍は守護を介さず直接自分たちに結び付く国人たちを動員することはできたし、姿かたちを変えながらも守護とはまた別の将軍新派ともいうべき側近たちが政権の中心部にはかなりいたのだ。
 さらに室町時代の特徴として中央と地方の人の往来が活発になったということがある。もともと武士団研究において、武士団の中で中央にて政治にかかわる担当と、地方で任地を任される担当に分かれネットワークが広がっていたという見方は平安時代末期から存在する。しかし室町時代は人の移動が極めて大規模かつ広範になり、武士同士のコミュニケーションのネットワークがものすごいことになっていったのである。
 そこで注目すべきなのが一定の範囲の守護・将軍に近侍する国人・守護の家臣といった人々が在京していたということである。彼らは独自の秩序で編成され、室町幕府の幕政を担っていた。さてそこで今回は家格秩序を中心に室町幕府がどのような政権だったかを見ていこうと思う。
 室町時代を語るうえで避けて通れない存在というのは御一家である。御一家とは狭義には吉良、渋川、石橋のいわば「御三家」ともいうべき存在である。彼らは鎌倉時代独立した御家人として活動しており、本宗家が弱体化する中で独自にそれぞれ北条政権の一部との結びつきを有し、斯波氏も含めて本宗家にとってかわる可能性もある存在であった(実際はそのようなことはなかったのだが)。しかし、彼らは南北朝の動乱の中で本宗家の下に位置づけられることが確定され、いまだなお油断のできない斯波氏を押さえつける存在として公的に機能させられることになったのである。
 しかし、近年では御一家というのは広義の意味を持っているのではないかという研究が出てきた。つまり足利一門が儀礼上で区別されるというものである。確かにもともと「御三家」とは別に仁木、四条上杉も御一家として扱われているのではないかという意見が出ていた。しかし、史料が整理された結果足利氏全体(新田一門も含む)に義朝流源氏(もはや源範頼の子孫吉見氏くらいしか生き残ってないが)を加えた存在が佐々木、赤松、大内といったほかの氏族に権威的に勝っているということである(これは権力的にではないというところがポイントである)。このことは関東、東北、九州の室町幕府が直接統治していないブロックでも共通しており、これこそが「室町的秩序」ともいうべきものであった。
 では実際に室町幕府がどのように運営されていたかを見ていこう。将軍を別にすれば政権のトップともいうべき存在は三管領を中心とした相伴衆である。高一族の壊滅と仁木一族の失脚後、細川派と斯波派の対立、および畠山氏の復権によって成立した三管領は高校教科書に載っているので知っている人もいるかもしれない。それに加えて将軍と同席して宴席に存在できる大名が相伴衆である。具体的には山名、赤松、一色、京極、阿波細川、能登畠山、大内の7氏族で、足利御一家を頂点とする室町的秩序においては赤松、京極、大内はそこからさらに一段階下にみなされていた。幕政は主にこうした人々の合議によって行われていたのである。
 その次に来たのが国持衆(国持外様衆)で、和泉両細川、大野斯波、伯耆山名、石見山名、土岐、若狭武田、今川、六角、富樫の10氏族であり、彼らは国持大名ではあるものの幕政に直接関与する立場にはなかった(なお国持大名ではないものの細川奥州家、京極加州家もこれに準ずるそうだ)。
 ここまで見てきた人々が主に屋形号を許された大名というべき人々である。だが一方で将軍に近習する奉公衆、奉行衆といわれる各種国人たちがほかにも多く存在している。彼らは大きく分けて3種類に分かれる。第一に各守護の子弟、分家であり、彼らは守護になれない代わりに将軍に近侍して自らの権勢を高めようとしたのである。第二に政所奉行人や足利氏の根本被官ともいうべき人々で彼らは文官として室町幕府の政権スタッフとなっていたのである(厳密にいえば高一族や上杉氏もここである)。第三が守護に被官化されなかった各地の国人で、彼らは将軍に直接使える存在として在京し、平時は将軍家の領地の管理を、有事になると番衆として将軍の直属軍となったのである。
 かつては文の奉行衆、武の奉公衆=番衆、という見方が強かったのだが、近年では外様衆といった人々もひっくるめた将軍の近習=奉公衆という視点が強くみられるようになってきている。特に研究が進んだために御供衆と外様衆のどちらが高い地位か筆者にはわからなくなってしまったのでそこは少しご遠慮願いたい。
 さて先ほど名前が出たが、御供衆は将軍の出向の際に付き従う存在であった。相伴衆や国持衆の子弟も多くみられるが、当主自らがこの立場にあったものとして、備中細川、淡路細川、細川典厩家、細川野州家、畠山播州家、畠山中務家、上野民部家、一色治部家、赤松豆州家、赤松有馬家、伊勢、さらに後に加わった大舘、赤松中務家、畠山次郎家といった人々が見られる。
 外様衆とは定例の出仕の他に、帯刀としての供奉、禁裏警護などを務めた人々で、国持衆、評定衆も厳密にいえばここに含まれる。その他には有力守護の分家やかつて守護にあった家、有力国人などが名を連ねているが、さすがにここまでくるとだいぶ数が多くなる。巻末の参考文献は珍しく誰でもネットで読める論文なので、それを参照にしてほしい。
 その下に来るのが将軍の直属軍事組織ともいうべき番衆である。かつてはこれだけを奉公衆と扱っていたということは前述のとおりである。五番に分かれ一番から淡路細川、桃井、上野あるいは畠山播州、畠山次郎→畠山中務、大舘の番頭に率いられていた(桃井だけなぜか御供衆になれていない)。また番衆の中には特別な地位についてやや家格が高くなっている者がいる。その一つが節朔衆であり一色阿州、小笠原備州(将軍の級橋班を務めた京都小笠原氏)、千秋、中条、結城幸松、楢葉の6家が将軍と対面できる最も下のランクにあたる。他にも部屋衆や走衆といった人々がいるが煩雑になるので省略する。
 一方、文のスタッフである奉行衆はおおよそ鎌倉幕府以来の大江、三善、二階堂系の伝統的な家に足利家の根本被官を付け加える形で行われた。当初は鎌倉幕府同様引付衆(もしくは内談衆)という裁判組織が独自に置かれたのだが、やがて将軍親裁や相伴衆の合議制などが確立するにつれ二階堂、太田、町野、波多野、摂津の頭人の家と飯尾、斎藤、治部、布施、松田の官僚集団の家に分かれていくこととなる。上位層である評定衆家は前述のとおり外様衆として悪く言えば名誉職めいたものになり、下位層である奉行衆が次第に将軍の私的な政府顧問として存在感を強めていくのである。

 室町幕府は地方をどうしていたの
 先ほどから少しずつ出ていると思うが、室町的秩序というものがある。つまり足利一族の御一家が最頂点の権威を持ち、それを中心に段階的な階層構造が形成されていった。室町幕府が直接収める地域は一定の空間に限られ、その外側は鎌倉府や奥州探題、羽州探題、九州探題といった人々が頂点に立っていたのである。
 関東の鎌倉府は鎌倉公方が頂点に立ちそれを関東管領である犬懸・山内両上杉氏が補佐をする体制をとっていた(扇谷は戦国時代になってから影響力を強める家である)。そしてその下を御一家である足利・新田一門や外様であるいわゆる関東八屋形[2]、直近の奉公衆・奉行衆が存在するというのは幕府とほとんど変わらない。一方で幕府も東国に直接支配の手を伸ばしている。その最たる例が京都扶持衆であり、跡部、蘆名、岩城、岩崎、宇都宮、小栗、塩松石橋、標葉、結城白河、相馬、武田、伊達、那須、楢葉、真壁、桃井、佐竹山入、結城といった鎌倉公方の領域を脅かすものから北陸奥の葛西、南部、出羽の大宝寺、小野寺、安藤といった人々まで直に扶持している。このように東国は強大な鎌倉公方と幕府の綱引きが行われていた地域であり、幕府は越後上杉や小笠原、武田といった在国守護を防衛ラインとしても設定していたのだ。
 が、話が変わってくるのは奥州探題、羽州探題、九州探題である。というのも彼らは中央政権を担う斯波氏とのパイプ役を務める御一家として権威が保証された存在であり、ぶっちゃけ権力はほとんどなかったからである。奥州は奥州で鎌倉府との綱引きから稲村・篠川御所というよくわからないものができるし、羽州探題に至ってはそもそも戦国時代後半まで何やってたかよくわからないし、九州探題に至っては少弐氏にほぼ壊滅寸前まで追い込まれ、実権は大内氏に代行してもらっているという有様であった[3]。とはいえ彼らに加え北奧の浪岡御所、高水寺斯波氏といった人々が地域社会の中では最高位の権威を持っていたのは事実で、室町幕府が機能していた間は特に問題なく存在していたのである。
 そう、室町幕府が機能していた間は……

 室町幕府はどのように解体されていったのか
 結論から中央の幕府が小さくまとまり、足利氏ではなくても実権のある人間にどんどんアウトソーシングを行ったがゆえに、幕府そのものが地域権力化してしまったからである。とはいえここで勘違いしてはいけないのは、崩壊はしていないということである。
 一般的なイメージと異なり、足利義政は父親である足利義教同様権力的志向が強い存在であった。しかし彼の決定的な弱点はそれが徹頭徹尾中途半端なものになってしまっていたこと、そして彼が独裁を図ろうとしてももはやそれが許されない状況になってしまっていたことである。その結果中途半端に介入した挙句特に成果を上げないということが応仁の乱以前から続き、それは自身の息子である足利義尚が将軍になってからも続いていった。
 足利義尚はこのような父親に反発し、いなくなった守護の代わりに奉公衆を中核とした新たな政権を作り上げようとしたが、成果を見せないまま二十代で亡くなることとなった。
 そして次に呼ばれたのが流れ公方こと足利義材である。彼は前代の義尚とは異なり新たに外から迎えられた存在であるため、武威を見せつけ守護だけではなく将軍近習たちも統制を行えるようにしなければならなかった。しかし、度重なる外征と対立候補足利義澄の存在から、日野富子、細川政元、伊勢氏を中心に大規模クーデター明応の政変を招く。この結果応仁の乱以降不安定だった幕府はついに分裂を招くことになるのである。
 しかしここで細川政元の独裁になったと考えるのは時期尚早である。あくまでも幕府近習を務める伊勢氏など多くの勢力がさまざまに結びついて引き起こされたものであり、将軍家は有力守護と補完しあいながらも自身の権力基盤を持ち続け、畿内を中心とした政権であり続けるのである。それは細川政元や若狭武田氏に援助されつつも自身の側近層を中心に親政を行おうとした足利義澄、細川政元が殺され大内氏や細川高国、畠山氏と結びついて復帰した足利義材、六角氏と結びついた足利義晴など戦国時代中期までの将軍においても変わらないのである。将軍は確かに自身を補う存在を取り込もうとしつつも、それは従来の秩序から逸脱しない範囲で行われていったのである。
 しかし、足利義晴のあたりから明らかに変化が生じる。それは、戦国時代に新興勢力として登場し、従来の室町的秩序の外にいた存在を、その権力の大きさから新たに取り立てていったのである。その最たる例が奥州探題を伊達氏に任命したり、相伴衆に三好家をはじめとした新興大名の関係者が多く取り立てられたりといったものである。この最後の例が織田信長である
 織田信長に追われた後も、有力大名との補完による権威である室町幕府は最後には毛利家と協力した鞆の地域権力にまで弱体化したものの、奉公衆をはじめとした側近層は詰衆番衆や内談衆といったように縮小されながらも最後まで維持されていったのである。そして時代は江戸幕府へと移っていく。


    注釈
  1. ^ 近年では新田一門は足利氏内に包摂される勢力とみなされているのだが、それは当初から七日、このような歴史的経緯からなのかについてはまだ見解が分かれている。
  2. ^ 佐竹、千葉、小山、結城、小田、那須、宇都宮、長沼といった人々だが実際当時そう呼ばれていたわけではないらしい。
  3. ^ なお西国の在国大名としては他に河野、大友、宗、菊池、島津がいる。

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