2017年4月15日
九州戦乱記  skrhtp


 初めに
 九州では鎌倉末以来、江戸初期に至るまで諸勢力入り乱れての戦乱が続いた。その原因は新旧勢力間の軋轢や勢力拡大を図る動きなどであり、また中央での争いが飛び火してのものも多々あった。本稿では、九州での戦乱の経過を戦いや勢力図の変化を中心に記していく。なお、島津氏と琉球の関係や秀吉の朝鮮出兵の経過については九州での戦乱ではないため記さない。また、島原・天草一揆は勢力間の争いではないが、浪人反乱としての側面などの理由からここに含めた。

 菊池合戦から南北朝時代へ
 九州での鎌倉末・南北朝期の争いは、正慶二(1333)年閏二月に菊池武時と阿蘇惟直が後醍醐天皇の蜂起に応じて鎮西探題を攻撃したことに始まる。このとき少弐貞経と大友貞宗も共に挙兵することを密約していたが、両者は探題方に寝返った。武時は犬射馬場で敗死し、武時の子武重と阿蘇惟直は敗走した。鎮西探題北条英時は肥後国守護規矩高政に菊池・阿蘇討伐を命じ、高政は日向国鞍岡城を攻略した。しかし五月二十五日に六波羅探題陥落の報せが入ると、貞経と貞宗はすぐさま島津貞久と共に寝返り、九州の武士たちもこれに続いて探題を攻撃、英時を攻め滅ぼした。
 後醍醐天皇の下では、貞経が筑前・豊前の守護に任じられ、大友・島津両氏には北条氏に奪われていた守護職が返還された。また筑後守護には豊前の有力武士宇都宮冬綱が任じられた。最も大きな恩賞を受けたのは肥後の菊池一族で、武重が肥後守、武敏が掃部助、武茂が対馬守、武澄が肥前守に任じられた。一方同国の阿蘇大宮司家では惟時が国上使[1]に任じられた。
 建武元(1334)年正月には、規矩高政と元豊前守護糸田貞義の反乱が起こった。これを受けて少弐貞頼と大友貞載が発向したが、鎮圧には至らなかった。同年七月には島津荘日向方南郷でも北条氏縁故者らが一揆結合して反乱が起こったが、こちらは間もなく鎮圧された。一方規矩・糸田両氏の反乱は八月には山場を越え、間もなく少弐貞経・宇都宮冬綱らも下向して鎮圧にあたったが、結局鎮圧には翌年正月までかかった。
 建武三年には、政権から離反して京都で敗れた足利尊氏が九州へ逃れてきた。これに対し、日向国では伊東祐広[2]・益戸行政らが足利氏所領国富荘に乱入、その後穆佐城に立て籠もり、大隅国の肝付氏がこれを支援した。菊池武敏は尊氏を迎え討つため北上、大宰府有智山城で少弐貞経を敗死させた。一方、貞経の子少弐頼尚は長門国赤間関で尊氏を迎えた。少弐氏や大友氏を従えた尊氏は三月二日、多々良浜の戦いで菊池武敏軍と衝突した。戦いは尊氏方の圧勝に終わり、菊池軍と共に戦った阿蘇惟直・惟成兄弟も肥前国天山で討死にした。尊氏は大宰府に入ると九州の武士たちを招集、約一か月後の四月三日、一色範氏を九州探題として置いた上で九州勢を率いて京に攻め上った。尊氏が九州を離れると菊池氏は再び活発に活動し始め、同年の内に安楽寺、鳥栖原などで尊氏方と交戦した。
 尊氏が京を制圧した後、南朝方と北朝方に分かれての戦乱が始まった。建武四年には、犬塚原で一色軍と阿蘇・菊池軍が交戦、一色軍は敗れ一色頼行が戦死した。南九州では島津氏が北朝方に、土着領主の肝付氏・谷山氏や総地頭の鮫島氏、島津一族の伊集院氏などが南朝方に就いた。また幕府からは国大将として足利一門の畠山直顕が派遣され、大隅の北朝方において中心的役割を担った。
 暦応元(1338)年[3]には宇都宮冬綱が南朝方に寝返ったが、少弐頼尚がこれを討った。またこの頃菊池武重が没し菊池武士が跡を継いだが、北朝方の合志幸隆に本城である深川城を奪われた。同じ頃中央では新田義貞が戦死し後醍醐天皇も没して南朝方は大きく劣勢に立たされた。

 三勢力鼎立と征西府の時代
 北朝方優勢となった九州だったが、後醍醐天皇が征西将軍譜を設けて懐良親王を征西大将軍として派遣したのを機に情勢は一変する。懐良親王は康永元(1342)年には谷山隆信に迎えられ薩摩国谷山城に入った。これに対し幕府は島津氏に薩摩国人への軍事督促を行わせ、谷山氏らと交戦させた。一方肥後では貞和元(1345)年に阿蘇惟澄が菊池武光を助けて深川城を奪還した。貞和四年、懐良親王は肥後に入り武光に迎えられて隈部山城に入った。同年の内に、懐良親王は菊池氏や阿蘇氏を従えて筑後国に入った。これに対抗する武家方の中心は筑前を拠点とする九州探題であったが、九州探題の経済基盤は弱く、強力な守護勢力が居並ぶ九州を統括できなかった。また鎌倉以来筑前を基盤としていた少弐氏に至っては九州探題と対立していた。
 貞和五年には、中央での対立により足利直冬が九州へ逃れてきた。直冬は川尻幸俊に迎えられて肥後に上陸すると探題方を破りつつ北上、観応元(1350)年には大宰府に入った。少弐頼尚は九州探題に対抗するため直冬を擁立、幕府や九州探題はこれに討伐命令を出した。これにより九州では九州探題の将軍方、菊池氏を中心とする宮方、大宰府の佐殿方が鼎立する状況となった。翌年六月には、中央で足利直義が優勢になったことで直冬が九州探題に任じられた。これにより地位を失った一色範氏は宮方と結び勢力維持を図った。しかし同年八月には中央で直義が失脚して直冬は後ろ盾を失い、更に懐良親王が筑後国府に入ったことで直冬の勢力は大きく減退した。
 この頃肥前北部では、松浦地方の擬制同族集団・松浦党が地域の武士たちを吸収して勢力を拡大、更には壱岐へと進出した。観応の擾乱に際して松浦党は佐殿方に就き、一族の志佐有が壱岐守護に任命された。
 日向では、当初から南朝方であった伊東氏が足利方に転じるようになった。そしてそれに伴い、本宗家の伊藤祐重が日向に下向してきた。祐重は木脇伊東氏の協力を得つつ支配を固め、都於郡城を築いて居城とした。一方九州山地では南朝方勢力が優勢で、阿蘇惟澄は高知尾荘の人々などからなる山内衆を味方につけて活動、貞和五年には南朝方の日向国守護となった。
 観応三年、直冬は一色氏に敗れたのを機に中国地方に逃れた。少弐頼尚は宮方に下り、九州は再び宮方と武家方の対立構造となった。また南九州では、直冬に味方していた畠山直顕の力が弱まり、島津氏が大隅の国人を取り込むようになった。その後の延文五(1360)年、直顕は氏久と盟約を結んで南九州から撤退した。これにより島津氏の大隅領国化の基礎が築かれることになる。
 文和二(1353)年、菊池武光・少弐頼尚連合軍は針摺原の戦いで一色範氏を破り、その2年後懐良親王が博多に入って一色父子は長門国へ敗走した。一方九州探題がいなくなったことで、少弐・大友ら旧守護勢力は宮方に与する理由がなくなった。延文三(1358)年、大友氏時は豊後高崎山で挙兵、少弐頼尚もこれに呼応して龍造寺・深堀・松浦党など武家方を結集して菊池へ攻め込もうとした。これに対し菊池武光は総力を集めて北上、翌年少弐・菊池両軍は激突、筑後川の戦いが起こった。激戦の末に少弐軍は壊滅、敗走して宝満山に籠った。一方菊池軍も追撃する力はなく撤退した。この敗戦により少弐氏の勢力は大きく失われることになった。
 筑後川の戦いから2年後に懐良親王は大宰府に入り、九州支配の政庁として征西府を置いた。これにより筑前は宮方によって制圧された状態となり、また少弐氏は武家方と宮方に分裂した。一方幕府は延文五年に斯波氏経を九州探題としたが、氏経は宮方に敗れ、その後継の渋川義行は九州に来ることはなかった。南朝方優勢の状況の中で、同年には南朝方が薩摩の和泉氏・牛屎氏や大隅の馬越氏、肥後国芦北郡七浦衆らに一揆を結ばせ、島津氏に対抗させた。一方の島津家では、貞久が薩摩と大隅の守護職を息子二人に分譲し、島津氏は薩摩の総州家と大隅の奥州家に分かれて支配を進めていった。
 貞治元(1362)年には菊池武光が九州探題斯波氏経と少弐冬資を長者原の戦いで破り、その翌年に斯波氏経が周防へ逃れるなど九州では宮方優勢の状態が続いた。応安四(1371)年には、島津氏も南朝年号を用いるに至った。一方この頃、肥後の阿蘇家では惟澄が北朝方に就いていた嫡子惟村を大宮司の後継者とした。これに対抗して、惟村の弟惟武は宮方から大宮司に補任された。一方の惟村は将軍足利義詮から大宮司職と神領の安堵を受けた。これにより阿蘇大宮司家は二つに分裂することになった。

 今川貞世の九州征圧
 宮方優勢の九州であったが、応安四年に今川貞世(了俊)が九州探題に就任したことで情勢は一変する。貞世は子息義範を豊後に、弟仲秋を肥前に送った後、豊前から宮方を攻撃した。翌年には島津氏や下相良氏が貞世の傘下に入り、下相良氏の帰順で南朝方一揆は分解した。同年の内に貞世は大宰府を奪還し、宮方は高良山へ撤退した。その後筑後川を挟んでの攻防が続いたが、その間に菊池武光・武政父子が没したため宮方は菊池へ退いた。
 応安七年には宇都宮直綱が豊前で挙兵し探題方はこれを討伐した。翌永和元(1375)年には貞世は肥後へと進軍、七月には水島に陣して島津氏久・大友親世・少弐冬資に参陣を求めた。このとき氏久は初めて貞世の下に参陣したが、冬資だけはなかなか参陣しなかった。貞世は氏久に参陣を要請させ、冬資はこれに応じてやっと参陣した。しかし貞世は九州探題の立場を確立するため、酒宴の席で冬資を謀殺した。これにより貞世は筑前守護職を少弐氏から奪うことに成功し、少弐氏は決定的に衰退した。一方で島津氏久は冬資暗殺に激怒して軍勢を引き揚げ、その隙に菊池勢は探題方を攻撃、貞世は肥前に撤退した。これ以降島津氏は探題から離反、南九州は一時九州探題から離れることになった。
 島津氏の離反により貞世の九州計略は頓挫したが、幕府の求めで大内義弘が九州に渡り、その協力で貞世は体勢を立て直した。貞世は島津氏から薩摩・大隅国守護職を接収し、息子今川満範を三ヶ国大将として南九州に派遣した。満範は薩摩の渋谷氏や肥後の相良氏らを味方につけ、北郷氏郷らの守る都城を包囲した。都城包囲戦は消耗戦となり、探題方が海賊を押さえていたことにより海からの支援が困難だったため、島津方は「野伏」を放ち対抗した。一方で伊東氏などは探題方に就いたがあまり協力的ではなく、やがて貞世は指示に従わないものを島津方と見做す方策をとるようになった。また貞世は国人たちの反島津意識を利用した。永和三年、今川方は簑原合戦で島津氏を破った。同年貞世は薩摩・大隅・日向・肥後の国人たちに反島津の一揆を結ばせる。この一揆に参加した国人たちの大半はかつての南朝方一揆の参加者たちだった。この年の末、島津氏久は貞世に帰服した。この帰服は国人一揆に動揺をもたらすことになった。
 貞世が南九州経営に苦戦する一方で、宮方は永和二年後半から肥前に進出したが、千布・蜷打の戦い、次いで肥後臼間野・大水の戦いで大敗を喫した。一方貞世は肥前では、分裂する上松浦党を波多広と有浦祝の所領問題などから纏めていき、上松浦党・下松浦党に一揆契約上を作らせた。
 貞世は対島津の態勢が整うと、中国勢を含む大軍で菊池を攻める準備を整えた。永和三年には今川頼泰と大内義弘が臼間野で菊池武朝を破った。翌年貞世は熊本・藤崎に陣したが、九月二十五日の詫磨原の戦いでは菊池武朝の奇襲の前に敗れた。更にこの頃、島津氏が再び貞世から離反する。康暦二(1380)年には、今川方は再び都城を包囲した。翌年、今川方は土持栄勝を中心として五回にわたり都城を攻めた。しかしこの年の末、島津氏が貞世に帰服した。これにより島津氏は薩摩・大隅の守護職を回復することになった。一方この和睦は反島津の土着勢力の不信感を高めた。
 永徳元(1381)年になると、貞世は木野城・深川城・隈部山城を落とし、宮方は宇土・八代に逃れた。至徳元(1384)年、幕府が大友親世を日向国守護に任命すると伊東氏と土持氏が抵抗した。翌年親世が守護職を返上したため、日向国守護は貞世が兼任することになった。更に同年の内に相良氏が一揆から離反、禰寝氏なども貞世に離反して一揆は崩壊した。島津氏も帰順したとはいえ従順とはいえず、貞世の南九州経営は困難なままだった。嘉慶元(1387)年には氏久が死去し、島津元久が跡を継いだ。一方貞世は宇土の宮方を攻略、明徳二(1391)年には八代古麓城の名和興顕も降伏した。これにより貞世の九州征圧はひとまず達成された。

 途絶えぬ戦乱
 明徳三(1392)年、中央では将軍足利義満の下で南北朝が合一した。一方九州では、今川貞世が豊後を除く大半の地域を直接的に支配するようになっていた。しかし明徳四年には良成親王が蜂起し、相良氏・和田氏・高木氏がこれに応じた。これに対し島津元久は国人たちと共に梶山城を攻撃、激戦の末和田氏を敗北させた。一方相良前頼は都城に向かったが、樺山・北郷両氏の反撃で敗死した。その後相良氏は真幸院の北原氏を攻め、北原氏が元久に助けを求めたため元久は真幸院から相良氏を追い払った。こうして南九州では元久の勢力が拡大するとともに、国人たちが九州探題の配下となった。しかし応永二年、貞世の強大化を警戒した義満は貞世を突如解任し京に召還した。九州探題には足利一門の渋川満頼が任命され、大内義弘が後見役として大宰大弐に任命された。
 九州ではその後も争いが続いた。北九州では、応永年間を通じて少弐氏と九州探題渋川氏の抗争が続いた。また貞世に降っていた菊池武朝も満頼には従わず、少弐貞頼と結んで探題に敵対した。これに対し満頼は阿蘇惟村を肥後国守護に任じて菊池氏に対抗させた。幕府も九州の諸氏に少弐氏らの討伐を命じた。応永五年には足利義満が大内義弘に九州入りを命じ、義弘は菊池・少弐軍を破った。しかし義弘は菊池・少弐両氏に大内討伐の御教書が下ったという噂を信じ込み、九州を去り京都へと攻め上った。その後義弘は討死し弟弘茂が降伏して大内家を継いだが、兄盛見との内紛に敗れて戦死した。盛見は幕府から大内家当主と認められ、更に豊前・筑前国守護に任命された。
 肥前では、小城郡を本拠とする千葉氏が九州探題に反抗した。千葉氏はこの頃には少弐氏や九州探題といった肥前守護の勢力さえ抑えて肥前の支配の中心にあった。満頼は応永六年に千葉氏及び松浦党らと交戦して養父郡綾部城に入った。応永十一年には千葉胤基とその家臣鎰尼泰高の対立から合戦が起こり、貞頼が泰高に味方した。満頼は胤基に味方して貞頼を破り、藤津・高来郡を抑えた。しかし翌年には菊池氏配下の赤星氏に綾部城を攻められ、博多に逃れた。
 日向では、応永六年に伊東氏支配地域で国人たちの反乱が多発した。これに対し幕府は翌年に日向を御料国(幕府直轄国)とした。それに伴い、日向の国人たちの将軍直轄の奉公衆化が進められた。応永八年には島津方が伊東領に討ちいったが、伊東氏はこれを鎮圧、島津氏との境界を確保した。その一方で、応永十一年には島津元久が日向国守護に補任され、元久の実効支配が認められた形となった。
 島津家では、元久が薩摩に支配を伸ばしたことで薩摩国守護島津伊久との間に対立が生じた。幕府は伊久を支持し、伊久死後は薩摩国支配をその子守久に委ねたが、守久は薩摩の支配力を及ぼすことができず、結局幕府は応永十六(1409)年に元久を薩摩国守護に任じた。これにより奥州家が島津家の本宗家となり、島津家は薩摩・大隅・日向の三国守護となった。翌年元久は上洛して将軍足利義持に謁見、細川・赤松・畠山らの諸大名に贈り物をして大名としての実質を示した。
 応永十八年、総州家が渋谷氏と組んで元久と交戦した。その最中に元久が死去すると、異母弟島津久豊が甥から家督を奪ったことで国人たちを巻き込んだ後継争いが起こった。日向では、応永十九年に曾井氏が反乱を起こし久豊は軍勢を派遣した。これに対し伊東祐立は土持氏と盟約して島津勢を撃退した。久豊は穆佐院高城で交戦した後薩摩に撤退した。応永二十二年には久豊は再び日向に出兵したものの和議を結ぶに至った。
 国内では久豊は総州家との戦いに挑んだ。久豊は応永二十三年に守久の子島津久世を自殺に追い込み、応永二十九年には守久が肥前に逃れたことで奥州家の優位が確立された。この年、それまで久豊の家督継承を認めていなかった幕府も久豊の守護職を承認した。一方日向方面では、久豊は応永二十六年に一族の伊作惣二郎に加江田車坂城を確保させたが、伊東氏は惣二郎を暗殺し島津勢を加江田から追い払った。これに対し久豊は応永三十年から翌年にかけて加江田に侵攻、加江田車坂城を再び手中に収めた。その翌年、島津氏と伊東氏の和議が成り、鹿児島で久豊と祐立の会見が行われたが、祐立は毒殺の企てを察知して食事を辞し鹿児島を去った。

 諸勢力の領国形成
 応永期の筑前では少弐氏の領国支配が進展していたが、その一方で大友氏も博多湾岸一帯に所領を有しており、博多進出に乗り出していた。また永和三(1377)年に大内義弘が豊前守護となっていたことにより、大内氏も九州へと勢力を伸ばすようになっていた。応永三十二(1425)年、少弐満貞が菊池兼朝と結んで渋川氏を破り、九州探題渋川義俊は肥前へ逃れた。義俊は再起を図ったが果たせず、渋川氏は肥前の地方勢力に転落した。その後大内盛見が幕府の指示で筑前に介入し、永享元(1429)年に将軍足利義教が外交貿易の独占を狙って筑前国を御料国(幕府直轄国)とするとその代官に任じられた。こうして北九州の情勢は少弐・大友ら在地勢力対大内の構図に移り、一方九州探題はまったく有名無実化していった。
 永享三年、盛見は大友氏の立花新城を陥落させたが、その二ヶ月後には少弐満貞・大友持直らと筑前国怡土郡で交戦し敗死した。これにより大内氏は九州から一時撤退したが、その後家督争いを征した大内持世は永享五年に少弐満貞を秋月城で敗死させ、豊前・筑前領国を取り戻した。そして持世の次の大内教弘の代までに、大内氏は筑前の支配を固めていった。一連の事件で大友持直も幕府の追討対象となり、守護国である豊後・筑後を没収され、豊後守護職は大友親綱が継いだ。一方肥前では九州探題渋川満行が大内氏を後ろ楯として活動を続けていたが、永享六年には少弐方の横岳・千葉・高木・龍造寺らの諸氏の攻撃を受け神埼で敗死した。
 この頃肥後では菊池氏の指導性が確立する。永享三年に家督を継いだ菊池持朝は親幕府・親大内の立場をとって筑後・肥後の守護職を獲得した。持朝は領国経営を進めたが、文安三(1446)年に没し菊池為邦が跡を継いだ。一方阿蘇家では惟村系と維武系の対立が続き、応永二十九年には惟村の子惟郷が惟武の子惟兼の本拠水口城を攻撃、幕府が仲裁を行う事態に至っていた。宝徳三(1451)年、惟兼の子惟歳を惟郷の子惟忠の養子とすることが決まり、阿蘇家はひとまず統一された。その後惟忠は惟歳の子惟家に阿蘇大宮司の地位を譲ったが、惟忠は実権を手放そうとせず、両者の対立で阿蘇家は再び分裂した。また球磨郡では、南北朝期以来多良木の上相良氏と人吉の下相良氏が対立を続けていたが、文安五年に下相良一族の永富長続が上相良氏を滅ぼしたことで相良氏は統一された。
 南九州では、久豊の次の島津忠国の代に島津家と国人たちの対立が表面化した。永享四年、相良氏の支援を受けた伊集院・入来院・牛屎・菱刈ら国人たちが一揆を結び反抗したのである。島津氏は一時窮地に追い込まれたが、幕府の介入もあって一揆は治まった。しかし忠国と弟との争いのために一揆の討伐は完遂されず、文安年間(1444〜1449)には渋谷氏らが総州家を擁立して蜂起した。忠国は弟と和睦し、宝徳年間(1449〜1452)には蜂起を鎮圧した。その後忠国は肥後に攻め込み菊池氏・相良氏を攻撃した。これらの過程で、島津氏は国人勢力を押さえ領国支配を安定化させていった。
 一方日向では伊東氏が国内支配を進めていたが、文安元年に祐安が上洛途上に播磨国で落馬して死去すると、家督継承問題が表面化した。これを征した伊東祐堯は日向での勢力を更に拡大させた。祐堯は曾井氏を破って曾井城を確保し、更に土持氏を二分させて勢力を削いだ。その一方で、日向にも島津氏の勢力が伸びてきていた。享徳二(1453)年には忠国が北郷持久を三俣院高城に置いて都城を守護直轄領に組み込み、長禄二(1458)年には新納忠続が祐堯の進出に対抗するため飫肥に配された。また康正二(1456)年と長禄元年には、土持氏が伊東氏に反旗を翻した。祐堯はこれを征し新納院高城を確保、土持氏は大きく勢力を削がれた。これにより伊東氏の豊後進出へのルートが開けることになった。領国経営を進める菊池家では、菊池為邦が筑後を通した対外貿易によって大いに力をつけた。しかし寛正三(1462)年、為国は筑後守護職を奪われ貿易も途絶することになった。更にその翌年には相良永続が八代の名和顕忠を援けた謝礼に高田郷を譲り受けたのを機に、相良氏が八代へと進出を始める。これにより菊池氏は衰退へ向かう。  領国経営を進める菊池家では、菊池為邦が筑後を通した対外貿易によって大いに力をつけた。しかし寛正三(1462)年、為国は筑後守護職を奪われ貿易も途絶することになった。更にその翌年には相良永続が八代の名和顕忠を援けた謝礼に高田郷を譲り受けたのを機に、相良氏が八代へと進出を始める。これにより菊池氏は衰退へ向かう。

 応仁の乱とその余波 
 大内氏の支配下に入った筑前だったが、応仁元(1467)年に応仁・文明の乱が始まり西軍に就いた大内政弘が京へ向かうと、対馬宗氏の下に身を寄せていた少弐教頼が挙兵、筑前へ進軍した。教頼は博多を占領したが、大内氏と及び大内氏と血縁を結んでいた大友氏の連合軍に敗れて死亡した。こうして教頼の筑前奪還は失敗に終わったのだが、大友支配下の地域では混乱が続くことになった。翌年には大友氏が細川勝元の策動に応じて豊前に出兵、また少弐政資が宗貞国の支援で筑前に侵攻した。
 文明二(1470)年には大内教幸が東軍に与して内紛を起こした。この内紛は周防守護代陶弘護によって治められ、教幸は豊前に逃れた。一方政資は筑前を奪うことに成功し博多・大宰府を領有した。しかし文明九年には政弘が京から帰還、翌年に自ら九州へと出陣すると、豊前・筑前は瞬く間に制圧された。政資は筑前から放逐され、貞国からも見限られて肥前へと逃れることになった。以降少弐氏は肥前三根郡を中心とする小勢力となり、渋川氏と抗争を続けることになる。この頃の東肥前では千葉氏が内紛を起こしており、文明二年の土一揆合戦では小城が焼失するに至っていた。これらの変化により、北九州は大内氏が筑前・豊前を、大友氏が豊後・筑後を押さえ、肥前で小勢力が割拠するという情勢となった。
 応仁・文明の乱の終結後の肥前では、少弐政資が再起を図り活動を開始する。文明十五年、政資は綾部城の九州探題渋川万寿丸を攻撃し筑前へと追いやった。更に政資は千葉氏の家督争いに介入、自らの弟を千葉家に送り込んで千葉胤資と名乗らせた。これにより千葉家は胤資の西千葉氏と大内家と結ぶ千葉興常の東千葉氏に分裂し、以降少弐・大内両氏の代理戦争で消耗していくことになった。
 長享元(1487)年に万寿丸が筑前亀尾城で家臣に殺害されると、政資は対馬の宗氏に同城を攻撃させた。2年後には万寿丸の子渋川刀禰王丸と千葉興常を筑後国犬塚に追った。政資は更に勢力を拡大、肥前西部の伊万里氏・山代氏を降し、大友政親と結ぶことで草野氏・蒲池氏ら筑後の主要国人たちを傘下に入れ刀禰王丸の拠る犬塚城も攻め落とした。一方刀禰王丸は筑紫満門を頼り、その後大内氏の保護下に入った。これ以降も九州探題渋川氏は存続したが、完全に没落する。
 延徳三(1492)年には政資に応じて肥前高来郡の有馬貴純が平戸の松浦正を攻撃、正は大内氏の下へ逃れた。これに対し政資は褒賞として貴純に杵島郡白石・長島荘を与えた。2年後政資は上松浦地方に出兵、松浦党諸氏を降伏させた。これにより政資は肥前・筑後を制圧した状態となった。政資は筑前回復を目指し大内氏との対決に臨み、明応五(1496)年に配下の千葉氏・龍造寺氏らに大内方の筑前国高祖城を奪取させた。しかし大内義興が幕府の同意を得て政資追討の兵を挙げると政資は敗北、筑前国岩門城、肥前国晴気城と逃れたがともに陥落した。晴気城主千葉胤資は戦死し、政資も晴気城陥落の翌日に多久専称寺で自殺した。政資の子資元は大友氏を頼って逃れた。この後資元は大友氏の下で勢力回復を図って活動していった。なおこのとき少弐一族である筑紫満門は大内方に与していたことで所領を安堵され、勝尾城を本拠として少弐氏から独立した。その後満門は資元と和したが、少弐家臣馬場頼周に綾部城で謀殺された。
 南九州では、応仁・文明の乱に際して守護の島津立久は東軍に就いたが、豊州家の島津季久は西軍に就いた。文明六年に立久が死去すると子の島津忠昌がその跡を継いだが、忠昌の下では一族の反乱が相次ぎ、安定化していた領国支配に動揺が生じる。翌年には薩州家の島津国久と季久が反乱を起こし、相良為続もこれを支援して出兵した。この反乱は文明九年に忠昌と反乱側は起請文を交わしたことで終結した。次いで文明十六年には、日向櫛間を治めていた伊作家の島津久逸と飫肥の新納忠続の対立が表面化、久逸が忠続を攻撃した。このとき久逸が祐堯の子伊東祐国に協力を求めたことにより、祐国は飫肥城を攻撃した。以降伊東氏も、飫肥をはじめ島津領への進出の動きを見せるようになる。同じ頃、大隅国帖佐城主で豊州家の島津忠廉も忠国に反乱を起こした。これらの争いを機に南九州の情勢は不安定化、島津氏の領国支配は崩壊へと向かって行く。
 翌年五月、忠昌は忠廉と和解して忠廉と薩州家の島津国久を飫肥に派遣、翌月には自ら出陣して久逸を攻めた。戦いは相良氏の協力もあって忠昌方の勝利に終わり、祐国は田間の陣で戦死し久逸は本領の薩摩伊作に戻された。忠昌は忠続を要港の志布志に、忠廉を飫肥・櫛間に配して伊東氏対策とした。明応三年には、忠昌は大隅国高山城主肝付兼久を攻撃したが、新納氏・禰寝氏・渋谷氏らが伊東氏の支援を受け一揆を結成して反抗した。忠昌は永正三(1506)年にも兼久を攻撃したが、新納忠続が兼久側に来援したため敗退した。その2年後、忠昌は自殺した。
 この頃肥後では、相良氏が勢力を拡大した。文明八年、相良為続が薩摩に出兵している隙に名和顕忠が高田郷奪還を企てたが、為続は天草の上津浦氏の協力でこれを退けた。顕忠は文明十四年にも高田郷奪回を図ったが、為続は栖本・上津浦らの天草勢と共に名和氏の本拠古麓を攻撃、2年後には八代を制圧した。その翌年には、為続は阿蘇惟忠の子惟憲と組んで幕の平の戦いで守護菊池重友と阿蘇惟家の軍を破った。これにより阿蘇家は惟憲の下に統一されることになり、一方菊池氏の勢力は肥後北部に限られるようになった。その後も為続は勢力拡大を続けたが、明応八(1499)年菊池能運と組んだ顕忠に敗れて八代から球磨に撤退した。

 大内・大友の衝突と伊東家・菊池家の内紛
 応仁・文明の乱の後、大内家と大友家は当主大友義右が大内政弘の婿となっていたこともあり比較的平穏な関係にあった。しかし明応五年、義右が死亡し更にその父政親も大内方に殺害された。家督を継いだ大友親治は「御所の辻合戦」で義右派勢力を一掃し、大内氏との対決姿勢を強めた。一方大内義興は前将軍足利義材に働きかけ、大友親綱の子大聖院宗心を大友家の当主と認めさせた。これに対し親治も大内家の攪乱を行い、明応八年には大内家重臣杉武明が大護院尊光を擁立しようとする企てが発覚した。こうして大内・大友両家は激しく対立するようになった。明応七年から大友軍は繰り返し豊前に侵入し始めた。そして文亀元(1501)年、大友軍が大内氏の北九州戦略の拠点馬岳城を攻めると、大内方の仁保護郷が援軍に駆けつけて両軍は激突した。大友軍は護郷を戦死させたが、馬岳城を落としきれず、退陣しようとするところを大内軍が追い打ちしたことで戦いは大内軍の勝利に終わった。その後は大内義興は前将軍義稙(義材)を擁しての上洛に、大友親治は肥後への計略に専念したため、両者の抗争はしばらく沈静化した。
 祐国を失った伊東家では、後継者争いが発生した。祐国の子伊東祐良が伊東祐邑を殺害、その後祐国・祐邑の母方の野村氏を滅ぼした。祐良は足利義尹から偏諱を受け尹祐を名乗り、幕府から家督を認知された。尹祐は明応四年に島津忠昌と和議を結び、三俣千町を確保した。その後尹祐は永正十七年と大永三(1523)年に北郷氏と交戦し、戦いを優位に進めたが陣中で死去した。このとき飫肥の島津忠朝と土持氏が伊東氏を攻めようとしていたため、跡を継いだ伊東祐充は翌年北郷忠相の娘を娶って和議を結んだ。祐充の家督継承は外戚の福永氏の影響力を拡大させ、それと共に福永氏を媒介として山の武士団が伊東家臣団に組み込まれることになった。
 肥後では、文亀年間に菊池家の内紛によって情勢に変化が起こった。文亀元年、肥後国守護菊池能運が守護所隈府を去り、同年五月二十日に袈裟尾原で家臣らと戦って敗れ肥前有馬氏の下へ亡命した。家臣たちは能運の大叔父宇土為光を擁立したが、能運は為続の子相良長毎を味方につけ、文亀四年、相良軍が八代の名和顕忠を攻撃したのに合わせて隈本に上陸、守護の座に返り咲いた。為光は筑後に逃れたが、立花氏によって肥後に送り返されその後殺害されたという。能運は翌永正元(1504)年に相良・阿蘇両氏とともに名和氏を攻めたが、翌月に死去した。一方長毎は古麓を占領し、八代は相良領となった。
 能運の遺志により菊池家は庶流肥前家の政隆が継いだが、家臣たちは政隆に従わずに菊池家中は再び分裂、その間に名和氏も勢力を取り戻した。顕忠は菊池勢を追い出して宇土に入り、ここに名和系宇土氏が成立する。翌年、反政隆派の家臣たちが阿蘇惟長に支援を求めたが、これは阿蘇家と縁戚関係にあった大友家の介入を招くことになった。その後惟長を菊池家新当主とすることが決定し、永正三年九月、惟長支援のため大友軍が肥後に出陣した。政隆は隈府や隈本を押さえて抵抗し、また田原親述ら豊後の有力者と結んで大友氏に対抗した。翌年惟長は阿蘇大宮司職を弟惟豊に譲り、菊池武経と改名して肥後国守護に就いた。一方政隆は抵抗を続けたが、大友氏重臣朽網親満が出陣すると生け捕られ、久米安国寺で自害に追い込まれた。こうして政隆はいなくなったが、菊池家の内紛は更に続いた。武経は家臣とも大友家とも不仲になり、永正八年に阿蘇に帰った。このとき惟長が大宮司職復帰を求めたため阿蘇大宮司家でも分裂が生じたが、惟豊は惟長を破って矢部浜の館を拠点に支配を確立した。
 その後菊池家庶流詫磨氏の武包が守護職に就いたが、やはり家臣たちから離反され隈府を追われた。これを見た大友親治・義長父子は義長次男菊法師丸を擁立する動きを進めた。しかし永正十三年、朽網親満が田原親述らと結んで乱を起こした。親述は翌年二月に松木合戦で敗れて豊後から逃れたが、反乱の動きは永正十六年の初めまで続いた。豊後国内の情勢が安定した永正十七年、大友重治(菊法師丸)の肥後入国が実現した。重治は隈府ではなく隈本城を拠点とし、鹿子木親員の補佐を受けて肥後を支配した。間もなく重治は兄の大友義鑑と対立するようになる。また一方で、これまで菊池家を支えてきた隈部・城・赤星ら有力領主たちはそれぞれが独立した国人領主として勢力を伸ばすようになっており、重治はこれらを味方につけることが殆どできなかった。
 豊後では、大友家中に譜代の家臣と国衆の対立に起因する事件が起こった。大友家は戸次氏・大野氏など豊後で力を持っていた大神姓諸氏を血縁によって吸収していったが、その中で栂牟礼城の佐伯氏は大友一族に取り込まれることなく独立性を保っていた。大永七(1527)年、佐伯惟治が謀反を企てているという噂が立ち、義鑑は臼杵長景に惟治討伐を命じた。惟治は弁明しようとしたがかなわず、栂牟礼城に籠った。大友勢は栂牟礼城に攻撃を仕掛けたが、城は非常に堅牢で幾度攻撃しても落とすことができず、多数の死傷者が出た。長景は攻撃を中止、代わって城内に使者を派遣、日向で謹慎すれば帰城を保証するという起請文を惟治に送った。惟治は開城を決め、城を出て日向へと向かったがその途上で大友方に通じた郷民の襲撃を受け自殺した。一方義鑑は国衆の反発を抑えるため惟治の甥惟常に佐伯家家督を継がせた。

 島津氏と伊東氏
 文明年間から弱体化を続けていた島津家では、永正十六年に島津忠兼が家督を継いだ。忠兼は薩州家の島津実久の補佐を受けて権力立て直しを図ったが、やがて実久と対立、大永六(1526)年に相州家の島津忠良の子貴久を養子に迎え翌年家督を譲った。しかし間もなく実久が忠兼に復帰を薦め、忠兼もこれに応じた。忠兼は名を勝久と改め、貴久から家督を取り返した。これに対し忠良父子は反発、天文二(1533)年には南郷城を攻め落とした。一方の勝久は家臣団をまとめることができず、天文四年に重臣川上昌久を殺害すると、これに反発する者たちは実久と共に鹿児島を攻め、勝久を大隅国帖佐へと放逐した。
 勝久を追い出すと、実久は肝付氏や禰寝氏の承認を受けて守護権を継承した。これに対し忠良父子と勝久は再び連携し実久に対抗した。そして忠良父子が天文八年に谷山・紫原の合戦で実久を破ったのを機に形勢は逆転した。天文十七年には、貴久は大隅守護代本田董親の清水城を占領、翌年には加治木城主肝付兼演を降伏させた。
 天文十四年、貴久は一族諸家から三国太守の地位を認められ実権を手にした。5年後、貴久は鹿児島に御内城を築きここに移った。ここに戦国大名としての島津氏が成立する。一方勝久は本宗家被官層に離反されて鹿児島に復帰することができず、大友氏の下へ落ち延びた。
 一方伊東氏は、享禄元年に新納氏を梅北城で破るなど勢力を拡げ、日向全体を掌握する勢いを見せた。その一方で家臣団では福永氏と旧来の被官の間で対立が顕在化、享禄四年には両者の争いが発生し、反福永方が敗れる結果になった。その後伊東氏の進出に歯止めがかかる。天文元年、島津・北原・北郷各氏の軍勢が三俣院高城を攻撃、伊東方は壊滅した。その翌年、祐充は死去した。これにより後継者争いが勃発する。祐良の弟伊東祐武は福永伊豆守父子を自害させたが、同じく弟の伊東祐清を擁立した荒武三省によって都於郡で自殺させられた。その後祐武の子佐兵衛佐が祐清を攻撃したが、結局祐清方の勝利となった。天文三年には、長倉能登守が出家していた祐清の弟を還俗させ伊東祐吉として家督認知を求めた。祐清は富田郷に逃れ出家したが、三年後に祐吉が死去したことで後継者争いは終結した。祐清はすぐさま還俗して佐土原城に入り、将軍家から一字を拝領し義祐を名乗った。
 天文九年には、長倉氏が伊東氏に対し反旗を翻し大淀川南部地域を掌握した。長倉氏が北郷氏に援助を求めたのに対し、義祐は北原氏と組んで翌年三俣院高城を攻め北郷氏を退けた。七月には義祐は反乱を抑え込んだ。これにより義祐の権力が確立されることになった。やがて義祐は「島津・渋谷を除く日向・薩摩・大隅の諸氏を伊東家人とすべし」とする足利義政御教書[4]を根拠に「三州太守」を名乗るようになり、薩摩・大隅の国人たちや相良氏と連携して島津氏と激しく争い始めた。

 少弐氏の抵抗と大友家の混乱
 大内氏と大友氏の争いの沈静化により比較的安定していた北九州情勢だったが、享禄元(1528)年に少弐資元が管領細川高国の協力の下で子の松法師丸に家督を譲り、自らは松浦党の協力で大宰府を奪還したのを機に再び不安定になった。2年後、義興の跡を継いだ大内義隆は杉興運を資元征討のため肥前に派遣、興運は松法師丸の勢福寺城を攻めようとした。肥前の大半の武士は大内方に就いたが、龍造寺家兼・馬場頼周・筑紫惟門らは大内軍を神崎郡田手で迎撃した。少弐方は家兼とその家臣の鍋島清久・清房父子の活躍により大内軍を撃破した。翌年には大内義隆は、菊池義武(大友重治)と共に大友義鑑に反抗していた筑後生葉郡の国人星野親忠を支援した。一方資元は大友氏に呼応して筑前に出兵した。これにより大内対大友の抗争が再燃することになった。翌年、資元が興運を岩屋城で攻めたため、義隆は陶道麒を筑前へ送り込んだ。大内軍は大友方の拠点立花城を陥落させ、筑前を制圧した。このとき菊池義武も義隆に呼応して大友軍と戦ったが、こちらは肥後木山城を落とされて敗北し肥前高来郡の有馬氏の下へ身を寄せた。
 大内義隆は九州への進出を進め、天文三年二月には北九州の情勢変化に伴って生じていた豊前・豊後の国境の紛争に乗じて豊後に侵入、大友方と一戦交えて退いた。これに対し大友方も同月の内に豊前に攻撃を行うなど、豊前・豊後間での緊張が高まった。そして同年四月六日、両軍は大村山・勢場ヶ原で激突した。大友方は大将格の寒田親将・吉弘氏直を失ったが、大内軍も大打撃を受けて痛み分けの結果に終わった。豊後への計略を行う一方で、天文五年には大内義隆は筑前支配を固めるため大宰大弐の地位を得た。これは少弐氏への対抗の意味があったが、当の少弐氏には最早筑前を回復する力はなくなっていた。同年九月に義隆は少弐資元を攻め、資元は肥前国小城郡多久城で自殺した。更に義隆は筑後進出を狙う菊池氏と組むことで、大友氏の動きを封じることにも成功した。同七年には、筑前国秋月で大友・大内両家の重心が会合し、正式な和睦が結ばれた。この際に筑前内の大友領も返還された。
 資元を失った少弐家では、資元の子冬尚が大友義鑑の援助で少弐家復興を試みた。冬尚は龍造寺家兼に支援を求めてその庇護下に入り、家兼の子家門を執権とした。一方この頃肥前南部では、島原の有馬晴純が諸氏に子息を養子として入れるなどして勢力を拡大していた。晴純は天文十年には内紛に乗じて千葉喜胤を攻め、更に少弐・龍造寺両氏への攻撃の機会を窺うようになった。これに対し家門は東西両千葉氏を和解させ、冬尚の弟を東千葉氏に、鍋島清房の次男を西千葉氏に養子に入れて三氏の連携を固めた。しかしこの体制は間もなく崩壊する。天文十三年、馬場頼周は冬尚と共に有馬氏・松浦党に挙兵させた。冬尚は討伐と名して龍造寺勢を派遣、龍造寺軍は有馬氏らに敗れた。
 この頃、肥前北東部では山間部の国人たちが神代勝利の下に糾合されて一つの勢力を形成していた。天文十四年、馬場頼周は勝利と連携し淀姫神社と祇園原で龍造寺勢を攻撃した。一連の戦いで龍造寺氏は一族や重臣が多数討たれる大打撃を受けた。家兼も肥前から逃れたが、間もなく清房の助けで帰還し頼周を誅殺した。翌年には家兼は死去し、龍造寺胤信が水ヶ江龍造寺家を継いだ。一方惣領の村中龍造寺家では龍造寺胤栄が同十七年に病死したため、胤信は両龍造寺家を継ぐことになった。2年後、胤信は大内義隆から偏諱を受けて龍造寺隆信と名乗った。
 肥前南部で有馬氏が勢力を拡げる中で、彼杵の大村純前も晴純の子純忠を養子として迎えた。その際純前の嫡子貴明は武雄の後藤氏の養子となった。天文二十年に純前は死去し純忠が跡を継いだが、子の家督相続は家臣団の分裂を招くことになった。松浦党では、この頃平戸の松浦氏と宇久の宇久氏が台頭した。松浦興信は大内氏と結び、有馬氏・大村氏と激しく抗争した。宇久氏は松浦氏の協力で五島列島で支配を拡げた。
 天文十九年には、豊後府内で大友二階崩れの変と呼ばれる大事件が起こった。家督問題に関して粛清を恐れた津久見美作守・田口新蔵人の襲撃により、大友義鑑が重傷を負い、義鑑が後継者にしようとしていた三男塩市丸が殺害されたのである。義鑑は二日後に死去し、別府にいた所を呼び戻された嫡子の大友義鎮が家督を継いだ。その直後、塩市丸擁立に加担していた老臣入田親廉とその子親誠が入田郷の津賀牟礼城で籠城の構えを見せた。戸次鑑連と斎藤繁実らが追討のために派遣されると、入田父子は阿蘇惟豊のもとへ落ち延びた。しかし惟豊は義鎮の圧力を受けて父子を殺害した。
 大友家の混乱を受けて、菊池義武は失地回復のための行動を開始した。天文十九年三月、義武は島原半島から渡海し隈本城に入った。これに対し義鎮は相良晴広に繰り返し通信し、その動きを牽制した。その後は筑後・肥後の国人たちを巻き込んで大友氏と菊池氏の戦いが続いた。肥後では義武は攻勢を強めたが、他方筑後では大友方が優勢となった。六月、名和行興と相良晴広が義武に与することを決めた。一方大友方は豊後玖珠郡衆らを送り込み、阿蘇氏などを味方につけて徐々に義武包囲を狭めていった。そして八月九日、隈本城は落城し義武は肥前高来へ逃れた。その後義武は薩摩及び日向へ亡命しようとしたが失敗し、晴広の下に身を寄せた。しかし天文二十三年、義鎮が相良氏に義武の引き渡しを求め、義武は豊後行きを承諾した。義武は豊後に入った後、同国木原で自害させられた。義鎮は隈府城に赤星親家、隈本城に城親冬を入れ、大友一族の志賀親守を守護代として肥後支配を固めた。大津山城には筑後との国境を固めるため小原鑑元を入れたが、弘治二(1556)年には叛意ありとしてこれを滅ぼした。その後は菊池氏老臣の赤星親家と隈部親永の主導権争いが深刻化し、永禄二(1559)年に両者は合勢川の戦いで激突した。戦いは隈部勢の勝利に終わり、親家は義鎮に援けを求めた。
 一方肥後南部では、天文三年の相良義滋の鷹峰城築城を契機として相良氏が本格的に球磨・葦北・八代の三軍支配体制を固め、更に享禄年間には天草八人衆を破って天草をも支配下に入れていた。天文二十三年には相良晴広は長嶋氏を圧迫、長嶋鎮高は薩摩に逃れた。以降天草は志岐・天草・上津浦・大矢野・栖本の天草五人衆が分治することになる。その翌年に晴広は死去し、相良義陽が家督を継いだ。

 大内支配の崩壊
 大内・大友の和睦の後、北九州は大内義隆の支配下で安定化していたが、天文二十年に状況は一変する。九月、義隆が陶晴賢の反乱で自殺し、大宰権少弐・筑前守護代杉興和も粕屋の浜で討たれた。翌年には、晴賢は豊前国守護代杉重矩を自刃させた。晴賢は大友義鎮の弟晴英を大内家の後継に迎え、大内義長と名を変えた晴英が北九州を支配することになった。この反乱では筑前の宗像氏雄も死亡したが、晴賢は水軍を有する宗像氏掌握のため、山口にいた氏雄の従兄弟鍋寿丸を送り込んだ。鍋寿丸の家督継承には反発が起こったが、闘争と殺戮の末に鍋寿丸は宗像大宮司の地位に就けられ、その後宗像氏貞と改名した。
 肥前では義隆の死の直後、土橋栄益が大友氏に通じて龍造寺鑑兼を擁立して内紛を起こした。少弐冬尚はその隙に小田氏・神代氏らの協力で勢福寺城に帰還した。当時肥前東部で勢力を強めていた筑紫惟門らもこれに協力、隆信は筑後へ敗走して蒲池氏の下に身を寄せることになった。しかし隆信は蒲池氏・横岳氏らの協力で天文二十二年には肥前に帰還、佐賀城を奪還し栄益を誅殺した。これを受けて惟門は隆信と和解した。翌年には、大友義鎮が少弐家は既に断絶状態にあると主張し、多額の献金の末に幕府から肥前国守護に任じられた。これにより少弐冬尚は後ろ盾であった大友家や幕府から立場を否定されることになった。これを見た毛利元就は大内・陶への攪乱を狙って冬尚に接近、豊筑方面への出兵を促した。一方隆信は大友氏に協力して活動した。弘治元(1555)年には、小田・神代らが秋月・筑紫・宗像ら筑前国人とともに大友氏に対して挙兵した。これに対し義鎮は蒲池氏らに筑前・肥前への出兵を命じた。
 弘治年間になると、毛利元就の攻撃で大内氏領国の崩壊が進み、それに伴って豊前でも反大内・大友の動きが高まった。また大友家内部でも謀略が生じ、栂牟礼城主佐伯惟教も加担を疑われ伊予に逃亡した。これを機に義鎮は府内大友館を離れ丹生島城に移った。同年六月には、大内勢が古処山城主秋月文種の軍と衝突した。弘治三年二月には、豊前下毛郡代野仲重兼が文種に与して挙兵、同郡万代城を攻略。三月には文種が馬岳城を手中に収めた。このように大内家の豊前支配が崩壊する中で、四月、大内義長が毛利元就によって滅ぼされた。これを見た豊前上毛郡の山田衆・中八屋衆は文種に応じて挙兵、大友方を攻撃した。一方大友義鎮はすかさず豊前・筑前・肥前に出兵し三国を平定した。豊前では山田一族が殲滅され、更に「上毛郡四分一男女失せ候」という程の惨状を呈した。筑前では高橋鑑種率いる大友勢が古処山城を攻撃、十一月に文種を自殺させた。文種の子秋月種実や筑紫惟門は毛利氏の下へ亡命した。
 永禄年間になると、毛利元就は九州に進出した。一方義鎮は永禄二(1559)年に三国の守護及び九州探題の補任を受けた。これにより毛利勢力下の門司一帯を除く北九州ほぼ全域が大友氏の支配下に入った。以降義鎮は尼子・能島らの諸氏と結んで毛利勢に対抗していく。同年義鎮は門司城を攻撃した。一方毛利氏の九州進出に応じて、宗像氏貞は大友氏と手切れして毛利方に就いた。義鎮は立花鑑載氏貞の許斐城を攻めさせこれを落としたが、翌年には許斐城は氏貞によって奪還された。永禄五年には高橋鑑種が毛利方に寝返った。十一月には鑑種が氏貞と共に挙兵、筑紫広門・千葉武国らがこれに応じた。これに対し義鎮は戸次鑑連を派遣、門司・苅田松山の両城を奪還して毛利与党勢力を孤立させようとした。大友勢は苅田松山城を包囲したが、翌年正月の戦いで毛利勢は毛利高元指揮の下大友勢を撃退した。その後両氏は将軍足利義輝の介入で講和に向かい、永禄七年には和平が成立、毛利方は苅田松山城・香春岳城を明け渡す代わりに門司を確保した。
 肥前では、弘治年間に龍造寺隆信が大内氏の援助を受けながら活発な活動を始めた。弘治元年に隆信は神代勝利を谷田城で攻撃し肥前から放逐したが、2年後には勝利は帰還し山間部は奪回された。同年十月には両軍は鉄布峠で衝突、戦いは龍造寺軍の大敗に終わった。これを受けて隆信は山間部への出兵を中止する。永禄元年には隆信は勢福寺城を攻撃し、翌年には少弐冬尚を自殺に追い込んだ。永禄四年には、龍造寺軍と神代軍の間で川上合戦が起こった。合戦の中で神代軍の中に謀叛が生じ、結果神代軍は潰走した。勝利は大村純忠の下へ逃れたが、間もなく帰山した。ここへきて隆信も神代家との和睦を決め、翌年には和議が成立した。この頃には隆信は大友氏からの自立の傾向を強めたため、大友義鎮は少弐氏再興を掲げて少弐政興を擁立、肥前への干渉を強めた。
 弘治年間前後の肥前西部では、壱岐を支配する波多氏に内紛が生じた。弘治元年には、壱岐代官波多隆が殺害された。弘治三年に有馬家から迎えられた藤童丸が波多鎮として家督を継いだが、鶴田氏・日高氏らはこれに反発した。永禄七年、日高喜は岸岳城に火をつけて鎮を追放、鎮は鬼ヶ城主草野鎮永の下へ逃れた。これにより壱岐は日高氏が領有することになった。一方大村領では、大村純忠と家臣団の対立が生じていた。純忠は貿易による基盤強化を図るため、永禄五(1562)年に横瀬浦をポルトガル人らに開港、イエズス会に横瀬浦の知行の一半を与えた。翌年には純忠はキリスト教に改宗し、最初のキリシタン大名となった。純忠は家臣・領民の改宗を進めたが、このことは家臣の反感を買うことになった。同年七月には、反忠純派が謀反を起こし、後藤貴明が大村領に攻め込んで純忠は追放され、横瀬浦港も焼かれた。しかし純忠は有馬氏の後援により間もなく大村に帰還し、貿易も港を福田に移して続けられた。これと同じ年、有馬晴純は大友氏に呼応して杵島郡に布陣した。これに対し龍造寺隆信は西に進み多久氏・後藤氏を降伏させ、翌年には須古の平井経治と和議した。

 龍造寺・大友・島津の勢力拡大
 南九州では、戦国大名としての地位を確立した島津氏が勢力拡大を始めた。天文二十三年、島津貴久は大隅国姶良郡蒲生範清の攻撃に着手し、大隅合戦が始まった。緒戦で島津軍は祁答院氏の守る平松岩剣城を攻撃、この戦いで島津氏は鉄砲を初めて実戦使用した。3年後の弘治三年、島津軍は遂に蒲生氏の本城竜ヶ城を攻め落とし姶良の大半を奪取した。貴久は同地を直轄化し、竜ヶ城・帖佐城・松坂城に地頭を置き、その下には島津家直臣たちを置いた。ここに外城制・衆中制が初めて実施されることになった。この方策の下で、島津氏は勢力を強化していった。永禄年間(1558〜1570)には貴久は大隅半島部を征服、その子島津義久は菱刈・入来院・東郷の諸氏を下して薩摩国全体を支配下に置いた。
 島津氏と衝突を繰り返していた伊東家では、永禄五年に義祐が伊東義益に家督を譲った。しかし義益は永禄十二年に死去し、義祐が当主に戻った。この間に島津・伊東間の争いが最終段階に入る。永禄四年から五年の戦いで伊東氏は飫肥を確保したが、同七年には北原氏の領地真幸院に貴久の次男島津義弘が入り島津氏の守護領に組み入れた。これにより伊東・島津両氏の領域が直に接することになった。島津軍は永禄九年に肝付兼続の本拠高山城を陥落させ、志布志にいた兼続はその方を聞いて自殺した。しかし元亀二(1572)年に貴久が死去して島津義久が跡を継ぐと、兼続の子兼亮は鹿児島を狙って活動を始めた。これを見た義祐は相良義陽に飯野城挟撃を持ちかけた。翌年伊東勢は飯野城へと向かったが、その途上で義弘率いる島津軍の攻撃を受け、木崎原合戦が発生した。島津軍は少数で戦いは初め伊東軍優位に進んだが、新納忠元率いる援軍が到着すると島津軍は体勢を立て直し、大将伊東祐安を討ち取って伊東軍を壊滅させた。この戦いで伊東氏は多数の中堅武士を失い、その勢力は衰退した。
 毛利氏と和睦した大友義鎮だったが、間もなく毛利氏に与した諸氏を攻撃、門司城への圧力を強めた。永禄九年には大友軍は高橋鑑種を攻めるため宝満城の麓に陣した。しかし小鳥居元信ら太宰府天満宮社人たちが鑑種に味方して宝満城に籠り、更に秋月・宗像らの諸氏も蜂起したことで大友勢は大きな痛手を負うことになった。とりわけ秋月種実による休松の陣急襲では戸次鑑連家中に多数の死者が出た。永禄十一年には、立花城の立花鑑載が毛利氏に寝返った。毛利氏はこれを援助し高橋氏・原田氏らも兵を派遣したが、間もなく戸次鑑連・吉弘鑑理率いる大友軍が立花城を包囲した。七月に立花城は陥落し、鑑載は逃れたが戸次軍の追撃を受けて自殺した。立花城陥落を受けて秋月種実も降伏し、所領を安堵された。一方毛利方も苅田松山城などの拠点を回復していき、永禄十二年には立花城を攻めた。戦いは両氏の主力が衝突する激戦となった。籠城衆が降伏したことで毛利軍は同城を接収したが、大友軍は撤退せず両者の睨み合いが続いた。その間に、大友方の毛利包囲網が功を奏して毛利氏領国は危機に陥った。これを受けて毛利軍は門司一城のみを残して北九州から撤退した。毛利氏の撤退により国人たちは大友氏に降伏、高橋鑑種は所領を取り上げられ宝満・岩屋両城には吉弘鑑理の子が高橋鎮種として入部した。その後鑑種は香春岳城を奪いここを本拠とした。
 永禄十一・十二年の毛利氏の九州計略に際して、龍造寺隆信は本格的に大友氏への反攻を開始した。これを受けて、義鎮は元亀元(1570)年三月に自ら高良山に陣し、筑後・肥前の諸氏と共に龍造寺氏を包囲した。しかし鍋島直茂が今山の陣を急襲し義鎮の名代大友親貞を討ち取ったことで、大友軍は大打撃を受けた。当時大友配下にあった筑紫広門はこれを見て大友軍を攻撃した。翌月には大友氏と龍造寺氏の和議が成立、以降肥前では龍造寺氏の急速な領国形成が進む。また今山での戦功により龍造寺家臣団で直茂の地位が確立されることになった。
 一方肥前西部では、波多鎮が永禄十二年に龍造寺氏の支援で岸岳城を奪回した。日高喜は壱岐へ逃れ、亀尾城の波多政を殺害して壱岐守護を名乗った。喜は波多氏の攻撃を警戒し、平戸の松浦隆信の配下に入った。鎮は宗氏と組んで壱岐奪回を試みたが、浦海で大敗して撤退した。こうして壱岐は松浦氏の支配下に入った。これにより松浦氏は宗氏と対立することになり、以降両者は抗争を続けた。一方内訌による波多氏の被害は大きく、勢力拡大の道が閉ざされることになった。
 肥前西部で松浦氏や有馬氏、後藤氏が勢力を伸ばしたのに対し、龍造寺隆信は元亀二年に杵島郡の有馬氏勢力を押さえ、弟長信を多久に、弟信周を杵島郡小田に配した。これと並行して、龍造寺隆信は勢福寺城の江上武種に次男家種を、神代長良に鍋島直茂の甥家良を養子に入れるなど同族化を進めた。元亀三年には広門が少弐政興を擁立し勝尾城に入れたが、隆信の攻撃を受けて和議した。政興は筑後に去り、ここに少弐氏の活動は終焉した。
 龍造寺隆信は更に肥前北部・西部への進出を進めた。元亀三年、隆信は後藤貴明・西郷純堯と結んで大村領に侵攻し三城を攻撃した。大村勢は圧倒的少数であったが、籠城戦を行い何とかこれを撃退した。これにより純忠の領主権が確立されることになった。純忠の下では、福田に代わる新たな貿易港長崎が急速な発展を遂げた。
 翌天正元年には、隆信は波多鎮をはじめとする上松浦党を服属させた。更に翌年には須古城主平井経治を滅ぼすなどして肥前北部をおよそ掌握し、松浦氏・宇久氏も隆信に服属を決定した。この年大友氏は隆信討伐を発令したが、軍勢動員は叶わず討伐は行われなかった。天正四年には波多・伊万里等の諸氏が隆信に反抗したが、間もなく降伏した。その翌年には隆信は島原半島方面にまで進出、大村純忠を降伏させ翌年には有馬晴信と和議した。
 大村純忠は隆信に長崎を奪われることを警戒し、天正八年に長崎・茂木をイエズス会に寄進した。これにより長崎はイエズス会の所領となり、有力なキリシタンたちによって統治されるようになった。その後純忠は隆信の命令で三城を退去し波佐見で蟄居した。三城には人質となっていた純忠の子喜前が入った。
   南九州では、伊東氏を下した義久が天正四年には大隅の伊地知氏・肝付氏を下した。一方祐義は佐土原を拠点になおも領国経営を維持しようとしていたが、天正五年には都於郡で蜂起が起こった。家臣にも寝返る者が続出し、その手引きで義弘が日向に入るに至って義祐は大友氏の下へ逃れた。翌年正月には縣土持氏も島津氏に帰順、島津氏は日向全体を領国化し、ここに島津氏の三国征服が完了した。

 三大名の衝突
 日向を支配下に収めた島津義久は老中上井覚兼を宮崎地頭として派遣、覚兼を通して旧伊東領の地頭たちを統括する仕組みを整えた。一方南九州の情勢を見た大友氏は天正六(1578)年、伊東氏を支援し日向に出兵した。四月、大友軍は縣土持氏の松尾城を陥落させてこれを滅ぼし、九月には山田有信が籠る新納院高城を包囲した。これに対し義久は佐土原に入り、野伏を放って背後を乱した上で十一月に大友陣を襲撃、有信も高城から出て大友軍を挟撃した。大友軍は総崩れとなり、増水した耳川まで追いつめられた。大友軍は水死したり地下衆に打ち取られたりして壊滅し、大友氏家臣団は大打撃を受けた。
 耳川での大友軍の大敗を見た国人たちは大友氏から相次いで離反し始めた。筑前には龍造寺隆信の勢力が迫り、筑紫広門・秋月種実は隆信と結んで宝満城主高橋鎮種・立花山城主戸次鑑連と対峙した。同年末には国東の大友庶家原田氏も義鎮に対し反抗的態度を示した。後には宗像氏にも大友方と不和が生じた。こうして北九州は再び群雄割拠の情勢となった。一方義祐は翌年に伊予へ、その後播磨国姫路へ移った。ここで義祐の子伊東祐兵は毛利征伐中の羽柴秀吉に召し抱えられることになった。
 大友氏の衰退を受けて、龍造寺隆信は天正七年に筑後の蒲池・田尻・草野氏を服属させ、翌年には大友氏から筑前南西部・豊前北部にも進出した。これにより隆信は「五州の太守」と呼ばれた。一方大友氏を破った島津氏は肥後に進出を始め、天正七年には相良義陽を破った。島津勢に対抗すべく龍造寺隆信も隈部親永の協力で肥後に侵攻、天正八年には鍋島直茂が三池城・筒ヶ嶽城を相次いで落とした。七月末には江上家種率いる龍造寺軍は赤星家家臣星子廉正を長坂城に攻め、廉正が自害すると隈部一族の家臣有働兼本を城番として龍造寺勢は引き揚げた。これに危機感を覚えた隈本城主城親冬は大友氏を見限り島津氏と結んだ。天正八年、義久は親冬の求めに応じて軍を派遣、隈本城を拠点に大友方を攻撃した。同年末に島津軍は一旦薩摩に引き揚げたが、翌年義久は新納忠元に水俣城を攻撃させ、相良義陽は隆信に支援を求めたが抗しきれずに島津氏に降った。一方龍造寺軍も隆信の子政家を大将として再び肥後に侵攻した。龍造寺軍は隈府城を攻撃し、赤星統家は降伏して城から退去、代わって親永が隈府城主となった。これにより肥後北部は龍造寺氏の支配下に移った。同年十二月、島津勢は阿蘇家重臣甲斐宗運と響野原で交戦した。この戦いで、義陽は島津軍の先鋒として戦死した。義久は八代・芦北を直轄領とし、義陽の子忠房を人吉に、弟島津義弘を八代に配して肥後支配を固めた。
 勢力拡大を続けていた龍造寺隆信だったが、蒲池鎮漣を謀殺したことにより筑後では田尻鑑種を初め離反者が出た。有馬晴信も自立を求めて離反し、天正十一年には晴信が島津氏に救援を求めたことで龍造寺対島津の対立が明確になった。両氏は秋月文種の仲介で一旦和議を結んだが、翌年には隆信が島原に侵攻、島津家久も島原に渡り、三月二十四日に両軍は沖田縄手で衝突した。島津方の戦略により龍造寺軍は大敗し、隆信は混戦の中で川上忠堅によって討ち取られた。 これにより龍造寺氏の勢力は急速に縮小し、隆信の子政家は島津家に帰服した。また隆信の死により大村純忠は大名に復帰し、三城に帰還した。一方有馬晴信は高来・藤津郡に進出し、また島津氏による占拠を避けるため浦上をイエズス会に寄進した。筑前・筑後では、龍造寺氏の衰退により大友勢が勢力を回復した。また龍造寺家では、政家が病弱であったため鍋島直茂が実権を握り、龍造寺家家督と肥前の支配権は乖離した。
 その後島津氏は一旦薩摩に引き揚げたが、八月末から再度肥後に侵攻、隈部氏・小代氏を従えた。この頃阿蘇家では大宮司の惟正・惟種が相次いで死去し、天正十三年には三歳の阿蘇惟光が大宮司となった。そして同年に甲斐宗運が没すると、義久は阿蘇氏攻略を開始した。一方阿蘇勢は島津方の花之山城を攻め落とし、自ら対立姿勢を示した。島津軍は反撃を開始し、やがて日向衆もこれに合流した。島津氏の攻撃で阿蘇氏の城は相次いで陥落、翌年には惟光も降伏した。これにより肥後国全体が島津領国化した。

 島津氏の北進と秀吉の九州征伐
 北進を進める島津氏に対して、大友義鎮は豊臣秀吉に救援を求めた。また島津配下の鍋島直茂も秀吉と通じた。天正十三年及び十四年、秀吉は島津氏に大友氏との和平を命じた。しかし島津氏はこの命令を拒否し、秋月種実・高橋元種らの国人を支援して北九州に進撃した。島津軍は豊後攻めにとりかかったが、突如方針を変更して筑紫氏の勝尾城に向かった。七月に島津軍は同城に攻め寄せ、広門の弟晴門と川上忠堅が相討ちとなり、島津忠隣が負傷するなど激戦となった。結局筑紫広門は降伏し、次いで島津軍は高橋鎮種の守る筑前国岩屋城を囲んだ。岩屋城は陥落し鎮種は敗死したが、島津方も大打撃を被った。その後島津軍は宝満城を落とし、更に立花宗茂の立花城を囲んだが落としきれなかった。島津軍は立花城攻略を諦め、星野鎮胤・鎮元を高鳥居城に置いて北九州から一時撤退した。これに対し宗茂は逆に高鳥居城を攻め、秀吉が派遣した毛利輝元と協力して鎮胤・鎮元を敗死させた。宗茂はそのまま宝満城・岩屋城の奪回にも成功した。その間に筑紫広門は勝尾城を奪還し、また龍造寺氏も島津氏から距離を置くようになった。
 島津氏は同年の内に家久を派遣、豊後国へ侵攻した。秀吉が派遣した仙石秀久・長曾我部信親ら四国勢は家久の進軍を止めようと鶴賀城の対岸に布陣した。はじめ四国勢は戦闘に入るつもりはなかったが、秀久が交戦を主張し十河存保もこれに賛成したため四国勢は渡河、戸次側の戦いが起こった。島津軍はこれを迎え撃ち、結果として存保や長曾我部信親が戦死するなど四国勢の大敗に終わった。島津軍はそのまま大友義統を府内城から放逐、臼杵城を包囲した。これにより大友氏領国はほぼ崩壊した。この翌年、大友義鎮は死去した。一方豊前では、耳川で四国勢が敗れた後、四国勢が香春岳城の高橋元種を攻めた。香春岳城は落城し、元種は降伏した。
 天正十五年、豊臣秀吉が自ら九州に出陣してきた。豊臣軍は二手に分かれ、羽柴秀長率いる軍は豊後・日向経由、秀吉率いる軍は筑前・肥後経由で薩摩に進軍した。豊前では要害岩石城が一日で陥落して秋月種実が降伏するなど、秀吉の進軍は国人たちを動揺させ島津軍は占領地からの退却を強いられた。退却の中で島津軍は甚大な被害を被った。三月には秀長軍が島津家久の籠る高城を包囲、四月には島津忠隣が日向国根白坂で秀長軍に夜襲を掛けたが大敗し忠隣も戦死した。ここに至り島津家でも、家久と老中伊集院忠棟が義久・義弘に和議を進言した。四月二十一日、忠棟が秀長の陣所に出向き、和議が成立した。一方秀吉は四月十六日に城久基を下して隈本城に入り、五月には薩摩に入って川内の泰平寺に本陣を置いた。五月八日、義久は剃髪して泰平寺で秀吉に謁見、降伏を申し出て許された。義弘はなおも抵抗を企てたが、結局同月二十二日に降伏した。島津氏の降伏により、九州平定が達成されることになった。

 九州国分と朝鮮出兵
 九州を平定した後秀吉は九州国分を行い、筑前一国と筑後二郡・肥前一郡半が小早川隆景に、豊前六郡が黒田孝高に、残る二郡が毛利勝信に与えられ、小早川秀包・立花宗茂・高橋直次・筑紫広門が筑後で領地を得た。宗像氏は氏貞が死去しており、継嗣がいなかったため離散した。大友義統は豊後一国に事実上減封された。そのほか、秋月氏・高橋氏は日向に、宇都宮氏は伊予に移ることを命じられた。在地勢力の多くは大名たちの与力につけられ、北部九州の勢力図は塗り替えられた。一方で龍造寺氏ら西九州の諸氏の殆どは早くに秀吉への臣従を示したこともありほぼ旧来の支配地域を安堵された。ただし服属表明の遅れた諫早の西郷氏の領地は取り上げられ龍造寺氏に与えられた。肥後は佐々成政に与えられ、相良氏らは所領を安堵されてその与力につけられた。一方南九州では、九州征伐への協力により伊東祐兵に取立大名として飫肥・曾井などが与えられた。島津家では島津義久が薩摩一国を安堵され、島津義弘に大隅一国が、その子久保に日向国諸県郡が充てられた。また天正十五年には、秀吉はキリスト教の勢力を警戒して、また貿易の利益独占を狙って伴天連追放令を発し、イエズス会から長崎・茂木・浦上を没収した。秀吉は長崎を直轄地とし、鍋島直茂に管理を任せた。
 知行再編には困難が伴った。宇都宮鎮房は伊予への転封に反発し、城井城を奪回した。秀吉は孝高に追討を命じたが、城井城攻めは難航し十月には長昌率いる黒田軍は大敗を喫した。そこで孝高はひとまず鎮房と和睦を結んだ。その後鎮房が中津城に赴いた際、長政は酒宴の席で鎮房を謀殺した。長政はその後城井城を攻め落とし、また孝高は鎮房誅殺の報せを聞いて鎮房の小朝房を殺害させた。ここに豊後宇都宮氏の本流は途絶えた。また筑後では、草野氏や高良山座主で久留米城主丹波麟圭が秀包に討たれた。高橋領高千穂郷でも、越前守親武が大友家遺臣を集めて抵抗し高橋元種がこれを攻め滅ぼすという事件が起こった。日向国では、飫肥地頭上原尚近や櫛間地頭伊集院久治が義久の命に反して城の明け渡しを拒み続けた。
 肥後では、佐々成政が国衆に差出検地を求めたが国衆はこれを領地権の侵害と見做し、隈部親永が検地を拒否したことから国衆一揆が起こった。成政は佐々宗能に討伐を命じたが反撃にあい、自ら隈府城を攻めた。親永は山鹿軍城村城に籠り、佐々軍はこれを攻めたが配下の国衆には一揆に呼応する者も出た。更に御船城主甲斐親房が赤星・城・詫摩氏らを糾合して隈本城を攻めたため、成政は兵を返して坪井川でこれを破った。隈本城周辺が落ち着くと成政は立花宗茂に援軍を求め、城村城を攻めた。一方秀吉はこの事態を受けて周辺の諸大名に誅伐を命じた。その後親永は安国寺恵瓊の勧めで城を明け渡したが、立花氏に預けられた後に処刑された。一揆が鎮圧に向かうと、秀吉は浅野長吉以下七人を派遣し残党の弾圧及び検地を行わせた。更に秀吉は成政の失政を咎め、成政を召喚して尼崎で切腹させた。肥後は成政に代わり加藤清正と小西行長に分け与えられた。一方肥前でも、肥後国衆一揆に呼応する形で西郷氏を中心とする一機が起こったが、間もなく龍造寺家晴軍に鎮圧された。
 加藤清正は隈本を、小西行長は宇土を拠点として支配体制を固めた。しかし天正十七年、行長が宇土城普請の資材・賦役提供を命じたことに天草五人衆の一人志岐麟泉が異議を唱え、他の五人衆も同調して乱を起こした。行長は軍を派遣して麟泉を攻めたが、天草勢は袋浦でこれを破った。これに対し行長は清正や有馬氏・大村氏の応援を得て天草を包囲した。清正は仏木坂の戦いで天草軍を破り、志岐城を落とした。その後清正は本渡城を攻めこれも陥落させた。本渡城陥落を受けて天草氏は降伏し、志岐麟泉は薩摩に逃亡、他三氏も降伏した。天草五人衆は領地を没収され、四氏は小西家家臣に編入された。
 筑前においては、隆景が領国支配の新たな拠点として多々良河口北岸に名島城を築いた。また荒廃していた博多の復興が黒田孝高らによって進められ、同時に豊臣政権と博多町衆の結びつきが強められた。これらには地行割と併せて、秀吉の大陸出兵計画の準備としての側面もあった。
 九州平定の後、秀吉は宗義智を通して朝鮮に服属と明への先導を要求した。天正十九年には、秀吉は波多氏重臣名護屋経述の領地に前線基地として名護屋城を築かせた。このとき波多鎮は秀吉に非協力的態度をとった。天正二十(1592)年と慶長二(1597)年に、秀吉は朝鮮への出兵を命じた。これに際して、文禄元(1592)年六月に島津家臣の梅北国兼が出兵に反対して肥後で一揆を起こし、佐敷城を占拠した。この反乱は直ぐに鎮圧されたが、島津歳久がこの反乱の黒幕であるという疑いが生じ、翌月に歳久は自刃を命じられた。また阿蘇氏も反乱に関わっていたという訴えが起こり、阿蘇惟光は処刑された。この事件によって、九州に於ける豊臣政権の大名支配は強化されることになった。秀吉は島津氏に軍役を遂行させるため、文禄年間に細川幽斎・石田三成に島津領の知行再編を行わせた。この間に一部の領地が没収されたが、慶長四年には朝鮮出兵での軍功により、出水の直轄地など五万石が返還された。
 朝鮮出兵の間に、小早川隆景は秀秋を養子に迎え、備前三原に引退した。慶長三年には、秀吉は博多支配強化のため秀秋を越前国北ノ庄に転封し旧小早川領は太閤蔵入地となった。しかし同年八月に秀吉が死去し、朝鮮出兵が終わったことで翌年一月までには秀秋の筑前復帰が決まった。また朝鮮出兵に際しては、大友義統が平壌攻略時の失態により領地を没収されたほか、波多鎮が軍法違反を理由として改易され、常陸に流罪となった。波多氏の領地は寺沢広高に与えられた。

 関ヶ原合戦
 秀吉が死去すると、その改革への反動が表面化した。慶長四年三月、石田三成らの改革に協力し豊臣政権にも厚遇されていた伊集院忠棟を島津忠恒が伏見の屋敷で手討ちにした。これに三成は怒り、義久・義弘を譴責して忠恒は謹慎することになった。但し徳川家康は忠恒に味方し、忠恒の謹慎を解くように取り計らった。一方、忠棟の子伊集院忠真は日向国庄内で島津氏に反乱を起こした。家康は忠恒を帰国させて鎮圧に当たらせたが、忠真の抵抗は激しく戦闘は膠着化した。そこで家康は家臣山口直友を派遣し調停に乗り出した。その後も忠真は抵抗を続けたが、翌年になって志和地城をはじめとする諸城が島津勢により次々に落とされると、忠真も降伏を決め三月十五日に都城を引き渡した。忠真は家康の調停ということで許され、一万石を与えられ薩摩国頴娃に移った。
 秀吉死後の徳川家康と石田三成の争いでは、加藤・黒田・細川らが徳川方に、小西・大友・毛利らが石田方に就いた。戦いは九州にも及んだ。大友義統は豊後速水郡に上陸し、細川氏の杵築城を攻めた。黒田孝高は杵築城救援に向かい、立石で大友軍と激突した。戦いは黒田軍の勝利に終わり、義統は剃髪して降伏した。更に孝高は毛利勝信をも破り、西軍に属した諸氏の城を次々に攻め落とした。孝高はまた伊東家臣の稲津掃部助に高橋家臣権藤種盛が守る宮崎城を攻めさせた。十月、宮崎城は陥落し種盛は戦死したが、この時には高橋氏は既に東軍に下っていた。
 加藤清正は義統上陸を知って杵築城救援に向かったが、途中で撃退成功の報せを受けて宇土城を攻めた。宇土城攻略は持久戦となったが、八代城陥落と西軍敗北を受けて城代小西行景は開城し自殺した。関ケ原の合戦の後には、立花宗茂が九州に帰還して柳川城に籠った。家康は黒田・鍋島らに柳川城攻撃を命じた。立花・鍋島両軍は柳川北方の八の院で衝突、数に勝る鍋島軍の前に立花軍は退いた。清正らは宗茂に開城を説得し、宗茂もこれに応じて城を退去した。宗茂は江戸で謹慎し、その後領地を没収されたが慶長十一年には陸奥棚倉一万石を与えられた。
 島津氏は伏見にいた義弘が西軍に参加したが、義久は中央政局争いに巻き込まれることを嫌い、また庄内の乱による疲弊もあって増援を送らなかった。西軍が敗れると義弘は多数の家臣を失いながらも撤退した。家康は義久・忠恒に書状を送り、また加藤清正や黒田長政らに島津攻めの準備を命じた。義久は義弘の西軍参加を謝罪し、その一方で新納忠元を大口城に配するなど領内の守りを固めて許しが得られないときは徹底抗戦する姿勢を示した。結局十一月には島津攻めの命が撤回され、和平交渉が始まり家康方は義久の上洛を働きかけた。島津方では義弘が蟄居し、義久も家臣らを上洛させて再度謝罪したが、家康の真意を疑い自身の上洛には応じなかった。義久は様々な理由をつけて上洛を拒み続け、結局慶長七年四月に家康は島津氏の領土安堵の起請文を自ら記した。これをうけて忠恒が義久の代理として上洛、島津氏は本領を安堵され忠恒が家督を相続することになった。ここに徳川・島津の実質的な主従関係が成立した。
 関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋は加増を受けて備前国岡山へ移った。また毛利勝信・小早川秀包・筑紫広門らは改易され、豊前が細川忠興に、筑後が田中吉政に、筑前が黒田氏に与えられた。高橋氏・伊東氏・相良氏は西軍に就いたが大垣城攻防戦の際に東軍に下ったため所領を安堵された。鍋島氏も西軍に就いたが立花氏討伐により所領を安堵された。一方佐土原城主島津豊久の領地は豊久が島津軍退却の際に殿を務め戦死したため没収されたが、忠恒の上洛により再度島津氏に与えられ、垂水城主島津以久がこれを拝領した。処刑された小西行長の領地は加藤清正に与えられたが、天草郡のみは寺沢広高に与えられた。この他清正には豊後にも領地が与えられ、その領地は五十四万石に達した。
 新たな地に移った大名たちはそれぞれに基盤固めを行った。忠興は水陸交通の要衝に位置する小倉城を拡張、また吉政も柳川城を堅固な城に改修し更に八端城に一族・重臣を配して支配・防衛の拠点とした。一方黒田父子は領国支配の新たな拠点を築くことを決め、那珂郡警固村福崎に築城を開始した。名島城を解体し元寇防塁や古墳の石材を転用して資材を集め、七年をかけて築かれたこの城と城下町は黒田家にゆかりの深い備前国邑久郡福岡から福岡と名付けられた。肥後では加藤清正が天正期からの城下町建設を進め、慶長十二年には熊本城が完成、隈本は熊本に改められた。

 幕府支配の進展と島原・天草一揆
 慶長八年、徳川家康は寺沢広高を長崎奉行から解任し、旧臣小笠原為宗を奉行に任命して長崎を直接管理下に置いた。これには西国大名の監視の役割もあった。慶長十一年に長谷川藤弘が奉行に就任した後は、これらの役割は更に強化された。慶長十四年には、有馬晴信が家康の許可を得てポルトガル商船を攻撃し同船が爆沈するノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件が起こった。この事件の後、晴信は本田正純の与力でキリシタンの岡本大八から家康は有馬氏の旧領肥前藤津を回復させる意向だと伝えられた。晴信は仲介料として大八に多額の金品を与え宛行状を受け取ったが、この宛行状は偽物であり、晴信が正純に偽宛行状の実行を催促したことで事件が露呈した。大八は処刑されたが、晴信も所領を没収された後死罪となった。この事件は幕府を近況に踏み切らせるきっかけとなった。その一方で晴信の子直純は家康の曾孫を妻としていたこともあり、晴信の遺領を与えられて有馬氏は存続した。その5年後に直純は加増を受けて日向国延岡に移ったが、このとき一部の武士たちは随行を拒み島原で土着化した。島原は一時天領となり、元和二年に松倉重政が入部した。
 龍造寺家では、慶長八年に政家が家督を継いだがすでに実権は鍋島氏に奪われていた。慶長十二年に高房は自殺し、政家も間もなく死去したため、幕府は鍋島勝茂に龍造寺家督を継承させた。高房の子伯庵は龍造寺家再興を訴えたが敗訴した。これにより鍋島氏への国政委譲が名実ともに完了した。
 慶長十八年には、高橋元種が改易となった[5]。藤堂高虎や立花宗茂は元種の処罰軽減のため動いたがかなわず、元種は陸奥棚倉の宗茂の下に配流となった。元和二(1616)年には、宗茂が旧領筑後柳川に再封された。元和六年には、家康の養女連姫を正室としていた有馬豊氏が福知山から久留米に転封となった。
 日向では、元和五年に椎葉山騒動が起こった。これは土豪層内部の対立に起因したものであった。当時椎葉山の支配の中心にあった向山城の弾正が死去した後、かねてより弾正と対立していた同城の十二人衆が弾正の子久太郎を殺害した。久太郎は朱印所持者であったため、この事件は幕府の否定と見做された。幕府は首謀者たちを処刑、更に阿部正之・大久保忠成率いる幕府軍が相良氏の先導で椎葉山中に攻め込み、殺戮が行われた。この後椎葉山は天領となった。
 寛永九(1632)年、肥後の加藤忠広が改易され、幕府からの信頼を得ていた小倉藩主細川忠利がその旧領に転封となった。忠利の旧領は分割され、譜代大名小笠原一族が集中的に配置された。これは将軍徳川家光の下での大名統制策の一環であり、九州に幕府の強力な統制力が成立したことを意味する事件であった。
 寛永十四年、肥前国島原半島南部で領主松倉家の強圧的支配に起因する一揆が起こった。一揆はかつての有馬氏らの配下の武士たちに糾合されて急拡大し、松倉領の三分の一が一揆勢に制圧された。更に肥後国天草でもこれに呼応した一揆が発生し、一揆勢は肥後国富岡城を包囲した。島原・唐津両藩が幕府にこれを報告すると、幕府は両藩主と共に板倉重昌を派遣し、更に久留米・柳川・佐賀・熊本四藩に救援を命じた。一方天草の一揆勢は熊本藩が大軍を派遣したとの風聞を受けて島原に移った。ここで両一揆は合流し、小西行長の旧臣の子益田時貞を総大将として原城に立て籠もった。島原・天草は有馬氏・天草氏らの影響で多くの住民がキリシタンであったため、この頃から一揆は宗教的性質を強く帯びたものとなった。攻城は困難を極め、十二月の攻撃では特に柳川・佐賀両藩が多数の死傷者を出し、翌年初めの総攻撃では板倉重昌が戦死した。
 その後は本来戦後処理のために派遣されていた松平信綱が後を継いで戦術を持久戦に切り替え、西国大名に出陣が命じられて原城は陸上・海上双方から厳重に包囲された。およそ三ヶ月の包囲の後、二月二十八日に総攻撃を行うことが決まった。しかしその前日、鍋島勢が抜駆けをして城に攻め込んだ。これを受けて信綱は総攻撃を命じ、翌日には鍋島勢が原城本丸を攻略した。一揆勢は一部投降者を除くほぼ全員が殺害された。この乱の原因となった松倉・寺沢両家は改易となった。なお、鍋島勝茂はその後軍令違反について評定所に召喚され逼塞となったが、結局は将軍への忠誠によるものと認められた。島原・天草一揆において、幕府は九州全域の大名たちを動員させることに初めて成功した。この一揆をもって、九州における戦乱はひとまず幕を閉じることになる。


    注釈
  1. ^ 肥後・出雲・丹波などに設けられた職で、国司・守護とほぼ同格の地位にあった。
  2. ^ 伊東氏は伊豆を本貫地とする一族で、祐広の木脇伊東氏などが鎌倉期に九州に下向していた。
  3. ^ 北朝年号。南朝年号では延元三年。以下全て北朝(武家方)年号
  4. ^ ほぼ間違いなく偽書と考えられている。
  5. ^ 科人を匿ったためとも、叔母である尾張徳川義直の生母に口添えを依頼したことで家康の妻に取り入ろうとしたと疑念を持たれたためともいわれる。

2017年度例会発表一覧に戻る
日本史に戻る

inserted by FC2 system inserted by FC2 system