2017年11月
保守・中道・革新 〜55年体制下の日本政党興亡史〜  三波


55年体制の成立 〜保守・革新の成立〜
 本稿では、日本政治における政党の枠組みの変遷について概説していく。
 日本の政界において、戦前は立憲政友会と立憲民政党という保守系二大政党が存在しており、一方で小規模の社会主義政党が離合集散を繰り返していた。共産党は皇室の廃絶による国家転覆を標榜していたため、治安維持法により結成が禁止されており、地下組織に過ぎなかった。
 やがて二大政党は腐敗や経済政策の誤りにより有権者の信頼を失い、第20回衆議院議員総選挙(1939年)で革新系の社会大衆党が躍進するに至った。やがて日中戦争が長期化するに従い、戦争遂行のために戦時経済へ移行すべきだ、との論調が強まり、1940年に全政党解党のもとで大政翼賛会が成立する。当時国政をリードしていた近衛文麿のブレーン団体「昭和研究会」は、社会主義者が革新的な政策を提唱しており、日本政界は革新主義一色となった。その後、日本は太平洋戦争、敗戦へと向かった。
 戦後、結社の自由が復活し、保守系政党が多数誕生した。一方で、革新系では日本社会党(以下社会党)が躍進し、1947年の日本国憲法施行にあわせて行われた第23回衆議院議員総選挙・第1回参議院議員通常選挙ではいずれも3割強の議席を経て第1党となり、片山哲委員長が首相に就任するに至る。社会党主導の連立政権は程なく崩壊、保守系の自由党により吉田茂内閣が成立したものの、社会党は依然として大きな勢力を維持し続け、複数の保守系政党の間でキャスティングボードを握り続けた。しかし一方で社会党は、戦後の講和を巡って党内で対立が起こり、西側諸国との先行講和に肯定的な右派と否定的な左派に分裂した。
 1950年代に入るとソ連率いる社会主義陣営と米国率いる資本主義陣営との間での冷戦が始まる。GHQは日本占領政策を転換し、日本に自由主義陣営としての独り立ちを強く求めるようになる。しかし、この時点ですでに社会党が大きな勢力を占めており、保守政権は不安定的であった。
 1955年、革新系では社会党の左右両派が再統一を果たした。これに対抗し、保守系の自由党と日本民主党が冷戦への対応と安定的な保守政権の形成を目的に保守合同を行い、自由民主党(以下自民党)が誕生した。これによって戦後の日本政治の原型が築かれたことから、この体制を「55年体制」と呼ぶこととなる。
 一方で共産党は、治安維持法の廃止により合法政党として国会に進出していたが、1950年代に入るとマルクス主義のイデオロギーに引きずられて、交番を襲撃するなどの武装闘争の方針を採択する。しかしこれで世間の反発を買い、国会の議席をすべて失う事態に至る。共産党は1955年に武装闘争を自己批判し、権力が武力を使わない限りはこちらも応酬しない、という「敵の出方論」を宣言した。

中道政党の誕生と三極体制の成立
 1958年の第28回衆議院議員総選挙では、自民党は憲法改正を目標に掲げ、一方の社会党は護憲を前面に押し出して激突した。結果、自民党は過半数を獲得したものの、改憲に必要な3分の2の議席には及ばなかった。一方社会党は単独で3分の1を超える議席を獲得、護憲に成功したが、政権交代はならなかった。その後、社会党がこの時の議席数を越えることは、遂に起こらなかった。
 自民党の一党優位体制は以降も続く。1959年、第5回参議院議員通常選挙において、社会党は自民党の単独過半数を崩すに至らなかった。すると党内で、翌年の日米安保条約の改定の是非を巡って論争が再燃する。
 社会党は再統一後も党内イデオロギー対立を引きずっていた。左派はマルクス主義と親和的で共産党と近く、議会外の大衆と結びついて政権と対峙する大衆民主主義を標榜していた。対する右派は、あくまで議会内での政党間での議論で行くべきだ、と主張し、議会制民主主義を重視していた。一部の議員に至っては、改憲を主張していた。1960年1月、右派の西尾末広が離党して民主社会党を結成する。民社党は議会制民主主義に基づいた福祉国家の実現を宣言して、自身を「中道政党」と位置付けた。
 当初民社党は、5年以内の政権獲得を目標に掲げていた。しかし同年の第29回衆議院議員総選挙では、選挙前に社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼活動家に暗殺され、社会党が議会制民主主義を擁護する声明を発表、民社党離脱にもかかわらず、小幅な議席減に留まった。一方で自民党は、池田勇人内閣が掲げた所得倍増計画に対する支持を集めて議席を増やした。割を喰ったのは民社党で、解散前から議席を半減させる結果となった。
 また、1961年には都市部で支持を集めていた新興宗教の創価学会が政界進出を進め、政治団体の公明政治連盟を結成、1962年の第6回参議院議員通常選挙ではいきなり15議席を獲得し、民社党を上回って第3党の地位を得た。1964年には公明党と改称して衆議院にも進出、1967年の第31回衆議院議員総選挙で民社党に肉薄した。公明党もまた、「左右の全体主義に対抗する」中道政党と自己規定していた。
 更に1969年の第32回衆議院議員総選挙では共産党が武装闘争時代の痛手から立ち直り、議席を3倍増の14議席とした。自民党は5期連続で単独過半数を達成する。社会党は議席の3分の1を失い、100議席を割り込んだ。

 1960年代は、自民党の一党優位のもとで、野党の多党化が進む時期であった。革新系の共産党は独自のイデオロギーを持ち、自民党を徹底して批判し続けた。中道の公明党・民社党は都市の労働者を中心に支持を広げ、イデオロギーとは距離をとった実地の調査活動を積極的に行った。特に公明党の調査の内、米軍基地の実態に関わるものは防衛庁から「大いに参考になる」とコメントを得る程であった。社会党は党内の左派と右派との間で路線対立が慢性的に起こり、野党のまとめ役足りえなかった。
 一方地方政治においては、1960年代後半から高度経済成長の副作用が明らかになりつつあった。経済成長のための経済や交通のインフラ整備が民生関連のインフラ整備よりも優先され、人口が流入していた都市部において学校や住宅、病院の不足が問題になっていた。また、無秩序な工業化に伴う公害が深刻化していた。これを背景として1967年の第6回統一地方選挙において、東京都知事の美濃部亮吉をはじめ、多くの革新系首長が誕生する。これらの革新自治体では、経済成長によって増加した税収を用いて、福祉関係の施策を充実させることによって長期政権を築いた。

野党合従の70年代
 1970年代に入ると、主要政党間での合従連衡が繰り広げられるようになる。
 まず1969年末に、言論出版妨害事件が起こる。公明党が支持母体の創価学会に対する批判本の出版を妨害するべく、自民党の田中角栄幹事長に働きかけていることが明るみに出たのである。翌1970年に入ると、公明党が常習的にこの手口をとっていたことがわかり、言論の自由に対する妨害行為として他の野党から激しい非難にさらされる。野党からは創価学会の池田大作会長の証人喚問が要求されたが、自民党は野党分断を狙い、佐藤栄作首相は喚問を認めなかった。公明党は自民党に対して借りができたことになり、以降暫くの間、公明党は地方選挙などにおいて自民党に協力することを余儀なくされた。
 また、前年の総選挙で大敗した社会党では、右派の江田三郎書記長が路線変更を提唱する。江田はかねてから構造改革論を提唱しており、これは議会制民主主義を積極的に擁護し、議会における多数派の確保と立法を通じて漸進的に労働者階級の権利を獲得してゆく、という民社党の考えに近いものであった。また、社会党が目指すべき社会として、「アメリカの平均した生活水準の高さ」「ソ連の徹底した生活保障」「イギリスの議会制民主主義」「日本国憲法の平和主義」を挙げた。しかしこれが党内左派から「米国を礼賛するものだ」と激しく批判され、江田は委員長選挙で敗北を重ねていた。
 それでも1971年、江田は書記長の資格で公明・民社の中道両党と会談を重ね、「社公民路線」の確立に成功する。1972年の第33回衆議院議員総選挙では3党で選挙協力を行ったが、社会党が復調した一方で公明・民社両党が議席を減らし、共産党が躍進して第3党となる。自民党は引き続き過半数を確保し、共闘は失敗に終わる。
 翌1973年、オイルショックが発生して、高度経済成長は終わりを告げる。折しも田中角栄内閣が翌年度予算で大幅な財政拡大に踏み切ったため、悪性インフレ(狂乱物価)が発生して経済が混乱、自民党の支持が落ち込んだ。野党各党は再び連合政権構想を発表する。社会党は全野党共闘を打ち出し、公明党も初めて共産党との共闘を打ち出す。一方で民社党は明確に共産党と距離をとった。
 1974年、第10回参議院議員通常選挙で自民党は半数をわずかに1議席上回る議席数に留まり、与野党伯仲国会が実現した。しかし程なく、中道両党が共産党から離反、共産党が民社党の政権接近を批判して社会党はまとめられず、野党は再びバラバラの状況に陥った。翌1975年、作家の松本清張の仲介で創価学会の池田会長と共産党の宮本顕治委員長が会談して相互共存の「創共協定」を結んだが、公明党の党内議論で反発が相次ぎ、共産党がこの態度を批判したことにより短期間で崩壊する。以降、公明党と共産党が共闘したことは一度もない。
 この年の春には第8回統一地方選挙があったが、前年の共産党の躍進が社会党の疑念を生んで革新両党の足並みがそろわず、革新系の各首長は苦戦を強いられる。都知事選では美濃部が引退を撤回して強行出馬したが得票数を減らし、京都府知事選では共産党系の蜷川(にながわ)虎三に社会党が対抗馬を立て、接戦の末蜷川が勝利した。

 1976年、自民党では総裁の三木武夫が前任の田中角栄のスキャンダルであるロッキード事件の全容解明を掲げていた。三木は田中の辞任後、そのクリーンなイメージを買われて総裁に擁立されていたが、やがて非主流派の田中・大平・福田三派から「政敵潰しのためにロッキード事件を利用している」と反発され、党内抗争が起こっていた。党内が分裂したまま衆議院が任期満了を迎える。第34回衆議院議員総選挙で自民党は結党以来始めて衆議院の半数を割りこみ、保守系無所属を追加公認してようやく過半数を維持する。選挙前、自民党の一部の議員が「保守政治の刷新」を掲げて離党して新自由クラブを結成、総選挙では結党直後にも関わらず一挙に17議席を獲得していた。
 その他の野党は、浮動票を新自由クラブに取り込まれた共産党以外は伸張した。しかし社会党では右派が激減して江田も落選し、左派の社共共闘路線が幅を利かせるようになる。江田は社会党を見切り離党、社会市民連合を結成するが直後に急死する。
 1977年、第11回参議院議員通常選挙では江田への同情が社共両党への反発を生み、両党が議席を減らす。社会党は左派の執行部が退陣し、かわって飛鳥田一雄が横浜市長を辞任して委員長となったが、次期総選挙として用意されたのが地盤と異なる東京であったため自身の選挙にかかりきりとなり、党の改革は遅々として進まなかった。

 一方で、自民党は与野党伯仲国会であるにもかかわらず、党内抗争が熾烈であった。
 三木の退陣後、反主流の田中・福田・大平三派の取り決めで、福田赳夫がまず首相となり、1期2年の後には大平正芳に譲る、という「大福密約」が成立する。しかし福田は続投に色気を見せ、大平派を執行部から外し、総選挙を行って勝利し、文句なしの続投を勝ち取ろうとする。これに大平派が反発し、総選挙は行われなかったが、1978年、総裁選に立候補した福田は、田中の支援で大量の一般党員票を獲得した大平に敗北を喫する。
 1979年、第35回衆議院議員総選挙において大平は、一般消費税の導入を切り出し、自民党は再び半数割れの敗北を喫する。福田は大平の責任を追及して退陣を要求する。選挙後の首班指名では党内で調整がつかず、大平と福田の両者が立つ事態に陥った。これを四十日抗争という。
 この間、自民党は国会運営を円滑に進めるべく、公明・民社の中道両党に秋波を送っていた。両党にとっても、社会党右派が勢力を失った以上、自民党に近づくのがもっとも現実的な対策であった。これの一例として1978年、公明党は初めて自衛隊容認の考えを示す。選挙後の四十日抗争では、大平陣営から公明党に首班投票を求めたが、公明党は棄権を選択している。
 一方の革新系は、1979年の第9回統一地方選挙では都知事選を落とすなど退潮が著しくなった。同年の総選挙では特に社会党の衰退が著しくなり、一方社会党と対立していた共産党が躍進した。以降の地方選挙では自民党や中道政党が推す候補に相乗りすることが多くなる。結果、共産党以外の政党が一致して推す候補が圧倒的な優位の下で当選する「オール与党」が地方政治においては常態化した。

 1980年、第12回参議院議員通常選挙では自民党への対抗上、野党間での選挙協力が模索され、公民両党が中道連合政権構想、社公両党が社公連合政権構想を締結し、社会党も共産党との断絶を宣言した。
 ところが、選挙直前の通常国会の閉会時、野党が否決見込みで提出した内閣不信任案が、自民党非主流派の欠席によって可決されてしまう(ハプニング解散)。急遽衆参同日選挙となることによって、野党間の選挙協力はご破算になってしまった。一方の自民党は主流派を一次公認、非主流派を二次公認とし、選挙活動も別建てで行うなど、事実上の分裂選挙となる。
 しかし選挙中、大平首相が心不全により急死する。途端に自民党は一致団結して選挙を行い、結果は衆参共に自民党が大勝し、伯仲国会は終わりを告げた。公明・民社両党は社会党とは距離をとるようになり、徐々に自民党へ近づいてゆくこととなる。

中道政党の保守接近
 衆参同日選挙で大勝した自民党内で、特に勢力を拡大したのは田中派であった。田中はロッキード事件後自民党を離党していたがこれ以降「闇将軍」として政界に君臨するようになる。田中は大平の後継として大平派の鈴木善幸を総理につけ、1982年には中曽根派の中曽根康弘を首相に据える。1984年の総裁選では反田中勢力が長老議員を中心に二階堂進副総裁擁立を模索、中道の公民両党との連立政権含みで両党とも水面下で連絡をとっていた。しかしこれは田中の反対により巻き返されて潰れ、長老議員の発言力がそがれることによってますます田中の権勢は強まった。
 自民党の歴代内閣は佐藤政権の7年のあと田中、三木、福田、大平、鈴木と5代連続で2年であったが、中曽根は5年の長期政権を築く。それは中曽根が田中の支配に従順であったためで、周囲からは「田中曽根内閣」と陰口を叩かれていた。しかし中曽根は、田中派の中心人物であった竹下登を大蔵大臣の要職につけて、田中支配体制の転覆のために竹下に力をつけさせていた。
 当時田中はロッキード事件の潔白無罪を勝ち取るために政治勢力の拡大に努めており、田中派は最大時には140人の大所帯になっていた。しかし若手から中堅にかけての議員にとっては、ポストは他派閥から一本釣りされた移籍議員に優先して割り振られるうえに、田中と親しく接する機会がほとんどなかったため、田中に代わって世話を見ていた竹下に信望を寄せるようになる。
 1987年7月、竹下は田中派の議員の大半を引き連れて自らの派閥を立ち上げる。田中は激怒したが直後に脳卒中に倒れ、政界を去った。11月に中曽根の指名で竹下が首相となる。竹下が首相をつとめた1980年代末から、リクルート事件や佐川急便事件など政治家の金権スキャンダルが続発し、竹下自身もスキャンダルで連日批判を受けた。しかし竹下は追求から逃れる手段を周到に用意していた。竹下は以前から野党議員も含めて多くの議員に政治資金を配っており、その時に領収書代わりに名刺を受け取っていた。記録を残していたのは竹下一人だったため、名刺を交換した事実を匂わすことで野党議員を暗に恫喝し、相手をひるませることによって政権を継続させたのである。
 しかし参院選を控えた1989年、内閣支持率が10%を切るころにはさすがに続投は不可能となって辞任、後任に中曽根派の宇野宗佑外相を指名する。派閥の会長以外の議員が総裁になるのはこれが初めてのことであった。しかし直後に宇野の女性スキャンダルが発覚し、第15回参議院議員通常選挙で自民党は大敗、社会党が一人勝ちし、改選第1党となる。宇野の後継には、河本派(旧三木派)から海部俊樹が選ばれたが、やはり竹下の天下は動かず、海部内閣の組閣は幹事長に座った竹下派の小沢一郎が主導になって海部に無断で行ってしまった。

 参院選後、野党各党は任期満了まで1年を切った総選挙に向けて政権構想を発表したが、ここでも足並みはそろわなかった。
 社会党の委員長は左派の土井たか子で、連合政権には乗り気であったが、自衛隊の合憲化には相変わらず消極的であった。対して公明党は社会党に「西側陣営の一員としての立場の明確化」を求め、民社党は自衛力の保持や日米安保の維持、韓国との友好など、明らかに社会党左派が否定している内容を「最小限の条件」として突き付けた。翌1990年、第39回衆議院議員総選挙では野党分裂のままで突入し、自民党は安定多数を維持、野党では社会党が50議席増の一人勝ちとなった他は議席を減らした。
 公明党は選挙後、社会党との連合政権構想の凍結を宣言する。すると、自民党の小沢幹事長が接近してきた。当時自民党は参議院で少数与党となっており、中道政党の協力が必要となっていたのである。折しも冷戦が終結に向かいつつあり、安全保障についての変革が起こりつつあった。また、1990年8月にイラクのクウェート侵攻が発生し、翌年の湾岸戦争へと向けて軍事的な緊張が高まっていた。
 公民両党は、自民党との個別の協議を行うことで、キャスティングボートの役割をするようになる。三党の交渉は自民党の小沢一郎幹事長、公明党の市川雄一書記長、民社党の米沢隆書記長が中心となり、三者の名前をとって「ワン・ワン・ライス」と呼ばれた。1992年PKO協力法案審議において、社共両党は反対の立場をとり、国会対策では参院本会議での採決を6日間遅らせるなど徹底抗戦したが、自公民三党の賛成で成立した。

政界再編と二大政党への道
 この間、海部は1991年の総裁選出馬を断念し、後継には宮澤派(旧大平派)の宮澤喜一がついていた。
 PKO法成立直後の1992年8月、佐川急便事件が勃発。竹下派の金丸信会長が議員辞職をすると、後継の会長を巡り小渕恵三と小沢一郎が争う。小渕が会長の座につくと、小沢は「政治改革」を旗印に竹下派を飛び出し、羽田孜を押し立てて新派閥を立ち上げた。これと前後して細川護熙前熊本県知事が55年体制の打破を掲げて日本新党を結成して政界進出、第16回参議院議員通常選挙では正真正銘の地盤がない状況であったにもかかわらずいきなり4議席を獲得して注目されていた。
 1993年、通常国会で政治改革が議論されたが、与野党協議が不調に終わり、廃案となる。会期末に内閣不信任案が出されたが、小沢派が造反して賛成、可決される。衆議院は解散され、小沢派は「新生党」を結党する。更に若手議員が「新党さきがけ」を結党し、自民党は分裂状態で選挙に突入する。

 第40回衆議院議員総選挙で、自民党は第1党を維持したものの、新生・さきがけ両党の離脱分をそのまま失い、半数を30議席あまり割り込んだ。野党では新政党・日本新党が新党ブームで躍進し、社会党は埋没して議席半減の大敗北を喫する。選挙後の交渉の結果、自民党・共産党を除く8党派が連立政権を組むことで合意し、日本新党の細川護熙が衆議院当選1回で首相の座についた。自民党結党以来38年ぶりの政権交代であった。
 連立8党派の党首は、政権樹立後に就任した社会党の村山富市委員長以外は閣僚となったため、幹事長クラスが「代表者会議」を開いて政策の調整にあたっていた。新政党の代表幹事となっていた小沢と市川・米沢の「ワン・ワン・ライス」が議論を主導していたが、小沢や市川が直線的なアプローチで異論を認めない態度をとったため議論が対立し、特に社会党が外交・安全保障について孤立する展開が相次いだ。政治改革の目玉であった公職選挙法改正案は社会党内の造反で否決され、最終的には細川と自民党の河野洋平総裁の会談で妥協された。
 連立政権は安定することなく、細川が事実上の消費税増税を唐突に発表するなど迷走し、最終的には細川自身の金銭スキャンダルで内閣総辞職に追い込まれた。
 後継には新政党の羽田孜党首が選ばれたが、内閣発足前に社会党が連立を離脱、羽田内閣は発足時からいきなり死に体となり、2ヶ月で退陣に追い込まれる。
 後任の首班指名において、自民党は社会党が連立を離脱した直後から接触して、自民党が社会党の村山を首班に推すことで与党返り咲きを狙っていた。新党さきがけも加えて三党で村山首班でまとまり、羽田内閣の総辞職とともにこれを公にする。一方の小沢は自民党内の海部俊樹を離党するように仕向け、海部は投票直前に「社会党に投票することは出来ない」として離党を表明する。しかし自民党からは小沢が期待したほどの造反は出ず、僅差で村山が首相に指名された。
 政権発足後、社会党は従来の革新主義を放棄せざるを得なかった。村山は所信表明演説で、自衛隊や日米安保は合憲である、と明言した。

 政治改革の過程で選挙方式が小選挙区制に替わっており、将来的には二大政党制に移行すると見られていた。野党転落後の旧連立与党は新党発足を急ぎ、1994年、海部俊樹を代表として新進党が発足する。
 翌1995年、第17回参議院議員通常選挙で新進党は自民党に肉薄し、比例区では自民党を上回った。社会党は政権発足にあたっての方針転換から支持を失い、大勝した6年前の議席の大半を失って自民・新進に次ぐ第3党に転落した。新進党の躍進の背景にあったのは、合流した公明党の支持層である創価学会の700万票であった。この選挙結果を総選挙に当てはめると、政権交代が起こるのは確実であった。
 これを受けて自民党は、公明党と創価学会をターゲットにした攻撃を行う戦略をとる。細川政権時から公明党の閣僚に政教関係の質問を行い、政権復帰時に反創価学会の宗教家や有識者を集めて懇談会「四月会」を結成していたが、参院選後はエスカレートした。地下鉄サリン事件を受けて秋の臨時国会で宗教法人法改正案が審議された際には創価学会の池田大作名誉会長の参考人招致を要求し、旧公明党議員が強硬に反対してこれを回避している。
 新進党の代表になっていた小沢はこの攻勢に対して、公明党出身者が党幹部の資格で発言すると党のイメージ悪化につながる、として旧公明党議員を幹部から外した。この対応は「公明外し」ととられたため、以降旧公明党は新進党に対して冷淡に応じるようになる。自民党は田中角栄以来創価学会と近い竹下派が中心となって離脱を働きかけ続けた。
 1996年の第41回衆議院議員総選挙では、選挙直前に二大政党の間での埋没を危惧した社会民主党(日本社会党から改名)、新党さきがけの議員が離脱し、民主党(鳩山由紀夫・菅直人共同代表)を結成した。社民党とさきがけは一部の長老議員が新党のイメージをおもんばかって参加を拒否された(排除の論理)。社民党議員の主に右派の議員と、自民党離脱組の中でも左派色が強かったさきがけの合併であるため、民主党は若干の左派寄りの政党という立場であった。
 選挙戦では、旧公明党が一部選挙区で自主投票をするなどサボタージュをおこない、更に民主党が候補を擁立したことによって反自民票が分裂し、僅差で自民党候補が勝利する選挙区が続発した。結果、自民党が半数に近い議席を獲得し、新進党は政権交代に失敗した。民主党はほぼ改選前の議席を維持したが、社民党は民主党結成で減らしていた議席数をさらに半減させて15議席に留まり、共産党にも抜かれて第5党に転落、閣外協力に転じた後連立政権を離脱した。
 総選挙敗北後、新進党から議員の離脱が相次ぐ。一部は自民党に合流し、自民党は過半数を回復する。小沢は自民党の中で社民党との連立を快く思わない勢力と接触、社民党を切って自民・新進の大連立を組もうとした(保保連合)が失敗に終わる。1997年、代表選に勝利した小沢は純化路線をとり、新進党は解党した。

 新進党解党後、党は四分五裂したが、公明党が再結成し、小沢が自由党を結党したほかは、程なくして民主党に合流、民主党は保守・中道系の議員を受け入れつつ新進党に替わる二大政党の雄となる。
 1998年の第18回参議院議員通常選挙で、自民党は消費税増税後の景気の落ち込みなどを攻撃されて議席を減らし、過半数回復はならなかった。橋本龍太郎内閣は退陣し、後継には竹下派の小渕恵三会長が立つ。
 新進党解党後、自民党は公明党に詫びを入れるなど、急速に親交回復に努めていた。参院選後、自民党は公明党に連立参加を呼びかけるが、公明党は支持者の手前、即座に受け入れることは出来なかった。そこで自民党は先行して、小沢率いる自由党に接触した。1999年に自自連立政権が成立する。年内に公明党も連立に加わり、自自公連立政権が誕生するに至った。
 2000年、小沢は自自両党が解党・合併して新しい保守政党をつくり、公明党を切るべきだ、と小渕に迫ったが、容れられなかった。直後に小渕は脳梗塞に倒れ、内閣は総辞職する。自由党は連立を離脱し、離脱反対派は党を割って保守党を結成した。小渕の後継には森派(旧福田派)の森喜朗幹事長が就任する。その直後に竹下が没し、竹下派は橋本が継承した。
 2001年、森が辞職を表明し、後継の総裁選に橋本が再登板をかけて立候補した。しかしこの時点で既に勢力が衰えていた旧竹下派は内部分裂を引き起こし、森派から立候補した小泉純一郎が圧勝した。小泉は規制緩和による自由経済の活性化を訴え、これを強力に推進し始めた。2003年に保守党は自民党に合流し、連立与党は自公の2党体制となる。
 これと前後して、野党勢力の結集を目的として民主党に小沢率いる自由党が合流する。

 1993年に始まった政界再編は2003年に一段落つき、政党は5党に収束した。すなわち、保守系の流れをくむ自民党と中道の立場から連立に加わる公明党、保守から革新右派までの集合体としての民主党、革新系として残った共産党と社民党である。

二大政党の消長
 2005年、小泉は規制緩和の目玉としての郵政民営化を諮ったが、自由主義経済の追求が原理主義的である、という党内左派の反対が強く、造反により否決される。小泉は総選挙を打ち、反対派には刺客候補を立てた。第44回衆議院議員総選挙で自民党は圧勝する。
 ところが、2006年に日本銀行が量的緩和を解除し、景気回復は途絶した。小泉の後継に立った町村派(旧森派)の安倍晋三は、景気悪化や霞ヶ関の官僚との対立、相次ぐ党内のスキャンダルなどで2007年の第21回参議院議員通常選挙で敗北、1年で退陣する。次いで立った福田康夫は参議院の少数に苦しみ、民主党の代表になっていた小沢に大連立を呼びかけたが、小沢が党内で反対されて立ち消えになった。福田も1年で退陣、次いで首相になった麻生太郎はリーマン・ショックの対策に失敗して景気をさらに悪化させた。2009年、第45回衆議院議員総選挙で自民党は大敗し、初めて第1党を失った。
 代わって民主党が第1党となり、社民党、自民党を離党した国民新党と3党で連立を組んだが、政権は3年余で3人の首相が交代する短命政権に終わる。経済政策では左派の再配分政策をとったが、財源の確保が不十分で公約の実行が徹底できず、経済成長に重きを置かなかったために雇用が改善しなかった。外交では米中等距離外交を標榜して沖縄の米軍基地移設を目指したが果たせず、社民党の連立離脱を招いた。2011年に発生した東日本大震災でも、危機管理が上手くゆかず被害を拡大させた。2012年には消費税増税を巡って対立して大量の離党者が出て半数を割りこんだ。
 2012年、第46回衆議院議員総選挙で自民党が圧勝し、安倍晋三が首相に返り咲いた。安倍は財政出動・金融緩和・規制緩和のインフレ政策によって景気回復を図る「アベノミクス」を打ち出した。一方で外交政策では日米同盟を重視するタカ派政策をとり、安全保障の関連法案を多数成立させた。連立を組む公明党は、修正協議を行うなどしてタカ派色を弱めつつ、与党として法案成立に関与している。
 在野においては、自由主義経済を打ち出す保守系野党として日本維新の会などが結成されていた。2012年の政権交代後は、経済政策で近い自民党とは近い関係を築いている。
 左派系においては、2012年に民主党の小沢に近しい議員が小沢を担いで離党し、日本未来の党を結党したが惨敗、その後党名変更を経て自由党となる。共産党と社民党も存続しており、2015年からは民主党(改め民進党)を交えて連合体を組んでいる。
 民進党は党内のイデオロギーが一定していなかったが、2012年の安倍内閣の発足後は与党に対抗する意味合いで革新色を強めていた。しかし2017年、保守系が希望の党に参加、革新系が立憲民主党を結党した。



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