2017年11月
戦国期北東北における秋田  堂島米市


 はじめに
 本稿では鎌倉時代末から江戸開府までの期間の北東北地域(現在の青森県・秋田県・岩手県の地域)について、安東あんどう(秋田)氏を主軸にして述べていきます。なぜなら筆者が秋田県出身だからです! 安東(秋田)氏・南部氏・津軽氏の三氏が主役なので、タイトルを「北東北三国志」にしてもいいかもしれません。さて、主題に入る前に安東(秋田)氏と南部氏の歴史を軽く説明していきます。なお、津軽氏の独立は十六世紀後半なのでここでは扱いません。

安東(秋田)氏・南部氏の歴史
 まず安東氏についてですが、先程から安東氏のところに(秋田)と打ち込むの面倒臭いなあと思っているのですが、安東氏が秋田氏に改称するのは天正十七年(1589年)以後のことですので、今後しばらくは安東氏とだけ書くことにします。
 十一世紀中頃の前九年の役の際に源頼義・義家父子が攻め込んだ時、反乱を起こした安倍貞任の子、高星は北に逃れます。高星が津軽郡の藤崎、そして安東浦に移動し、自らを「安東太郎」と称したところから安東氏が始まったとされます。安東氏は津軽地方の十三湊とさみなとを本拠地とする地頭のような存在だったのですが、鎌倉中期には北条氏に接近して御内人みうちびととなり、執権の権威を背景に出羽国への勢力拡大を図るようになります。鎌倉末期になると安東氏は十三湊の下国しものくにと大光寺の上国かみのくにに分裂し、上国安東氏は蝦夷地に移住しました。下国安東氏は日本海海路を利用して成長し、室町時代初期には秋田地方に強い支配権を獲得するようになります。本稿の主役の安東氏は後者の方ですね。
 次に南部氏について。源光行は甲斐国巨摩こま郡南部郷に居住していたことから南部氏を称していました。光行は文治五年(1189年)、鎌倉勢力と平泉勢力との戦いである奥州合戦で功を上げ、陸奥国糠部ぬかのぶ郡に土着したとされます。その後、建武新政期に南部師行もろゆきが台頭、陸奧守の北畠顕家が多賀城に下向するのに随従して、糠部・岩手・閉伊へいの三郡の検断・奉行に任じられ、糠部郡八戸に根城ねじょうを築いて拠点にしました。ちなみに南部氏が南朝方についたのは、北朝の足利氏が糠部郡惣地頭職を得ていたためです。

安東氏・小野寺氏vs南部氏
 応永初年(1394年)頃にみなと城に入り、秋田郡を支配した安東氏を湊安東氏といいますが、十五世紀中頃に秋田郡の米代川を挟んで向かい側の檜山郡を領有した安東氏を檜山安東氏といいます。両家は安東愛季ちかすえにより統一されるまで対立抗争を続けていきました。 
 一方、南部氏は十三代・南部守行と十四代・南部義政が室町幕府や関東管領と結びつき、その権威を利用していました。そんな中で奥羽山脈の向こう側、出羽国への侵攻が起こったのです。守行は戸沢氏が支配していた仙北地方を一時的に、ついで土豪が乱立していた由利地方を支配下に入れ、庄内・越後にまで勢力を拡大しました。そこで出羽国で比較的大きな勢力を持っていた秋田の安東氏、雄勝の小野寺氏と対立することと相成ったのです。
 応永十八年(1411年)、安東氏と南部氏が仙北・苅場かりばの野にて対決します。その後も両氏の衝突は続き、康正二年(1456年)にも安東氏四代・盛季もりすえと南部十七代・光政が戦っています。一方で、小野寺氏と南部氏の戦いは主に寛正年間(1461〜1466年)に行なわれました。以上の戦いは、安東・南部戦は出羽国北部で、小野寺・南部戦は陸奥国・出羽国南部で行なわれたようです。
 南部氏が秋田地方に勢力を持てたのは各勢力が弱体であったからでしょうか? これの答えはいいえです。室町後期の秋田地方は小野寺・安東・戸沢各氏、由利地方の諸党、更に南出羽の最上・武藤(大宝寺)などの各勢力が対立し合い、小さな抗争を繰り返していために、小勢力は動揺していました。その隙を南部氏に突かれたことが要因のようです。

戦国期北東北
 室町時代に南部氏の侵攻を受けた津軽地方は、文亀・永正頃(1501〜1520年)には南部氏の手に落ち、安東氏は形成初期から領有していた津軽の地を失ってしまいます。続いて南部氏遠縁の久慈氏が津軽に勢力を拡大し、戦国期に金沢氏に改称(その後、大浦氏に改称)、大浦に種里城を築いて南部氏と対立します。大浦氏五代・為信は元亀二年(1571年)に南部隆信が城主を務める石川城を落とし、ついで和徳わっとく城の小山内おさない父子を倒します。さらに為信は天正三年(1575年)の夏、大光寺城を攻め、同年七月には浪岡城を占領して浪岡顕村を打ち倒すことで津軽地方に実権を確立します。ようやく最後の主役、津軽氏が登場しました。
 他方、戦国末の秋田地方は安東氏が比内の浅利氏を滅ぼし、角館に拠点を移した戸沢氏が最上氏の侵攻に苦しめられていた小野寺氏領域を侵食することで、安東・戸沢・小野寺の三すくみの状態となります。偶然にも原稿テーマ「三つ巴」をもう一つ回収してしまいました。
 秋田地方南部を支配した小野寺氏は天正年間(1573〜1593年)に全盛期を迎えます。小野寺義道は最上地方にまで勢力を広げ、その結果、天正十四年(1586年)に最上義光と有屋峠で戦いますが、その後、小野寺氏が安東氏・戸沢氏と、最上氏が武藤氏と厳しく対立したことで、小野寺・最上両家は一応の友好関係を結びます。翌天正十五年十月には最上氏が武藤義興を倒し、由利地方に進出しました。
 同年の四月頃に秋田実季さねすえは淀川をめぐって戸沢盛安と対決し、翌年の天正十六年には後退した戸沢氏に替わるように進出してきた小野寺氏と争います。しかし、秋田氏は南部氏や鹿角かづの・比内への警戒を、小野寺氏は由利方面や最上氏への警戒を怠るわけにいかず、その後の競り合いは小規模なものにとどまりました。

秋田愛季
 室町時代から湊・檜山の両家に分かれていた安東氏も戦国期末になると和議が成立し、檜山家から湊家に安東愛季が婿入りしましたが、湊家の後継者が死没したために彼が両家を統一することになりました。
 愛季は南部支配下にあった鹿角郡への攻略を開始し、また比内を支配し半独立的な状態にあった浅利氏を攻撃するようになります。永禄五年(1562年)八月、愛季は扇田おうぎだ長岡城の浅利則頼を敗死させます。ついで永禄八年頃、鹿角郡内の数氏の協力を得て、阿仁あに地方の嘉成右馬守かなりうまのかみに鹿角を攻撃させましたが、安東氏の領土拡大方針に反発した鹿角勢力の対抗を受けます。続いて比内浅利氏に長牛友義のいる谷内城を攻撃させましたが、結局落とすことはできなかったのでした。永禄九年秋〜十月暮、愛季は重臣の大高主馬おおたかしゅめと嘉成・浅利諸氏に三度目の鹿角侵略を実行させます。この際、南部晴政が長牛友義ながうしともよしに増兵を送りますが、友義は三戸方面に敗走、とうとう安東氏は念願の鹿角郡を吸収したのです(統制は上手くいきませんでしたが)。しかし、三年後の永禄十二年に南部晴政が大軍で鹿角に侵攻したため、再び鹿角は南部領になってしまいました。
 一方で浅利氏が津軽氏と結びついたことに愛季が不信を抱いたことで、天正十一年(1583年)に浅利勝頼は檜山城で謀殺されてしまい、比内地方は安東氏重臣が支配するようになりました。勝頼の子・浅利ョ平は津軽為信のもとに逃れ、津軽氏の援助を受けて比内への侵攻を、天正十二年五月、同十四年四月、同十五年五月の三回にわたって行ないましたが、故郷の比内奪還は叶いませんでした。
 他方、由利地方をめぐる庄内の武藤氏と安東氏との抗争は、天正十年の武藤氏の由利郡侵攻から始まります。安東氏は最上氏に武藤氏の南北挟み撃ちを持ちかけ、武藤氏は津軽氏に安東氏への出兵を要請しました。天正十一年、武藤義氏配下の前森氏が最上氏と通じて謀反を起こし、大浦城を包囲しました。義氏は自害しましたが、この時愛季も前森氏に援助を行っていました。

湊騒動
 天正十五年(1587年)の角館城主・戸沢盛安との戦いの最中に安東愛季が陣中で病死すると、檜山城にいた十二才の安東実季が後継となりました。この際、愛季という支柱を失い、独立を志向するようになった安東領内支城主達が反乱を起こします。天正十六〜十七年、湊騒動と呼ばれる内紛です。
 天正十七年二月、愛季の甥・豊島道季みちすえが謀反を起こし、これに湊高季たかすえが同調、戸沢氏の援助を得て檜山城に攻め入ります。湊安東氏の謀反・戸沢氏の領土的野心・安東氏自身の戦国大名としての弱さが、この騒動を引き起こしてしまったのでした。この内紛は由利の赤尾津氏・羽川氏等の協力を得ることでようやく終結にいたります。この後、羽川新助が豊島城城主となりました。
 安東氏で同族争いが始まった天正十六年、南部信直が内紛に乗じて比内に出兵、比内郡代・五城目秀兼が南部側の大光寺勢に接近したため、比内は南部の手に落ちます。比内争奪戦は天正十六年から十八年まで続き、後半になると大光寺氏と対立していた大浦氏が安東氏に協力するようになります。天正十八年の南部氏内の一族争いの激化に乗じて秋田(安東)氏は比内に侵攻、比内を奪い返しました。
 内紛が鎮圧された後、実季は居城を檜山城から湊城に移し、湊家が代々秋田城介じょうのすけを名乗っていたことから自らも秋田城介を名乗り、姓を秋田と称するようになります。このときから秋田氏が誕生するわけです。

秀吉
 天正十八年(1590年)七月〜八月に行なわれた奥羽仕置によって、豊臣秀吉に接近し、小田原の戦いにも参加した角館の戸沢盛安、大坂まで行き秀吉に臣従を誓った仁賀保氏、そして、秋田・小野寺・最上・南部の各氏はそれぞれ本領を安堵されました。この際、最上義光は小野寺領への侵攻を図り、天正十八年の仙北地方の太閤検地への反対一揆が発生したのに乗じて雄勝侵略を始めましたが、小野寺氏の周到な計画により失敗しました。天正十九年に小野寺氏が秀吉直臣の大谷義継から雄勝地方をそのまま領有するよう指示を受けたときも最上氏が自らの雄勝支配の権利を主張していましたが、実際この地域における最上氏の影響力は強かったようです。
 その後の朝鮮出兵の際、陣中で南部信直は秋田実季と会見してその人物に感じ入り、両家の先祖代々の領地争奪戦の無意味さを認め合い、秋田氏・南部氏間の緊張は緩和されました。
 
関ヶ原合戦以後
 天下分け目の関ヶ原の戦い以後、南部氏・津軽氏はそれぞれ盛岡藩・弘前藩として江戸時代を通して存続し続けますが、秋田地方の勢力は様変わりしてしまいます。
 まず初めに小野寺氏が関ヶ原の戦いにて西軍側に味方したことで慶長六年(1601年)に改易され、石見国津和野に預けられます。翌慶長七年、佐竹氏が関ヶ原合戦でのどっちつかずな態度を咎められて秋田地方に転封されて久保田藩となることに対し、秋田・戸沢ら諸大名は常陸の地に国替させられることとなります。その後、秋田氏は常陸国宍戸から陸奥国三春に再び転封され、秋田実季は江戸幕府から戦国大名らしい気骨を疎まれながらも配流先の伊勢国朝熊あさまで八四歳の生涯を閉じます。寛永七年(1630年)のことでした。



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