2017年11月
戦前日本の大都市制度  香宮希


三市特例とその廃止
 徳川時代は終わりを迎えて明治時代に入り、中央政府の統制のもとで近代化を図るため、従来の封建的な地方制度に代わる、中央集権的な地方制度の整備が急務となった。このため、明治2(1869)年には版籍奉還が、明治4(1871)年には廃藩置県が行われ、府県の整理を経て、官選の知事が全国をあまねく統治する府県制度が確立した。また、藩などの領地の下に存在した町村などの共同体も中央政府の統制下に置くため、明治5(1872)年には府県の下に大区を、大区の下に小区を置く大区小区制が敷かれた。しかし、この制度は中央政府の命令を伝達・施行することのみを目的としたもので、地方の実情に合っておらず不評であったため、見直しを迫られることとなった。このため、明治11(1878)に大区小区制は廃止され、郡区町村編制法(以下、編制法)が施行された。これは府県の下に官選の郡長を戴く郡を、郡の下に公選の戸長を戴く町村を置くことを基本とし、都市部は郡から分けて、官選の区長を戴く区を置くというものであった。特に人口の多い東京市、京都市、大阪市の三市では、複数の区が置かれた。その後、区町村会の設置や戸長の官選化などの修正も行われたが、この制度も10年ほどで改められることになった。
 明治憲法の制定に先立つ明治21(1888)年、編制法に代わって、明治二十一年法律第一号、市制及町村制が制定され、明治22(1889)年4月1日から順次施行された。市制及町村制の基本的な構造は編制法と同様で、郡の下に町村を置き、都市部は郡から分けて市を置いた。町村には公選の町村会と町村長が置かれ、市には公選の市会と市参事会[1]が置かれるなど、自治権が認められた。しかし、市制の施行に先立つ明治22(1889)年3月23日、市制には一部の都市で自治権を制限する特例が設けられることになった。それが近代日本で最初の大都市制度である、明治二十二年法律第十二号、市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件(以下、三市特例)である。これは読んで字の如く、市制の中で東京市、京都市、大阪市の三市に特例を設けるものである。その特例の内容は、三市には市長と助役、収入役や書記などの附属員を置かず、市長の職務は府知事が、助役の職務は府の書記官が、附属員の職務は府の官吏が行い、三市の市参事会は府知事、書記官、参事会員で構成するというものであった。また、従来の区は存続することになったが、区長は市参事会が選任することになった。つまり、官選の府知事が三市の行政を直轄するというもので、大都市における中央政府の統制を強めるものであった。このような制度が採用された背景には、大都市は多くの問題を抱えるため、強く中央政府の統制下に置こうと明治政府が考えていたことに加えて、制限選挙で選挙権も持たない無産市民の比率が三市では特に高く、特定の資本家による統治が行われる危険があったということがある。
 三市の側は三市特例に反発し、その撤廃を求めた。三市が三市特例の撤廃を求める理由としては、三市は人口や富などの点で他の市に優っているにもかかわらず、一般の市と同等の自治権が得られないのは不合理であることや、府知事が市長の職務を行うことで、監督者たる府知事が被監督者たる市長であるという不合理が生じることなどが挙げられた。明治23(1890)年に第1回帝国議会が開催されると、大都市の統治制度は大きな争点になり、三市特例を廃止する法律案が提出されたが、貴族院は大都市を中央政府の統制下に置くことが望ましいと考えていたため、審議未了で成立しなかった。その後も帝国議会が開催されるたびに、三市特例を廃止する法律案が提出されては貴族院で審議未了になるか否決されるという状況が続いた。しかし、衆議院への対応に苦慮していた第二次松方正義内閣は進歩党からの協力を得るために、三市特例の廃止を確約した。そして、明治31(1898)年6月、第12回帝国議会の審議・議決を経て、明治三十一年法律第十九号、市制中東京市京都市大阪市ニ於ケル特例廃止法律が公布され、同年9月限りで三市特例は撤廃されることになった。これにより、同年10月1日から、東京市、京都市、大阪市にも一般の市制が施行されることになった。この際、市制の改正が行われ、三市の区は存続することになった。これにより、三市では一般の市制が施行されつつも、区の設置という特例が設けられることになった。また、明治33(1900)年にも市制の改正が行われ、人口20万人以上の市も三市とほぼ同様の区を置くことができるようになり、特例の拡大が図られた[2]

大都市自治の拡大
 三市特例が廃止され、20世紀に入ると、交通問題や衛生問題などの都市問題はすでに深刻なものになっていた。そして、その解決のために、市では市長の権限強化を求めて市制改正の動きが強まった。その結果、明治44(1911)年には、明治四十四年法律第六十八号、第六十九号で市制と町村制が全面改正され、合議制の市参事会に代わって独任制の市長が市の執行機関となって市を統括・代表するものとされるなど、都市官僚制の強化が図られた。また、大正8(1919)年には、都市計画のための法律として、大正八年法律第三十六号、都市計画法が制定された。この法律では、市域を越えた都市計画区域が設定できるようになり、これが適用された三市と名古屋市、横浜市、神戸市では都市計画区域の町村を編入して市域を拡大する動きが起こり、周辺町村の大規模な編入も行われた。
 この間にも、大都市の統治をめぐって様々な議論が行われた。中央政府は大都市を中央政府の統制下に置くことを欲したが、大都市は大都市の自治権を拡大することを欲した。このため、三市特例を廃止しようとする衆議院の動きに並行して、審議未了に終わったものの、三市のほか勅令で定める都市に官選の府長を戴く府を置く府制案が貴族院に提出された。また、特に帝都東京の統治機構については多くの議論が行われ、東京市を東京府から独立させて東京都とし、官選の東京都長官に統括させる東京都制案や、同じく東京市を東京府から独立させるが、その市長は市会が選ぶ東京市制案が存在した。東京都制案と東京市制案は、明治44(1911)年の市制改正で鎮静化するまで、度々帝国議会に提出されたが、いずれも成立することはなかった。
 明治44(1911)年の市制改正以降も都市化も進んでいき、村落からの人口流入によって都市での人口増加は進んでいった。そして、三市に名古屋市、横浜市、神戸市を加えた6つの市が本邦屈指の大都市となり、六大都市として、大都市の自治権拡大運動を担うことになった。六大都市の自治権拡大運動は東京市から始まった。大正7(1918)年2月、東京市は内務大臣に対して、「東京市特別市制ニ関スル意見」を提出した。これは、かつての東京市制案と同様に、東京市を東京府から独立させるものであった。そして、特別市制を求める運動は大正期から昭和期にかけて六大都市全体の要求になっていった。特別市制をめぐる論点は大きく三つあった。第一は二重監督、二重行政の廃止である。市制では、市は府県知事と内務大臣による二重の監督を受けていたが、府県知事の監督を外して内務大臣の直接監督下に置くことを求めた。また、大都市は行財政能力が大きいため、府県と同様な事業を二重に行うことがあったが、無駄が多いため、これを廃止することを求めた。第二は大都市を府県から独立させ、なおかつ大都市の市長を公選にすることである。しかし、府県から独立させた大都市の市長を公選にすることには問題があった。そもそも、府県制度は中央政府の官吏たる府県知事を通して、全国に中央政府の行政を徹底させるために作られていた。しかし、大都市を府県から独立させた上、その首長を公選にすると、大都市地域には官吏である首長がいなくなるため、大都市での国政事務をどのような形で行うかを解決する必要があった。第三は大都市の特別な財政制度の確立である。大都市では、教育や衛生などの経費が膨張していき、経費を十分に支えることができなくなった。このため、新たな財源が求められるようになっており、大都市地域から徴収された府県税を大都市の税にするなど、府県の財源を大都市に移すことを求めた。しかし、これには、大都市を独立させた府県の残存部の財政をいかにして支えるかという問題があった。
 内務省は特別市制について、大都市の二重監督の解消だけならば簡単であるが、大都市の府県からの独立は国政事務と残存部財政の問題にかかわるため、困難であるという考え方であった。このため、まずは大都市の二重監督を解消するための制度が作られることになった。大正11(1922)年、第45回帝国議会は大正十一年法律第一号を議決した。これは、府県知事の許認可を要する市の事務について、六大都市は勅令の定めによって許認可を要しなくなるというもので、六大都市行政監督に関する法律と呼ばれた。そして、この法律に基づいて大正十一年勅令第四百二十四号、通称六大都市行政監督特例が制定され、市の吏員の事務分掌や財産の管理・処分をはじめとして、多くの事務について府県知事の許認可が不要になった。しかし、大都市の側は行政監督の特例で十分と妥協することはなく、あくまで特別市制を実現するための運動を続けていった。さらに、この間六大都市はその市長からなる六大都市事務協議会をはじめ、各種の連絡協議会を作り、定期的な情報交換を行い、相互の連携を強めようとしていった。また、六大都市行政監督特例の適用範囲も順次拡大されていった。

東京都制の成立
 共同して特別市制を要求する六大都市に対して、中央政府の動きは大都市の希望に沿うものではなかった。特に問題になったのは帝都東京の制度であった。大正12(1923)年7月、中央政府は臨時大都市制度調査会を設置して、大都市制度に取り組む姿勢を見せたが、ここで調査の対象になったのは東京市のみであり、中央政府の方針は東京に関する制度を考えてから、他の5市に関する制度を考えるというものであった。翌年の大正13(1924)年4月に調査会が行った答申では、東京市を中心とする都市計画の区域を東京都とし、都長は官選、区長は公選とするというものであった。また、東京府の残存部には一県を置くものとされた。この答申に対して、公選を主張する六大都市は結束を強めようとするが、一方で、東京市は特殊な事情を抱えていた。それは区の問題である。六大都市行政監督に関する法律案が提案された際、三市の区を完全な自治体するための区制案も提案された。しかし、東京市の区には区会が存在し、財産を持ち営造物を経営していたが、大阪市と京都市の区には区会がなく、事実上単なる行政区として運用されていたという事情から、区制案は時期尚早として立ち消えになった。東京市のみで区が一定の存在感を持っていたという事実は、東京都に特別市制以外の選択肢をもたらした。つまり、東京市では首長を官選にしてもその下の区に公選の区長を置いて自治体にするという提案がありえた。それでも、昭和4(1929)年と昭和6(1931)年に、六大都市で特別市制を敷くための六大都市ニ関スル法律案を第56回、第59回帝国議会に提案するなど、六大都市は特別市制の実現のため、一応協力して動いていた。しかし、転機は翌年の昭和7(1932)年に訪れた。
 昭和7(1932)年、東京市で周辺5郡82町村の編入[3]が行われ、従来の15区に20区が加わった35区からなる、いわゆる大東京市が成立した。東京市の執行部や旧市域の議員は依然官選に反対であったが、新たに市域に入った地域の議員は区の自治を重視したため、区の自治権拡大と引き換えに官選の都長に賛成した。20区を中心に発足した都制促進連合委員会は、速やかに都制を実現するためには、都長官選の政府案に異議を唱えないという動きを見せ始めた。また、この頃には、軍部の台頭が始まって、中央集権的な準戦時体制が確立しつつあり、分権・自治を求める特別市制運動に対する風当たりは強くなっていった。昭和8(1933)年3月には、第64回帝国議会に官選都長を骨格とした東京都制案が政府から[4]提出された。東京府を廃して官選の都長を戴く東京都を置き、区の自治権を拡大する、というこの都制案は衆議院で審議未了となり、不成立に終わったが、同年11月に開かれた六大都市関係者協議会では、まず東京都制の実現を図り、他の五市については特別市制の実現を要望するものとし、六大都市での特別市制実現を図る運動は、東京での東京都制と他の五市での特別市制を求める運動に転換していった。さらに、六大都市は三度にわたって「東京都制並五大都市特別市制実施要望理由書」を中央政府に提出したが、ここでは、大都市制度の実施を要望する理由は、従前の自由主義に基づくものではなくなっており、戦争遂行のための行政の簡素化を理由として、大都市制度の実現を求めた。昭和13(1938)年、中央政府は東京都制を確定するために、東京都制案要綱を地方制度調査会に提出した。これは東京府の区域を東京都とし、官選の都長官を置くだけでなく、都会の議決事項を重要案件のみに限定するという、自治権を大幅に制限するものだった。この案に対して、東京市会は「輿論ヲ無視シ五十年培イタル自治ノ根柢ヲ破壊スルノミナラズ東京市民ノ自治ヲ剥奪シ延イテハ議会制度ヲ否認セントスルガ如キ」という決議をするなど、強く反発した。
 昭和16(1941)年12月8日、本邦はアメリカ合衆国との間で開戦した。本邦は当初は有利に戦いを進めていたが、次第にアメリカ合衆国に押されるようになっていき、本邦本土への攻撃も始まろうとしていた。このため、帝都東京の防衛体制を確立することが急務とされた。昭和18(1943)年1月、政府は府県制、市制、町村制の改正案とともに、以前から中央政府が提案していたものを基礎とする東京都制案を第81回帝国議会[5]に提出した。湯沢三千男内務大臣は東京都制の提案理由として、帝都たる東京に真に国家的性格に適応した体制を確立すること、従来の府市併存の弊を是正解消し、帝都行政を一元的に強力に遂行すること、帝都行政の運営について根本的刷新と高度の能率化を図ること、の3点を述べた。戦争の遂行のために帝都行政を一元化し能率化するという国家的要請が、東京都制の制定を後押しすることになった。そして、東京都制案は同年2月27日に衆議院で、同年3月10日に貴族院で、それぞれ可決された。同年6月1日に昭和十八年法律第六十九号、東京都制は公布され、同年7月1日に施行された。東京都制の施行によって東京府、東京市は廃止され、官選の都長官を戴く東京都が置かれた。区は以前の通り残り、区長は公選となったが、都の監督を受けるとされた。こうして、東京は中央政府の強い統制下に置かれることになった。また、六大都市行政監督特例は五大都市行政監督特例と名を改められた。
 東京都制の審議過程では、五大都市の特別市制についても議論が行われたが、湯沢内務大臣は、大都市を直接内務大臣の監督下に置くとすれば、その市長は官吏にならざるを得ないということと、今のところは直ちに五大都市で知事の監督を廃して国の直轄にすることは考えていないということを述べた。また、東京都制制定と同年の昭和18(1943)年に行われた市制の改正では、市長の選任方法が市会の選任を経て勅裁で決定するという形に改められる[6]など、市町村全体にも中央政府の統制が強まってきており、五大都市の特別市制運動も立ち消えになってしまった。

その後
 戦後改革では、五大都市悲願の特別市制度が地方自治法に盛り込まれることになった。しかし、戦後改革で知事が公選となった府県が、大都市が府県の区域外とされることに強硬に反対したため、特別市制度の適用は困難なものとなった。このため、特別市制度の廃止と引き換えに、新たな大都市特例が設けられることになった。それが、現在まで続く指定都市制度である。指定都市制度は大都市を都道府県の域内にとどめつつも、都道府県の事務の一部を処理することができるようにするものである。指定都市制度は五大都市での適用のみを想定して作られたものであったが、やがて、北九州5市の合併や平成の大合併など、他の政策を推進するための手段としても用いられるようになり、今や20市を数えるまでになった。また、東京都では、戦後改革で区は特別区とされて自治権を強化されたが、戦後復興の必要から、すぐに自治権を大幅に制限されることになった。このため、特別区では自治権拡大を求める運動が起こり、少しずつ自治権は拡大されていった。しかし、現在も特別区の権限・財源は市と比べると制限されている部分もあり、自治権拡大を求める動きは続いている。
 また、直近の動きとしては、指定都市市長会はかつての特別市制度とほぼ同様の特別自治市制度の創設を提言しており、大阪府知事となったのち大阪市長となった橋下徹は大阪府・大阪市で東京都と同様の都区制度を適用する大阪都構想を主張した。大阪都構想に呼応する形で大都市地域における特別区の設置に関する法律(以下、大都市地域特別区設置法)が制定されて、指定都市を中心とする大都市地域に都区制度を適用することが可能となったが、大都市地域特別区設置法の適用例はまだなく、特別自治市制度創設の議論も進んでいない。日本の大都市制度は未だ改革の途上なのである。


    注釈
  1. ^ 市長、助役、参事会員からなった。また、市長については、市会が3名の候補者を推薦して内務大臣が上奏し、天皇が1名の市長を裁可する市会推薦市長の制度がとられた。
  2. ^ 明治41(1908)年に名古屋市で、昭和2(1927)年に横浜市で、昭和6(1931)年に神戸市で、この規定に基づく区が置かれた。
  3. ^ 昭和11(1936)年には、さらに北多摩郡の2村を編入して現在の東京都区部の領域になった。また、一連の編入の結果、東京府の人口に東京市の人口が占める割合は9割を超えた。
  4. ^ 大都市制度について、政府案が帝国議会に提出されるのは、明治29(1896)年の第9回帝国議会に東京都制案が提出され、猛反対にあって撤回されて以来であった。
  5. ^ 昭和17(1942)年に翼賛選挙が行われ、衆議院は大政翼賛会推薦の議員が大多数を占めていた。
  6. ^ 大正15(1926)年の市制改正で市長の選任は市会の選挙に改められていた。

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