2017年11月
三晋春秋  白山文


自序
 人は文字を発明して文明を興し、自らの歴史を後世に伝えることに粉骨砕身した。孔子が『春秋』を著し、司馬遷が『史記』を書いて以来2000余年、人の歴史に対する思いはなお強まって已むことがない。現在でも我々はその思いの結晶たる史書に囲まれている。人は歴史を学び、論じ、そして愛する。私は初学者の身に過ぎないが、歴史への想いが極まり拙稿を出だした次第である。
 拙稿においては三晋の歴史を論じる。三晋とは、春秋時代末期から戦国時代にかけて現在の山西省に存在した、韓・魏・趙の総称である。大国たる晋を三分して独立したため、この名がある。晋は春秋時代の覇権国家であり、その正統を受け継ぐ三晋は戦国時代初期の覇権国家である。魏や晋と聞いて三国志や魏晋南北朝を連想した方がいたかもしれないが、拙稿で扱う時代はそれよりはるか昔である。伝説から戦国までの歴史を、三晋を中心にして大まかに紹介していく。
 なお、三晋に関係ないと思われることは基本的に省略させていただいた。読者の皆様には、このことをご理解いただいた上で、三晋への関心を深めていただくことができれば幸いである。

伝説から西周まで
 その昔、堯舜ぎょうしゅん時代のことである[1]姫棄きき[2]という農耕に優れた人がおり、帝舜に仕えていた。号は后稷こうしょくであり、彼こそが伝説上の周の始祖である。その後、舜の後継者となったにより、紀元前20世紀頃、夏王朝が建てられる[3]。しかし夏最後の王であるけつ王は極悪非道の人物で、殷の湯王により打倒され、紀元前17世紀に殷王朝が起こる。
 后稷より十五代が下り、文王[4]の時代に周は力を高め、彼は殷王朝より西方の覇者である西伯に封じられる。ときに殷の紂王は暴虐無比であった。そこで文王の子である武王は殷を放伐し[5]、周王朝を打ち立てた。同時に武王は一族・功臣を各地に封建し、周の支配体制をかためていく。この時、畢の地に封じられた武王の弟・畢公高ひつこうこうこそ、後の魏の祖である[6]
 しかし武王は建国後まもなく崩御してしまう。彼の子・成王はまだ幼少であったため、周公旦らがしばらく政治を見ることになる。周公は殷の移民が起こした反乱を鎮め、また山西など四方を平定している。山西の地には成王の弟である唐淑虞とうしゅうぐが封建された。これこそが晋の始まりである。
 次の康王の時代に周は全盛期を迎えるが、昭王は南方に遠征して帰らず、脂、は暴虐で失策を重ね人々に追放されるなど、周は次第に衰退していく。
 なお、ぼく王の時代、彼に御者[7]として仕えた造父[8]が大夫[9]として趙城に封じられている。この造父は趙の祖となる人物である。
 幽王の時代には周はすっかり衰えていた。それに加えて彼は悪政を行い、諸侯の離反を招いて、周に修復不可能な大打撃をあたえてしまう。幽王は宜臼ぎきゅうを王太子に定めていたがこれを廃し、寵愛する褒ジ(おんなへんに以)[10]との間にもうけた子・伯服をかわって立太子した。そこで宜臼の母の実家である申をはじめとした諸侯の離反をまねき、後継者争いを起こしてしまう。申は西方の異民族である犬戎けんじゅう[11]と協力し、紀元前771年に犬戎は周都鎬京こうけいに陥落させて周を滅ぼしてしまった。ここに西周時代は終わる。

春秋時代前半
 幽王・伯服らは犬戎に殺されてしまったため、宜臼は申の地で即位する(平王)。一方、鎬京の地では幽王の王子余臣がカク公翰こうかん(カクは左上に爪・左下に寸・右に虎を合わせた字)に擁立されて即位した(携王)。ここに天下に二王が並立してしまったのである。この状況を打開したのが晋文侯である。彼は紀元前760年に携王を攻め滅ぼして平王に西伯の称号を賜り、晋の国威を大いに高めた。
 さて、晋文候には桓淑という優秀な弟がいたが、兄の生前には警戒されてゆう[12]を与えられなかった。兄の死後、彼は曲沃の地に封建される。彼は晋の都・翼にいる本家から晋候の地位を奪おうと謀り、翼本家と争いを起こす。なお、彼の庶子である韓武子が韓原の地に封じられたのが、韓氏の始まりである。
 内紛は桓淑の息子・荘伯の時代にも続き、桓淑の孫である晋武公の代にようやく解決を見る。武公は翼の本家を滅ぼして晋候に即位し、周王に宝物を贈って正統の晋候として承認された。また、先述の韓武子は彼に仕えて御者を務めている。
 晋武公の子・晋献公の時代に晋は国力を増大させる。彼は公族を誅殺して中央集権を進めた。彼は軍を増設して上下の二軍とし、かく・魏・こうといった小国を滅ぼして、領土を拡大している。この時、魏を車右の畢万ひつまんに、耿を御者の趙夙ちょうしゅくに与えている。畢万は畢公高の子孫であり、彼は封地の魏から氏を魏と改める。さらに献公はカク(爪・寸・虎を合わせた字)・虞といった姫姓諸侯をも滅ぼしている。
 しかし彼は晩年、かつての周幽王と同じ失態を侵す。彼は寵妃である驪姫りきとの間の子を跡継ぎにしようと考え、後継者争いを引き起こしてしまう。長男で元太子の申生は自殺し、次男の重耳ちょうじ、三男の夷吾は亡命を余儀なくされた。しかし献公の死後、内紛で驪姫とその息子たちは殺されてしまう。結局、秦穆公の助けもあって紀元前650年に夷吾が即位して晋恵公となったが、晋恵公は秦との戦争に敗れて捕虜となるなど、晋の騒動は収まらなかった。

晋文公
 事態を収拾したのは、次男の重耳である。彼は命からがら晋を脱出して狄に亡命したが、弟の晋恵公が刺客を放ったため、狄を脱出し、衛で冷遇され[13]、斉に至った。同国では覇者・斉桓公[14]に重用されて同国に留ったが、臣下たちの謀で国外へ連れ出され[15]、曹・宋・てい[16]を経て、楚へ至った。楚成王の厚遇を得て[17]、同国の護衛の下重耳は秦へと到着する。秦穆公の助力により、紀元前636年、ついに晋候に即位した。諡は文公である。最初に晋を脱出してから20年ほどが経っている。この時、彼はもう還暦を過ぎていた[18]。また、文公の諸国放浪には、趙成子、魏武子、先軫せんしん狐偃こえんなどの有能な人材が付き従っていた。彼らは文公即位後、大いに用いられることになる。
 文公は即位して後、先ずは国内の安定化に努める。公正な論功行賞を行い、百姓に恩恵を施して、人心の掌握したのである。そのような中、周王の王子圍が反乱を起こし、襄王が鄭に亡命するという事件が発生する。文公は秦の援軍を断って独力でこれを鎮圧し、周王より陽樊にある原・温の二邑を賜る。当時の最先進地域である中原を手に入れたことは、晋が超大国へ成長する礎となる。そして趙成子を原の大夫に、魏武子を魏の大夫にしている。

 さてここで話を少し戻して、文公が即位する前の中原の様子を見てみよう。先述の覇者・斉桓公がなくなって後、斉では後継者争いが発生して覇権を失う。続いて宋襄公は覇者たらんとしたが、楚に大敗してその野心は潰える。秦穆公も名君ではあったが、秦はあまりにも西方に位置しており、中原の周王を助けることはできなかった。つまり、覇者がいないのである。このような中、南方の大国・楚が中原に迫り、脅威となっていた。楚は周王の他では唯一王号を称しており、周王の権威に真っ向から挑戦していた。そして楚は圧倒的軍事力を背景にして、鄭・衛・魯といった中原諸国を盟下にしたがえていたのである。
 紀元前633年、楚は宋を包囲し、宋は晋に助けを求める。文公は国内の安定を鑑み、そして楚の軍事力に対抗するため、軍を増設して三軍[19]とし、出撃している。一方で晋は大国・楚と直接争うことを恐れ、楚の同盟国である曹・鄭を討つことで、楚が宋の囲みを解くことを期待する[20]。しかし楚は依然包囲を続ける。ここにおいて、晋は楚との直接対決に踏み切るほかなくなった。紀元前632年、晋・楚両軍は対峙するが、晋軍は突如として3日間退却する。かつて楚成王と約束した「三舎退く」ことを実行したのである。楚成王は感じ入るところあってか軍を退けるが、楚の将軍・子玉は精兵を率いて晋軍を追撃し、両軍は城濮の地で激突する。そして、晋は大勝利を収めるのであった。
 ここに文公の覇権は完成した。周王を尊んで戴き、中原諸国を会盟に参加させて同盟を結集し、中原に脅威を及ぼす異民族たる楚を撃退する。彼は尊王攘夷を実行し、名実ともに覇者となったのである。
 文公は即位時すでに老いており、即位していた期間はわずか9年だった。しかし晋を安定化・強大化させ、その覇権を打ち立てた業績は計り知れない。一代で台無しになった斉桓公の覇権とは異なり、晋の覇権は基本的に100年以上も続いていくのである。

内外の変革
 晋は覇権を打ち立て、それは基本的に100年以上続く、とは先に述べたとおりである。しかし、これは断絶期間を挟んでおり、徐々に変容している。
 紀元前618年、楚が中原への進出を再開したことで状況は大きく変化する。宋・衛・曹以外の諸国が同盟を離脱してしまうのである。特に、楚との間にある鄭の離反は、晋にとって痛手だった。晋は鄭を同盟へ復帰させるために鄭を攻め、楚は鄭の不実を責めて鄭を攻撃するという、一種のイタチごっこが繰り返される。鄭をめぐって晋・楚は対立を深め、紀元前597年にヒツ(必におおざと)の地で直接戦う。結果は晋の大敗だった。宋までもが同盟を離れ、晋の覇権は一時中断してしまうのである[21]
 しかしここで終わる晋ではない。宋・魯を同盟国に再び加え、紀元前589年には斉を、紀元前575年には楚をそれぞれ打ち破っている。そして紀元前562年には鄭を盟約に復帰させることに成功している。一方の楚は、苦境に陥っていた。長江下流域の呉[22]がにわかに強大化して楚を脅かし始めたからである。楚は北方だけにかまう余裕はなくなった。そこで紀元前546年、晋と楚は講和を結ぶ。中原につかの間の平和が訪れたのである。
 だが、このことは晋の覇権体制に揺らぎをもたらす。もともと、同盟国は晋の軍事的援助の見返りとして、晋に貢納する義務があった。そのため、平和となった今、諸国にとっては最早晋と盟約を結ぶ意味などないのである。晋の覇権体制は縮小していき、紀元前5世紀になると、かつての覇権は停止することになる。

 晋・楚の講和によって、晋の国内にも変化が生じてくる。
 少し話を戻そう。晋文公は三軍を創設したが、三軍には役職があった。上から中軍の将、中軍の佐、上軍の将、上軍の佐、下軍の将、下軍の佐という序列である。最上位にあたる中軍の将を正卿と呼び、6人を総称して六卿という。彼ら6人は身分で言えば最有力の卿であり、外では将軍として、内では大臣として、その権力を振るった。晋の大夫たちはこの地位をめぐって激しく争い、紀元前5世紀の半ばから、趙・魏・韓・范・中行・智の六氏が六卿を独占するようになった。六氏は、滅ぼした大夫の邑を自らの支配下に入れ、時には夷狄や諸国さえも攻めて、各々勢力圏の拡大に努める。各氏族の権益を優先するようになったのである[23]。特に中行氏は東陽の夷狄を積極的に攻撃している。
 また、この時期から晋では兵力の大量動員が可能になっていった。今までの戦争の参加者は士以上の人々であり、戦闘は戦車を中心とした数千人規模のものだった。しかし、今卿たちは私邑という形で領地をもっている。そのため、私兵として庶人を含め数万人規模の動員が可能となり[24]、戦争の中心も戦車から歩兵に移り変わっていくのである。
 紀元前497年、晋を揺るがす大事件が生きる。范氏・中行氏の乱である。彼らは東陽の地に拠り、趙簡子を正卿とする晋と8年にも渡って争った。斉・衛・鄭そして周が両氏を支援し、晋は鎮圧にかなり苦労したが、紀元前490年にようやく平定した。
 范氏・中行氏を滅ぼしたのち、残る四氏はその権益を山分けし、ますます勢いは盛んになった。趙簡子は衛への進出をはかり、彼を継いで趙氏の長となった趙襄子は方向を転換して代を征服する。趙襄子は衛への進出をやめ、もっぱら北方を目指す。一方、紀元前476年に趙簡子の死後、智伯は正卿となる。彼は北方、秦、鄭という三方面への進出をたくらみ、三方向を盛んに攻撃する。智氏の力は強まっていき、特に北方進出においては趙氏との利害対立が深まっていった。

三晋独立
 さて、智・趙・魏・韓ら四氏の権勢はだれの目にも明らかである。時に、智氏が最も強大であり、他の三氏は独力で智氏に対抗する術を持たなかった。そこで智伯は武力を背景として三氏に領地の割譲を要求する。韓康子、魏桓子は要求に屈するが、もともと智伯と対立していた趙襄子は拒絶した。そのため智伯は趙氏を攻め滅ぼそうとして、智・韓・魏の三氏からなる連合軍を率い、趙襄子を晋陽に包囲した。趙襄子は晋陽をよく守備したが、智伯は水攻めを決行し、晋陽はまさに陥落せんとした。進退窮まった趙襄子はひそかに韓康子と魏桓子に智伯を裏切ることを勧める。趙氏が滅ぼされれば智氏を抑えるものがなくなり、次は韓氏・魏氏が滅ぼされてしまうだろう、というのである。有名な「唇亡則歯寒」の理論である。韓康子と魏桓子はこれをもって然りとなし、智伯を裏切ってこれを急襲し、趙襄子も大反攻に出る。智伯は大敗して殺害され、智氏は滅ぼされてその領地は三氏によって分割されてしまった。趙襄子は正卿へと就任するが、晋公に近侍せずに、もっぱらその根拠地である晋陽に居住するようになる。そのため、魏氏は安邑に、韓氏は平陽に、それぞれ拠るようになる。それまで卿が根拠地の邑に拠るということは、中央で政争に敗れて失脚した場合や戦争のために籠城する場合など、いわば非常事態がほとんどであった。このことから、三晋は事実上独立してしたということがわかる。これは紀元前453年[25]のことであり、本年を以て戦国時代の始まりとするものも多い。
 事実上の独立を果たした三晋ではあるが、趙襄子の執政期においては中原への進出をほとんど停止していたようである。というのも、覇者であるはずの晋の活動がほとんど記録されていないのだ。周王朝内の内紛で哀王・思王が相次いで殺害されたが、周を支えるはずの晋は何もしていない。どうやら戎狄方面への進出だけは引き続き行っていたようではある。
 この機会を楚は逃さなかった。楚は紀元前506年に首都のえいを呉王闔閭こうりょの軍に陥落させられて以来、呉・越に苦しめられ、長く不調であった。しかし越王句践こうせんの死後、紀元前440年代に勢力を盛り返し、さい・キョ(草かんむりに呂)を相次いで併合する。一方、越もまた紀元前410年代に活発化し、とう・タン(炎におおざと)を滅ぼす。これら南方諸国の北上に対し、斉は消極策をとり、晋不在の中原に進出することもなかった。また、楚・越による外圧を受け、田氏[26]による専制が完成している。

魏の覇権
 事態は紀元前425年に大きく変化する。正卿であった趙襄子が死去し、かわって魏文侯[27]が正卿に就任したことで、晋は再び中原に進出するようになった。ただし、三晋それぞれが別行動をとっている。
 まず趙は、献候が趙襄子の後を継ぎ、中牟に都を移した。中牟の位置は中原に近く、趙は中原進出をもくろむようになる。趙簡子の時代と同様、狙うは衛である。しかしこれは斉によって阻止されてしまい、結果は決して芳しくはなかったようである。また、引き続き戎狄方面へと向かおうとする勢力もおり、一時献候の叔父・趙桓子が献候を追放して代の地に拠るという内紛もあったが、これは鎮圧され、献候が復位している。
 韓もまた、韓武子が鄭への侵攻を開始する。そして紀元前423年には鄭幽公を殺害するに至る。この時代、韓武子は平陽から宜陽に、ついで韓景候は陽テキ(上部に羽、下部にふるとり)にそれぞれ都を移している。時代を追うごとに根拠地が鄭に近づいており、鄭への軍事作戦を活発化させている。鄭は長らく晋楚係争の地であり、当然この戦争により、鄭の同盟国である楚と晋の対立は深まる。鄭・楚は紀元前413年に韓へと侵攻するが、現時点では三晋は有効な反撃をすることができなかった。
 一方で魏は本居を晋に近い安邑にとどめ、中原ではなく秦方面へ進出することを計画する。紀元前418年に秦と交戦し、その後三度勝利を重ね、黄河以西の地を奪うことに成功している。また魏文侯は暗殺された晋幽公にかわって晋烈公を立て、晋室の混乱を抑えて影響力を強めている。加えて紀元前408年には中山王国[28]を攻め、これを征服している。さらに東方では、紀元前413年以降にわかに軍事行動を活発化させ魏・趙の国境を侵した斉に対して度々交戦し、ついに紀元前404年に三晋連合軍を率い、さらに王命を奉じてこれを大いに打ち破る。
 この戦勝の報酬として、紀元前403年に三晋は周威烈王から諸侯として認定される。ここにおいて、依然と同じく三晋は晋候に臣下として従いつつも、同格の地位を手に入れたの である。司馬光をはじめ、本年こそ戦国時代の始まりとするものもまた多い。いずれにせよ、三晋の成立と戦国時代が深く関係していることは間違いないだろう。
 さて三晋は斉を打ち破ってのち、南へと目を向ける。鄭は楚と盟を結び、二国は度々韓へ侵攻していた。そこで魏文侯のあとを継いだ魏武候は、紀元前391年に三晋連合軍を率いて楚を撃破し、黄河南岸から撤退させる。また彼は斉との講和を実現させ、紀元前386年には斉を実質支配していた田氏を諸侯として公認するよう周安王にかけあい、成功させる(田斉の成立)。またこの時期、かつての晋の同盟国であった魯と衛などの中原諸国が晋との同盟に復帰している。ここに周王と晋候を報じ、韓・趙を率いた魏の覇権が完成する。それは周王を奉じ、中原諸国を盟下に従えて、斉・秦・楚と対峙するという、かつての晋の覇権体制と同じものであった。長く停止していた晋の覇権を、魏は再現することに成功したのである。
 しかし、今は戦国の世であり、もはやかつての春秋時代とは異なる。そもそもなぜ三晋が協力していたのかというと、斉・楚といった中原を脅かす強敵を撃退するためである。今三晋は、楚を討ち、斉を倒し、秦を下した。共通の敵はもういないのである。趙襄子の時代のように、本来であればそれぞれの矛先は別を向いており、趙は衛を、韓は鄭を、それぞれ討ちたいのである。一方で魏は、その覇権のために衛・鄭といった中原諸国には存続してほしく、趙・韓の方針とは相いれなかった。三晋は各々の利益を優先するようになり、同盟は解体されていった。哀しいかな、覇権は崩壊へとむかっていく。

三晋内紛
 三晋の協調は失われつつあったが、そのほころびは早くも現れることとなる。以降、三晋の内紛が延々と繰り返され、時に講和するが、それも長くは続かない。
 紀元前387年、趙烈候が死去し、敬候が立つ。彼は邯鄲かんたんに遷都し、以降邯鄲が趙の都となる。翌年、公子朔が反乱をおこし、魏武候は公子朔を支援して趙の後継者争いに軍事介入する。しかし、朔の反乱は失敗に終わり、魏軍も撤退する。この魏の軍事行動は両国の間に紛争を引き起こしてしまった。
 この騒動は魏・趙の方向性の矛盾が形となったことを示している。邯鄲は東陽という地にあるが、そこには魏・趙の邑が混在している。邯鄲の北方には紀元前408年に魏が攻め落とした中山国があり、邯鄲遷都によって魏と中山国との連絡は遮断されてしまった。そのため、中山国はほどなく独立を回復している。さらに趙は衛を征服せんとしていたが、先述の通りこれは魏と相いれなかった。魏は公子朔を擁立することで、趙の方針を転換させようと企んだのである。
 魏・韓の対立もまた発生している。韓は鄭を手に入れようとしているが、そもそもこれは魏の基本方針とは当然相いれないものである。さらに、魏は紀元前391年の楚への戦勝により大梁を獲得しているが、これは鄭と宋の間に位置しており、韓の鄭進出に釘を刺すかたちとなってしまったのである。韓は魏・趙の紛争のすきをついて、紀元前385年、鄭・宋に侵攻し、鄭の領土を掠め取り、宋休公を捕らえた。魏は全面的に手を回すことができず、韓に近い城の守りを固め、同年鄭と同盟を結んで牽制するにとどまった。
 これらの紛争に強い影響を及ぼしたのは、やはり大国である斉・楚だった。紀元前385年に斉が魏・趙の紛争に乗じて魯を攻めると、魏・趙はいったん講和し、協力して斉を撃退した。しかし紀元前383年に趙が衛を奇襲し、これを壊滅させると、講和は破綻する。これは魏への挑戦であり、両国は開戦に至り、魏が勝利を収める。斉は衛の救援要請を受けて魏の側に参戦し、斉の支援を受けた衛は活力を取り戻して、にわかに趙に侵攻した。危機に陥った趙は楚に救援を出す。楚は魏へと侵攻し、再び黄河北岸まで進出している。魏・斉は味方であったが、斉が再三魯に侵攻したため、魏は斉と開戦した。
 楚の北上は、趙・魏のみならず韓にも影響を与えた。紀元前380年、鄭は魏より離反して楚についた。これは韓を、ひいては中原を脅かす問題である。そこで魏はやむなく韓の鄭征服を支持した。そして紀元前375年、韓哀候はついに鄭を滅ぼして併合し、鄭の都であった新鄭に遷都した。翌年魏は晋孝公に韓の鄭領有を認めさせている。ところがここで事件が起こる。同年、韓山堅によって韓哀候が弑殺され、韓懿候が擁立された。この内紛は、韓哀候が魏に従属させられた状態であったことを嫌う反魏派によるものであっただろう。
 紀元前370年には魏武候が死去するが、この時点で魏の覇権はまだ崩壊してはいなかった。魏は斉・楚に対して軍事的に優勢であり、秦とも友好関係を維持していた。しかし問題は三晋内部の対立である。魏・趙は開戦状態に至り、韓では親魏派と反魏派で内紛が発生した。そして趙が楚と同盟し、魏が韓の鄭攻略を支援するに及んで、晋が中原諸国を盟下にしたがえて楚と対峙するという、春秋時代からの晋の覇権体制は、もはや過去のものになってしまった。
 魏武候の没後、魏恵王[29]が立つが、武候の弟・公仲緩が反旗を翻し、後継者争いに発展する。公中緩は趙に援護を求め、紀元前368年に、趙・韓連合軍が公中緩に与して参戦し、魏対趙・韓の紛争は激化した。この前年には魏は趙・韓を各個撃破しているが、それ以外では戦局は趙・韓の有利に運んだ。連合軍は魏の上党郡を攻略し、晋孝公を同地に連れ去った。さらに内紛に陥っていた周に侵攻し、紀元前367年にはこれを二分してしまう[30]。周王朝は事実上韓の保護下に入る。周王を戴き、晋候を奉じることで自らの大義名分としてきた魏にとって、これは大きな痛手となった。形勢不利を悟った魏は、周二分の翌年、韓と講和する。趙もまた韓の講和の少し前から魏との戦争を停止し、対斉に専念する。
 魏の劣勢を秦は見逃さなかった。秦は魏武候の死後より東進を再開し、紀元前366年に魏・韓連合軍を破った。魏はこの敗戦を受け、翌年に宋へ侵攻し領土を奪うが、これは同様に宋への進出をもくろむ韓との関係悪化を招いた。そして紀元前364年、魏は安邑に秦軍の侵攻を受け、石門の地で秦軍に大敗を喫してしまう。魏軍は将兵斬首6万の大損害を被り、魏・秦の力関係が逆転したことが明らかになった。
 三晋は外交方針の転換を迫られる。紀元前360年代、趙・韓連合軍は魏に連戦連敗している。加えて今、西方の大国となった秦は東進の野心を見せており、これが三晋全体の脅威であることは言うまでもない。ついに三晋は講和を締結し、内紛はようやく終結した。紀元前360年、周顕王は秦孝公[31]に祭肉を賜っている。これは三晋が周王朝を介して、秦を懐柔したものである。
 魏は三晋講和を成し遂げた紀元前361年、大梁に遷都する。中原への影響力を強化することが目的と言われている。しかしこの遷都が韓を刺激した。韓は上党侵攻をはかり、魏・韓の関係はにわかに不安定化して再び開戦に至る。これを見て秦は再び東進し、韓を攻める。魏・秦への二正面作戦を遂行するだけの力は韓にはなく、魏と講和して領土を割譲した。
 韓への勝利もつかの間、魏はにわかに危機に陥る。秦・楚・斉・趙・宋・衛という、当時の中国に存在した国々ほとんどと開戦状態に入るのである。魏は外交的な努力によって、紀元前350年までに宋・衛以外との講和を実現する。しかし、このことは魏に軍事力・外交力を過信させてしまう。
 紀元前349年、大事件が発生する。晋候が韓昭候[32]に弑逆され、ついに晋室が断絶してしまうのである。これを受けて魏恵王は新たな覇権体制を考え、周王に自らを覇者と認定することを要求する。
 諸国は当然黙っていなかった。趙は斉と戦争し、韓と対立し、友好的だった魏とは衛をめぐって仲違いした。しかし、趙・韓・斉とそれぞれ接近していた秦の仲介により、三国は対魏陣営を築く。そして紀元前343年、後ろ盾を得た趙は魏との戦端を開くのである。
 同年、周王は魏恵王の要求に対し、回答を発表する。果たして覇者と認定されたのは魏恵王のみならず、秦孝公もであった。魏の覇権を快く思わない韓が、周王に働きかけたものである[33]。魏の覇権への野心は、またしても完璧な形では実現しなかった。
 面白くないのは魏である。魏恵王は諸侯のうち初めて王を称し、周王の権威と、それに裏付けされた秦の覇権とを否定せんとする。紀元前342年、魏は韓を罰するために侵攻し、勝利する。しかし同年、斉威王率いる連合軍により、馬陵の戦いで大敗してしまう[34]。この敗戦により、魏の覇権はついに消滅してしまった。

三晋衰退
 紀元前334年、魏恵王は斉威王と互いの王位を確認し合い[35]、盟約を結んで孤立を脱する。斉も周王の権威を無視したのである。大国である魏・斉の同盟に対し、趙・韓・楚は反発する。同年、周王は秦恵文王に祭肉を賜い、覇者と認定しているが、これは秦を懐柔しようとした韓の意図するところである。魏・斉対趙・韓・秦・楚の構図が出来上がる。
 魏・斉が同盟を結んだ翌年、楚が斉を、趙が魏を攻撃し、両陣営は戦火を交える。しかし趙・楚の軍事行動は成果がはかばかしくはなかった。かえって趙は紀元前332年、魏・斉連合軍に侵攻される有様であった。ただし、この同盟は決して強固ではなかった。楚の斉侵攻に際し、魏は特に何もしていない。
 魏は紀元前331年から三年にわたり、秦により幾度となく侵攻を受け、黄河以西の領土をすべて喪失する。楚もこれに乗じて魏へ攻め入り、領土を奪い取る。最早ここにおいて、魏は覇権を失うばかりか、軍事的な弱体化を白日にさらしてしまったのである。なお、秦はこの戦勝を受けて紀元前325年に王を称している。
 魏・斉同盟の脆さと魏の弱体化を知り、四国の同盟は速やかに解体へと向かう。楚は離脱し、韓は魏・斉と講和して、趙は孤立に陥る。紀元前328年には秦に、紀元前325年には魏・斉の連合軍にそれぞれ敗北している。ここに至って趙は長年の悲願であった中原進出を諦め、かつてのように北方へと方向転換した。そしてこのことは趙の運命を大きく左右することになるのである。この時、韓のみは秦と友好関係を維持していた。長らく韓と秦の間には、戦闘の記録がないのである。

 今や魏の覇権は音を立てて崩れ去った。趙も中原を諦めるという苦渋の決断を迫られる。韓は弱体であり、戦争を欲しない。そこで紀元前325年、三晋はようやく講和を達成する。紀元前386年に魏・趙が初めて戦って以来、長く続いた三晋の内紛は終結する。翌年、魏・韓はともに斉に帰順する。斉はこのとき東方の大国としての地位を確固たるものにしており、魏・韓を従えて覇権を打ち立てんとした。
 しかし、三晋の協力を得た斉の覇権など、秦・楚が黙って認めるはずはない。紀元前324年に秦が魏に侵攻し、翌年には楚が魏を攻めて大勝し領土を掠め取った。これに乗じて韓も魏を攻撃する。魏が楚に大敗したのと同年、韓・燕が王を称して、秦はこれを承認している。さらに翌年には、宋までも王を称している[36]
 紀元前319年、秦は韓に攻め込み、長らく続いた両国の友好関係は終わりを迎える。ここにおいて、三晋はすべて秦と交戦状態に入る。これより以降、三晋は秦の脅威に直面し続けることになる。
 紀元前317年、秦はまたも韓に侵攻し、三晋連合軍を大破する。三晋軍の損害は、斬首8万2000人と伝わる。同年斉は魏を攻め立て、魏・趙連合軍を撃破している。このことは、三晋連合軍が、秦・斉の一国に敵わないことを天下に明らかにした。かつて秦を倒し、斉を破り、楚を討って天下に覇を唱えた三晋は、かくも凋落してしまったのである。

趙の強勢
 少し時系列を独立させて、趙の話をしよう。
 魏の覇権体制が完全に崩壊したのち、もはや魏・韓が歴史の表舞台に立つことはなくなった、と言ってもよいかもしれない。紀元前320年代から以降半世紀の間、覇権を争ったのは秦・楚・斉そして趙といった中原外の諸国である。
 そもそもなぜこれらの中原外諸国が強国化したかというと、中原の外に位置していたからである。これらの国々は中原進出に行き詰まると、夷狄を征服し、領土を拡大させることが可能であった。一方、中原に拠点をおく魏・韓にはそれができず、かといって斉・楚・秦を軍事的に圧倒して領土を奪うこともできず、結果的に領土拡大は極めて難しいものとなった。さらにこの時代、従来の最先端地域であった中原の開発は限界を迎える。はやくも魏・韓では人口過密が問題となっていた。そのような状況で、趙のみが三晋の中で独り勝ちを果たしたのは、趙が方向転換を果たすことができたからであった。
 趙の状況が大きく変化するのは、趙武霊王の時である。彼は紀元前325年に即位し、紀元前307年、「胡服騎射」を導入する。それまで馬は戦車や馬車を牽かせるために使われており、戦士が騎馬して戦うことはなかった。彼は騎馬して弓を引くという、遊牧民の戦法を導入しようとしたのである。また、それまで伝統的な中国の戦士は丈の長いスカートのような服を着ていたが、これは決して乗馬に向いているとは言えなかった。そこで彼は胡服、つまり遊牧民の衣装であるズボンを導入しようとしたのである。当然、このような大変革は臣下たちの大反対を受けた。しかし武霊王は反対を押し切って胡服騎射を導入したと伝わる。中華諸国史上初めて騎兵の導入に成功した趙は、国力を大いに増大させる。
 先述の通り、彼の即位する前段階において趙は不調だった。趙は魏・斉の連合軍と秦との二正面作戦に臨み、紀元前325年、魏・斉に大敗を喫してしまう。長年の悲願であった衛征服も結局は諦めざるを得なかった[37]。そのため趙は方向転換を迫られる。すなわち中原進出を断念し、かつて趙襄子がそうしたように、北方進出へと切り替えたのである。結果としてこれが功を奏した。趙は中原外諸国へと転身し、強国化を果たすのである。そして紀元前296年には斉の協力もあり、中山国をついに滅ぼしている。
 武霊王の子・恵成王の代には廉頗れんぱ藺相如りんしょうじょといった名臣・良将の活躍により国威はなお振るい、斉・魏・燕に対して盛んに軍事行動を起こし、勝利を重ねている。秦の脅威に向かいつつ、趙の栄華は紀元前260年まで続くことになる。

合従連衡と三晋
 ところで、一般に戦国時代は合従連衡の時代であるとされる。合従とは、秦に対抗するため、六国が縦に、つまり南北に同盟するものである。連衡とは、秦に攻められないようにするため、六国が各々秦と横に、つまり東西にそれぞれ同盟を結ぶことである。当然ながら、三晋もこの合従連衡に参加することになる。
 紀元前318年、秦は諸侯を逢沢に集めて儀式を敢行し、魏王・韓王を配下の諸侯並みに扱うという暴挙に出る。これに対して縦横家の蘇秦により、三晋ならびに斉・燕による五か国の合従が組織され、秦を討つ。しかし、合従軍は明確に勝利することができたとは決して言い切れない。
 これより後、三晋にとって重要なのはもっぱら秦との関係である。ただし、この時代はまだ秦が一強だったというわけではない[38]ことは重要である。

 先述の通り、三晋は紀元前317年に秦に大敗し、以降も度々秦の攻撃を受け、領土を失っていく。強大化した趙を除き、魏・韓にとってこれは死活問題であった。魏は紀元前313年から4回にもわたって秦と講和しているが、幾度となく秦に破られている。韓も紀元前308年を始めとして2度秦と和を結ぶが、紀元前307年にかつての都である宜陽で秦に敗北し、将兵7万人が斬首されてしまう。
 このような中で三晋を救う人物が出現するが、それは三晋の人ではない。東の大国である斉の公族・孟嘗君もうしょうくん[39]である。彼は極めて有能な人物で、紀元前298年、三晋と斉からなる合従を成立させ、秦を撃退し、その勢力を函谷関の西へ封じ込めることに成功した。
 しかし平和は長く続かなかった。紀元前295年、秦は魏を攻める。そしてその二年後、秦は韓を攻撃する。魏・韓は連合軍を組織してこれに臨むが、大敗してしまう。24万人が斬首という結果であった。紀元前286年には魏は秦に対し、旧都・安邑を割譲している。それほど危機的状況だったことがわかる。
 この頃、東方では斉が全盛期を迎えていた。紀元前315年、燕の政治的混乱に付け込んで斉は軍事介入し、これに壊滅的打撃を加える。紀元前289年、斉ビン(さんずいと右上に民、右下に日)王は東帝を称し、秦昭襄王は西帝を名乗る。紀元前286年には斉は宋王えんを殺害し、同地を併呑せんと欲する。ここに至り、三晋も含んだ諸国に斉に対する危機感が高まっていく。紀元前284年、秦は三晋に燕・楚を加えた五か国と同盟、連衡軍[40]を結成し、斉を攻撃する。斉は壊滅状態に陥った。田単の活躍で辛うじて再興が果たされたが、最早往時の勢いはなかった。
 こうなると秦の勢いは止まらない。趙は紀元前280年、秦に攻められて負け、斬首3万の被害を出す。さらに楚は紀元前278年、都の郢を秦軍に陥落させられ、その勢いを失う。秦では紀元前270年頃より、范雎の進言によって遠交近攻策がとられ、もっぱら三晋を攻撃していた。いよいよ三晋滅亡の危機が迫ってきたのである。
 しかしこの時、秦の他に唯一健在な国があった。それこそが、いまや三晋で最も強勢の趙である。趙は秦に対して最後の戦いを挑む。紀元前269年には趙が誇る名将・趙奢率いる軍が秦を撃破している。
 紀元前261年、趙にとって運命の時が訪れる。秦は韓を攻撃し、上党の地を攻め落とす。上党の民は秦に降らず、趙への帰属を表明した。そこで趙と秦は同地をめぐって戦争状態になり、長平の地で対峙する。老将・廉頗は守りを固め、持久戦を行い、秦も長平を落とすことができなかった。しかし秦軍のスパイによる偽情報[41]を受けて、趙孝成王は判断を誤り、将軍を若く血気盛んな趙括[42]に交代させてしまう。そして紀元前260年、趙は秦軍に完敗し、趙括は戦死、趙の将兵は降伏するも穴埋めにされ、その数なんと45万人といわれる。ついに趙も国力を大きく減退させてしまう。秦に対抗しうる国は、天下になくなったのである。
 秦は長平の戦勝の余勢を駆り、翌年には趙の都・邯鄲を包囲する。魏・斉は初めこれに乗じて趙を攻める。しかし邯鄲は良く持ちこたえ、陥落しなかった。趙の宰相・平原君は、魏の信陵君、楚の春申君に救援を要請し、紀元前257年、合従軍が来て秦軍を撃退し、邯鄲の囲みを解いた。
 この時信陵君の援軍は魏王の意向に反するものだった。魏としては、圧倒的強国の秦とことを荒げたくないのである。しかし信陵君は合従成立に尽力し、独断で軍を動かした。そのため信陵君は長らく魏に帰ることができず、趙の地で重用させることになる。信陵君のいない間、魏は秦の攻撃を再三受け、大いに苦しめられる。
 紀元前247年、魏に帰国した信陵君は合従を成立させて五国の兵士を率い、秦を函谷関に破る。秦にとってこの敗戦はなかなかの痛手であった。これは三晋最後の輝きであるとも言えるだろう。

三晋の滅亡
 この後、三晋は秦に対抗することがほとんどできなかった。
 韓は秦が工事を好んでいることを聞き、国力を削ごうと図って鄭国という水利技術者を間者として派遣した。彼により秦では鄭国渠が造営されるが、これによりむしろ秦は豊かになった。また韓の公子に韓非という大法家がおり、彼は祖国が弱小なことを憂えて、法を定めて運用し、信賞必罰を徹底して臣下を制御し、賢者を重用して富国強兵を実現することを主張して度々韓王を諫めたが、受け入れられなかった。韓非子の思想は商鞅によって法家思想が浸透していた秦で受け入れられ、彼は秦の地で死を遂げた[43]
 趙は廉頗が魏へ亡命してしまう。秦の攻撃に悩まされた趙幽繆王は、廉頗の帰国を求めて使者を送る。しかし、廉頗と敵対していた佞臣の郭開は使者に賄賂を積み、王に讒言させたため、廉頗はついに帰国できなかった。さらに後年、李牧[44]という名将が活躍し、秦を度々撃退することに成功する。これを厄介に思った秦は、佞臣・郭開に高額の金銭を送る。郭開は李牧の謀反を誣告し、これを信じた王により李牧は処刑されてしまう。
 魏では紀元前247年以降、信陵君が将軍となっていた。秦はこれを憂い、スパイを派遣して、諸侯は信陵君を恐れており、彼が王に即位しようという野心を抱いているという嘘を流すなどの工作を行う。彼の兄である魏安釐あんき王は、弟を信用できなくなり、遠ざけてしまう。信陵君は気を病んで朝廷に出なくなり、日夜酒を飲み、音楽を催して、やがて鬱憤のうちに死んでしまった。
 三晋はみな気が付かぬうちに秦に利し、そして秦により滅亡するに至ったのである。
 紀元前230年、韓が滅亡する。これは六国の中で最初の滅亡であった。紀元前228年には趙が滅ぼされ、公族の一人趙嘉が代の地に拠って自立したが、これも紀元前222年に完全に鎮圧された。魏は紀元前225年に滅亡した。ここに三晋の歴史は終焉を迎えた。他の六国も秦に滅ぼされ、秦帝国による統一が達成されるが、これは三晋に関係ないので詳しく書かない。

結び
 春秋時代において、晋は覇者だった。英雄・文公は信義に厚く、中原を結集し、周王を尊重し、夷狄たる楚を撃退した。その覇権は長く続き、晋の威光が天下を照らした。
 戦国時代においても三晋は覇権を受け継いだ。三晋連合は無敵であり、楚・斉・秦、これら皆すべて三晋の破るところとなった。覇権は四海にとどろき、これが永遠であるかのように思われた。
 しかし、三晋はみな西方の秦が滅ぼすところとなってしまった。かつて弱かった秦が勝ち、かつて強かった三晋がみな無残にも滅ぼされてしまったのは、なぜだろうか?
 三晋が各々自国の利益ばかりにとらわれて、延々と内紛を続けたからだろうか? 三晋の王たちは、用いるべき人材を用いることができず、容れるべき建言を容れなかったからだろうか? あるいは、三晋は地政学的に、劣勢な条件下におかれたからだろうか?
 一目面的に見ればどれも正しいと言えよう。三晋連合が存続していたならば、諸国は圧倒されたことだろう。末期の三晋において信陵君や李牧が重用され、韓非子の改革が成立していたならばあるいは、といったところだ。魏・韓は中原に遷ったことで劣位に置かれたものの、それは不利益のみをもたらしたわけではない。趙の位置が決して秦に劣るものではないことは明らかである。
 私は愚かにもこのように考える。人類史700万年を顧みるに、三晋は滅ぶべくして滅んでしまったのである。三晋を打倒して統一を成功させた秦は、わずか15年で地上から姿を消した。統一の立役者である秦始皇帝は、永遠の命を望むも果たすことは叶わず、わずか49歳にして没した。人が永遠に生き、国が悠久に続くことなど、あり得ないのである。三晋もまた運命を逃れることはできずに滅亡した。ああ哀しいかな。


    注釈
  1. ^ ふたりとも聖人とされ、非常に徳の高い人とさせる。紀元前23世紀ころに君主であったらしいが、おそらくは伝説上の人物だろう。
  2. ^ 姓が姫、諱(本名)が棄である。彼の子孫である周室、およびそこから分かれた晋室、魏室、韓室など、これらもみな姫姓である。
  3. ^ 夏王朝の実在は議論が分かれるが、ここでは実在のものとして扱う。
  4. ^ 文王とは諡号である。彼の姓名は姫昌である。以降、基本的に呼称は諡号を用いる。
  5. ^ 武力による易姓革命が放伐、「徳」による平和的な易姓革命が禅譲である。堯から舜、舜から禹への政権移譲は禅譲といえる。余談だが、歴史上の禅譲は大抵が簒奪である。
  6. ^ 時代がたつと彼の子孫は爵位を失い、庶人になっていたようだ。
  7. ^ 当時は戦争の中心は戦車(チャリオット)であった。主人たる貴族は車の左に乗り、弓矢で武装して戦い、指揮を下す。御者は中央に座り、馬を操って車を操縦する。右に座る人を車右と呼び、鉾で武装して中近距離の敵を攻撃することを主な役目とした。
  8. ^ 彼は贏姓趙氏であり、秦と同じ祖先をもつようである。
  9. ^ 周王を頂点としてその下に諸侯がいた。王や諸侯に仕える大夫という身分の人々がおり、有力な大夫を卿と呼び、また卿大夫に仕える人々を士といった。
  10. ^ 褒ジは絶世の美女であったが、決して笑わなかったという。幽王は彼女の笑みを見るためにあの手この手を尽くすが、効果はいま一つだった。ある時、烽火によって諸侯が集結するも、果たして誤報であった。落胆する諸侯を見て、初めて褒ジは笑ったという。以降、幽王は意図的に誤報を連発、諸侯の信頼を失った。以上の説話が伝わっている。
  11. ^ 戎とは西方の異民族のことである。「中華」を世界の中心として、北の異民族をてき、西はじゅう、南をばん、東をと呼び、さげすんだ。
  12. ^ 春秋時代までは、国とは基本的に都市国家(邑)の連合体である。
  13. ^ 重耳は農民に食料を乞うたが、なんと土を差し出された。当然彼は憤慨するが、趙成子の諫めを受けて抑えた。曰く、「土を差し出されたということは、後にこの地を得るということの前ぶれ。受け取るのがよいでしょう。」重耳は農民に拝礼して受け取った。
  14. ^ 名宰相・管仲を登用し、最初の覇者となった。
  15. ^ 重耳は斉桓公の娘を娶っており、生活は充実していたため、中々斉から出ようとしなかった。この妻と臣下たちが共謀して、重耳が拠っている隙に連れ出した。重耳の器は斉の一臣下などには留まらず、覇者のものであると見抜いていたのである。
  16. ^ 宋は敗戦直後にもかかわらず、宋襄公は重耳を厚遇する。一方、曹では曹公に裸を見られるという無礼な扱いを受け、鄭では冷遇される。
  17. ^ 楚成王は重耳に尋ねた。「もし私のおかげで貴方が即位できたなら、どのようなお礼をしてくれるだろうか?」重耳は答えて言う。「もし王とやむを得ず戦場でお会いすることになったら、軍を三舎(三日の行軍距離)退きましょう。」成王は重耳の非凡さに感じ入った。
  18. ^ 当時としては超高齢での即位である。
  19. ^ 宗法の定めで諸侯が所有できる最大の軍が三軍であった。晋は大国となったのである。また、三軍それぞれの将佐は大臣の役割も兼ねた。詳細は後述する。
  20. ^ 諸国放浪時に冷遇された恨みを晴らす目的も多分にあったと推測される。
  21. ^ この間、楚荘王の威光が中原を照らす。彼は周に迫って「問鼎」事件を起こし、中原諸国を多く従えた。「尊王攘夷」には当てはまらないが、彼を春秋五覇とすることもある。
  22. ^ 楚と同じく、黄河流域に人々とは文化を異にする国である。
  23. ^ ただし、全面的にそうであるというわけではない。彼らは氏族の長としての立場と、晋の卿としての地位を天秤にかけつつ、活動するのだった。
  24. ^ 背景には生産力の増加もあった。徐々に戦国時代が近づいてきている。
  25. ^ 翌年、これに怒った晋出公は亡命している。一連の争いは晋候に無断で行われていた。
  26. ^ 田氏はもともと陳という国の公族であり、陳完の代に斉に亡命した。春秋時代の斉は太公望が封建された国で、姜姓呂氏であった。
  27. ^ 彼は李リ(りっしんべんに里)を重用した。彼は成文法を定め、また農業生産を向上させた。
  28. ^ 春秋時代に異民族が建てた国で、鮮虞から改称した。
  29. ^ 『孟子』に登場し、五十歩百歩などで知られる梁恵王とは、すなわち彼である。
  30. ^ 周は東西に分裂してしまったが、紀元前256年に秦に滅ぼされるまでは存続している。
  31. ^ 彼は法家の商鞅と登用し、変法を実行した。変法が強国化に与えた影響は大きい。
  32. ^ 彼は法家の申不害を宰相に採用し、改革を進めた。申不害が宰相にある間、韓はよく治まり、軍事的にも強かったといわれるが、具体的にはよくわからない。
  33. ^ 周の領土は韓に取り囲まれており、韓を通らずに周が秦と交通することは不可能である。
  34. ^ この戦いで斉軍を率いていたのは孫ピン(にくづきに賓)である。彼はかつて魏に仕えたが、讒言により足切りの刑にされた。この戦いで彼は魏への復讐を果たしたといえる。
  35. ^ 天下に王を称する人物が増えたため、かえって王号の価値は落ちた。
  36. ^ 宋は紂王の兄である微子啓が封建されて始まった国である。ゆえに、殷の滅亡から700年ぶりに、商民族の王が立ったことになる。
  37. ^ 衛はその後に秦二世皇帝の時代まで存続する。
  38. ^ 東の斉、西の秦という二強状態だった。また楚も油断がならぬ大国だった。
  39. ^ 彼は食客3000人を召し抱えていたという。同様の逸話は楚の春申君・魏の信陵君・趙の平原君にも伝わり、彼らを戦国四君と呼ぶ。
  40. ^ この軍を率いるのは中山国出身の名将・楽毅である。
  41. ^ 秦の兵士たちは趙括を恐れている、といったこと。またこの時趙国内では、廉頗の消極策に対して臆病だとの評があった。秦はここに付け込んだのである。
  42. ^ 彼はかの名将・趙奢の息子である。兵法に通じていたが、口がうまいだけのところがあり、父からは能力を疑問視されていた。
  43. ^ 秦に使者として赴いたが、兄弟弟子であり、秦の宰相の李斯の策略により亡くなった。
  44. ^ 彼はもともと、北方で匈奴を防いでいたという。戦わずに守りを固めて敵を撤退させていた。

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