2016年11月
帝国日本の記念切手  三波


 大日本帝国は、日本の長い歴史上で最も、国民が国家に寄り添い、国家と一体化した時期であった。我が国家と国民は、世界一の旧家たる皇室を上に仰ぎ、大いなる知見を外に仰ぎ、並み居る強国の世界を渡り歩き、ほんのひと時、確かに「坂の上の雲」をつかんだ。しかし程なくその身体は不調をきたした。危険思想に毒された国家は迷走、坂を上り切ってから半世紀を経て、破滅の時を迎えた。
 帝国期の日本の評価は、その終焉から70年を経た今もなお定説を見ない。読者諸兄、様々な見識があることは論を待たない。しかし、筆者はそれでも、この時代の祖先の世界をそのまま知る必要があると思う。その時の祖先が、何を国家の慶事として祝ったのかを、知る権利が我々にはある。
 今回、私は記念切手に注目した。1871年に西洋から導入された郵便事業は同時に切手も導入されたが、切手は単なる郵便料金の前納証書に留まらず、美術品としての価値も加味され、熱心なコレクターを生んだ。更に、国家の慶事の際には記念切手も発行されるようになった。大日本帝国期の記念切手は36次、100点に渡る。これは全て、当時の国民の慶事に合わせて発行されたものである。以下、順を追って見てゆきたい。

 我が国最初の記念切手は1894年3月9日、維新から四半世紀を過ぎた時代であった。その目的も新生の国家にふさわしく、明治天皇の銀婚記念であった。
 明治天皇は即位直後に維新を迎え、西洋に倣った立憲君主として新生国家を約半世紀に渡っての統治が始まった。そのもとに、公家の最高位であった一条家より皇后が迎え入れられたのは、函館で旧幕府軍との戦争が続く最中の、1869年2月9日のことであった。昭憲皇太后は、天皇との間には子を成さなかったが、近代化を推し進める天皇の良き伴侶として共にあり、また女子教育の向上にも力を尽くした。
 天皇皇后の婚儀25年を祝う切手が、本邦初の記念切手であった。その意匠は、皇室の紋章であり国章でもある菊花紋に、つがいのツルが向かい合わせに構えるものであった。なお、帝国期の切手には普通切手も含めて全て菊花紋章が刷り込まれており、現在も皇室の慶事に伴う記念切手には踏襲されている。

 この年の春、日本と大清帝国の緩衝地帯であった朝鮮半島で農民の反乱が発生し、日清両軍が出兵した。朝鮮情勢の安定化は日本の安全保障の根幹であり、日本は清との戦争に臨む。結果は、日本の完勝であった。朝鮮半島は日本の勢力圏下となり、日本の安全保障は盤石となった。
 しかし同時に日清戦争は、国民によって構成された帝国陸海軍が、大規模な戦死者を出した最初の戦争でもあった。終戦後1年を経て1896年8月1日、2例目の記念切手が発行されたが、意匠に用いられたのは皇族の有栖川宮と北白川宮の肖像であった。両名はともに、従軍中に戦病死を遂げた。

 明治天皇は子宝に恵まれたが夭折した皇子女も多く、成人した男子は皇太子(後の大正天皇)ただ一人であった。皇太子は1900年5月10日、公家の九条家から皇太子妃を迎えた。後の貞明皇后である。成婚当日、記念切手が発行された。意匠は、結婚式の祝いものである。
 大正天皇は4人の皇子に恵まれた。第一皇子が、後の昭和天皇である。

 日清戦争によって朝鮮は日本の勢力圏に入ったが、大韓帝国内では親日派と親露派との権力闘争が続いていた。ロシア帝国はこの混乱に乗じて朝鮮半島進出の野望を推し進めており、日本は韓国政府への行政指導を強めていた。1904年、遂に日露両国は戦端を切った。
 一年半に渡った戦争は、世界を支配する大英帝国の助力を得た日本が、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に完勝するなど、日本の戦闘優勢で進行、新興国であった米国の仲介で日本に有利な康和を結ぶに至った。極東の小国家が、ロシア大帝国の鼻を明かしたのである。帝国日本の頂点であった。
 対露開戦を契機に、韓国に対する行政指導の業務が飛躍的に上昇し始める。戦争も終盤に差し掛かった1905年5月、韓国の郵便、通信業務が日本政府に一元化される方針が決定。順次接収が進み、7月1日に完了した。同日、これを記念して切手が発行された。意匠は、菊花紋章と李花章、両国の国章が並び立つものであった。
 日露戦争の戦勝記念の切手発行は、翌1906年4月30日の戦勝記念観兵式に合わせて発行された。当日の観兵式は青山練兵場において、天皇行幸の下で挙行され、丸一日続く大規模なものであった。記念切手は一日遡って29日に発行され、意匠には陸軍の兵器が描かれている。

 1912年7月30日に明治天皇が崩御、皇太子が直ちに践祚した。大正天皇である。
 日本の皇位継承は、皇位が移動した日に直ちに行う「践祚」と、皇位継承を内外に鮮明にする「即位」の二段階で行われる。大正天皇の即位大礼は、1915年11月10日、京都御所の紫宸殿にて行われた。11月10日は1867年、徳川慶喜による大政奉還が勅許された日付で、明治以降は重要な皇室行事はこの日に行われることが多い。同日、記念切手が発行された。意匠は、束帯の冠、天皇が皇位を宣言する高御座、紫宸殿全景の3種である。

 大正天皇の即位をもってその第一皇子裕仁親王は事実上の皇太子となっていたが、翌1916年11月3日、明治節の日に立太子礼を行った。同日付で記念切手が発行された。意匠は、オシドリと皇太子の冠の2種。

 日本で皇位継承の行事が行われている最中、欧州は第一次世界大戦の惨禍にあった。
 1914年に勃発した大戦は大方の予想を覆して長期化を続け、1000万の戦死者を出して1918年に停戦の日の目を見た。1919年6月、ヴェルサイユにて講和会議が行われ、戦争は終結。世界は平和の時代に入ったかと思われたが、過酷な賠償を背負わされたドイツは敵愾心を抱き、後に巻き返しに転ずる。
 日本は英国の同盟国として、大陸のドイツ植民地の権益を確保する。また戦後に設立された国際連盟においては常任理事国の座につくなど、国際社会において確たる責任と名誉を得た。日本は、名実ともに一等国となったのである。1919年7月1日、世界大戦平和記念の切手が発行された。意匠は、平和の象徴である鳩とオリーブである。

 1920年、第1回の国勢調査が行われた。国勢調査は、国内の各個人の情報や家族構成などの統計をとることで、行政方針の策定に役立てるものである。
 日本の全国規模の戸籍調査は、遡ると645年、大化の改新の直後に律令制が導入された時に始まる。670年の庚午年籍が最初の戸籍であった。しかし平安時代に律令制が機能不全に陥ると戸籍作成も滞り、以降千年近くに渡って正規の戸籍は作成されていなかった。
 1920年9月25日に発行された記念切手の意匠は、1300年前に戸籍調査にあたった国司の想像図であった。帝国日本は、天皇親政の古代律令国家の復興でもあったのである。

 明治天皇の陵墓は京都市伏見区に造られたが、東京市民から神社創建の運動が起こる。これを容れて1920年11月2日、東京都渋谷区に明治神宮が創建した。鎮座祭には大正天皇の名代として皇太子が出御した。
 1日、記念切手が発行された。意匠は、明治神宮の拝殿である。

 日本最初の切手の発行は、1871年4月20日、4種の普通切手である。当時の切手及び硬貨にはいずれも、君主を意味するつがいの龍が描かれていた。コレクターの間では、この4種の切手は「竜文切手」と呼ばれている。
 1921年4月20日、郵便創始半世紀の記念切手が発行された。意匠は、竜文切手をアレンジして彫りこんだものと、逓信省の庁舎の2種である。庁舎の手前には、郵便の父とたたえられた前島密の銅像も小さく描かれている。前島の肖像画が1円切手のデザインを飾るのは、戦後のことである。
 ちなみに、4月20日前後には1958年以降毎年、「切手趣味週間」と題して、日本人画家の描いた絵画を題材にした記念切手が発行されている。
 1921年、20歳になった皇太子の帝王教育の総仕上げとして、欧州歴訪が計画される。皇太子の長期の外遊は例が無く、また大正天皇の体調も思わしくなかったことから、宮中の側近などからも反対意見が出された。しかし最後は、天皇の強い希望によって洋行が決まったのである。
 皇太子を乗せた御召艦「香取」は横浜港を出発、道中に昭和天皇の生涯で最初で最後の沖縄訪問を経て、5月7日、英国に上陸する。以降7月18日にイタリアを離れるまで、文明国の立憲君主の振る舞いを学ぶとともに、第一次世界大戦の惨禍を目に焼き付け、また欧州の自由の気風を肌で感じた。後年昭和天皇は、この歴訪を「生涯最も楽しかった日々」と回想している。
 9月3日、皇太子は横浜港へ帰還。東京一円が祝賀ムードに包まれ、お祭り騒ぎは一週間続いた。帰還当日には記念切手も発行された。意匠は、御座船「香取」と、供奉艦「鹿島」である。

 1921年11月25日、大正天皇の病状が重くなったことに鑑み、皇太子は摂政に就任する。摂政は天皇に故障があるとき、その公務を代行する役割である。
 1923年4月12日、摂政は台湾行啓に出発する。台湾は日清戦争後に日本の領土に編入されていた。16日から27日まで島内各所を視察し、5月1日に帰還した。
 4月16日、台湾行啓の記念切手が発行された。意匠は、台湾一の高山、新高山(台湾表記:玉山)である。新高山は標高3952mで、当時は富士山に代わり「日本一高い山」と呼ばれていた。

 1921年頃に皇太子妃の選定が行われ、久邇宮家の良子女王が内定した。宮家出身の皇后が立つのは、およそ百年ぶりのことである。婚儀は1923年11月に予定され、切手も制作されていた。意匠は、関東の名峰、筑波山と、霞が関にある摂政の住まい、東宮仮御所の2種である。
 婚儀が直前に迫った1923年9月1日、関東大震災が発生。大規模な火災が発生して死者は10万余、逓信省に保管していた切手は原版もろとも焼け落ちた。摂政は、婚儀の延期を命じ、切手の発行も中止された。
 しかしこの時、南洋諸島に向けて一足先に郵送していた切手が難を逃れた。発行中止によって回収された切手は、1924年1月26日に挙行された婚儀の際、関係者に配布された。

 1925年、大正天皇は婚儀25年を迎えた。5月10日、婚儀当日に記念切手が発行された。意匠は、松食い鶴模様と、鳳凰の2種である。
 しかしすでに大正天皇の体調は思わしくなく、当日行われた政府高官や外交官の祝賀は、摂政が代行して受けた。1926年12月25日、大正天皇崩御。皇太子が直ちに践祚する。

 1874年、国際郵便の業務を行う国際組織として、万国郵便連合(UPU)が設置された。日本がこれに加盟したのは、1877年6月1日である。1927年6月20日、加盟50周年を記念して、記念切手が発行された。意匠は、前島密の肖像画と、世界地図とハトの2種である。

 1928年11月10日、昭和天皇の即位大礼が、京都御所の紫宸殿にて執り行われた。同日発行の記念切手の意匠は、金の鳳凰に大嘗宮である。大嘗宮とは、毎年11月23日に執り行われる新嘗祭の代初めのより大掛かりの儀式「大嘗祭」を行うための施設で、この儀式のためだけに大掛かりな設備が行われる。儀式は夜を徹して続き、これをもって代替わりの儀式は終了となる。

 伊勢神宮は、皇祖神天照大御神を主神として祀る神道の最高位の神社であるが、この神宮は20年に一度、社殿から宝物に至るまで全てを新しくする「式年遷宮」のしきたりがある。1929年はこの遷宮の年にあたり、10月2日、天照大御神の58回目の遷座の儀が執り行われた。
 同日、記念切手が発行された。意匠は、内宮の正殿である。なお、この後遷宮は4度行われているが、記念切手は一度も発行されていない。

 1930年、2度目の大規模な国勢調査が行われ、9月25日に記念切手が発行された。意匠は当時の日本の版図で、現在の日本の領土に加えて、台湾、日露戦争で割譲を受けた千島列島と南樺太、朝鮮半島が日本の主権下にあった。

 1930年11月1日、明治神宮は鎮座10周年を迎え、記念切手が発行された。意匠は、神宮の社殿である。

 1934年、国家予算から通信事業特別会計が独立したのを機に、4月20日が正式に「逓信記念日」に制定された。同日発行の記念切手は、それまでの記念切手とは趣向を変え、切手本体の制作は行わなかった。切手は当時発行されていた航空便の専用切手4種で、4枚を組み合わせた小型の特別シートをもって「逓信記念日制定記念切手シート」としたのである。

 赤十字社は、戦場における負傷兵の看護を目的として設立された人道支援団体で、敵味方関係なく治療を行うことを旨としている。日本赤十字社の名誉総裁には皇后が代々就任しており、この慣例は現在も続いている。
 1934年、第15回赤十字国際会議が開かれ、これに合わせて記念切手が発行された。意匠は、日赤の桐竹鳳凰記章と、日本赤十字社本部遠景の2種である。

 大清帝国の滅亡後、孫文がその後継政府を称していたが、広大な旧版図は軍閥が跋扈する無政府状態であった。特に満洲地域では、張学良軍閥と現地の朝鮮系住民との間で諍いが絶えなかった。1931年9月18日、滿洲に進出していた関東軍が張軍との戦闘状態に突入した。満洲事変である。1932年3月1日、満洲地域は独立を宣言、満州国が建国された。元首として迎え入れられたのは、清朝の廃帝、愛新覚羅溥儀である。満洲は日本の行政指導の下、工業国として目覚ましい発展を遂げた。
 1935年4月6日、皇帝は日本を訪問した。歴代の中華皇帝で、日本の知を踏んだのは初めてのことであった。24日までの日本滞在で、明治、大正両天皇陵参拝や、金閣寺、厳島神社訪問など多忙な日程をこなした。
 先だって4月2日、日満両国で記念切手が発行された。意匠は、御座船「比叡」と赤坂離宮の2種である。

 1906年9月1日、日露戦争で獲得した遼東半島を統治する機関として関東都督府が設置された。それから30年を経た1936年9月1日、関東都督府は改組を経て、満洲の日本大使館に設けられた関東局となっていた。当日、設立30周年の記念切手が発行された、意匠は、地球とハト、旅順の表忠塔、関東庁庁舎の3種である。

 帝国議会の議事堂は、永らく仮議事堂が使用されていた。本格的な議事堂の建設は1906年に開始したが、政変による工事中断や、仮議事堂の消失に伴う再建などが優先されて、後期の延期を重ねていた。1936年11月7日、苦節30年を経て、帝国議会議事堂は竣工した。帝国議会が開かれてから、丁度45年目のことであった。
 先だって11月7日、議事堂の威容を意匠とした記念切手が発行された。

 1930年代、帝国飛行協会の主催で、飛行場を献納する動きが盛んになり、献納された飛行場は「愛国飛行場」と呼称された。逓信省もこれを後押しする目的で、1937年6月1日、通称「愛国切手」と呼ばれる、史上初の寄付金付き切手を発行した。意匠は日本アルプス上空を飛ぶダグラスDC-2型機で、通常2銭の切手を4銭で販売し、2銭分が寄付金に回された。
 この年の7月7日、日本は欧米の支援を受ける蒋介石政権と戦闘状態に入った。日華事変である。

 赤十字条約は1864年、ジュネーブで締結された。1939年11月15日、条約締結75周年に合わせて、記念切手が発行された。意匠は、地球と赤十字のモチーフと、日本赤十字創始者の佐野常民の2種。

 日本の建国は、紀元前660年、神武天皇が橿原宮で即位を宣言した時にさかのぼる。1940年は、建国から2600年の節目にあたった。この年は、朝野で祝賀行事が相次いだ。
 これに合わせて、記念切手が2度に分けて発行された。まず、建国記念にあたる2月11日、軍功の象徴である金鵄と、恵みの象徴であるアユと瓶の2種。次いで政府主催の記念式典が行われた11月10日に、天孫降臨の高千穂の峰と、神武天皇を祀る橿原神宮の2種類が発行された。

 1890年10月30日、教育勅語が発せられた。教育勅語は青少年に与えられた12の徳目からなっており、重要な教育指針であった。1940年10月25日、発布50周年を記念して記念切手が発行された。意匠は、安宅安五郎画「勅語下賜」図と象形文字で「忠孝」の二字の2種。

 日米関係はその後、悪化の一途をたどった。1937年より蒋介石との間で日華事変を戦っていた帝国軍は対米戦争の余裕はなかったのだが、1941年、米国より強硬な対日勧告案「ハル・ノート」を突き付けられ、事実上退路を断たれた。1941年12月8日、日本は米英支蘇4か国に宣戦布告をし、米領ハワイを空襲した。
 1942年2月7日、帝国陸軍は英国の東南アジア支配の拠点であったシンガポールへ進軍を開始する。破竹の勢いで15日にはシンガポールは陥落、英国は空前の大敗北を喫した。逓信省は、陥落を見越して急遽記念切手を印刷した。普通切手の2銭と4銭(意匠はそれぞれ、乃木希典と東郷平八郎の肖像画)に「シンガポール陥落」と加刷したもので、陥落翌日の16日には早くも発行が始まった。

 程なくして、満州国建国10周年を迎え、滿洲はもちろん、日本においても記念切手が発行された。2次に分けて発行されており、建国宣言を行った3月1日には靖国神社の満洲版ともいうべき建国神廟。日滿議定書(1932年)により国交を樹立した9月15日には両国の子供とラン花紋章の2種。

 1874年10月14日、新橋−横浜間に蒸気機関車が運転を開始した。日本における鉄道の開業記念日である。それから70年間、鉄道は延伸を続け、全国津々浦々に線路が敷かれた。
 1942年10月14日、鉄道開業70年の記念切手が発行された。意匠は、当時の最新型である国鉄C59形蒸気機関車である。

 1942年6月5日のミッドウェー海戦は日米戦争のターニングポイントとされるが、その後も暫くの間は国内の士気は盛んであった。1942年12月8日、開戦1年の記念切手が発行される。意匠は、フィリピンのパターン半島を進む戦車と、真珠湾の空爆の2種である。

 靖国神社は、もともとは幕末維新の内乱に際して天皇に殉じた志士を顕彰する目的で1869年に創設されたものである。その後、日清戦争や日露戦争などで戦死した軍人を合祀するようになり、日華事変勃発前の時点で10万柱以上が祀られていた。その後、日華事変と日米戦争を合わせて、膨大な数の国民が英霊となっていた。
 1944年6月29日、靖国神社創建75周年の記念切手が発行された。意匠は、神社の本殿である。

 1944年10月1日、関東州旅順市にて関東神宮が創建された。祭神は、天照大御神と明治天皇である。同日に記念切手発行。意匠は、遼東半島の地図と関東神宮。

 その後、大日本帝国が敗戦により消滅するその日まで、記念切手は発行されることはなかった。もはや戦争を続けること自体が目的化し、物資難の時である。普通切手の目打ちが略され、一部のコインが瀬戸物にされようとした時局に、切手収集をする余裕はなかったのである。1945年8月15日、日本は峠から谷底へと転がり落ちた。

 戦後最初の切手は敗戦から1年半を経た1946年12月12日、郵便創始75周年の切手である。次いで1947年5月3日、新憲法施行記念切手が発行される。程なくして、菊花紋章が原則全廃される。国民は再び富み始めたが、国家と国民の紐帯は暗黙のタブーとなった。



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