2016年11月
三介殿のなさることよ  紫柴砦


 はじめに
 歴史上には数多くの人物が登場します。特に世の中が混迷を極めている時代ほど、後世の人々に広く知られる魅力的な人物が多数存在します。日本史でいうならば、戦国時代や幕末が人気であるのも魅力的な人物が多いからでしょう。例えば、織田信長。例えば、坂本龍馬。彼らは素晴らしい才能と能力を持ち、時代を駆け抜けていきました。
 そんな優秀で素晴らしい業績を残した人気者たちとは違う意味で有名な人々が存在します。なんだかよくわからない行動を起こし、妙な記録が後世に伝わってしまった奇人変人たちのことです。彼らの行動は時としてうまくいき、成功者として讃えられるけれども、多くの場合失敗してしまいます。その結果、やれ暗愚だとかやれ無能だとか、ヒドイ評価を受けてしまっています。彼らだって好き好んで失敗したワケではないでしょうに……
 暗君なくして名君なし。だって歴史上の人物への評価なんて相対評価だもの。そんなわけで、こたびは日本の戦国時代を代表する暗君、三介殿こと織田信雄を取り上げてみたいと思います。よろしければお付き合いください。

 出生・幼少期
 永禄元年(1558年)に織田信長に次男が誕生します。幼名を茶筅ちゃせん丸。のちの織田信雄です。生母は側室の吉乃。この出生について、実は三男である三七丸と出生順位が逆なのではないか、と言われています。三七丸の方が20日ばかり早く生まれたが、生母の家の身分の差によって茶筅丸が次男とされた、というものですが真相は不明です。
 ちなみに、幼名の茶筅丸の由来は信長が赤子を見た際に既に髪の毛がかなり生えており、茶筅髷という髷を結うことができそうだったからなんて言われています。もし本当なら命名いい加減にもほどがあるでしょう……

 伊勢攻略
 信雄の父信長は家督を相続したのち、尾張統一を果たすと天下統一事業に乗り出し、手始めに北方の隣国美濃へ侵攻したことは有名ですが、それと並行して西方の隣国伊勢の攻略も進めています。当時の伊勢は大きく三つの地域に分けられました。霧山城を本拠地とする伊勢国司北畠氏が統治する南部。長野工藤氏・神戸かんべ氏といった少数の有力国人が他の弱小国人を従わせている中部。そして多数の弱小国人が割拠する北部。このうち北部と中部の勢力は微弱と言ってよく、北畠氏や近江の六角氏の保護を受けてなんとか存続しているような氏族ばかりでした。強大な勢力もないうえ、海上交通の要所である伊勢は濃尾地方を本拠地とする信長としては是非とも押さえておきたい場所でした。

 伊勢攻略の中心となったのは滝川一益たきがわかずますという人物で、織田四天王に数えられる名将です。一益は伊勢の北方にある蟹江城・長島城を拠点として調略を進め、国人たちを順調に傘下へと収めていきます。
 美濃攻略が完了した永禄十年(1567年)には信長自身が兵を率いて伊勢へと侵攻します。この時、伊勢北部の有力国人である神戸氏の重臣山路弾正忠やまじだんじょうのちゅうが籠る高岡城を攻めた際に強い抵抗に遭い、進軍が停止してしまいます。さらに、先の美濃攻略で斎藤家から織田家へと寝返った西美濃三人衆[1]が謀叛を起こす、という噂が広まります。本拠地を荒らされてはたまらないと、信長は伊勢の抑えとして一益を残し、急遽岐阜城へと帰還します。結局この噂はデマだったですが、伊勢攻略は一旦仕切り直しとなったのです。

 翌永禄十一年(1568年)、信長は再度伊勢へと侵攻します。再び織田家の侵攻を受けることとなった神戸氏方は、今度も撃退してやろうと気色ばんでいましたが、信長は一計を案じて神戸氏へ使者を送ります。和睦する代わりに信長の息子を神戸氏当主・神戸具盛とももりの養子とする、という提案をしたのです。具盛には娘が一人いるだけで、将来家督を継ぐべき嫡子がいませんでした。具盛はこれを承諾、和睦が成立し、神戸氏は織田家の傘下に入ることとなったのです。
 この時神戸氏へ養子として送られたのが信長の三男三七丸、後の織田信孝でした。なぜこの時送られたのが次男の茶筅丸ではなく三男の三七丸であったのかはよくわかっていません。余談として、三七丸という幼名は三月七日に生まれたからと言われていたりします。信長さんのネーミングセンス……

 次いで織田軍は安濃津あのうつ[2]の本拠とする長野工藤氏を攻めます。織田家の侵攻に対し、長野工藤家では抗戦か和睦かで家中が割れており、抗戦派であった長野工藤家当主・長野具藤ながのともふじは追放され、織田家と長野工藤家の間で和睦が結ばれます。和睦派の求めに応じ、当主には信長の弟信包のぶかねが送り込まれ、長野工藤家も織田家の傘下へ収まります。

 こうして伊勢経略を推し進めていった信長。伊勢に残る大勢力は霧山城を本拠地とした伊勢国司・北畠氏のみとなりました。この時の北畠家当主は北畠具房ともふさ。しかし、実権はその父の北畠具教とものりが握っていたようです。具房は先述の長野具藤の兄(具房は長男で具藤は次男)にあたります。
 しかし信長はすぐに北畠氏攻略には取り掛からず、織田忠寛ただひろ[3]を南方への備えとして安濃津城に配置して美濃へと帰還します。この頃、のちに室町幕府十五代将軍となる足利義昭が信長を頼って美濃へ来ており、上洛の準備のため信長は美濃へと帰還したのでした。

 近江の六角氏や畿内の三好氏などを打ち破って上洛を果たしたのちに美濃に帰還した信長は三度伊勢への侵攻を企てます。折しも滝川一益の調略が功を奏し、北畠具教の弟である木造具政こづくりともまさが織田方へと寝返りました。これを好機とみて信長は永禄十二年(1569年)八月二十日に出陣し伊勢へと向かいます。対する北畠氏は信長が来襲するまでに具政の籠る木造城を攻めますが、先の戦いで織田家の傘下に入った神戸氏や長野工藤氏などの北伊勢の国人たちが木造氏の救援に向かったため、木造城は落ちませんでした。信長が木造城に着陣すると、北畠具教・具房父子は大河内おかわち城に籠城、徹底抗戦の構えを見せます。
 信長は木下秀吉に阿坂あざか城を攻め落とさせましたが、それ以外の支城は無視して大河内城に肉薄、これを包囲します。織田勢は夜襲を企てるも失敗、滝川一益による必死の攻撃も失敗するなど、なかなかの苦戦を強いられますが、最終的には兵糧攻めが功を奏し、十月三日に和睦が成立します。その内容は北畠具教・具房父子が大河内城から退去すること、そして信長の息子茶筅丸を具房の養子として迎えることという織田家に有利なものでした。
 こうして茶筅丸は北畠家の養子として大河内城に入り、その補佐として織田忠寛ほか尾張の諸士が付けられました。長島城に滝川一益、神戸城に三男三七丸、安濃津城に弟信包、大河内城に次男茶筅丸。ここに信長による伊勢平定が成りました。

 伊勢長島一向一揆
 北畠家の養子となった茶筅丸は元亀三年(1572年)に元服、北畠具豊ともとよと名乗ります。この頃、織田家は大変な苦境に立たされていました。
 義弟・浅井長政の離反、捲土重来を期す六角氏・三好三人衆の反攻、本願寺法主顕如の命による一向一揆の蜂起、将軍足利義昭との関係決裂、更には武田信玄の西上。いわゆる信長包囲網が形成され、まさに窮地というべき状況でした。
 信長を最も苛立たせたのは伊勢長島の一向一揆です。長島は本願寺一族寺院である願証寺の領域であり、事実上の治外法権が成立していました。これ以前にも、信長によって美濃を追われた斎藤龍興が願証寺へと逃げ込んでおり、信長からすれば長島は敵の巣窟でしかありませんでした。
 元亀元年(1570年)九月、信長が京都にて浅井・朝倉連合軍と対峙し身動きが取れなくなっている間に、本願寺法主顕如の命を受けた一揆勢は長島城・小木江こきえ城・桑名城を落城させ、信長の弟である織田信興を敗死させています。尾張に程近く、交通の要衝である長島が敵対したことは、せっかく統治体制を整えた伊勢と美濃・尾張の交通が阻害されてしまうことを意味し、信長にとって重大な意味を持ちました。
 信長は将軍足利義昭[4]や関白二条晴良はれよし、果ては正親町おおぎまち天皇を動かして浅井・朝倉両氏と和睦すると、翌元亀二年(1571年)に伊勢へと出兵し、一揆勢を攻撃します。これに対し、一揆勢は海路から補給を受けるとともに伏兵を巧みに用いて防衛戦を展開、織田軍は五万の大軍を擁しながらも攻めあぐみ、退却する際に伏兵に遭って柴田勝家が負傷し、氏家直元が戦死するという散々な結果に終わります。

 伊勢から撤退した信長は畿内の安定に目標を切り替え、延暦寺を焼き打ち、義昭を追放し、浅井・朝倉両氏を攻め滅ぼします。ある程度畿内が安定したところで、ふたたび伊勢長島へと兵を向けます。天正元年(1573年)九月に信長は伊勢へ出陣、一向一揆の蜂起に便乗して反旗を翻した国人たちを次々と平定していきました。この時、信長は具豊や北畠具教・具房父子に命じて、伊勢大湊で船の調達するように命じています。前回の長島攻めでの経験から、伊勢湾の制海権を握ることで一揆勢の補給を絶つことが狙いでした。しかし、大湊を治める会合衆は非常に独立性の強い組織だったため、容易に味方に引き入れることはできず、制海権を手にすることはできませんでした。結局、今度も一揆勢を攻め滅ぼすことはできず、撤退するときにまた伏兵を食らって林通政みちまさが討ち死にするという結果に終わりました。

 またも一向一揆の討伐に失敗した信長ですが、だからといって休んでいる暇はありません。畿内に残る敵対勢力を掃討するため出兵、河内国若江城の三好義継を攻め滅ぼし、大和国多聞山たもんやま城の松永久秀を降服させました。
 これで一息ついたと思いきや、今度は朝倉氏の故地越前で一向一揆が蜂起、さらに武田信玄の後を継いだ武田勝頼が活発な軍事行動を起こし、美濃・三河を窺うようになります。
 敵の絶えない信長ですが決してめげません。天正二年(1574年)、またも伊勢長島へと出兵し一向一揆と対峙します。この頃には具豊らが伊勢大湊の国人たちの調略に成功していたようで、具豊は滝川一益や志摩の九鬼くき嘉隆よしたからと共に、水軍を率いて長島攻撃に参加しています。どうやら具豊は参陣するのはこれが初であったようで、珍しいことに船上で初陣を迎えています。
 制海権を得たこともあり、織田軍による兵糧攻めは効果を上げ、一揆勢が降伏を申し出てきました。信長はこれを受け入れたと見せかけ、一揆勢が退去しようとしたところに鉄砲や矢を射かけ、さらに火攻めを行って一揆勢を根絶やしにしました。これにより、長く信長を苦しめた一向一揆は滅びることとなりました。

 家督相続と三瀬の変
 天正三年(1575年)、信長は北畠具房を隠居させ、具豊に北畠家の家督を相続させます。具豊は家督相続後信意のぶおきと名を改め[5]、本拠地を大河内城から田丸城へと移します。田丸城は南北朝時代に南朝方の北畠親房・顕信父子によって築かれたとされる城で、伊勢神宮に程近く南伊勢における要所の一つでした。ここを拠点として、信意は北畠家における実権の掌握を図ります。
 一方、信長の圧力によって隠居させられた具房およびその父具教以下、北畠家側近たちは織田家に心服しておらず、打倒信長の策略を巡らせていました。例えば、武田信玄が西上を行ってきた折に重臣鳥屋尾とりやお満栄みつひでを信玄の下に送って誼を通じ、伊勢湾交通の便宜を図るという密約を交わしていました。この密約はどうやら信長の耳にも入っていたようで、天正四年(1576年)の正月に北畠氏の使いとして満栄が新年の挨拶のため信長の下へ赴くと、信長はなかなか応対せず、満栄があきらめて帰り始めたまさにその時に満栄を呼び戻し、挨拶の前に返ろうとするとは何事かと怒り、満栄の目の前で刀を抜いて見せました。自分に逆らうとどうなるか、ということを暗に示したのです。
 しかし、具教・具房父子の敵対行動は止まりません。同年夏頃に信意は紀伊国熊野攻略を狙い、赤羽あかば新之丞しんのじょう・加藤甚五郎らを送り込むのですが、具教が新宮城の堀内氏をはじめとする熊野衆をけしかけ挙兵させたことで加藤甚五郎の籠る紀伊長島城が落城、加藤甚五郎は敗死し、さらに赤羽新之丞が敵方へと寝返るという尋常ならざる事態が発生し、熊野攻めは失敗に終わります。信長包囲網を形成する諸大名が次々と倒されていく中で、それでも反信長の姿勢を崩さなかったことから、具教・具房父子は信長に対しかなり強い不快感を持っていたことがわかります。

 信長は具教・具房父子の抹殺を決意し、藤方朝成ふじかたともなり・奥山知忠ともただ柘植つげ保重やすしげ・長野左京進さきょうのしんの四名を招集して賜領を約した上で具教暗殺を命じます。彼らは代々北畠家に仕えた者でありましたが、奥山知忠以外はこの計画に参加、具教の居る三瀬みせ御所に討ち入り、具教以下二人の子と多数の北畠家臣が殺害されました。
 具教暗殺と同じ日、信意も居城田丸城に北畠一族及び家臣を集め、合図の鐘とともに一挙に殺害、これによって具教の次男長野具藤、三男北畠親成と具教の娘婿坂内具義さかないともよしらが消し去られました。
 信長・信意父子により、主要な北畠一門・家臣は軒並み殺されました。信意の養父であった具房は助命されましたが、身柄は滝川一益の下へ送られ、伊勢長島城にて幽閉されることとなります。
 北畠家の残党は霧山城に立て籠もりますが、羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信らが率いる大軍の前に敗北、霧山城は焼け落ちてそのまま廃城となりました。
 以上の北畠家抹殺事件を三瀬の変と呼びます。この事件によって伊勢の反織田家勢力はほぼ一掃され、信意による北畠家掌握が飛躍的に進むことになります。
 また、信意は北畠家誅滅とほぼ同時に、それまで長きに渡って自らを補佐してきた織田忠寛を粛清しています。北畠氏の始末について信意と意見が食い違ったことと信意に重用されていた滝川雄利たきがわかつとしと柘植保重の讒言によるものとされています。

 その後北畠一族誅殺の報を受け、大和興福寺東門院にて出家していた北畠具教の弟が還俗して北畠具親ともちかと名乗り、天正五年(1577年)に生き残った北畠家旧臣の助けを受けて挙兵しますが、信意軍に攻められ敗北、具親は毛利氏を頼って安芸へ落ち延びていきました。
 これにより織田家は北畠家、ひいては伊勢の地を完全に手中に収めたのです。

 天正伊賀の乱
 家督相続以後、信意は織田家の将として各地を転戦しています。天正三年(1575年)には越前で蜂起した一向一揆の討伐、天正五年には紀伊の雑賀衆討伐、天正六年には石山本願寺攻め、播磨神吉かんき城攻め、摂津有岡城攻めに加わっています。信意は兄信忠の指揮の下、奮戦します。天正三年に織田家家督が信忠へと譲られ、織田家主力の指揮を信忠が取っていたことを考えると、信意率いる南伊勢勢は本隊を支える強力な遊撃部隊として重宝されている様子が窺えます。信意に対する父信長の覚えも良かったのではないでしょうか。

 しかし、信意はここで大失策をやらかします。天正七年九月、父の信長に無断で隣国伊賀へと出兵し、柘植保重以下二千の兵が討ち死にするという大敗北を喫するのです。
 畿内のかなりの部分を平定し、中国地方や甲信越地方へと手を伸ばしつつあった織田家でしたが、伊賀は畿内にありながら未だに独立を保っていました。伊賀の国人たちは、国内に546もの城郭や館をつくり、一致団結して各大名からの干渉を排除していました。これを伊賀惣国一揆と呼びます。
 信意は伊賀攻めの前年に、家臣に対し伊賀丸山城の修築を命じています。この城は北畠具教が隠居のために築城しようとしていた城だったのですが、具教が伊勢の三瀬御所に留まった結果放置されていました。おそらく信意は伊賀盆地の中央に位置する丸山城を拠点として伊賀の領国化を図っていこうとしたのでしょう。しかし、それは一揆勢の望むところではありませんでした。一揆勢は丸山城を攻撃、修築に取り掛かっていた伊勢勢を追い払います。これに対して信意は伊賀に約八千の兵を率いて出兵、その四分の一を失う大敗北を喫するのです。
 独断で兵を起こした上に貴重な戦力を損耗させた信意に対し、信長は激怒し、以下の譴責状を信意に送りつけます。

"このたび伊賀の国境で負け戦をしたそうだが、誠に天の道理にそむく恐ろしいことで、天罰ともいえる。その理由は、お前が上方へ出陣すれば伊勢の武士や民衆が苦労するというので、要するに、隣国と合戦ということになれば他国への出陣をまぬがれることが出来るという意見に引きずられ、もっと厳しく言えば、若気の至りでそういう考えが正しいと信じて、このたびの事態となったのか。まったく残念なことだ。上方へ出陣すれば、それは第一に天下のためになり、父への孝行、兄信忠への思いやりともなり、結局のところお前自身の現在・将来のための功績となるはずだ。当然のことだが、三郎左衛門(筆者注:柘植保重のこと)その他を討ち死にさせてしまったのは言語道断、けしからぬことである。本当にそのような考えでいるならば、親子の縁を切るようなことにもなると思うがよい。なお詳細は、この書状を持参する使者が申し伝えるであろう。"  

中川太古訳『信長公記:現代語訳』より

 信長の凄まじい怒りが見て取れます。前述の通り、信意率いる南伊勢勢は必要とあらばどこへでも駆けつける遊軍として重宝されていたのであり、この軍勢が使えなくなってしまうと織田家全体の戦略に支障が出てくる恐れがありました。さらにこの頃、織田勢は石山本願寺や離反した摂津有岡城の荒木村重討伐にかかりきりであり、信長としてもいらだちが募る時期だったと思われます。そんな最悪のタイミングでの独断の出兵による大敗北。信長が怒るのも当然でしょう。

 なお、信意がこの時期に伊賀の領国化を狙った理由はよくわかっていません。上記の譴責状では「遠国での戦争を厭い、近国へ攻め込むことにした」ことになっていますが、信意は本当にそんな適当な理由で伊賀へと攻め込んだのでしょうか。
 当時の状況を考えると、伊賀攻めの前年である天正六年(1578年)に安土城が築城されています。安土城は琵琶湖水運の要であり、また北陸方面へ向かう際の要衝に位置していました。織田家主力の遊撃部隊として活躍していた信意軍団としては、本国伊勢から遠征の拠点となる安土城方面へのアクセスは万全にしておきたいところです。そして安土城へと向かう際の最短ルートは伊賀を通過するルートです。伊賀を通らないにしても、伊賀の北方をかすめるように通っている東海道を行くルートを選択することになるでしょう。実際、本能寺の変の際に信意は伊賀を通って近江へと至っています。つまり、信意軍団にとって有事の際に迅速かつ安全な行軍ルートを確保するには、伊賀の領国化が不可欠だったと考えられます。
 史料が無いため実際のところはわかりませんが、以上のことから信意は近かったといういい加減な理由だけで伊賀に攻め込んだわけではなく、ちゃんと戦略的意義を勘案して行動を起こしたのではないでしょうか。まぁ、伊賀の国人たちに言い訳できないくらいボコボコにされてしまっているのは擁護できませんが……

 その後信意は謹慎していたのか、しばらく活動の記録がありません。翌天正八年(1580年)、居城であった田丸城が家臣の放火によって焼け落ちます。信意は犯人を捕らえて処刑、その後松ヶ島城を築城して本拠としました。

 そして翌天正九年(1581年)、雪辱を期して伊賀へと侵攻します。信意を総大将とし、滝川一益・丹羽長秀・堀秀政といったそうそうたる顔ぶれが伊勢・近江・大和の軍勢を率いて四方から伊賀に進軍しました。さしもの伊賀惣国一揆もこの大軍が相手では手の打ちようがなかったようで、多くの国人が降伏します。それでも抵抗する者については、以後ゲリラ戦が展開されるのを防ぐため、城砦を次々と破壊しつつ山中に隠れた者たちを探し出して皆殺しにしていきました。
 こうして伊賀は平定され、伊賀四郡のうち東部の山田郡を除く三郡が信意に与えられました。以上の織田家による二度の伊賀侵攻のことを天正伊賀の乱と呼びます。

 本能寺の変
 伊賀での失態はありましたが、織田一門における信意の地位はかなり高かったようで、天正九年に京都で行われた馬揃えにて、信意は伊勢三十騎を率いています。信長の嫡子である信忠は美濃・尾張八十騎を率いており、別格の地位にあったことがわかりますが、信包・信孝・信澄といった他の一門衆が率いた数は十騎であることから、信意は一門の中では少なくとも信忠に次ぐ地位にあったと考えられます。所領の規模でも、信意は全域ではないとはいえ伊勢・伊賀の二国を領しており、これは美濃・尾張を領する信忠に次ぐ規模でした。信長はなんやかんやで信意を目にかけていたようです。

 しかし、そんなことも吹き飛ぶ事件が起きてしまいます。天正十年(1582年)、本能寺の変にて父信長と兄信忠が横死してしまうのです。
 信意は報を聞きつけるとすぐに出兵、伊賀を越えて近江甲賀へと至ります。しかしここで先に平定したはずの伊賀国人衆が不穏な動きを示したため、信意軍は身動きが取れなくなってしまいます。本能寺の変直前に興された弟信孝を総大将とする四国攻めの軍に信意麾下の南伊勢勢も動員されていたようで、信意軍は兵力が心もとなかったためににっちもさっちもいかなかったのだとされています。
 その後、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破ると、安土城を占拠していた明智秀満は城から退去します。この直後に安土城は炎上、城下町と共に灰燼に帰すのですが、その犯人が信意ではないかと言われています。普通に考えれば、城から退去した秀満が火をつけたと考えるのが妥当であり、実際『太閤記』などでは秀満が放火したことになっています。しかし、『兼見卿記かねみきょうき』では秀満が城を出た次の日に出火したと記載されているほか、『耶蘇会日本年報』でははっきりと信意が火を放ったと書かれています。ルイス・フロイスの記した『日本史』に至っては、「付近にいた信長の子、御本所(筆者注:信意のこと)はふつうより知恵が劣っていたので、なんら理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命ずることを嘉し給うた。城の上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった。」としています。
 どう考えても父信長が心血を注いで築き上げた安土城を焼き払うメリットが信意にはなく、また一揆勢による放火という説もあるため確言はできませんが、少なくとも信意が相当狼狽していたであろうことはなんとなく想像できるかと思われます。それにしてもフロイスさん、ヒドイことをさらっと言っていますね……

 清須会議と賤ヶ岳の戦い
 山崎の戦いの後、織田家の後継者選定及び遺領の配分を行うため、尾張の清洲城に織田家の重鎮が集まりました。かの有名な清須会議です。しかしこの会議、有名な割によくわかっていないことが多く、後継者候補たる信意自身がこの会議に出席したかどうかも定かではありません。史料によって出席した面々が異なっており、どれが本当かわからないのです。少なくとも、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興つねおきの四名は集まっていたようです。当の信意は自分こそが後継者としてふさわしいと弟である信孝と散々いがみ合っていたようで、重臣たちはいがみ合っている二人のどちらかを家督に就けるのはマズいと考えたのか、後継者の座は信忠の子・三法師に決まりました[6]
 遺領配分では、信意は南伊勢・伊賀に加え尾張一国を獲得しており、会議後本拠を清洲城に移すとともに、北畠から織田へと復姓、はじめ信勝、ついで信雄と名乗るようになります。なぜ一瞬とはいえ、彼はかつて亡き父に対して謀反を起こした叔父の名を名乗ったのでしょうか……
 ちなみに信孝には美濃が与えられ、岐阜城へと本拠を移しています。

 清洲会議以降、羽柴秀吉の活動が活発化します。これに対し、柴田勝家と織田信孝、そして滝川一益は手を結んで秀吉に対抗しようとします。秀吉が信孝に対し、信孝の居城岐阜城にいる三法師を清須会議の際の決定通り安土城へと移動させるよう要請したのですが、信孝はこれを拒否し戦の準備を始めたのです。
 しかし、時期が最悪でした。折しも十二月。北陸は雪で道が閉ざされる頃合いであり、越前北ノ庄城を本拠とする勝家は出兵できません。その隙を突いて秀吉は信雄と結んで岐阜城へ出兵、勝家の援軍を受けられなかった信孝はあっさり秀吉に屈服することとなり、三法師は安土城へと移されました。信長の子息のうち、最も信長に似ているとされていた信孝でしたが、父と違って戦略眼は皆無だったようです。
 次いで秀吉は信雄とともに北伊勢に陣取る滝川一益を攻撃、その隙を突くように出兵してきた柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで打ち破ると、越前に侵攻して勝家を自害させます。信雄は信孝を攻め岐阜城を包囲し、遂に降伏させました。その後信孝は自害させられています。秀吉・信雄連合軍は伊勢長島城に籠る一益も降し、対抗勢力を一掃しました。
 この戦いの結果、信雄は信孝の旧領である北伊勢を獲得し、尾張・伊勢・伊賀三カ国、石高にして120万石を誇る大大名となったのです。

 小牧・長久手の戦い
 天正十一年(1583年)、柴田勝家らを滅ぼした羽柴秀吉は、摂津石山本願寺の故地に大坂城を築きます。これは諸大名を動員する天下普請として行われ、秀吉は天下人としての第一歩を踏み出します。この様子を見て信雄は反発、東方の実力者徳川家康に接近します。また、秀吉に内通した疑いにより、家老の津川義冬・岡田重孝・浅井長時を謀反の罪で誅殺します。これにより秀吉と信雄の関係は決裂、信雄は家康とともに各地の大名へと秀吉糾弾の書状を送って味方を募っています。事実上の宣戦布告でした。
 天正十二年三月十三日、信雄は清洲城にて家康と合流します。その同日、羽柴方で参戦していた池田恒興が犬山城を奇襲し、これを攻め落とします。さらに秀吉は織田陣営に揺さぶりをかけるため、弟羽柴秀長や蒲生氏郷らに命じて伊勢へと侵攻、三月十四日には峰城、三月十九日には松ヶ島城を攻め落としています。
 一方の織田・徳川連合軍は、羽柴方の森長可ながよしが突出したところを見逃さず、これを奇襲して敗走させます(羽黒の戦い)。その後三月末頃まで、両軍ともに砦や陣の修築を行ったことで容易に手が出せなくなり、膠着状態は続きます。この膠着状態における小競り合いを総称して小牧の戦いと呼びます。
 しびれを切らして動いたのは羽柴方で、羽柴秀次を大将とし、池田恒興・森長可・堀秀政を核とする別動隊が編成され、家康の本国である三河への奇襲を試みますが、この動きは完全に見破られており、秀次隊は長久手にて挟み撃ちに遭い、大混乱のうちに潰走してしまうのです。この四月九日の長久手の戦いで池田恒興・森長可らが戦死するなど、羽柴方は少なからぬ損害を被ります。

 その後戦いはまた膠着状態に陥ります。秀吉は十万ともいわれる圧倒的な大軍を擁しながら、織田・徳川連合軍を打ち倒せないことに焦りを覚え、これ以上の長期の対陣は望ましくないと考えます。
 九月十五日、秀吉は蒲生氏郷に命じて伊勢戸木へき城を攻撃させます。この城は木造具政が詰めており、信雄にとって重要な拠点の一つでした。秀吉は攻撃の重点を伊勢へと移し、信雄の戦意をくじく方針へと転換したのです。
 尾張で対陣している間に着々と伊勢の拠点が落ち、幼いころから伊勢が本拠地であった信雄としては気が気でありません。遂に十一月十五日、信雄は家康に無断で秀吉と講和を結びます。この結果、家康は秀吉と戦う大義名分を失い、家康も秀吉と講和しました。

 局地戦では勝利していたにもかかわらず、勝手に講和を結んだことは信雄の大ポカと言われますが、正直相手が悪すぎただけな感があります。というのも、秀吉が信雄の後方攪乱を図ったのと同様に家康・信雄も四国の長宗我部氏や紀伊の雑賀衆・根来衆などと誼を通じ、秀吉方の後方攪乱を図っていました。しかし、これらはことごとく秀吉にいなされており、秀吉の優位を崩すことはできなかったようです。

 豊臣政権期以降
 秀吉との和睦後、天正十三年に信雄は秀吉の要請によって上洛、秀吉の推挙によって正三位権大納言に就任します。その半月後には秀吉が正二位内大臣に任官されていることから、信雄は実質的に羽柴臣下へと組み込まれました。
 以降、信雄は秀吉に従って各地を転戦します。天正十三年(1585年)の雑賀攻め、四国討伐、佐々成政討伐。さらに秀吉と家康の仲介も行い、天正十四年(1586年)には家康の上洛を実現させています。天正十八年(1590年)の小田原征討にも参加しています。
 しかし、信雄はここでもやらかしてしまいます。小田原征討の後、秀吉は家康を旧北条領へ転封し、旧徳川領へ信雄を転封することを取り決めます。家康は黙ってこれを受け入れたのですが、信雄は先祖代々の土地である尾張と育った場所である伊勢を離れたくないと秀吉に訴えてしまったのです。天下人の命に逆らうとどうなるか、信雄はどうも理解していなかったようです。秀吉は自らの裁定に従わないのは不届きであるとして信雄の全領地を没収、信雄は下野へ配流されてしまいます。120万石の大大名から0石の浪人へとまさかの大転落です。

 追放された信雄は出家し、常真と号します。その後出羽国秋田、次いで伊予へと移住しています。
 文禄元年(1592年)、朝鮮出兵の際に常真は秀吉に招かれて肥前名護屋城へと赴きます。文禄三年には嫡子の織田秀雄が越前大野郡四万五千石を領しており、常真本人も大和で一万七千石の扶持を受けていたことから、この頃には赦免されたようです。
 慶長五年(1600年)の関ケ原の合戦の際には常真自身は日和見を決め込んでいたものの、秀雄が西軍に与したため、所領を失い大坂にて蟄居します。
 大坂の陣の際には豊臣秀頼から大坂城に入城することを薦められますが、常真はこれを拒否して逃亡します。徳川家康はこの行動を褒めたたえ、豊臣氏滅亡後、常真に大和国・上野国五万石を与えています。
 常真は任国へは赴かず京都に隠棲し、茶や能など[7] 悠々自適の生活を送り、寛永七年(1630年)四月三十日に七十三歳で没しました。常真の子孫はその後末永く続き、廃藩置県に至るまで断絶することはなく、明治時代以降も華族として存続しています。また、系図を辿っていくと常真の四男信良の血筋は現在の皇室へと連なっています(織田信良 ― 娘(夫:稲葉信通) ― 稲葉知通 ― 稲葉恒通 ― 娘(夫:勧修寺かじゅうじ顕道) ― 勧修寺経逸つねはや ― 勧修寺ただ子(光格天皇典侍) ― 仁孝天皇 ― 孝明天皇 ― 明治天皇 ― 大正天皇 ― 昭和天皇 ― 今上天皇)。三介殿の系譜はいまだ途絶えていないのです。

 おわりに
 後世の評価では暗愚だの馬鹿殿だのと実に低い評価を受けている信雄ですが、悪政を敷いたという話もなく、最終的には大名として命脈を保っており、本人も隠居後は悠々自適な生活を送っていったあたりから、本当に全くの無能というわけではなかったのではないかと思われます。父・信長に厳しく譴責されたことや、豊臣秀吉や徳川家康が関わる事柄での失策といったように、3人の天下人が関わっている目立つところでどでかい失敗していることが今日の酷い評価につながっている気がします。まぁ業績を見る限り、有能な人物とはとても言えそうにないですし、なにより同時代の人間に「三介殿のなさる事よ……」と呆れられているあたり、やっぱりなにかしら残念なお方だったという事実は覆せそうにもありませんが……


織田信雄関係地図

参考地図 各参考文献より作成


    注釈
  1. ^ 稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)の三人のこと
  2. ^ 「あのつ、あののつ」とも。現在の津市
  3. ^ 信長の親戚。織田掃部かもん、津田一安かずやすとも
  4. ^ この時点ではまだ信長と義昭の関係は保たれていました。元亀三年に武田信玄の西上開始前後に信長が義昭に対し非難文を送りつけたことで関係が決定的に悪化しています。
  5. ^ 家督を継いで早々に北畠家の通字である具を捨てて織田家の通字である信を採用しているあたり、北畠家を簒奪しようとする明確な意図がうかがえます。
  6. ^ 清須会議の際に柴田勝家が信孝を推し、三法師を推した羽柴秀吉と対立したという有名な逸話がありますが、これは江戸時代に書かれた『川角太閤記』の創作であり、当時の文献にはそのような記述は見当たりません。ちなみに、『川角太閤記』では清須会議がなぜか岐阜城で行われたことになっています。
  7. ^ 常真の茶の師は弟の織田長益、法号有楽斎うらくさい如庵。東京都の有楽町という地名の由来となった人物です。また、常真は江戸幕府三代将軍徳川家光から江戸城で行われた茶会へ招待されています。さらに常真は能の名手でもあったようで、その腕前について公家の近衛信尹のぶただに称賛されています。加えて、家康に与えられた領地に風光明媚な庭園を築いています。これが群馬県甘楽町に現存する楽山園で、国指定名勝となっています。楽山園という名は『論語』の故事に由来しており、常真がしっかりとした教養を持った人物であることがうかがえます。このあたりのエピソードを見る限り、駿河のファンタジスタこと今川氏真と同様、生まれる時代を間違えた人物であるように思えてきます。

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