2017年11月
三國志遊戯 〜家庭用ゲームハード戦争の覇権は誰の手に?〜 紫柴砦
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注 あくまでネタです。『オプーナ』ファンの方はご容赦を。またこの画像は記事とはほぼ関係ありません。
はじめに
今年3月、任天堂から「Nintendo Switch」(以下Switch)が発売され、ゲーム市場を賑わせています。筆者も欲しいのですが買えていません。『スプラトゥーン2』で遊びたい! アクションゲーム苦手だけど…… ともあれ、この記事ではSwitch発売に便乗して家庭用ゲームハード戦争の歴史について述べていきます。現在ゲームハード業界は三つ巴の争いになっていて、ちゃんとテーマも回収できますし。よろしければお付き合いください。
なお、この記事では基本的にコンピュータゲームについて述べ、ボードゲームなどは扱わないほか、あくまで家庭用ゲームハード(ファミリーコンピュータやプレイステーション、ゲームボーイなど)を詳述し、アーケードゲームやPCゲームについてはあまり触れません。また、紙面の都合上、省いているものも多々あります。説明が雑だったり、思い出のゲームハードが載っていなかったりしますが、ご了承ください。
マグナ オデッセイにて産業を興し アタリ ポンにて市場を席巻す
世界初の家庭用ゲームハードは、1972年にアメリカのマグナボックスから発売された「オデッセイ(Odyssey)」です。オデッセイは12種類のゲームが本体に組み込まれており、カートリッジを差し込むことで内部回路のスイッチを切り替えて遊ぶものでした。この点で、現代のロムカセットやCD-ROMといったメディア[1]などにゲームが組み込まれているものとは大きく異なります。オデッセイは累計35万台を売り上げ、失敗ではないものの、大ヒットとまではいかない商品となりました。
このオデッセイに注目した人物がいます。その人物とはノラン・ブッシュネル。彼はもともとアーケードゲーム[2]を開発して一山当てようとしており、「コンピュータースペース(Computer Space)」というものを開発したのですが、このゲームは思うようにはヒットしませんでした。この失敗ののち、ブッシュネルはもといた企業を離れ、アタリ(Atari)[3]を設立します。ブッシュネルはオデッセイに触れ、これに収録されていた「テーブルテニス」を参考にしたゲームをエンジニアのアラン・アルコーンに作らせたところ、非常におもしろいものができあがりました。ブッシュネルはそのゲームをアーケードゲームとして発売、名前を「ポン(PONG)」と名付けました。
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図1 ポン(ペイントにて著者作成)
図1はポンの模式図です。小さな丸の点がボール、細長い棒がパドルで、パドルを上下に操作して、画面上を行き交うボールを打ち合って遊びます。テニスや卓球を思い浮かべるとわかりやすいと思います。このゲームには効果音やボールの速度が次第に変化していくといったギミックが搭載されており、単純ながら非常におもしろい作品に仕上がっていました。
ポンは空前の大ヒットとなり、ゲーム市場は活況を呈するとともに、ポンのコピー品や類似品で溢れかえりました(伏線)。当時3,000台ほど売れればヒット作とされていたアーケードゲームで、ポンはコピー品や類似品を含めると10万台もの売上があったとされています。まさに市場を席巻したといってよいでしょう。
ポンのヒットののちも精力的に斬新なゲームの開発を行ったアタリ[4]は、ポンを家庭用ゲーム化したものを売り出すことに着手します。「ホームポン」と名付けられたこの商品もかなりの売上を記録し、やはりコピー品や類似品が市場に溢れかえりました。その結果、家庭用ポンはかなりの早さで普及したため、売れなくなるのもあっという間でした。1つのゲームしか遊べないゲームハードの限界が露呈した出来事でした。ともあれ、このような形で家庭用ゲームハード産業はスタートしました。
アタリ VCSにて隆盛を極め サードパーティ 市場を破滅さしむ
1976年、世界初のロムカセット別売型ゲームハードである「チャンネルF(channel F)」がフェアチャイルド・セミコンダクター(以下フェアチャイルド)から発売されました。翌1977年にも他社からロムカセット別売型ゲームハードが順次発売され、RCAから「StudioU」が、そしてアタリから「VCS(Video Computing System)[5]」が発売されました。現代のようなハードとソフトが分離された世界が始まりを告げたのです。
しかし、これらのゲームハードは発売当初あまり売れませんでした。市場にポンのようなゲームが溢れかえっており、消費者が家庭用ゲームハードに対して懐疑的であったためです。結果、フェアチャイルドとRCAの2社は家庭用ゲームハード業界から撤退してしまい、残るアタリもVCSの初期出荷40万台を売り切ることができませんでした。
VCSの売上が伸び悩んだことにより、アタリは親会社のワーナー[6]の介入を招きます。創業以来アタリのトップを務めてきたブッシュネルが解任され、代わって繊維業界で実績のあったレイモンド・カサールという人物が社長へと就任しました。全く違う業界の人物が社長に就任したことでアタリ社内の雰囲気は一変し、これに反発したエンジニアが次々と退社、アタリのゲーム開発能力は大きく低下してしまいます。
しかし、アタリの命運はこれで尽きたりはしませんでした。カサールは広報活動に力を入れるとともに、アタリがそれまでに開発していたアーケードゲームをVCSに次々と移植する戦略を採りました。これがうまくはまって業績は回復、1982年には日本で開発された『スペースインベーダー』をVCSに移植するとこれがミリオンセラーとなり、ワーナー全体の総利益の3分の1をアタリ社が生み出すまでになりました。
また、この頃にサードパーティという概念が誕生しました。サードパーティとは、他社製品に関連する商品を作っている企業のこと[7]です。それまではVCSに対応するソフトはアタリが、チャンネルFに対応するソフトはフェアチャイルドが生産していました。しかし、カサールの社長就任後にアタリを退社したエンジニアたちがアクティビジョン(Activision)という会社を立ち上げ、VCS向けのゲームを開発するようになります。カサールはこの動きをゲーム産業への寄生であるとして訴訟を起こし、VCSでのゲーム開発を禁止しようとしましたが、最終的にVCSのゲームソフトを作っている企業、すなわちサードパーティからロイヤリティ[8]を受け取ることで和解しました。
この「サードパーティに自社のゲームを開発することを許可する代わりに、ロイヤリティを受け取る」というビジネスモデルは、今日に至るまで家庭用ゲーム産業の基本的な構造となっており、アタリの起こした訴訟はゲーム産業史において非常に重要な出来事であったといえます。しかし、このサードパーティという存在はのちにアタリに致命的な打撃を与えることになります。
アタリはその後も売上を伸ばし、1981年には10億ドル、1982年には20億ドルもの売上を達成、利益も1981年は3億ドル、1982年は3億2,000万ドルに到達していました。アタリの成功に乗じ、マテルやコレコといった企業も家庭用ゲームハード業界に参入、市場はにわかに活気づきました。しかし、1982年末のクリスマスシーズンに家庭用ゲーム市場で大幅な値崩れが発生。最終的に市場規模が30分の1にまで縮小し、家庭用ゲーム市場がほぼ消滅するという未曽有の事態が発生します。
これにはいくつかの原因が絡み合っていました。VCSが売れていた頃、アタリはVCSの生産が追い付かないことから、販売代理店に対して翌年分の一括注文を求めていました。販売代理店は在庫切れを恐れたため、大口の注文を行い、アタリはこの注文に従ってVCSを生産しました。しかし、1982年のクリスマスを前に、販売代理店の多くが注文を撤回したため、アタリは大量の在庫を抱えることとなりました。
大量の在庫が発生することになったのは、VCSの売れ行きが悪化したためです。なぜあれだけ順調に売上が伸びていたのに、急に不調になってしまったのか。それはソフトの粗製濫造が原因でした。VCSが成功をおさめた結果、「VCSでソフトを出しさえすれば売れる」と考えた企業がサードパーティとして多数参入し、VCS向けのソフトを作り出したのです。その中には、ゲーム開発能力などまるでない企業[9]までもが参入し、数多の粗悪なゲームが濫造されました。
さらに、VCSの発売元であるアタリも、ひどい出来のソフトを出すようになっていました。カサールが社長になって以後、エンジニアが多数退社して開発能力が低下していたことに加え、カサール自身もゲームに関しては全くの素人で、ゲーム開発に全く参加しないばかりか、「アーケードゲームや映画でヒットしたタイトルを冠したゲームを作って宣伝すれば売れる」としか考えていませんでした。結果、アタリからも出来の良くないゲームソフトが量産されました。「クソゲー[10]すぎて、大量の売れ残りが砂漠に埋められた」という都市伝説[11]にもなった、アタリの『E.T. the Extraterrestrial』もこのときの粗製乱造を代表する作品の1つです。
現代とは違い、情報が行きかう速度がまだまだ遅い時代であったため、消費者はゲームの出来を判断する材料もないまま、膨大な数のソフトを選別する羽目になり、「買ったゲームが本当に面白いかどうかは、買って帰ってVCSに差し込んでみるまで分からない」というハズレだらけの宝くじを買わされているような状態になってしまいました。結果、消費者はVCS本体やソフトを買い控えるようになってしまいました。
大量に売れ残ったソフトとハードは値崩れを起こし、家庭用ゲーム市場に対する消費者の信用は崩壊。アタリの売上は著しく落ち込み、1983年は5億ドルを超える赤字を計上しました。他の家庭用ゲームハードを売り出していた企業も同様の打撃を受け、倒産したり家庭用ゲーム市場から撤退したりしていきました。
この1983年に起きた、アタリを中心とするゲーム市場の崩壊の事をアタリショックと呼びます。アメリカでのゲーム市場、特に家庭用ゲーム市場はこの事件によって一度ほぼ完全に死んでしまったのです。
ただし、アメリカのゲーム産業そのものが完全に死滅したわけではありませんでした。アタリショックによって衰退した家庭用ゲーム産業に代わって、PCゲーム産業が伸びてきたのです。1982年に「コモドール64(Commodore 64)」が発売され、安価なゲーム用PCとして消費者に受け入れられたほか、アタリショックによって活動の場がなくなった開発力のあるサードパーティがPCゲーム開発へとシフトしたことで、以後北米のゲーム産業の中でPCゲームが発展していくこととなる素地となりました。
タイトー アーケードにて躍進し 任天堂 ファミコンにて世界を獲る
日本における最初のコンピュータゲームは、先述したポンでした。1973年、タイトーからアーケードゲームとして、『エレポン』という名称で発売されました。アタリに無許可で。ええ、無許可で。この時代はまだ知的所有権の概念が十分に浸透していなかったため、いたるところでこのようなことが頻発していました。そののち、同様にアタリの『ブレイクアウト』のコピー商品が『ブロック崩し』という名称で発売されます。これがヒットし、数多の日本企業がブロック崩しをまねたゲームを発売しました。このように、日本のゲーム産業は模倣品からのスタートでした。
模倣から始まったのち、少しずつ独自のゲームが開発されるようになっていきます。その中で、コンピュータゲーム史に燦然と輝くタイトルが発売されます。それが1978年にタイトーから発売された『スペースインベーダー』です。このゲームは本体が46万円したのですが、店先に置いておけば1日に2〜3万もの売り上げをもたらしました。完全なるドル箱です。スペースインベーダーは売れに売れ、あまりにも売れすぎて製造が追い付かなかったため、タイトーは他のいくつかの国内企業に対してスペースインベーダーの製造許諾を与えています。これは当時の業界の常識ではありえないことでした。
最終的にタイトーが10万台、許諾先メーカーが10万台ものスペースインベーダーを製造したほか、無許可コピーも大量に製造され、すべてを合わせると30〜50万台ものスペースインベーダーが市場に出回るという、アーケードゲーム産業における史上最大のヒット商品となりました。
このスペースインベーダーブームは教育界から大きな反発を呼びます。実際、スペースインベーダーを遊びたいがために犯罪行為に手を染める子どもさえいました[12]。これを受けてゲーム設置側にも自粛ムードが蔓延し、警察庁の実態調査やマスコミによる報道の結果インベーダーゲームへの印象が悪化、ブームはわずか1年で終焉を迎えました。
また、あまりにも多くのコピー商品が出回ったため、著作権法と不正競争防止法に基づいたコピー訴訟が多発しました。これらの訴えは徐々に認められていき、違法コピー商品は少しずつ減少していくこととなります。
このように、日本の初期コンピュータゲーム市場を牽引したのは、アメリカと同じくアーケードゲームでした。そしてアメリカにおいてアーケードゲームを追う形で家庭用ゲームハードが出てきたように、日本においても家庭用ゲームハードが登場していきます。
日本初の家庭用ゲームハードは1975年に玩具メーカーのエポックが発売した「テレビテニス」でした。ゲーム内容はポンとほぼ一緒。これがヒットしたことを受けて、トミー・バンダイ・タカラといった玩具メーカーが相次いで家庭用ゲームハード業界に参入します。また、松下電器・東芝・日立といった家電メーカーも相次いで参入、家庭用ゲームハード業界は群雄割拠の様相を呈します。
しかし、この時代の家庭用ゲームハードは1つのゲームしか遊ぶことのできないものであり、しかも高価であったため、売れなくなるのはあっという間でした。各企業は方向転換を迫られることとなります。
アメリカでは1つのゲームしか遊べないゲームハードが売れなくなったあと、ソフトとハードが分離した家庭用ゲームハードが登場しました。一方、日本では玩具に近い単機能型の小型電子ゲーム製造が一大潮流となりました。その中で成功を収めたのが、1980年に任天堂が発売した「ゲーム&ウォッチ」です。時計機能をつけたことによって玩具感を薄め、大人の購買意欲を煽りました。
一時はかなりのブームを巻き起こしたゲーム&ウォッチでしたが、それは長くは続きませんでした。ゲーム&ウォッチはその多くがアーケードゲームを元として作られていました[13]。ですが、この頃からアーケードゲームが急速に進歩した[14]結果、小型の電子ゲームでは性能が追いつかなくなってしまったのです。結局、1983年以降、電子ゲームの売上は全体的に縮小していくこととなります。
他方、日本にソフトとハードが分離した家庭用ゲームハードが全くなかったわけではなく、1977年にタカトクが「ビデオカセッティ・ロック」を、東芝が1978年に「ビジコン」を発売しています。また、アメリカからフェアチャイルドのチャンネルFなども輸入販売されていました。しかし、これらはCPUを搭載していたために非常に高価であまり売れませんでした[15]。既存のゲームにはないような斬新でおもしろいゲームを盛り込むにはCPUを搭載することが不可欠でしたが、CPUは非常に高価なものであり、搭載すれば5万円は下らなかったため、消費者は手を出さなかったのです。
そんな中、1981年にエポックが発売した「カセットビジョン」はCPUを搭載していながら13,500円とそれまでのものに比べて非常に安価であり、最終的に45万台を売り上げるヒット商品となりました。一時はゲーム市場においてトップシェアに躍り出るほどでしたが、その繁栄も長くはありませんでした。家庭用ゲーム業界を席巻する存在がすぐに登場したためです。
1983年、任天堂から「ファミリーコンピュータ」(以下ファミコン)が発売されました。ファミコンはアーケードゲームで好評を博していた『ドンキーコング』を家庭でも見劣りなく遊べるほどの性能を持った家庭用ゲームハードを作り、安価に販売することを目標として、「枯れた技術の水平思考[16]」という哲学のもと開発されたファミコンは、当時の家庭用ゲームハードの中では別格ともいえる性能を持ちながら、14,800円という破格の値段を実現していました。
初期不良こそあったものの、「ドンキーコング」「マリオブラザーズ」のようにアーケードゲームですでに知名度を獲得していたタイトルや、「ポパイの英語遊び」「ドンキーコングJr.の算数遊び」といった知育ソフトを揃え、「家族で遊べる」ファミコンは好評を博し、発売翌年の1984年には出荷台数が200万台を突破しました。
ファミコンが好調であったため、アタリのVCSの事例と同様に、ファミコン向けのソフトを作りたいという企業が登場し始めます。1984年にハドソンがPCゲームの移植である『ナッツ&ミルク』と『ロードランナー』でファミコンに参入し、同じ年にナムコもアーケードゲーム『ギャラクシアン』の移植でファミコンに参入しました。翌1985年にはコナミ、タイトー、カプコンなどの企業が相次いでファミコンに参入していきます。ファミコンにおけるサードパーティの誕生です。
アタリショックの教訓から、サードパーティへの対応に慎重だった任天堂は、各企業の動きを見て非常に厳格な基準を設け、ソフトの粗製乱造を防ごうとしました。具体的には、サードパーティがファミコンから発売するタイトルを1年間に3タイトルまで(のちに5本までに緩和)と制約しました。さらに、サードパーティは任天堂にロムカセットの製造費を事前に全額支払うこととしました。任天堂はこのような契約をサードパーティに課した[17]ほか、ゲーム内容の事前協議や生産の最低ロット数、支払い条件などを定め、サードパーティにゲーム発売のリスクを負うように求めたのです。以降、この契約はゲームにおけるサードパーティとの契約の基本形となります。
多くのサードパーティが参入したことと任天堂の強権的ともいえるサードパーティ管理により、ファミコンのソフトラインナップは多彩かつ良質なものとなりました。一方、任天堂自身も良質なソフト開発に注力し、1985年に満を持してオリジナル作品を『スーパーマリオブラザーズ』を世に送り出します。マリオシリーズで初めて横スクロールアクションを取り入れたこの作品は、日本どころか世界中で熱狂的な大ブームを巻き起こしました。
特に『スーパーマリオブラザーズ』が意義深いのは、アタリショック以後、完全に冷え込んでいた北米の家庭用ゲーム市場を復活させたことです。任天堂はアメリカ法人であるニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)を通じて北米進出を図り、世界市場向けに改良したファミコンをNintendo Entertainment System(NES)と命名して『スーパーマリオブラザーズ』とともに売り出し、北米の家庭用ゲーム市場に独占的シェアを築き上げる大成功を収めました。北米のほか、欧州などでも成功をおさめた『スーパーマリオブラザーズ』は世界累計で4,000万本を売り上げ、世界一多くの人に遊ばれたゲームとなりました。
以降、ファミコンでは任天堂やサードパーティから良質なソフトが多数発売され、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』といった現在に続く作品が生み出されていきました。様々な施策が功を奏し、多種多様なおもしろいタイトルに恵まれたファミコンは、日本国内だけで累計1,935万台、世界では累計6,191万台を売り上げ、任天堂は家庭用ゲームハード業界の覇者となったのです。一方、任天堂の後塵に拝することとなった業界各社は、虎視眈々と次の覇権を狙っていました。
業界各社 覇を唱えんと盛んに挑み 任天堂 スーファミにてこれを一蹴す
一般に家庭用ゲームハードの製品寿命は5年かそれ以上と言われます。世界中の市場を押さえたファミコンといえどいずれは陳腐化するのであり、そこを狙って家庭用ゲーム業界の覇権を奪取しようと各企業が策動します。
ファミコンに対する刺客として最初に登場したのが、日本電気ホームエレクトロニクス(以下NEC)がハドソンと共同開発し、1987年に発売した「PCエンジン」でした。その性能はファミコンと比較すると圧倒的に高く、様々な周辺機器やPCを接続してゲーム以外のことも行えるようになるはずでした。しかし、その周辺機器に関する戦略が迷走し、成功したといえるのは「CD-ROM2(シーディロムロム)」と命名されたCD-ROM用周辺機器の導入くらいでした。ですが、このCD-ROMの導入は大きな反響を呼び、多くのサードパーティに恵まれた結果、PCエンジンは国内で584万台を売り上げ、任天堂の牙城を崩すには至らなかったものの、国内では第2位のシェアを獲得したハードとなりました。
ファミコンに対する次なる刺客は、セガが1988年に発売した「メガドライブ」です。セガは1983年にファミコン発売と同一日に「SG-1000」というハードを発売していたのですが、性能そのものがファミコンに劣っており、売り上げは伸びませんでした。その後セガはファミコンを上回る性能を持つ「MarkV」を1985年に発売し、累計70万台を売り上げましたが、ファミコンには遠く及びませんでした。消費者の中に「ゲームといえばファミコン」という意識があったほか、サードパーティがファミコンに集中し、MarkVにはほとんどいなかったために、ゲームのジャンルが偏ったことも敗因でした。
そんなセガが巻き返しを狙って発売したメガドライブは、アーケードゲームの基板をベースとしたハイスペックマシンとして設計されました。セガは当時からアーケードゲームに強みを持っていたため、その資産を活かした家庭用ゲームハードの開発を目指したのです。しかし、メガドライブで図られた性能向上以上にアーケードゲームのスペックが上がってしまっており、メガドライブへのアーケードゲームの人気タイトルを移植は難しく、戦略がちぐはぐなゲームハードになってしまっていました。また、前世代におけるサードパーティ不足もある程度改善されましたが、売れ筋ジャンルであったRPG作品が少ないという欠点を抱えており、ゲームジャンルの偏りを払拭しきれませんでした。
また、PCエンジンでの成功を受けてCD-ROMに対応した周辺機器も発売しましたが、発売時期が1991年と遅かったこと、対応ソフトが少なかったことなどが原因でほとんど普及しませんでした。
結果、日本国内での販売台数は358万台と、売上面ではファミコンはおろかPCエンジンにさえ敗北を喫しました。しかし、海外で「Sega Genesis」として売り出されたメガドライブは『Sonic The Hedgehog 2』が大ヒットした結果、累計3,000万台を売り上げ、北米市場において任天堂と勢力を二分するほどのシェアを獲得するという、国内と海外で全く状況が異なるハードとなりました。
また、アーケードゲームを中心に活動していたSNKが1991年に「NEOGEO(ネオジオ)」を発売します。これはアーケードゲーム用の基板をそのまま家庭用ゲームハードにする、という発想のもと開発されたゲームハードで、ハード本体自体が58,000円と高価であったほか、ソフトもアーケード用に開発されていたため、3万円前後と非常に高価でした。しかし、『飢狼伝説』『龍虎の拳』『THE KING OF FIGHTERS』といった対戦型格闘ゲームがヒットし、シリーズ化した結果、高価なハードであったものの2004年まで生産が続けられ、累計100万台を売り上げました。
一方、覇者たる任天堂は1990年に「スーパーファミコン」(以下スーファミ)を発売します。スーファミは後発機ゆえに基本性能が高かっただけでなく、画面の拡大・縮小・回転といった他のハードができなかったことを実現していました[18]。コントローラーのボタン数も増加しており[19]、スーファミは今までにない新しいゲームを提供することに成功しました。
また、ファミコン以来の優良なサードパーティ・タイトルの存在もあり、国内だけで累計1,717万台、世界累計で4,910万台を売り上げ、任天堂は家庭用ゲームハード業界の覇者たる地位を堅持しました。
この世代においてCD-ROMをメディアとするゲームハードが登場しました。このCD-ROMの導入は以降のゲーム制作に多大な影響を与えました。具体的には@圧倒的大容量 A開発完了から発売までの時間短縮 B製造コストの圧縮 の3点が挙げられます。
@圧倒的大容量について、CD-ROMはそれまでのロムカセット型のメディアと比較すると読み取り速度が遅い一方で、非常に容量が圧倒的に大きく[20]、ゲーム内容の規模自体が大きくなったほか、ゲーム内音楽が内蔵音源からCDの生音に変わったり、ゲーム内のイベント時に特別なムービーを流すことが可能になったりといった形で、ゲームの音声・映像に関わる表現力が飛躍的に向上したのです。
A開発完了から発売までの時間短縮について、サードパーティは開発完了(マスターアップ)後、ゲーム制作会社にマスターを提出しなければならないのですが、ロムカセット型のメディアの場合、発売の2か月以上前にマスターを提出する必要がありました。CD-ROMはロムカセットに比べて生産が迅速に行えるため、マスター提出は発売の3週間前でよいことになったほか、発売後のすばやい追加生産が可能となりました。これは後述のソニーによる流通革命において絶大な効果を発揮します。
B製造コストの圧縮について、それまでのロムカセット型メディアはそもそもの製造費が高く、ゲームが高度化していくにつれてソフトの価格はどんどん上昇したため、スーファミのソフトでは10,000円を超えるものも少なくありませんでした。一方、CD-ROMの製造費はロムカセットに比べると安価で、そのぶんソフトの価格を下げることができ、ゲームの平均単価が6,000円程度にまで低下しました。
諸企業 こぞってマルチメディアに踊り ソニー 革命を起こして覇権を奪取す
1990年代、家庭用ゲームハード業界は激動の時代を迎えます。この頃「マルチメディア」という言葉がにわかに流行しました。マルチメディアとは音楽や映像などの複数の媒体を1つのコンテンツとして扱うもののことです。それまで文字は書籍、映像はビデオテープ、音楽はカセットテープ、というように異なる媒体は異なるコンテンツとして扱われていました。しかし、大容量記憶媒体であるCD-ROMの登場やコンピュータの性能向上が合わさり、様々な媒体をデジタル化して1つのコンテンツとして扱える時代が来た、と言われるようになったのです。これが発展していけば100兆円規模の市場が生まれるとも言われました[21]。
そんな中でコンピュータゲームは映像や音楽を複合したコンテンツをすでに持っていたことから、マルチメディアの急先鋒として非常に注目を集めたのです。このような世情の中で次世代ゲームハードを巡る競争は過熱化し、数多のハードが発売されました。
しかし、多くのハードは失敗に終わりました。マルチメディアを意識しすぎた結果、ゲームを遊ぶものとしての性能が足りていなかったり、広告戦略が迷走して知名度が全くなかったり、多機能化を進めたために価格が高くなりすぎたりして散々な結果に終わり、多くの企業が家庭用ゲームハード業界から撤退していきました。
多くの企業がマルチメディアという幻影に踊らされてゲーム市場から撤退していく中で、成功を収めたのはセガ、ソニー・コンピュータエンタテインメント[22](以下ソニー)、任天堂の3社でした。セガは「セガサターン」(以下SSを)、ソニーは「プレイステーション」(以下PS)を、任天堂は「NINTENDO64」(以下N64)を、それぞれ世に送り出しています。これらのハードは共通してマルチメディアとは距離を置き、ゲームハードとしての性能が非常に高められていました。当時ゲーム業界以外でも大いに注目を集めていた3DCG[23]を高い水準で備えていたことがその一例です。
ことゲームに関してはどれもアーケードゲームやPCを上回る超高性能マシンであり、この世代以降、家庭用ゲームハードの覇権をめぐる争いは、今までの「枯れた技術の水平思考」や「アーケードゲームのお下がり」ではなく、研究開発の最先端に立ち、最新技術を惜しみなく使った超高性能マシンを投入していく場へと変貌したのです。
この三つ巴の争いは非常に激しいものとなりました。ハード本体の価格競争や流通構造をめぐる争いが勃発、家庭用ゲームハード業界の産業構造そのものを変革していく一大画期となったのです。以下では、その様子を詳述します。
3社の中で先陣を切ったのは、前世代で海外市場のシェアを大きく伸ばすことに成功したセガでした。1994年11月22日に発売されたSSは、セガが得意としていた2Dのアーケードゲームを移植することを睨んで開発がすすめられたため、最高峰の2D描写性能を備えつつ、最新技術の3Dを高い水準で取り入れたゲームハードでした。しかし、高性能ゆえにCPUが3つ搭載されているなど構造が非常に複雑であり、このことが激しい競争の中で足かせとなってしまうことになります。
SSの発売とほぼ同時期の1994年12月3日にソニーからPSが発売されます。PSはSSと同様に非常に高性能でありつつも、2Dを3D描画の一部として描写する設計としたり、内部機能の集約化を行ったりすることで、構造がシンプルかつ低コストなものとなっていました。
他方、任天堂は次世代機の開発が遅れていましたが、1994年付近ではスーファミのゲームタイトルが多く発表され、ハードとしての円熟期を迎えていたことから、割引クーポンなどの拡販・延命策を取りつつ、新ハードの研究開発を進めて1996年6月23日にN64を発売しました。他のハードから2年遅れになったがゆえにN64はSSやPS以上の高性能ハードとなった[24]ほか、内部機能の集約化を図って製造コストを抑えました。また、SSやPSがメディアとしてCD-ROMを採用していたのに対し、任天堂は読み込み速度を重視して従来のロムカセット型メディアを採用しました。
上述の3ハードによって激しい競争が行われていくのですが、この世代のゲームハード戦争において特徴的であったのは、価格競争が非常に激しかったことです。
表1 3ハードの価格推移
年 |
月 |
PS |
SS |
N64 |
1994年 |
販売開始時 |
39,800 |
44,800 |
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1995年 |
7月 |
29,800 |
34,800 |
|
|
11月 |
↓ |
29,800 |
|
1996年 |
3月 |
24,800 |
20,000 |
|
|
6月 |
19,800 |
↓ |
25,000 |
1997年 |
3月 |
↓ |
↓ |
16,000 |
|
11月 |
18,000 |
↓ |
↓ |
1998年 |
7月 |
↓ |
↓ |
14,000 |
|
12月 |
15,000 |
15,000 |
14,000 |
資料 小山友介『日本デジタルゲーム産業史』人文書院,2016年より一部修正して引用
表1はPS・SS・N64の時期ごとの価格を示したものです。発売当初と比較すると、PSやSSは最終的に半額以下にまで価格が下がっていることがわかります。これまで量産による値下げこそあれ、ここまで激しい価格競争はありませんでした。このような価格競争が行われた要因として、技術進歩によるハードとソフトの完全な分離が挙げられます。
それまでのソフトの中には、特殊なチップが組み込むことでハードを制御するようなものが多く存在しました。これは、ハードの性能がまだまだ低かったために、ソフトに拡張的な機能を組み込まなければ十分な表現ができなかったためです。しかし、この頃になるとハードの性能が大幅に向上し、ハードの性能を限界まで使わなくても十分な表現が実現できるようになりました。このため、ハードとソフトを完全に切り離すことが可能となりました。
このことによってハードのコスト低減が行いやすくなりました。ハードとソフトが完全に切り分けられる以前は、ハードの仕様が変わってしまうと実行できないソフトが出てきてしまう可能性があったため、ハードの仕様変更は積極的には行われていませんでした。しかし、ハードとソフトが完全に切り離された結果、ハードの仕様を次々に更新することで製造コストを下げていくことが可能となったのです[25]。
一般にプラットフォームホルダー(ハードを作っているメーカーのこと)はハード普及のためにハードの価格を抑えて売り出します。ハードの販売価格が原価割れすることも珍しくありません。そのため、積極的に製造コストを低減することが可能になったことは、プラットフォームホルダーにとって非常に大きな意味を持ちます。
というのも、ゲームハードはゲームソフトを遊ぶために買わなくてはならないものであり、ハードの価格があまりに高い場合、どんなに魅力的なソフトがあったとしても、消費者はハードを買いません。しかし、一度ハードを買ってしまえば、それ以降はそのハードに対応するソフトを買うだけで良いため、新たなゲームを買うハードルは低くなります。このため消費者、特にゲームでたくさん遊ぶヘビーユーザーにとっては、ハードそのものが安く、かつ対応するソフトが多くあるものが魅力的なハードとなります。
一方、プラットフォームホルダーにとって魅力的なハードとは、消費者がたくさんのソフトを買ってくれるハードです。アタリショックの項で述べましたが、プラットフォームホルダーは「サードパーティに自社のゲームを開発することを許可する代わりに、ロイヤリティを受け取る」というビジネスモデルを築いています。製造費やサードパーティの取り分に加えて、このロイヤリティを上乗せしたものがソフトの販売価格となるため、ソフトが売れれば売れるほど、プラットフォームホルダーの懐にお金が入る[26]のです。多くのソフトを買ってもらいたいプラットフォームホルダーは、ハードの価格をできるかぎり下げることで消費者にとりあえずハードを買ってもらい、ソフトへ食指が伸びやすい状況[27]を作ろうとします。それゆえ、ハードの製造コストを下げることができるということは、プラットフォームホルダーにとって非常に嬉しいことなのです。
激しい競争を繰り広げていた3社のうち、製造コスト低減に最も注力したのがソニーでした。PSを量産することで製造コストを抑えるとともに、ハードの仕様を積極的に変更していくことでさらに製造コストを下げ、値下げを推し進めていきました。
一方、製造コストの引き下げにつまずいたのがセガで、SSは複雑な構造ゆえに製造コストの低減が困難でした。しかし、値下げをしなければ消費者が他のハードに移ってしまうため、逆ざや[28]が拡大することがわかっていても値下げせざるを得ませんでした。このことは、セガの経営体力を着実に奪っていくこととなります。
任天堂はN64の設計が非常に洗練されたもので、そもそもの製造コストがかなり抑えられていたこと、北米市場でN64の売上が非常に好調でであったことにより、価格競争で後れを取ることはありませんでした。
また、この世代の争いでは、サードパーティへの対応と流通構造の構築も各社の明暗を分ける大きな要因となりました。
ファミコンの項で先述したように、任天堂はサードパーティに対しかなり強権的な対応をしていました。これはアタリショックのような事態を絶対に起こしてはならないという強い危機感から行われていたものであり、任天堂はいわゆる”クソゲー”を市場に出る前にあらかじめ排除する、という思想を一貫していました。他方、多くの作品を世に送り出してきたサードパーティの各企業には、自分たちこそがゲーム市場を盛り上げてきた存在であるという自負があり、より自由な開発環境を求めていました。
また、当時の任天堂は流通構造にも問題を抱えていました。「初心会」の存在です。初心会とは、任天堂と取引口を持つ流通・小売業の業界団体で、任天堂の商品はほとんどすべて初心会を通じて流通が行われていました。ゲームに関していえば、まずサードパーティが新作ソフト発売の3〜6か月前に初心会に注文を行い、その注文を元に任天堂がソフトの製造を行います。完成したソフトは任天堂から初心会へと卸され、そこから全国の小売店へと流通していきました。この時、初心会は任天堂が製造したソフトを発注したぶんすべてを買い切ることが取り決められていたため、任天堂は売れ残りを気にすることなく莫大な利益を手に入れることができていました。
この初心会を通じた流通システムは、ゲームの流通としては致命的な弱点を抱えていました。まず、ゲームソフトの消費者向けプロモーションは発売から1か月前頃にすることが一般的であったため、ソフト製造にあたってサードパーティが初心会に発注するタイミングでは、その新作ソフトがどれくらい消費者の関心を引き、どれだけ売れそうかということが全くわかりませんでした。また、発注時にはゲームのサンプルさえ完成していないことが多く、初心会は自分の目でそのソフトがおもしろいものかどうかを判断することもできませんでした。そのような状況で発注を受け付けなければならないだけでなく、発注したぶんは全量買い取らなければならなかったため、流通先の小売店で人気ソフトの品切れと不人気ソフトの売れ残りが多発していました。小売店としては人気ソフトを多く仕入れ、在庫になってしまう不人気ソフトは仕入れを拒みたかったのですが、初心会が人気タイトルを不人気タイトルと一緒でなければ小売店に卸そうとしなかったため、小売店には不良在庫が積み上がり、その解決のために消費者にゲームハード本体や人気ソフトと一緒に不人気ソフトの在庫を売りつける、いわゆる抱き合わせ販売が横行するようになっていました。ソフトの種類が増えれば増えるほどこのような流れは強くなっていき、小売店には大量の在庫が積みあがるようになっていきました。
また、この流通システムはサードパーティにとっても深刻な問題となっていました。ソフトの販売において重視される指標として初動率というものがあります。これはソフトが発売されてから1週間での売上が累計売上の何%を占めるかを表す指標です。一般にゲームソフトの初動率は70%を超えるため、サードパーティにとって最初の発注量は極めて重要です。もし最初に発注したものがすぐに売り切れても、すぐに再生産できれば問題ないのですが、上記の流通システムに加え、任天堂のゲームハードが採用していたメディアが製造に時間のかかるロムカセットであったことが災いし、再生産に2か月も時間がかかっていたため、その間に人気が薄れ商機を逃してしまうことが多かったのです。
以上の問題から生まれたサードパーティや小売店の任天堂に対する不満に付け込んだのがソニーでした。ソニーは「裾野が広ければ頂上も高くなる」という哲学を掲げ、サードパーティから持ち込まれる企画を基本的に拒絶しないばかりか、製作途中のゲームをソニーが預かって調整するという異例のバックアップ体制を構築したほか、安価な開発機材や開発コードをまとめたライブラリを提供してサードパーティの参入を容易にしました。さらに、ソニーはPSのメディアが迅速な生産が可能であるCD-ROMであることと、親会社であるソニー・ミュージック・エンターテイメントの流通網及びCDプレス工場をフル活用し、ソフトの発注を発売の10日前まで受け付けるとともに、問屋を介さず小売店に直接商品を販売する体制を整え、小売店の抱える品切れや売れ残りといった問題を解消しました。
こうしたソニーの工夫に対し、任天堂の体制に不満を持っていたサードパーティは強く反応しました。特にセガと並ぶアーケードゲームの雄で、任天堂との折り合いが悪くなっていたナムコがPSのサードパーティとして参入し、アーケードゲームで人気を集めていた 『リッジレーサー』をPSに移植したことは、PSの高性能さをアピールする意味でも非常に大きな意味を持ちました。
このようにソニーが任天堂の弱点をことごとくつくことができた理由は、もともとソニーが任天堂と提携を結んで共同開発を行っていたからだと考えられます。前世代においてCD-ROMをメディアとするゲームハードが登場し、それなりに成功を収めていることを目の当たりした任天堂は、CD-ROMに対応するスーファミの周辺機器の開発に着手しており、その際の共同開発先がソニーでした。この開発は順調に進んでいたのですが、ソニーに主導権を握られることを恐れた任天堂はソニーとの提携を一方的に破棄し、海外企業のフィリップスと提携を結んでしまいます。はしごを外される形となったソニーはその後紆余曲折を経て家庭用ゲームハード産業に参入することを決定しました。このような経緯ゆえに、ソニーは任天堂の持つ弱点を観察することができたのではないかと考えられます。ちなみに、ソニーから発売されたゲームハードの名称「プレイステーション」は、本来任天堂とソニーが共同開発していたCD-ROM一体型のスーパーファミコン互換機につけられていた開発用コードネームでした。
以上の経緯を経て、この世代のゲームハード戦争で勝利を収めたのはPSでした。積極的なハード値下げによる普及策やサードパーティへのサポート体制が当たった結果、PSはサードパーティ、小売店、消費者の三者から強く支持され、売れに売れました。特に1996年に「ファイナルファンタジーシリーズ」を擁するスクウェアが、1997年に「ドラゴンクエストシリーズ」を擁するエニックスがそれぞれ新作をPSで発売した[29]ことで人気はさらに上昇、販売台数が世界で累計1億台を突破する驚異的なヒット商品となったのです。
他方、セガはハードそのものの赤字に苦しみ、任天堂は開発元である任天堂自身さえも苦戦するほどのN64でのソフト開発難易度によってサードパーティ不足に悩まされ[30]、PSに追随することができませんでした。
家庭用ゲームハード業界の構造そのものを変えていったソニーは、任天堂に代わり、新たな業界の覇者としてその名を轟かせたのです。
セガ 夢破れて撤退し マイクロソフト 堂々名乗りを挙げる
新規参入者のソニーに敗れたセガは早々に新ハードを発売します。それが1998年に発売された「ドリームキャスト」(以下DC)です。SSでの反省を生かし、内部機能の集約化を図って製造コストを下げたほか、ゲーム開発難易度の低下が図られていました。セガの社運を賭けて開発されたDCは大胆な宣伝[31]の効果もあって、非常に注目を集めていました。しかし、発売前からハードの供給体制にほころびが生じたほか、本体が高性能であったがゆえにソフトの開発に時間と費用が嵩み、発売時にハードもソフトも十分な量を確保できないという状況に陥りました。
供給体制が整ったのちも、後述する「プレイステーション2」の発売の影響もあって思うように売上は伸びず、多大な損失を出したのち、セガは2001年にDCの製造中止と家庭用ゲームハード事業からの撤退を発表、ここにゲームハード戦争における三つ巴の一角であったセガは姿を消すこととなります。
一方、新たなゲームハード界の覇者となったソニーは、2001年に「プレイステーション2」(以下PS2)を発売します。PS2は発売初期においてDCと同様にソフト開発が遅れ、ソフト不足に悩まされていましたが、ハードの売上は順調そのものでした。これは、PS2が前世代のハードであるPSの上位互換機であり、PSのソフトをPS2でそのまま遊べるという、ゲームハードとしては非常に画期的な特徴を持っていたことに加え、当時普及途上であったDVDの再生機能を備えていた[32]ことによります。
初期のソフト不足が大きな問題にならず、ソフトが揃いだした後も順調に売上を伸ばしたPS2は、PSに続き世界で累計1億台以上を売り上げ、ソニーの覇権は守られました。
PS2が発売された同年9月、任天堂が「ニンテンドーゲームキューブ」(以下GC)を発売しました。GCは任天堂のハードとしては初のディスクメディア[33]を採用していました。また、N64でのソフト開発難易度の高さによってサードパーティの参入が少なかったことへの反省から、設計を限りなくシンプルなものにして、ソフトの開発難易度を下げました。
GCは国内では404万台、世界では累計で2,174万台を売り上げましたが、それまでの任天堂が発売したハードの中では売上台数が最もが少なく、PS2の売上にも遠く及びませんでした。設計が非常にシンプルであったために製造コストは低く、ひどい赤字にはなりませんでしたが、成功したとはとても言えない状況でした。
また、ゲームハード業界から撤退したセガと入れ替わる形で、マイクロソフトが家庭用ゲームハード業界に参入してきました。もともとマイクロソフトはセガがDCを開発する際に技術協力を行っていました。そのためか、DCが失敗に終わると、マイクロソフトが家庭用ゲームハード業界に参入するという噂が流れるようになりました。果たしてマイクロソフトは「Xbox」をひっさげ、2001年に家庭用ゲームハード戦争に参戦したのです。
XboxはPCから多くの部品を流用しており、ソフトの開発もPCゲームの開発と同じようにできることが売りでした。Xboxは北米市場では非常に好調で、発売からわずか2か月で100万台を超える売上を達成し、最終的には累計2,000万台を超えるヒット商品となりましたが、日本ではさっぱり売れず、累計販売台数が54万台に留まるという惨敗を喫します。この原因としては、ゲームのラインナップがどれも海外向けのものばかりであったことや、Xboxそのものが大きすぎて日本の家庭環境に合わなかったことなどが挙げられます。
日本市場では失敗したXboxですが、北米を中心とする世界の市場ではシェアを獲得することに成功し、以後マイクロソフトは任天堂とソニーに並ぶ家庭用ゲームハード業界の雄として君臨することとなります。
ソニー 多機能を求めて痛手を負い 任天堂 原点に戻って頂点に返り咲く
ソニーがゲームハード業界に参入して以降、長きにわたって繰り広げられていたゲームハードの高性能化競争はますます激しさを増していきます。
2005年にマイクロソフトは「Xbox 360」を発売。PCゲームを移植しやすいというXboxの長所を維持しつつ、ゲームハードとしての性能向上やフルハイビジョン映像への対応を行いました。Xbox 360はXbox以上の成功を収め、世界で累計8,000万台以上を売り上げましたが、やはり日本では売れず、累計160万台に留まりました。
2006年、ソニーから「プレイステーション3」(以下PS3)が発売されました。PS3はすさまじい高性能化が図られており、CPUの性能はもちろんのこと、フルハイビジョン映像への対応、HDDの搭載、ホームサーバとしての機能搭載など、ゲームハードというよりもはや一つの家電レベルになっていました。また、PS3はBlu-Ray再生機能も有しており、Blu-RayとHD DVDによる次世代DVD規格争いにおいて一定の役割を果たしました。
ですがこのあまりの高性能がアダとなりました。PS3は高性能ゆえに価格が非常に高く、多くの消費者に敬遠されてしまったのです。発売前にソニーから発表された価格は廉価版でさえ62,790円。あまりの高さに反発の声が多く上がり、ソニーは発売前に値下げを決断せざるを得なくなり、49,980円での発売となりました。この時点でPS3はすでに原価割れを起こしており、売れば売るほど赤字になってしまう状況でした。
発売後も高価なことがネックになり、売上は伸び悩みます。翌2007年には39,800円にまで価格を下げたモデルを投入しましたが、PSやPS2のような圧倒的売上を達成することはできませんでした。これによりソニーが今まで取ってきた、大量生産することで本体のコストを下げ、売上を本体の性能向上とコスト削減に充ててさらに値段を下げていくという戦略が機能しなくなってしまいました。
PS3はゲームハードとしての機能以外も充実していることが売りの一つでしたが、それら機能に対する需要は低かったことも売上が低迷した要因となっており、ソニーは1990年代に多くの企業がマルチメディアの幻影に踊らされた状況を再現してしまいました。
結果、国内では1,000万台、世界でも累計8,000万台以上の売り上げを記録しましたが、発売からの赤字が積もりに積もり、ソニーがPSやPS2で築き上げてきた利益蓄積をすべて吐き出させてしまうハードとなったのでした。
一方、任天堂はソニーやマイクロソフトが採ったハードの性能向上をさせる戦略とは違う方向を目指しました。技術進歩により、ゲームは格段に広大で複雑な世界観を提示するようになっていきました。しかし、このことはゲーム初心者にとってゲームを遊ぶハードルを高くすることとなり、消費者のゲーム離れが起こっていると任天堂は考えました。そこで任天堂は旧来の「枯れた技術の水平思考」へ回帰し、ゲームをしたことのない人も含め、たくさんのユーザーが楽しめる家庭用ゲームハードを作り、ゲーム人口を拡大するという考えのもと、誰にでもわかりやすい直観的な操作が可能なゲームハードの開発を進めました。それが形となったものが2006年に発売された「Wii」です。
PS3やXbox 360のような超高性能マシンではありませんでしたが、「Wiiリモコン」という直観的な操作のできるコントローラー、安価な価格、インターネット接続可能、本体サイズがコンパクト、といったライトユーザーが気軽に購入しやすい要素を持つハードに仕上がっていました。
非常に斬新なハードであったWiiは世界中で注目を浴び、世界で累計1億163万台を売り上げる大ヒットとなりました。任天堂はこのWiiと後述するDSによって、家庭用ゲームハード業界の覇者に返り咲いたのです。
しかし、Wiiはライトユーザー向けだったがゆえに、ソフトをたくさん購入するヘビーユーザーの数が相対的に少なく、ソフトの販売額が伸び悩みました。ヘビーユーザーのとっては、Wiiの性能はPS3やXbox 360に比べて物足りないものであったことがその原因でした。このためWiiは、本体の売上台数の割には任天堂に恩恵の少ないハードであったといえます。
また、この世代以降の特徴として、日本の家庭用ゲーム市場の重要性が低下していくことが挙げられます。2000年前後において、日本・北米・欧州は三大ゲーム市場と呼ばれており、その規模は大差ありませんでした。しかし21世紀に入って以降、日本の市場規模は停滞する一方で、北米と欧州の市場規模は急拡大したため、日本市場の重要性が相対的に落ちていったのです。
北米や欧州では日本と売れるゲームのジャンルが異なるほか、絵柄の好みも違うため、日本で売れるゲームは海外であまり売れず、海外で売れるゲームは日本であまり売れないという現象が起きていたため、日本に拠点を置いて事業を展開している企業は、海外市場において苦戦を強いられるようになったほか、日本ゲーム市場のガラパゴス化が進んでいくこととなります。
さらに技術進歩によってゲームハードがあまりに高性能化した結果、ソフトの開発にかかる費用や時間が膨大なものとなり、ゲーム開発に失敗した時のリスクが非常に大きなものとなりました。このため、サードパーティはリスク対応のために企業間合併や企業買収を行ったほか、確実に売れるシリーズタイトルの続編を開発することに注力するようになります。この結果、消費者に飽きられて販売本数が減少するシリーズタイトルが続出します。過去の優良タイトル資産のことをIP(Intellectual Property)と言いますが、開発コストが膨大になった結果、IPに頼らざるを得なくなり、ゲームのマンネリ化が進んでいくのです。
また、サードパーティは販売数の最大化のために、同じゲームを複数のハードで展開するマルチプラットフォーム戦略[34]を採るようになりました。ソフト開発コストが高騰したために世に送り出せるソフトの絶対数が少なくなってしまったことへの対応策です。
加えて、PS3にて記述しましたが、ハードの高性能化はプラットフォームホルダーにも打撃を与えています。PS3は概算で1台当たり30,000円の赤字、Xbox 360は概算で1台あたり12,500円の赤字になっており、ソニーは2009年3月決算時に債務超過、マイクロソフトは2007年時点でグーム関連事業が54億ドルの累積損失を出しています。ハードの高性能化を追い求めていく競争は、完全に行き詰ったといってよいでしょう。
任天堂 携帯ハードで大いに成功を収め 業界各社 これに追随す
ここまで主に家庭のテレビに接続して遊ぶ据置ゲームハードについて述べてきましたが、いったん時代をさかのぼり、ここまで述べてこなかった家庭用携帯ゲームハードについて述べていきます。
携帯ゲームハードはその小型さゆえに性能向上が据置ゲームハードと比べて難しく、その発展は基本的に据置ゲームハードの後追いでした。日本における携帯ゲームハードのさきがけは先述したゲーム&ウォッチでしたが、これは1つのゲームしか遊べないものでした。現代のようなソフト別売で様々なゲームが遊べるタイプの携帯ゲームハードは、日本においてはエポックが1985年に発売した「ゲームポケコン」が初でした。ゲームポケコンは価格が12,000円であり、当時すでに人気を得ていたファミコンが14,800円であったことから全く売れず、短命に終わります。
携帯ゲームハードで最初に成功したのは、任天堂が1989年に発売した「ゲームボーイ」(以下GB)でした。価格は12,000円ながら、乾電池によって10時間以上駆動する特徴を持っており、周辺機器のケーブルを用いることで通信対戦が可能となっていました。GBの発売から2か月後に発売された『テトリス[35]』はこの対戦機能を活かしたタイトルであり、424万本という大ヒットとなりました。
GBの販売台数は発売翌年の1990年にピークを迎えたのち、緩やかに低下していましたが、1996年に「ポケットモンスター赤・緑」が記録的大ヒットをたたき出した[36]結果、GBは再び売れに売れ、最終的に国内で累計3,247万台、世界では累計1億1,869万台を売り上げ、携帯ゲームハードは任天堂を支える柱へと成長しました。
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図 2 GBの年間販売台数推移
資料 小山友介『日本デジタルゲーム産業史』人文書院,2016年より作成
一方、据置ゲームハードで任天堂に挑んでいたセガは、携帯ゲームハードでも任天堂に戦いを挑み、1990年に「ゲームギア」(以下GG)を発売します。GBがモノクロ表示であったのに対しGGはカラー表示であり、性能もセガが発売していた据置ハードであるMarkVに匹敵するほどの高性能でしたが、電池が3時間しか持たないほど電力消費が激しく、本体が重くて大きく持ち運びに不便であり、価格も19,800円とGBと比べると高かったために売上は伸び悩みました。ただし、セガ開発のメガドライブ同様、海外ではかなり健闘し1,000万台以上を売り上げています。それでもGBには遠く及ばず、敗北したハードとなってしまいました。
GBで携帯ゲームハード市場をほぼ独占した任天堂に対し、その覇権を奪わんと数多の挑戦者が現れます。
最初の刺客は1998年に「ネオジオ・ポケット」を発売したSNKでした。単四の乾電池2本で20時間駆動し、SNKが得意とした対戦型格闘ゲームを多く遊べることが売りでしたが、知名度があまり上がらず、発売の前の週にGBのカラー版である「ゲームボーイカラー」が発売されたこともあり、任天堂の前に惨敗を喫します。
1999年にはバンダイが「ワンダースワン」(以下WS)を発売しました。WSはモノクロ液晶であったものの、単三電池1本で30時間駆動したほか、ボタン配置を工夫することで縦持ちでのプレイが可能になるなどの目新しさを備えていました。そして本体価格は驚異の4,800円であり、155万台を売り上げてそれなりに成功を収めました[37]。その後2000年にカラー版である「ワンダースワンカラー」を発売しますが、2001年に後述の「ゲームボーイアドバンス」が発売されると競争に敗北、バンダイは2003年に携帯ゲームハード市場から撤退することとなります。
覇権を維持したまま、任天堂は2001年にGBの後継機である「ゲームボーイアドバンス」(以下GBA)を発売します。GBAはGBの上位互換機で、GBのソフトがそのまま使えるほか、ゲームハードそのものの性能も高く、カラー表示にも対応していました。GBAはGBからの買い替え需要もあって瞬く間に普及したほか、2003年には画面の暗さを改善し、充電式のリチウムイオン電池を採用した上位互換機である「ゲームボーイアドバンスSP」が発売され、最終的にGBAシリーズは国内だけで累計1,696万台、世界で累計8,151万台を売り上げて市場を席巻しました。
同時期、任天堂は据置ゲームハードでソニーに敗北を喫していましたが、携帯ゲームハードは任天堂の独壇場であり、任天堂の屋台骨が揺らぐことはありませんでした。
据置ゲームハードで覇権を築き上げていたソニーは2003年に携帯型ゲームハードにも参入することを発表、翌2004年12月に「プレイステーションポータブル」(以下PSP)を発売します。PSPは「21世紀のウォークマン」と位置付けられ、ゲーム以外にも映像作品や音楽が供給されることとなっていました。
これに対し、任天堂はGBAの正当進化ではない形でソニーに対抗します。それがPSPと同じく2004年12月に発売された「ニンテンドーDS」(以下DS)です。DSは上下2画面の設計で、下画面がタッチパネルとなっていたほか、音声入力機能を搭載し、既存のゲームハードにはなかった遊び方を提示しました。DSがこのような設計となったのは、Wiiと同じく「枯れた技術の水平思考」へ回帰し、初心者を含めた多くのユーザーが楽しめるゲームハードを開発してゲーム人口の拡大を図ることを目標に開発されたためです。
大きく異なる性質を持つ2つのハードによる競争は、はじめDSが圧倒的な売上を見せていました。任天堂はDSをより小型化した「ニンテンドーDS Lite」を2006年に、画面サイズを拡大し内蔵メモリを搭載した「ニンテンドーDSi」を2008年に、本体を大型化し画面サイズをさらに拡大した「ニンテンドーDSi LL」を2009年にそれぞれ発売しました。DSシリーズは『nintendogs』や『脳を鍛える大人のDSトレーニング』といったDSの新機能を存分に生かしたタイトルがヒットし、現在までに世界で累計1億5000万台以上を売り上げるとんでもないゲームハードとなったのでした。
一方、PSPは量販体制が発売までに整わず、初期不良への対応がまずかったこともあり、DSとは売上面で大きな差をつけられました。しかし、2005年12月にカプコンから発売された『モンスターハンターポータブル』がじわじわと売れ、PSPの売り上げに貢献し、続編である『モンスターハンターポータブル2nd』が国内だけで累計400万本を売り上げる大ヒットとなると、PSPの売上も大きく伸びました。さらに、多くのサードパーティがマニア向けのゲームをPSPで開発したため、ヘビーユーザーはPSPに集まるようになりました。ヘビーユーザーを集めることに成功したPSPは安定した売上を記録し、DSの新奇性が薄れ売上が落ちてくると、年間売上数でDSを逆転しました。PSPは国内で累計1,926万台、世界で累計8,000万台を売り上げ、DSには及ばないものの大成功を収めたゲームハードでした。
DSとPSPはどちらも成功を収めたゲームハードとなったのですが、この2ハードが成功した要因には、以下の2点が挙げられます。
まず1点目として、ファミコン以降、多くの家庭にゲーム文化が普及してから20年以上の月日が経ち、比較的高い年齢の消費者が増加したことが挙げられます。この消費者の多くは有職者であり、家庭でゆっくりゲームを遊ぶ時間が少なくなっていた人々でした。それゆえ、外に持ち出して遊ぶことのできる携帯ゲームハードへの需要が高まっていたのです。
2点目に、据置ゲームハードが高性能になりすぎたことが挙げられます。前の項でも述べましたが、ゲームハードが高性能になりすぎた結果、ソフト開発に莫大なコストがかかるようになっていました。有力なIPを抱える大企業ならいざ知らず、中小のサードパーティにとって開発コストの高騰は死活問題でした。このため、中小のサードパーティの多くは開発コストが比較的低い携帯ゲームハードへと軸足を移すようになったのです。結果、開発費の高騰でマンネリ化の進む据置ゲームハードよりも、多くのサードパーティが存在する携帯ゲームハードの方が消費者にとってより魅力的なものとなり、成功へとつながりました。
以上の理由から携帯ゲームハードは多くの消費者の支持を集め、その市場規模は一気に拡大。それまで家庭用ゲームハード業界において補助的役割にあった携帯ゲームハードが、一挙に市場の中心へと躍り出てきたのです。
据置ハード 需要を見据えて変化を遂げ 携帯ハード スマートフォンと角逐す
2012年、任天堂は「Wii U」を発売します。Wii Uの性能自体はWiiの正当進化といったところで、ハイビジョン映像に対応したほか、本体のコンパクトさや省電力性というWiiの特徴を引き継いでいます。Wii U最大の特徴は、液晶ディスプレイがコントローラーに搭載されていることで、テレビの画面と手元のコントローラーの画面を交互に見ながら遊ぶことも、手元のコントローラーの画面のみで遊ぶこともできるようになっていました。これはWiiの販売台数が伸びたにもかかわらず、ソフトの売り上げが伸び悩んだことの原因の一つとして、多くのユーザーがWiiをリビングにおいた結果、テレビとの両立が難しかったため、というものがありました。もともとゲームの優先度が低いライトユーザーを多く取り込んだゆえに起きた問題であり、その解決のためにテレビにゲームハードをつながずとも遊べるような仕組みを作ったのです。
しかしながら、Wii Uの売上は今までのものと比較してもかなり苦戦したと言わざるを得ません。Wii Uの売上は2017年6月時点で、国内外合わせて累計1,356万台。これは任天堂の歴代ゲームハードの中では最も低い数字となっています。『スプラトゥーン』や『スーパーマリオメーカー』といったヒット作品はあるものの、厳しい状況であることには変わりありません。
他方、前世代において多機能化や高性能化を追い求めた結果多大な赤字を出してしまったソニーとマイクロソフトは、似たような戦略を採ることになります。すなわち、最新技術を投じるのではなく、ゲームで遊ぶのに十分な性能を確保しつつ安価に売り出すという、コストパフォーマンスを追い求める戦略です。この戦略に基づいた新世代ゲームハードとして、ソニーから「プレイステーション4」(以下PS4)が、マイクロソフトから「Xbox One」が発売されました。両社ともCPUなどの構造をPCと同じものにし、製造・開発コストを大幅に低減するとともに、サードパーティによるソフト開発難易度の低下も図りました。
特にPS4に関しては、今までのものと設計を大胆に変更した結果、過去のハードでは何かしらの形で存在した前世代ハードとの互換性が完全になくなり、PSシリーズの過去作品をそのまま遊ぶことはできなくなりました。
2017年8月時点でPS4は世界で累計6,290万台、Xbox Oneは世界で累計3,090万台を売り上げており、売上自体は順調といえます。戦略の転換が当たった格好です。
以上3つのハードについて共通していることは、北米や欧州で真っ先に発売され、日本での発売はそこからかなり遅れたことです。これまでは任天堂とソニーという日本の企業が有力なゲームハードを作っていたこともあり、日本での発売が最初になるか、北米や欧州とほぼ同時期で日本でも発売されていました。しかし、この世代では日本での発売が明確に遅れており、Wii Uは北米での発売から約1か月遅れ、PS4は北米から約3か月遅れ、Xbox Oneに至っては北米から約10か月も遅れて発売されました。このことは前の項で述べた、ゲーム市場における日本の重要性が低下したことを如実に表しています。
また、インターネットを介したオンラインゲームやダウンロード販売が発展した結果、特に北米市場においてPCがゲームを遊ぶためのハードとして大きく伸びてきたため、世界的に見ると据置ゲームハードは非常に厳しい戦いを強いられています。
他方、携帯ゲームハードでは、2011年2月に任天堂から「ニンテンドー3DS」(以下3DS)が、同年12月にソニーから「プレイステーションVita」(以下PSVita)が発売されました。
3DSはDSの上下2画面という特徴を受け継ぎつつ、上画面を裸眼立体視に対応させ、また新たな遊びを提供しています。一方PSVitaは表面のディスプレイだけでなく、背面にもタッチパネルを採用したほか、インターネット接続の方法としてWi-fiと3G回線の2種類に対応していました。
前世代で一大潮流となった携帯ゲームハードは大きな期待を乗せて世に送り出されました。しかし、その販売は伸び悩みます。2017年8月時点での世界での累計販売台数は、3DSが6,600万台、PSVitaが1,570万台で、それぞれ前世代のDSとPSPに遠く及びません。この原因としては、新たな機能を備えて高性能化を図った結果、ハード本体の価格が高かくなったことが挙げられます。発売時価格を比較すると、3DSはDSより1万円、PSVitaはPSPより5,000円高かったのです。
今までの経験から、任天堂とソニーはハードの価格を上げれば売れなくなるということは重々承知だったはずです。それでも新機能追加や高性能化を図ったのは、スマートフォンの台頭を目の当たりにしていたためです。
技術進歩によってスマートフォンが高性能化した結果、ゲームに特化しているわけではないスマートフォンでも十分にゲームが楽しめるようになりました。なおかつ、インターネットを用いる場合、スマートフォンはゲームハードに比べて圧倒的に高性能であるばかりか、操作が直感的で扱いやすく、そもそも電話機なので連絡ツールとしても優秀です。それゆえ、ライトユーザーからしてみればゲームで遊ぶのにわざわざ専用のゲームハードなど必要なく、ヘビーユーザーからしてみても、それなりに満足できるゲームがスマートフォンで遊べてしまうのです。
それゆえ、任天堂とソニーはせめてゲーム部分ではスマートフォンを圧倒できる何かが必要であると考え、価格を犠牲にして新機能追加や高性能化を図ったのです。その結果は。売上を見るにあまりうまくいったとは言えないでしょう。
おわりに
冒頭でも述べましたが、2017年3月、任天堂からSwitchが発売され、大きな話題となりました。据置機でありながら、携帯機としても使えるという斬新なハードです。Switchは「任天堂の歴代の据置機や携帯機の特徴を受け継いでおり、まさに任天堂の集大成とも呼べるゲームハード」とされ、その販売台数は今年6月には国内で累計100万台を突破し、8月時点では世界で累計610万台売り上げています。クリスマス商戦を控えている現在でこの数字ならば、販売台数はかなりのものになるのではないかと期待できます。
一方で、PCゲームやスマートフォンゲームの台頭など、家庭用ゲームハードを取り巻く環境は極めて厳しいと言わざるを得ません。Switchが据置型と携帯型の折衷となったのは、今までのような形態ではPCやスマートフォンに対抗できないからではないか、と考えられます。ゲーム好きの筆者としては、この推論は当たっていてほしくありません。この産業にはまだまだ続いていってほしいですから。幸い、Switchの売り上げ自体は好調なようです。今後どうなっていくか、注目してみたいと思います。
注釈
- ^ ここでは記憶媒体の意味です。
- ^ 業務用ゲームハードで遊べるゲームのこと。ゲームセンターに置いてあるコインを投入して遊ぶアレです。
- ^ ブッシュネルの趣味であった囲碁の用語がその由来となっています。
- ^ アタリは「コピーが追い付かないペースで斬新なゲームを開発し、市場に投入する」という戦略を採り、競争相手を振り落とそうとしていました。
- ^ のちに「Atari 2600」へ改称されます。
- ^ 現タイム・ワーナー。かの有名なワーナー・ブラザーズの親会社です。アタリはゲーム市場を開拓しましたが、そこにエレクトロニクス系や玩具系の大企業を含む多くの企業が便乗参戦してきたため、独力での生き残りに不安を抱えてワーナーに身売りしていました。
- ^ 現在のゲーム産業でいえば『ドラゴンクエスト\』を作ったスクウェア・エニックスは、PS4(ソニー)と3DS(任天堂)のサードパーティにあたります。
- ^ 特定の権利を利用する利用者が、権利を持つ者に支払う対価のこと。ライセンス料とも言います。
- ^ クエーカーオーツ(朝食シリアル)やピュリナ(ペットフード)など、門外漢すぎる企業が参入していました。
- ^ いろんな定義がありますが、ここではとりあえずいろいろひどくてとても遊べたものではないゲームのことを指します。
- ^ 掘り返してみたら本当に出てきたというのだから驚きです。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証として国立アメリカ歴史博物館に収蔵されています。
- ^ 例えば、タダでゲームを遊ぶために硬貨に糸を結びつけて投入後に回収したり、ライターの着火部分を用いた電気ショックで誤動作を起こさせたり、ゲーム代を手に入れるために盗みを働いたり、といったことが行われてしまいました。
- ^ その代表例が『ドンキーコング』で、120万台を売り上げるヒット商品となりました。
- ^ 具体的には、ナムコの『ギャラクシアン』以降、非常にクオリティの高いアーケードゲームが市場に送り出されていくようになりました。
- ^ ビデオカセッティ・ロックはCPUを搭載していないため、9,800円と安価でした。
- ^ 任天堂の社員であった横井軍平氏の哲学で、新たな商品を考える際に、最新鋭の技術を追い求めるのではではなく、他産業ですでに使い古され価格の安くなった技術の今までになかった使い道を考え、全く新しい商品を生み出していくこと。
- ^ はじめはこのような契約を結んでいなかったサードパーティも多かった(その代表例がナムコ)のですが、契約更新の際、任天堂は公平性を理由にすべてのサードパーティに同じ契約を結ばせていきました。
- ^ このことを象徴する作品が『F-ZERO』で、こうしたスーファミの特徴を最大限に活かし、戦略性と自由度の高いレースゲームを実現しました。
- ^ それまで十字キーとAボタン・Bボタンに加え、X・Y・L・Rの4つのボタンが追加され、ゲームの自由度・快適さが増しました。
- ^ 当時カセット型メディアは大容量のものでも32MB程度だったのに対し、CD-ROMは600MB程度の容量がありました。
- ^ 2014年のデータによると、日本国内で最も大きい市場規模を持つ自動車産業で62兆円くらいです。相当荒唐無稽なことを言っていると思いますが、本当にそういう話がまことしやかに語られていたのだから豪気なものです。
- ^ 略称SCE。現ソニー・インタラクティブエンタテインメント(略称SIE)。ソニーのゲーム部門における子会社です。
- ^ 例えば1995年に世界初のフル3DCGの長編映画である『トイ・ストーリー』が公開されています。
- ^ N64は64bitのCPUを採用しており(SSとPSは32bitのCPU)、それが商品名の由来にもなっています。
- ^ ただし、この世代の初期に開発されたソフトの中には、ハードに働きかけ制御するものも存在していました。この世代以降、そういったソフトを開発することが禁じられるようになっていきました。
- ^ ゲーム内容の確認やコピー防止のプロテクトを行うため、サードパーティはソフトの製造をプラットフォームホルダーに委託することが義務付けられています。この製造委託の際に、サードパーティは製造本数分の委託製造料とロイヤリティをプラットフォームホルダーに支払います。ソフトが売れ、増産がかかればそれだけ製造本数が増えるため、ロイヤリティも増加していきます。
- ^ 多くの消費者がハードを有している、という状況はサードパーティにとっても望ましい状況で、そのハードに対応したソフトを作れば、そのソフトのみを購入するだけで新たなゲームを遊べるようになるため、多くの消費者に買ってもらえる可能性が高くなります。他方、このような形で魅力的なソフトが増加すれば、対応するハードを購入する消費者がさらに増加すると考えられ、ハード所有者の増加→魅力的ソフトの増加→ハード所有者の増加→……という循環が家庭用ゲームハード業界には存在します。この循環に消費者やサードパーティを引き込むという意味でも、ハードの値下げは重要な意味を持ちます。
- ^ 1台売るごとに発生する赤字のこと。
- ^ それぞれ『ファイナルファンタジーZ』、『ドラゴンクエストZ』が発売されました。この日本を代表するRPGゲームである両シリーズは、それまでともに任天堂のゲームハードから発売されていたました。このことが任天堂に与えた衝撃は相当なものであったと推察されます。
- ^ ソフト開発難易度は易しい方から順にPS、SS、N64となっていました。また、任天堂はサードパーティを厳選することを明言しており、そのことがサードパーティ不足に拍車を掛けました。
- ^ 当時セガの専務であった湯川英一氏に向かって子役が「セガなんてだっせーよな」「プレステのほうが面白いよな」と言い放つ自虐ネタCMなど。
- ^ 当時、DVDプレイヤーは高価で5万円したのに対し、PS2はゲームも遊べるのに39,800円と破格といってよい安さでした。
- ^ 松下電器が開発した独自の8インチディスクを用いています。
- ^ 例えば「実況パワフルプロ野球シリーズ」は一時期、PS2とGCの両方から同じタイトルが発売されていました。
- ^ もともとソビエト連邦の科学者アレクセイ・バジトノフが開発したゲームで、日本ではセガが許諾を得て作成したアーケードゲームにがヒットしていました。
- ^ 「赤・緑」とマイナーチェンジ版の「青」を合わせると日本だけで1000万本以上を売り上げました。図2を見るとわかるのですが、GBの販売に相当影響を与えています。
- ^ この破格の安さから感づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、WSの開発には任天堂を退社した横井軍平氏が関わっていました。
参考文献
- 上村雅之・細井浩一・中村彰憲『ファミコンとその時代』NTT出版,2013年
- 河島伸子『コンテンツ産業論』ミネルヴァ書房,2009年
- 小山友介『日本デジタルゲーム産業史』人文書院,2016年
- 徳岡正肇『ゲームの今』SBクリエイティブ,2015年
- 中川大地『現代ゲーム全史』早川書房,2016年
- 日経BP社ゲーム産業取材班『日本ゲーム産業史』日経BP社,2016年
- 半澤誠司『コンテンツ産業とイノベーション』勁草書房,2016年
- 平林久和・赤尾晃一『ゲームの大學』メディアファクトリー,1996年
- ブレイク・J・ハリス著 仲達志訳『セガvs.任天堂』早川書房,2017年
- 牧田武文『ゲームの父・横井軍平伝』角川書店,2010年
- 山名一郎『ゲーム業界三国志』ダイヤモンド社,1997年
- Sony Interactive Entertainmentホームページ http://www.sie.com/index.html(2017年10月18日閲覧)
- VGChartz http://www.vgchartz.com/(2017年10月18日閲覧)
- Xbox ホームページ https://www.xbox.com(2017年10月18日閲覧)
- 任天堂ホームページ https://www.nintendo.co.jp/(2017年10月18日閲覧)