2017年11月
ハプスブルク家と欧州  月瀬まい


 はじめに
 本稿は昨年のNFにおいて発表した「ハプスブルク家の黎明[1]」の続編である。しかし、歴史に精通した読者諸賢であれば充分に理解できる内容であると思う。本稿で扱う16〜18世紀のハプスブルク家はフランスおよびオスマン帝国との戦争を重ね、そしてこの三勢力が欧州を動かしていた[2]
 さて、ハプスブルク家は中世から近代にかけて欧州に君臨した家系であり、歴史好きなら誰でも知っているはずの名家である。1273年にドイツ王ルドルフ1世が即位したことでハプスブルク家の飛躍が始まり、15世紀前半から帝位の独占に成功する。そしてマクシミリアン1世の婚姻政策により広大な領土を手に入れるに至った。マクシミリアンの孫カール5世はスペインの国王に即位したのち皇帝となり、またその弟フェルディナンドはハンガリーとボヘミアを継承した。ただし、ボヘミアではフェルディナントは順調に国王と認められたが、ハンガリーではトランシルヴァニアの大領主サポヤイ・ヤーノシュが中小貴族の支持を受けて国王を称していた。

戦乱の帝国
 フランスとの対立関係を受け継いだカールはフランス占領下にあったミラノ公国に攻め込み占領、更に1525年2月24日のパヴィアの戦いでフランス軍に圧勝しフランス王フランソワ1世を捕虜としてマドリードへ連行した。翌年の1月14日、釈放と引き換えにマドリード条約を締結させ、フランスにイタリアにおけるあらゆる権益の主張を放棄させたほか、シャルル突進公の死後ブルゴーニュ公国から奪取した土地も返還させることになった。しかし皇帝の勢力が増すことを恐れた諸国がフランスを支持し、教皇と北イタリア諸国とイングランドがフランスとコニャック同盟を結んだためマドリード条約はほとんど履行されなかった。そのため再び戦争となり、カールは教皇への報復に出てローマへ進軍して占領した。この時給料の支払いが滞っていた帝国軍はローマを略奪した。エラスムスはこの事件に対して、「一都市の破壊というより、一文明の破壊です」と述べたとされる。カールは各地で非難され、フランスは攻勢に出るがペストの蔓延で兵力を失い、更にフランスの艦隊を率いるジェノヴァ人アンドレア・ドーリアが皇帝側に寝返り、1529年にはフランス軍はイタリアから追い出された。8月にカンブレーの和約が結ばれた。1530年2月24日、カールはボローニャで戴冠された。
 しかしハンガリーでは、サポヤイがオスマン帝国のスレイマン1世に援助を求めていた。またフランスとオスマン帝国は陰で同盟を結んでおり、そのためスレイマンは1529年、ウィーンに親征し9月28日より包囲を開始した。第1次ウィーン包囲である。だが寒さのためオスマン帝国軍は撤退し、ウィーン陥落は免れた。
 一方で、当時ドイツでは宗教改革が始まっていた。宗教改革は1517年10月31日、マルティン・ルターが発表した『九十五か条の論題』で贖宥状を批判したことに始まった。教皇レオ10世は1521年1月にルターを破門した。4月17日、ルターはヴォルムスの帝国議会に召喚され査問を受けたが自説を撤回せず、帝国議会は5月26日にヴォルムスの勅令を出してルターの教義に従うことやその著作の印刷、頒布を禁じた。しかし、ルターによる体制批判は農民に支持され、1524年に農民の蜂起[3]が始まった。これはドイツ農民戦争と呼ばれる大規模な蜂起だったが1525年に鎮圧された。なお、1529年のシュパイアーにおける帝国議会で多数派がヴォルムスの勅令を再確認したため少数派がそれに抗議、ここからプロテスタントと言う名称が生まれた。その後1530年、カトリック派がアウグスブルクの帝国議会でヴォルムスの勅令を確認したのに対抗してプロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟を結成したためカールは妥協を余儀なくされ、1532年にニュルンベルクで平和条約を締結した。
 カールが欧州で種々の問題に苦しんでいた頃、地中海はムスリムの勢力下に置かれた。1516年にムスリムの海賊の指導者ウルージがそれまでカスティーリャ王国の保護下にあったアルジェを占領、その弟ハイレッディンはスレイマン1世に臣従してアルジェ総督の地位と兵士を与えられ、アルジェは海賊の拠点となった。1533年、ハイレッディンはチュニスを占領した。ここもまたカスティーリャ王国の保護下にあった都市であり、カールはチュニス奪還を計画、フランス王を除く多くの国がこの遠征に参加し1535年にチュニス奪還に成功した。
 しかしハイレッディンはアルジェへ逃れ、その上欧州ではフランスがミラノ公国の継承権[4]を主張してイタリアへ侵攻していた。カールはイタリアへ向かわねばならなかった。結局イタリアでは決定的な勝利は得られず1538年にニース協定を結んでフランスと講和し、同年教皇やヴェネツィアと神聖同盟を結ぶものの、プレヴェザの海戦ではアンドレア・ドーリアとヴェネツィア艦隊の連携が不十分でハイレッディンの艦隊に敗北、同盟は解消された。フランスはニース協定で神聖同盟への参加を義務付けられていたが、参加しなかった。その頃ハンガリーでは1540年にサポヤイが死去、それを機にフェルディナントがブダ[5]を攻囲した。これに対しスレイマン1世が親征、その後ハンガリーはハプスブルク家の支配地域、サポヤイの子ヤーノシュ・ジグモンドの支配領域[6]、オスマン帝国の直轄領に三分された。以後、ハプスブルク家の支配領域には防衛のため軍隊が駐屯することになった。
 フランスと講和したことでカールはアルジェ征服を計画し、1541年10月に大艦隊を派遣したものの嵐で大損害を負い退却せざるを得なくなった。これを機にフランソワは再びカールに宣戦し、ハイレッディンの艦隊はトゥーロンの港に出入りしフランスを積極的に支援した。それでもカールがパリに迫るとフランソワは講和を求め、1544年にクレピーの和約が結ばれた。また1546年にはスレイマン1世とも休戦した。
 こうしてフランスとの戦争を終わらせたカールは続いてプロテスタントと対決した。1546年のレーゲンスブルク帝国議会で彼はシュマルカルデン同盟の指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを帝国追放としたことで、シュマルカルデン戦争が勃発した。カール5世はザクセン選帝侯家の一族モーリッツを買収して[7]味方につけ、1547年4月24日ミュールベルクの戦いでシュマルカルデン同盟に大勝した。
 勢いに乗るカールはアウグスブルクに帝国議会を召集したが、皇帝の覇権を警戒した教皇パウルス3世はトリエント公会議を中止してしまった。そのためカールは自らルター派を異端とする仮の協定を作成し、この承諾を諸侯や都市に迫った。ほとんどの諸侯や都市は皇帝を恐れて従ったが、プロテスタントの都市マクデブルクだけは拒否した。これに対してカールはモーリッツに大軍を預けてマクデブルクを包囲させた。しかしここでモーリッツが裏切り、フランス王アンリ2世と同盟を結んでアウグスブルクを急襲した。カールはインスブルックへ逃亡、弟フェルディナントが講和を仲介し、1552年パッサウ条約を結んだ。カールはその後フランスにも敗れてメッツとブルゴーニュを失った。
 カールは政治から引退し、新旧両派の和解の機運が高まった。1555年2月、アウグスブルクで帝国議会が開かれた。この議会はカールによって開かれたが、実際はフェルディナントが議会を運営した。1555年9月25日、アウグスブルクの宗教平和令が公布されルター派が公認[8]された。その後、カトリック側はイエズス会の創設やトリエント公会議開催などによって内部からの改革を図り、プロテスタントの領域の一部をカトリックに復帰させることに成功する。
 カールもまた帝国の統一には成功せず、ドイツの領邦の自立が進んだ。1556年10月25日、カールはブリュッセルで退位を表明した。彼は「余はこれまでにネーデルラントへ十回、ドイツへ九回、イタリアへは七回、スペインに六回、フランスへはときに武装し、ときには平和に四回旅をした。イギリスを二度訪れ、アフリカにも二度遠征した。地中海を八回、大西洋を三度渡った……」と回想している。カールは退位したのち隠棲し、1558年9月21日に死去した。カトリックと広大な領土の維持のための戦乱に満ちた生涯だった。

スペインの繁栄と衰退
 カールの死後、ハプスブルク家の領土は分割された。1522年のブリュッセルの密約でフェルディナントが全オーストリアを獲得することになった。その後カールは皇帝権を息子フィリップに継がせようとしたためフェルディナントと対立、妹マリアの仲介で皇帝権は両系統で交互に継承されることに決まったが、実際にはカールの死後は基本的にフェルディナントの子孫が皇帝権を世襲していった。しかし、ハプスブルク家の主導権を握っていたのはスペイン系の方であった。
 カールがスペイン王[9]から退位したため、フィリップがスペイン王フェリペ2世となった。フェリペは父からフランスやオスマン帝国との抗争を継承することになった。1559年のカトー・カンブレジ条約によってフランスとの戦争が終結するとフェリペはオスマン帝国との戦争に踏み切った。当時、ハイレッディンの後継者ドラグトが地中海沿岸を荒らしており、これを粉砕するためにトリポリ遠征が計画された。海軍がシラクーザを出発したが1560年2月にオスマン帝国に敗北し壊滅してしまい、更に1562年に神聖ローマ皇帝フェルディナント1世がオスマン帝国と平和条約を結んでしまったため、スペインははしごを外されてしまった。その後1565年にマルタ島を攻撃したオスマン帝国の軍隊が聖ヨハネ騎士団によって撃退され、1566年にはスレイマン1世が死去した。フェリペにとっては攻撃の機会であったが、ネーデルラント問題やスペインでのムスリムの反乱に悩まされており、この好機を逸した。
 ネーデルラントではプロテスタントが広まり聖像破壊運動が始まっており、フェリペはアルバ公に鎮圧を命じた。アルバ公は騒擾評議会という特別法廷を設置して何千人も処刑した。そのため暴動はいったん沈静化したが、1569年にアルバ公が戦費を賄うために大増税を行うと大規模な反乱が発生した。「海乞食シーゴイセン」と呼ばれた私掠船団が北海を荒らしたほか、オラニエ公が反乱の実質的指導者となり傘下の都市を増やした。
 一方、1570年7月にオスマン海軍がキプロス島を襲撃しヴェネツィアが救援を求めた。フェリペは、今度は教皇が提唱した神聖同盟に加わってオスマン帝国と戦端を開いた。フェリペは艦隊の総司令官を異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアに任せた。1571年10月7日のレパントの海戦で神聖同盟はオスマン帝国に勝利し、欧州には輝かしい勝利の記憶となった。しかし、オスマン帝国が僅か2年で艦隊を再建したのに対し、神聖同盟側の方は失った艦船を再建するのに長い時間を要した。その後フェリペはネーデルラントの反乱鎮圧に追われてマグリブ[10]への進出も断念した。
 ネーデルラントではアルバ公が1573年に解任され、1578年1月に派遣されたパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼが南部諸州を奪還した。反乱側は1581年7月、ネーデルラントに対するフェリペの統治権を否認した。
 1578年、ポルトガル王セバスティアンがアルカセル・キビルの戦いで戦死、その大叔父エンリケも1580年1月に死去しポルトガル王家は断絶した。フェリペはエンリケの甥でセバスティアンの母方の叔父でもあったため王位継承を主張、同じくエンリケの甥で王位継承を主張していたアントニオと争った。アントニオは1580年6月に即位を宣言してリスボンに入城するが、フェリペはアルバ公を派遣してアントニオを追い出し、9月に即位を宣言、翌年4月に議会で国王に承認された。フェリペはポルトガルとそれに付随する植民地を手に入れた。
 絶頂期にあったスペインであったが、これにイングランド女王エリザベス1世が挑戦した。フェリペは元々イングランド女王メアリー1世と結婚していたが子は産まれずにメアリーが死に、後を継いだ異母妹エリザベスに求婚していた。メアリーはカトリックであったがエリザベスはプロテスタントであったため、この求婚を断った。そしてエリザベスはスペインによる新大陸交易の独占打破を狙ってネーデルラントの独立派を支援し、ドレイクなどイングランド人の私掠船がスペインやその植民地の海岸を荒らした。フェリペはイングランド攻撃のため、1588年5月に130隻の大艦隊「無敵艦隊アルマダ」を送り込んだ。この艦隊は海乞食による妨害やイングランド側の攻撃にあって撤退するが、帰路で嵐に遭って大半が失われてしまった。この事件でスペインによる大西洋の覇権が失われたわけではなく[11]、艦隊も2年で再建されたが、その後スペインはイングランドやフランスの勢力が新大陸に侵入するのを防げなくなっていった。
 フェリペは1598年9月13日に死去し、同名の息子がスペイン王フェリペ3世となった。フェリペ3世は狩猟好きであったが政務には興味が無く、寵臣政治が行われ国政はレルマ公が行った。1609年4月9日、フェリペ3世はモリスコ[12]の追放を承認し30万人ほどが国外に追放されたが、それは農民や手工業者の減少を招きスペイン経済に打撃を与える結果になった。特にバレンシアは人口の1/4を失った。一方でレルマ公は外交によって戦争を回避する方策を採った。戦争は費用が掛かり、フェリペ2世や3世は何度も国庫支払停止宣言バンカロータを行っていた。イングランド王ジェームズ1世と1604年8月にロンドン条約を結び、オランダとは1609年4月9日にアントウェルペン条約を結んで休戦し、フランスとも1615年に二重婚姻を行った。しかしレルマ公による平和路線には批判も強く、レルマ公は失脚。スペインは1618年に勃発した三十年戦争には皇帝に味方して介入した。フェリペ3世は1621年3月に死去し息子のフェリペ4世が即位した。

三十年戦争
 ドイツでは、カールの引退後フェルディナントが皇帝になった。フェルディナントは既にハンガリーとボヘミアの王位を獲得していた。彼は王権の強化を試み、ハンガリーでは失敗するがボヘミアでは成功し、王位の世襲を認めさせた。宗教面ではフェルディナントはプロテスタントに対して宥和的だったものの、イエズス会をボヘミアに招くなどカトリックの勢力拡大にも努めた。オスマン帝国との戦いに貴族の協力が不可欠であったため、続く皇帝も宗教には寛容であった。
 1564年にフェルディナントが死去すると、長男マクシミリアンが上下オーストリアとボヘミアとハンガリー[13]を、次男フェルディナントがチロルを、三男カールがシュタイアーマルクをそれぞれ分割相続してマクシミリアンが皇帝マクシミリアン2世となった。マクシミリアン2世はカール5世からマドリード総督に任命されてスペインで過ごしたこともあったがプロテスタントに共感していた。そのため父フェルディナントはカトリックに忠誠を尽くすよう彼に誓わせたほどであった。1576年、マクシミリアン2世が死去して長男ルドルフが皇帝ルドルフ2世[14]となった。
 ルドルフ2世は父と同じく幼少期をスペインで過ごし、カトリックを信奉していた。ルドルフはプラハ城で錬金術と天文学と芸術品蒐集に傾倒し政治には無関心であった。1591年から1606年まで続いたオスマン帝国との戦争は成果なく、ウィーンの和約でトランシルヴァニアの独立とハンガリーにおける信仰の自由を認めることになった。弟マティアスは無策な兄ルドルフに反発してハンガリー貴族と交渉して1608年にハンガリーの王位を奪い、1611年にはプラハに攻め入ってルドルフを軟禁状態に置いた。1612年にルドルフが死去するとマティアスが皇帝となった。この兄弟間の争いはプロテスタント諸侯の強大化を招いてしまった。
 一方、マクシミリアン2世の弟カール大公とその子フェルディナントはオーストリアで反宗教改革を進めていた。ルドルフやマティアスには子がおらず、フェルディナントがマティアスの後継となり1617年にボヘミア王位を継いだ。フェルディナントはイエズス会のもとで育った熱心なカトリック教徒であった。既にマティアスがボヘミアでプロテスタント教会の設立を禁じており、宗教対立が深まった。ドイツでも1608年にプロテスタント諸侯が「同盟ウニオーン」を結成、1609年にカトリック諸侯がそれに対抗して「連盟リガ」を結成して対立していた。
 そして1618年5月23日、プロテスタントに対する弾圧に抗議してプラハ城に押し掛けたプロテスタント貴族たちが皇帝の代官を窓から突き落とした。有名なプラハ窓外投擲事件である。1619年5月にマティアスが死去すると、彼らは同年8月の議会でカルヴァン派のプファルツ伯フリードリヒ5世を国王[15]に選出した。同時期にフェルディナントは皇帝に即位してスペインやバイエルンと同盟、ルター派のザクセンまでが皇帝に味方した。対してボヘミアは外国からの援助が得られず、1620年11月8日にプラハの近郊ヴァイセルベルクにおける白山の戦いでボヘミア側は壊滅させられた。フリードリヒはボヘミアの王位を追われ、反乱した貴族は処刑または追放されて所領は没収され、ボヘミアのカトリック化が断行された。これはその後長く続く戦争の始まりだった。
 続いて戦火はドイツに飛び火した。ティリー将軍率いるカトリックの連盟軍とスピノラ将軍率いるスペイン軍が1621年にプファルツに侵攻し、占領した。皇帝はバイエルン大公マクシミリアン1世にプファルツと選帝侯位を与えた。これが三十年戦争の第一段階、ボヘミア・プファルツ戦争である。
 すると、皇帝権力の強化とプファルツにスペインの勢力が及ぶことを恐れたフランスが北ドイツ諸侯やオランダ、イングランド、デンマークを誘ってハーグ同盟を結んだ。1625年、ホルシュタイン侯を兼ねるデンマーク王クリスチャン4世が参戦して三十年戦争の第二段階であるデンマーク戦争が勃発した。同年、傭兵隊長ヴァレンシュタインが皇帝軍の総司令官に任命され皇帝に軍事力を提供した。1626年、ティリーがルッターの戦いでクリスチャン4世を破り、ヴァレンシュタインはユトランド半島に迫った。1629年、ヴァレンシュタインはデンマークとリューベック条約を結びデンマーク戦争は終結した。皇帝の威勢はますます強まり、フェルディナントは同年諸侯に諮ることなく「復旧勅令」を発布した。これは1552年以降に没収された教会領をカトリック側に返還するものであった。
 プロテスタント諸侯は当然この勅令に恐怖したが、カトリック諸侯も皇帝権強化は危険だと考えた。また、ヴァレンシュタインが皇帝より「バルト海、大西洋の提督」に任命されたためスウェーデンも危機感を抱いた。まずドイツ諸侯が動いた。選帝侯たちが1630年7月、フェルディナントにヴァレンシュタインの罷免を求めた。フェルディナントは長子への帝位継承のためこれに応じた。そのとき、スウェーデン王グスタフ2世アドルフが3万人の兵を率いてドイツに侵入した。その裏にはフランスなどの資金援助があった。こうして、三十年戦争の第三段階であるスウェーデン戦争が始まった。ティリーが1631年にマグデブルクを占領し破壊したことをきっかけに、それまで皇帝に忠誠を誓っていたザクセンやブランデンブルクなどのプロテスタント諸侯がスウェーデンと同盟した。フェルディナントは1632年にヴァレンシュタインを再び皇帝軍総司令官に任命して巻き返しを図った。グスタフ2世アドルフは同年リュッツェンの戦いで戦死したが、スウェーデン軍は南ドイツにまで侵入した。またヴァレンシュタインが独断で和平交渉を行ったり捕虜を解放したりしたためフェルディナントは彼を疑い、1634年2月に謀殺してしまった。それでも皇帝軍はスペインの援軍の力も借りてスウェーデン軍をネルトリンゲンの戦いで破り、1634年にスウェーデンと、翌年にザクセンと和平を結んだ。復旧勅令は断念されたがスウェーデン戦争は終結した。
 しかし、ここでフランスが参戦、更にスウェーデンも再び介入して戦争は泥沼化した。三十年戦争の最終段階であるフランス戦争である。その最中の1637年にフェルディナント2世が死去し同名の息子が即位、皇帝フェルディナント3世となった[16]。戦争は膠着状態となり、1641年には和平交渉の約束がなされたが実際に交渉が始まったのは1645年、和平が結ばれたのは1648年であった。
 和平交渉はヴェストファーレン地方のミュンスターとオスナブリュックで進められた。欧州諸国とドイツの領邦の君主計194人と全権委任者197人が集まった欧州最初の国際会議であった。1648年10月24日に条約が結ばれた。
 この条約でフランスはエルザスの一部を獲得し、スウェーデンがドイツに領土を得て帝国議会の議席を得た。またスイスとネーデルラントの独立が認められた。帝国内に関しては、カルヴァン派が公認された。皇帝の権限は減らされ、宣戦布告や法律の発布などは諸侯の同意が必要となり、また諸侯は外国との交戦権や条約締結権を獲得した[17]。ヴェストファーレン条約は諸侯の主権を認めたため「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれた。ドイツの荒廃もすさまじく、被害の大きい地域では人口が戦前の半分以下になった。

オスマン帝国への勝利
 皇帝フェルディナント3世は存命中に同名の長男を後継者として1646年にボヘミア王に、1647年にハンガリー王とした。しかし1654年に彼は死去してしまった。そこで四男で聖職者だったレオポルドが後継者となり、1654年にハンガリー王となって1658年に皇帝に即位した。
 レオポルドの治世にはオスマン帝国の攻撃が活発となり、1664年にオスマン帝国の大宰相キョプリュリュ・アフメト・パシャがハンガリーに侵攻した。この時オスマン帝国に領土を譲ってしまったことや、国会の召集の停止やプロテスタント弾圧など絶対主義的な政策を採っていたことによりハンガリーで反ハプスブルク感情が醸成され、反ハプスブルクの武装集団であるクルツが拡大した。レオポルドは絶対主義的政策を見直し貴族と和解したが、一部ではまだ反乱が続いた。その情勢に付け込みオスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファ・パシャが1683年7月に15万の兵でウィーンを包囲した。第2次ウィーン包囲である。当時ウィーンの守備兵は1万しかおらず、レオポルドはリンツへ逃亡した。9月にようやくヤン・ソビエスキ率いるポーランド軍とロートリンゲン公カール率いる皇帝軍が援軍に現れ、オスマン帝国軍を追い払った。
 勢いづいた皇帝軍は後退するオスマン帝国軍を追い、1686年にはブダを陥落させその翌年にトランシルヴァニアに侵攻した。トランシルヴァニアでは皇帝軍は解放軍として迎えられ、トランシルヴァニアの支配層はレオポルドに忠誠を誓った。また、1687年のハンガリー国会ではハプスブルク家の男系の王位世襲継承権が承認され、貴族の抵抗権の放棄が決定された。1699年、カルロヴィッツ条約が結ばれハンガリー全域がハプスブルク家のものになった。その後オスマン帝国は弱体化していくことになる。
 しかし、皇帝軍による収奪や土地の扱いでハンガリー人の不満が高まり、1703年にトランシルヴァニアの名家の出身であるラーコーツィ・フェレンツ2世が指導者に推され反ハプスブルク家の反乱が始まった。大貴族の大半は静観したがラーコーツィは農民や中小貴族の支持を集めハンガリー全土に勢力を伸ばし1704年にトランシルヴァニア侯、翌年にはハンガリー王に推された。だが戦争は長期化し、1711年、ラーコーツィが援助を求めてロシアに滞在していたときハンガリー貴族が和約を結び戦争は終結した。ラーコーツィはフランス、次いでオスマン帝国に亡命した。この戦争によりハンガリーとトランシルヴァニアの国制は維持され、ハンガリー貴族の諸特権は再び保障された。

スペイン王家断絶
 1621年3月、フェリペ4世がスペイン王に即位した。フェリペ4世の在位中、侍従長であったオリバーレス伯公爵が権力を握った。オリバーレスはスペインの全地域から兵員徴募や戦費調達を行えるよう[18]中央集権化を目指してさまざまな改革を行ったが反発を受け失敗に終わった。特にカタルーニャとの関係は悪化し、1635年にフランスとの戦争が始まりカタルーニャに軍が駐屯したことがきっかけに1640年に反乱が勃発した。1653年に反乱は終結し、フェリペ4世はカタルーニャの諸特権を尊重する一方で、服従と戦費負担などを求めた。この反乱に続いてポルトガルでも反乱が起こり1640年12月にブラガンサ公がポルトガル王ジョアン4世として即位、ポルトガルが独立した。以後フェリペ4世はポルトガル奪還を目指して数度遠征軍を派遣したがいずれも失敗に終わり、1668年のリスボン条約でポルトガル独立が承認された。これらの反乱によってオリバーレスは信望を失い、1643年に失脚した。
 一方、スペインも参戦していた三十年戦争はヴェストファーレン条約の締結によって終結したが、これに反発したスペインは1659年までフランスとの戦争を続けていた。フランスとの対立はオランダへの接近につながり、1648年1月にスペインはオランダと講和条約を結び、独立を承認した。同年にフランスでフロンドの乱が勃発するとこれに乗じてフランスを攻撃した。当初は優勢に戦争を進めたが次第に敗北を重ね、1659年11月にピレネー条約を締結し和平を結んだ。フランスに有利な条約で、スペインはフランドルやピレネー地域の一部を割譲したほか、ルイ14世とフェリペ4世の長女マリア・テレーサの婚姻に関する条項が盛り込まれた。スペイン側はマリア・テレーサ王女の王位継承権放棄を求め、フランスはその代償に50万エスクードの持参金を要求した。しかし、危機的な財政状況にあったスペインにこのような多額の持参金を支払う能力はなかった。ここにスペインの時代は終焉し、フランスの時代が始まった。
 1665年9月、フェリペ4世が死去し息子のカルロス2世が跡を継いだ。スペインとオーストリアの両ハプスブルク家の間では同族結婚が繰り返されており、カルロスの母マリア・アンナはフェリペ4世の実の姪だった。カルロスは生来病弱で、「呪われた王エル・エチサード」の異名をとった。カルロスは4歳で即位したが、フェリペ4世は遺言の中でマリア・アンナを摂政に指名した。その一方で、権力の集中を防ぐために大貴族による統治評議会を創設した。しかし、マリア・アンナは自らの聴罪司祭ニタルト、次いでバレンスエラを重用したがこれには強い反発が起こり、フェリペ4世の庶子フアン・ホセ王子によってマリア・アンナは隠遁させられた。一方で対外的にはルイ14世の拡張政策の前に敗退を続け、1668年にはフランドルの一部を奪われ、更にオランダ戦争に敗北した結果1678年9月のネイメーヘン条約でフランシュ・コンテを奪われていた。フアン・ホセ王子の人気は急落し、その矢先彼は急逝した。するとマリア・アンナが宮廷に復帰し、メディナセーリ公とオロペーサ伯を主席大臣に登用した。彼らは有能な政治家であり、国内の激しいインフレに対してペリョン貨と銀貨の平価切下げを断行した。この措置によって一時的に経済活動が麻痺したが、貨幣の信用が回復したことで経済活動は活性化に向かった。
 一方カルロス2世は嗣子のないまま衰弱していき、スペインの領土をめぐって各国が外交折衝を繰り広げた。フェリペ4世の遺言状では、皇帝レオポルド1世に嫁いだマルガリータ王女の家系を第一継承者としていた。しかしルイ14世はマリア・テレーサの持参金が未払いであることから継承権を主張した。オランダやイギリスも交渉に干渉した。宮廷内ではフランスからの後継者を望む声が強く、カルロスはルイ14世の孫のアンジュー公フィリップに王位を譲る遺言状を作成した。1700年11月1日、カルロス2世は死去した。
 アンジュー公フィリップによるスペイン王位継承はオーストリアを除く諸国に承認され、11月24日にフェリペ5世として即位した。しかしルイ14世はフェリペがフランス王位を兼ねる可能性を示唆し、さらにフランドルに兵を進めた。これに対抗して英国とオランダがオーストリアと同盟を結成し、1702年5月にフランスとスペインに対し宣戦を布告した。またレオポルド1世の息子カール大公がスペイン王カルロス3世を称した。戦争は欧州にとどまらず、北アメリカの英仏植民地においても戦争[19]が始まった。戦争は同盟側有利に進んだ。しかし1705年にレオポルド1世が死去、その跡を継いだヨーゼフ1世も1711年に死去しカールが皇帝に即位したことで状況は一変した。英国はハプスブルク大帝国の復活を望まず、和平交渉が始まった。1713年4月英仏はユトレヒト条約を結び、1714年3月にオーストリアとフランスもラシュタット条約を結び戦争が終結した。フランス王位継承権の放棄を条件にフェリペ5世はスペイン王として承認され、フランドル、ミラノ、ナポリ、サルデーニャがハプスブルク家に残された。以後ハプスブルク家はスペインを失い、オーストリアを中心とした領土の経営に専心することになった。

オーストリア継承戦争
 1711年に皇帝となったカール6世の前に、新たな継承問題が生じた。それはハプスブルク家自身の継承問題であった。当時のハプスブルク家には男系の相続者が居なかった。1713年4月、カールは国事詔書プラグマティシェ・ザンクツィオンを発して全家領の永久不分割と相続順位を定め女系の相続も認めた。これらはオーストリア世襲領、ボヘミア諸邦、モラヴィア、シレジア、クロアチアでは1721年までに問題なく承認された。しかしハンガリーでは、ハプスブルク家の男系が断絶した場合には議会が国王を選出できることになっていた。ハンガリー議会は女系の継承を認める代わりに従来の特権の確認を求めた。諸外国の承認を得るためには更なる犠牲が必要であった。英国の承認を得るためにインド貿易から手を引き、またフランスのロートリンゲン領有を認めた。こうして国事詔書は家領内外の承認を受けて1724年に帝国基本法として公布された。ところが、諸外国による承認は実は無意味であったことが後に判明するのである。
 1740年10月20日にカール6世が死去し、娘マリア・テレジアが家領を相続するとバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが異議を唱え相続権を主張した。さらにプロイセンのフリードリヒ2世が承諾の代償としてシレジアを要求し、マリア・テレジアがそれを拒否すると直ちに大軍を派遣してシレジアを占領した。その上ザクセンやフランスもこれに乗じて介入、オーストリア継承戦争が勃発した。カール・アルブレヒトはフランス軍の助力を得て1741年4月にプラハを占領し、翌年2月フランクフルト・アム・マインで皇帝に即位しカール7世を名乗った[20]。ハプスブルク家による世襲的な帝位継承が否定されるというまさかの事態となったのである。戦争は一進一退で、1745年のアーヘンの和約で決着した。この条約では国事詔書の承認とハプスブルク家によるハンガリー王位継承が認められたものの、プロイセンによるシレジア領有とパルマ、ピアチェンツァのスペインへの割譲を認めねばならなかった。しかし一方で、皇帝位は取り戻し中核となる領土もほぼ守られた。

おわりに
 その後、台頭したプロイセンに対抗すべく、ハプスブルク家はフランスとの伝統的な対立関係を改める「外交革命」に踏み切る。また東方ではオスマン帝国の衰退が進むとともにロシア帝国が成長し、勢力図が大きく塗り替わっていく。また中・東欧で啓蒙主義改革が行われ、やがて西方から革命の狼煙が上がるに至る。そして欧州は新しい時代へと移っていき、ハプスブルク家もまた変化を迫られるのである。



ハプスブルク家系図

図1 ハプスブルク家系図(筆者作成)

ハプスブルク家関係地図

図2 関係地図(http://www.freemap.jp/の白地図を用いて筆者作成)


    注釈
  1. ^ 当会サイトにて公開中である。
  2. ^ 今回のテーマが「三つ巴」なのでこのように記したが、まあこじつけである。
  3. ^ ルターは当初農民に同情的であったが、現世のことは世俗権力に委ねるべきと考えていたため反乱が拡大すると農民勢力の排除を主張した。
  4. ^ 1535年にスフォルツァ家が断絶した。
  5. ^ 現在はペストと合併してブダペストとなっている。
  6. ^ 後にトランシルヴァニア侯国となる。
  7. ^ ザクセン選帝侯の地位をヨハン・フリードリヒから没収してモーリッツに与えると約束した。
  8. ^ どの信仰を採るかは諸侯の自由で、領民はそれに従わねばならないとされた。従うことのできない者はその地を去ることが許された。また、帝国自由都市では両派の並存が許された。
  9. ^ 当時スペインという国家はなく、厳密にはカスティーリャやアラゴン等の同君連合であった。しかし通例スペインとして扱われているため、本稿でも便宜上スペインと記す。
  10. ^ アフリカ北岸のうちエジプト以西の地域。
  11. ^ フェリペ2世の治世を通じて、大西洋を航行した船のうち私掠船の攻撃を受けたものは1%程度であった。
  12. ^ イスラームからキリスト教に強制改宗させられた人々のこと。
  13. ^ マクシミリアン2世は1562年にボヘミア国王に、1563年にハンガリー国王に即位していた。
  14. ^ ルドルフ2世は1572年にハンガリー国王に、1575年にボヘミア国王に即位していた。
  15. ^ フリードリヒは「冬王」と呼ばれる。
  16. ^ フェルディナント3世は1625年にハンガリー国王に、1627年にボヘミア国王に即位していた。
  17. ^ ただし、皇帝と帝国への忠誠に違反しない限りという制限が設けられていた。
  18. ^ もともと王権の強いカスティーリャのみが王権への負担に応じており、アラゴンやカタルーニャなどは応じていなかった。
  19. ^ この戦争はアン女王戦争と呼ばれる。
  20. ^ バイエルンが占領されたため、彼はその後故国に戻れないまま1745年に没した。

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