2017年11月
九州三国志 skrhtp
はじめに
戦国時代、九州では大友・島津・龍造寺の三家が大きな力を持ち、互いに覇を争った。六ヵ国守護と九州探題を兼ねた大友義鎮、「五州の太守」と呼ばれた龍造寺隆信、そして九州全土を征するかのような勢いを見せた島津義久。三者はそれぞれに九州の覇者を目指し、戦いを繰り返した。本稿では戦国時代に至るまでの大友・島津・龍造寺の三家の歴史と、義鎮・隆信・義久の下での三勢力の衝突、そして三家のその後について記していく。なお、人物の名前ついては一部を除き統一した名で記す。
大友家
大友氏を最初に名乗ったのは、源頼朝の側近であった古庄能直である。能直は中原親能の養子として豊後・筑後・肥後の守護職を受け継いだ。能直とその子親秀は主に京都で活動したが、三代目の頼泰のときに蒙古襲来が起こり、その後の臨戦態勢のために大友氏は本拠地を豊後国に移して土着化を始めた。
蒙古襲来の後には、国家の危機という理由で大友氏は守護管国を北条氏に奪われていき、大友氏に残されたのは豊後一国であった。その後足利尊氏が六波羅探題を滅ぼすと、六代目当主大友貞宗は少弐・島津両氏と共に鎮西探題を攻撃しこれを滅ぼした。これにより大友氏は「建武の新政」において守護管国一国を返還された。南北朝時代には、大友氏は基本的には幕府方として戦った。
十二代目当主持直の代になると、大友氏は豊前・筑前へと進出してきた大内氏と対立し、永享三(1431)年から同八年まで戦いを繰り返した。そして応仁元(1467)年に応仁・文明の乱が始まると、大友氏は東軍の細川勝元の策動を受け、文明元(1469)年豊前に侵攻、これを制圧した。その後、大友氏は豊後・筑後を押さえ、豊前・筑前を押さえる大内氏と対立を続けた。
十八代目当主親治とその子義長の代には体制の再編や家法[1]の制定が行われ、戦国大名としての大友氏が成立した。この時期には大内氏との大きな衝突が起こったが、その後両氏の関心が移って対立は沈静化した。次の大友義鑑は勢力拡大を図り、弟を菊池義宗として肥後の菊池家に送り込んだが、やがて義宗は義鑑と対立するようになった。また大内氏ははじめ義鑑と和解していたが、大内義隆が大内家当主となると再び九州に進出を始めた。義鑑はこれらと戦いながら領国形成を進め、豊後・筑後・肥後の守護支配を確立した。しかし天文十九(1550)年、後継者問題から二階崩れの変が発生、義鑑は深手を負って間もなく死去した。
義鑑の跡を継いだのが大友義鎮である。義鎮は変の事後処理を行い、義鑑の体制を継承して地位を固めた。一方この家督問題を受けて、大内氏と結ぶ菊池義武(義宗)は肥後で兵を挙げ、肥後・筑後で混乱が生じた。しかし天文二十年、大内義隆が家臣陶晴賢に暗殺されるという事件が起こった。その後義鎮の弟が大内義長として大内家督を継いだが、以降大内氏の九州への影響力は急速に失われ、一方大友氏は元大内方の国人[2]らを取り込むことになった。これにより菊池義武の活動も弱まり、天文二十三年には義鎮は義武を滅ぼして肥後を掌握、また同年の内に義鎮は多額の献金の末に幕府から肥前国守護に任命された。こうして義鎮は四ヵ国を支配下におさめることになった。しかし、その支配は弱体化した支配機構を通したものであり実質的支配力は弱く、弘治二(1556)年には秋月氏や小原氏、佐伯氏らの反乱により混乱が起こった。このような国人の自立化は以降も大友支配の弱点となった。
島津家
鎌倉時代の初め、幕府有力者比企氏の縁者で摂関家の家人だった惟宗忠久は島津荘の下司・惣地頭に補任された。この地名から、忠久は島津氏を名乗る。その後忠久は薩摩・大隅・日向国守護にも任命された。しかし建仁三(1203)年に比企能員が北条氏に滅ぼされると忠久は改易され、その後和田合戦での活躍により薩摩国守護職・島津荘薩摩方惣地頭職のみ返還された。
島津氏も大友氏同様、二代目の島津忠時までは鎌倉に在住したが、三代目島津久時のときに蒙古襲来が起こり、以降薩摩に移って支配を本格化させていった。その一方で蒙古襲来後には薩摩国内にも北条氏領地が設定されていった。
五代目島津貞久は鎮西探題攻撃に参加し、建武政権からは大隅・日向国守護に任命された。その後貞久は幕府方につき、永和元(1375)年には九州探題[3]今川貞世(了俊)の下に参陣した。このとき貞久は貞世の要請で少弐冬資に来援を求めたが、貞世が冬資を暗殺したため九州探題とは対立するようになった。これにより島津氏は一時大隅・日向守護を解任されたが、その後の帰参で返還された。その後薩摩国守護島津伊久と大隅国守護島津元久が対立、結局元久が薩摩国守護職も兼ねるようになった。
元久が死去すると家督継承問題が生じ、結局異母弟の久豊が継いだが、強引な継承により抗争が続くことになった。次の忠国の時代には国人たちとの抗争が続き、忠国は一族の内紛もあり苦戦しつつもこれらを抑え支配を安定化させた。
十代目島津立久の時には応仁・文明の乱が起こり立久は東軍に味方したが、豊州家の島津季久は西軍についた。立久が死去すると後継者問題が発生、結局島津忠昌が継いだが一族の内訌が絶えない時期となった。またこの時期には日向の伊東氏が飫肥を攻撃、以降飫肥をめぐる両氏の戦いが続いていく。忠昌の下では国人たちの反乱も相次ぎ、これらに苦しめられた忠昌は永正五(1508)年に自害した。
永正十六年には、島津勝久が十四代目当主となった。勝久は支配を強化しようとしたがかえって家臣団の分裂を招き、相州家・伊作家の当主島津忠良に支援を求めた。勝久は忠良の子貴久を養子にして守護職を譲ったが、薩州家当主島津実久がこれに反対、勝久は間もなく守護に復帰した。しかし勝久の行動は反発を招き、これを見た実久は鹿児島を攻撃して勝久は帖佐に逃亡した。その後は実久と忠良父子の対立となり、初めは実久優勢であったが忠良側が勝久を味方につけて形勢は逆転した。その後勝久は大友氏の下へ逃れ、天文十四(1545)年には貴久が守護として認められてその5年後に御内城に移った。ここに戦国大名島津氏が成立した。
貴久は天文二十三年からは大隅合戦を開始し、蒲生氏を追放、大隅国内陸部を征服し更に大隅半島も支配下に入れた。この間に島津氏は初めて鉄砲を実戦使用した。永禄三(1560)年には、貴久は伊東氏に対処するため次男の義弘を飫肥に置いた。
龍造寺家
龍造寺家の歴史は、鎌倉時代初期に肥前の在庁官人[4]高木家の一族南季家が小津東郷龍造寺村の地頭になって、後に龍造寺季家を名乗ったことに始まる。すなわち、龍造寺氏は三氏の中で唯一西遷御家人[5]ではない。龍造寺氏は蒙古襲来の際にも活躍し恩賞を得たようである。
南北朝期・室町時代には、龍造寺氏は少弐氏あるいは肥前千葉氏の配下として戦った。そして享禄三(1530)年、大内氏が少弐氏を攻め東肥前の武士の大半が寝返る中で、水ケ江龍造寺家の当主龍造寺家兼(剛忠)が少弐方として活躍し田手縄手の戦いで大内軍を撃退、これを機に龍造寺氏は大きく台頭した。
一方少弐氏は弱体化を続けており、天文九(1540)年には少弐冬尚が家兼に支援を求めその庇護下に入った。更に家兼は分裂していた千葉氏を和解させ、婚姻によって少弐・龍造寺・千葉三氏の連携を固めた。しかし天文十三年、冬尚が馬場頼周と謀って龍造寺氏を罠にかけた。その後起こった一連の戦いで龍造寺氏は一族や主だった家臣を失い、家兼は筑後へ逃亡した。しかし家兼は横岳氏や筑後の蒲池氏らの協力を得てまもなく肥前に帰還し、以降少弐氏とは対立することになった。
天文十五年に家兼は死去し、一族の者の多くが戦死していたため曾孫の円月が還俗し龍造寺胤信として跡を継いだ。天文十七年には龍造寺本家である村中家の当主胤栄が死去し、胤栄には継嗣がいなかったため、胤信がその跡を継ぐことになった。これにより胤信は村中・水ケ江両家を統合して龍造寺家惣領となった。
天文十九年には隆信は大内義隆に通じ、偏諱を受けて龍造寺隆信と名乗った。しかしその翌年には大内義隆が滅ぼされたため、龍造寺家では土橋栄益が大友氏に通じ、神代・江上らの諸氏と共に反乱を起こして村中城を攻めた。隆信は開城して筑後の柳川城主蒲池鑑盛の下へ逃れた。2年後、隆信は鍋島清房に迎えられて肥前に帰還、敵軍を若村で破って村中城を奪回し、栄益を誅殺した。弘治三(1557)年には神代氏を攻撃し金敷峠で交戦した。このとき隆信は大敗を喫したが、翌年には谷田城を攻めて神代勝利を一時肥前から追い出した。
大友氏と龍造寺氏
弘治三(1557)年に大内義長が毛利氏に滅ぼされると、大友義鎮は豊前・筑前・肥前に出兵、実質的支配に乗り出した。義鎮は少弐冬尚と通じ、龍造寺氏と対立関係に入る。一方龍造寺隆信は肥前国内の平定に乗り出し、永禄元(1558)年冬尚を勢福寺城で攻め、翌年自殺に追い込んだ。これに対し義鎮は少弐政興を擁立し、また肥前西部の有馬晴純と結んだ。
永禄二年に義鎮は豊前・筑前守護及び九州探題に任じられ、計六ヵ国を守護管国とする北九州の覇者となった。その一方でこの頃には毛利氏も勢力を伸ばしてきており、関門海峡を越えて筑前に侵攻、永禄二年には豊前にまで進撃した。同年に義鎮は府内から臼杵の丹生島城に移り、また出家して宗麟と号した。毛利氏とはその後一度和議を結んだがやがて毛利氏は再び九州に侵攻し混乱は続いた。またこの年には、肥後の菊池家中で赤星氏と隈部氏が主導権を争って戦い、敗れた赤星氏が大友氏を頼り、一方隈部氏が龍造寺氏を頼ったことで肥後でも大友対龍造寺の構図が生じた。
隆信は少弐氏を滅ぼし更に少弐一族の横岳鎮貞を下し、永禄四年には川上合戦で神代勝利を破って翌年和睦した。永禄六年には隆信は西進を行い、多久氏・後藤氏を下し平井経治と和議して大友氏と結ぶ有馬氏に対抗した。永禄八年には勝利が死去したのを見て神代氏を攻め、神代長良を放逐した。
筑前では、永禄十年から毛利氏や龍造寺氏の支援を受けた諸氏の大友氏に対する反乱が続いた。宗麟は戸次鑑連らを派遣してこれを抑え、また肥前を攻撃した。しかし永禄十二年に毛利氏が筑前に侵攻したため肥前から撤退した。毛利勢に対して大友勢は苦戦したが、間もなく毛利本国の状況が変わり毛利軍は撤退した。
元亀元(1570)年、龍造寺・大友の対立は頂点に達する。この頃毛利氏は尼子勝久の攻撃により九州からの退却を余儀なくされ、宗麟はその隙に高良山に陣を置き大友貞親を大将とした軍を肥前に送った。大友軍は有馬・神代・筑紫・松浦党らの諸氏と共に村中城を完全に包囲した。しかし八月、龍造寺氏配下の鍋島直茂が今山の陣を急襲し大勝したことで、大友勢は撤退を強いられた。
これ以降、隆信は領国形成を急速に進めていく。隆信は有馬氏らへの対抗策として肥前西部方面に一族を配し、また江上氏・神代氏にはそれぞれ龍造寺家・鍋島家から養子を入れた。天正元(1573)年には上松浦党を、その翌年には平石氏・後藤氏を下し、下松浦党・五島の宇久氏も隆信に服従して肥前北部をおおよそ制圧した。次いで隆信は有馬勢への攻撃を行い、大村氏・西郷氏を下して同六年には有馬鎮純と和議した。こうして隆信は肥前全域を影響下に置いた。
一方義鎮はこの頃織田信長と結んでおり、中国攻めへの協力のため隆信に対し一方的に赦免を宣言、肥前国三根郡の領有を保証する代わり横岳氏に攻撃を行わないことを要求した。しかし隆信はこの要求を無視した。
島津氏の勢力拡大と三勢力の衝突
貴久の跡を継いで十六代当主となった島津義久は、永禄十二(1569)年から翌年にかけて菱刈氏・入来院氏・東郷氏を降伏させて薩摩国全体を征服した。その一方で日向では伊東氏が攻撃を続けており、永禄十一年には義弘が薩摩に帰還している隙に飫肥を奪われた。
元亀二(1571)年に貴久が死去すると、伊東義祐は飯野城挟撃を相良義陽に持ち掛けた。翌年、伊東軍は2つに分かれて加久藤・飯野両城に向かったが、加久藤に向かった軍は退けられた。一方島津方では義弘が両城の救援に向かい、休息していた伊東軍を急襲し更に本隊を攻撃して木崎原の戦いが起こった。初め数に勝る伊東軍に島津軍は圧倒されたが、その後島津勢は体制を立て直して伊東軍を包囲、更に新納忠元ら率いる援軍が到着し、一方相良勢は島津氏の計略にかかって引き返したために形勢は逆転、大将伊東祐安が戦死し伊東軍は壊滅した。これを機に伊東氏は衰退に向かう。
天正二(1574)年には大隅国の有力国人肝付氏・伊地知氏も降伏した。そして天正五年に島津氏は日向に侵攻、伊東氏を攻撃し伊東義祐は大友宗麟の下へ逃れた。島津氏は日向を領国化し、ここに島津氏の三ヵ国征服が完了した。
大友氏は義祐に救援を求められ、また天正六年三月には日向国臼杵郡県の土持親成が島津氏に味方したため、宗麟の子大友義統は日向国に攻め入り、臼杵郡境の耳川に至った。この年の七月、宗麟はかねてより関心を示していたキリスト教に入信した。このことは大友氏を悩ませ続けてきた内部分裂や離反に拍車をかけることになった。
九月、宗麟は日向でのキリスト教王国の建設を宣言して延岡に向かった。大友軍は更に南下し、島津家久を追い立てて十月末には高城を包囲した。しかし大友軍は攻城にてこずり、その隙に島津義久が佐土原に到着、十一月に大友軍と衝突して耳川の戦いが発生した。この戦いで大友義統率いる大友軍は大敗を喫し、それにより国人たちの中に秋月氏・高橋氏をはじめとして離反する者が続出、また内部の対立も悪化して大友氏の勢力は大きく後退することになった。
龍造寺隆信は事前に島津氏と通じており、大友軍が敗れるとすぐさま大友氏勢力下にあった筑後へと進み、蒲池・田尻・草野氏を下し更には肥後・筑前・豊前にも進んだ。これにより隆信の勢力は全盛期を迎え、隆信は「五州の太守」と呼ばれるようになった。天正八年に隆信は須古城に隠居して家督を息子政家に譲ったが、実権は依然として隆信が握り続けた。
一方大友氏を破った島津氏は天正九年には肥後への進出を行い、相良氏を下して肥後南部を領国化した。これに対し隆信は肥後に侵攻、赤星氏などの諸氏を服属させた。しかしこの頃隆信は柳川城主蒲池鎮漣とその従者多数を謀殺したため、筑後の諸氏の反感を買い田尻氏をはじめ離反者を出すことになった。
天正十年には、有馬晴信が島津氏に救援を求めたことで龍造寺・島津の対立が顕在化した。両者は肥後国玉名郡で対峙した後に秋月種実の仲介により高瀬川を勢力境界とする和議を結んだ。この次の年、隆信は肥後の赤星統家と高良山大祝職鏡山安実に謀叛の疑いをかけ、人質としていた一族の妻子を処刑した。このことは離反者を更に増やすことになり、赤星統家は島津氏に服属した。
天正十二年、隆信は有馬氏を攻めるため自ら出陣、島原半島の神代に上陸した。有馬晴信は島津氏に救援を求め、これを受けて島津家久は島原に入った。有馬・島津連合軍と龍造寺軍は沖田縄手で衝突した。兵数では龍造寺軍が大きく勝り島津軍に甚大な被害を与えたが、龍造寺軍は島津軍の策にかかり、三方を包囲され集中攻撃を受けて壊滅した。本陣にいた隆信自身も川上忠賢によって首を取られた。58歳であった。
龍造寺隆信の死により、龍造寺氏勢力は後退し大友氏は筑前・筑後において勢力を回復した。隆信の跡を継いだ龍造寺政家は島津氏に服属し、また家臣団では鍋島直茂が地位を拡大させた。島津氏は同年の内に隈部氏・小代氏を、翌年には阿蘇氏を従えて肥後全体を領国化した。
九州平定
その後島津家久が日向国臼杵郡に入り、また入田宗和ら豊後の国人たちが島津氏に与しすると、宗麟は自ら大坂に出向いて豊臣秀吉に救援を求めた。天正十三年十月、秀吉は島津・大友両氏への停戦を命じた。島津氏はこれに応じず、翌年には秋月種実の協力で筑後に侵攻、大友家臣高橋紹運の守る岩屋城を攻めた。戦いは非常に激しいものとなり、結局岩屋城は陥落し紹運も戦死したが、島津勢の被害も甚大であった。立花城の立花宗茂の反撃もあり、島津勢はやむなく筑後へ撤退した。
秀吉は七月に九州へと出兵した。十月、秀吉の派遣した仙石秀久・長曾我部元親らは豊前に入り、大友義統も豊前に移った。しかし島津軍はその隙をついて豊後への侵攻を始め、丹生島城の宗麟を牽制しつつ鶴ヶ城を攻め落とした。秀久や義統はこれを知ると戸次川に向かい島津軍を迎え撃ったが、伏兵にあって大敗した。島津軍は進軍を続け、豊後府内に至ると義統を放逐し丹生島城を包囲した。宗麟は国崩しと呼ばれる大砲で対抗して城の陥落は免れたが、府内を含め豊後の大半は島津軍に制圧され宗麟は孤立、大友氏領国もほぼ崩壊した。
翌年秀吉は自ら九州に出陣、三月末には小倉に到着した。秀吉の軍が迫ると島津氏に従っていた国人たちは次々に離反、やむなく島津軍は撤退を始めた。豊臣勢は二手に分かれてこれを追った。島津軍は根白坂で秀吉方の宮部継潤・黒田孝高の陣を攻めたが、島津忠隣らを失う甚大な被害を出して敗走した。秀吉は五月には薩摩国に入った。そして五月八日、島津義久は剃髪して薩摩国川内泰平寺で秀吉に降伏した。島津氏は薩摩・大隅二国と日向一郡を安堵された。こうして、九州統一は大友・島津・龍造寺の三家のいずれでもなく、豊臣秀吉によって達成されたのである。
三家のその後
島津義久が降伏した後、秀吉は宗麟に日向一国を与えると決定した。しかし宗麟は五月二十三日に津久見にて五十七歳で死去した。大友義統には豊後が安堵された。龍造寺政家は秀吉の九州平定に従ったことで、肥前七郡の支配を確保した。しかし政家は病身でまた息子の龍造寺高房(当時は長法師丸)は幼少であったため、政家は鍋島直茂に高房を養子とし、国政・軍事指揮権を預けた。天正十八年、政家は隠居して高房が家督を継いだ。
朝鮮出兵においては、龍造寺軍は鍋島直茂の配下として出陣し、このことは龍造寺家臣を直茂とより強く結びつけることになった。一方大友家では、吉統(義統)が「敵前逃亡」を理由として文禄二(1593)年に領地を没収され、豊後は秀吉の直轄地とされた。ここに約400年にわたった大友氏の豊後支配は終わりを告げた。
島津氏では朝鮮出兵関連で問題が続いた。出兵直前には島津氏の中国人家臣許三官が情報を明に漏らしていたことが発覚、更に文禄元年には島津家臣梅北国兼が出兵に反対して乱を起こした。これはすぐに鎮圧されたが、義久の弟歳久の関与が疑われ歳久は自刃させられた。出兵に際しても、島津氏は軍勢を率いての渡海が命じられたが船も兵も集まらない有様だった。このため秀吉は島津氏の支配体制再編を細川幽斎・石田三成らに行わせた。
慶長四(1599)年には、島津忠恒が家臣伊集院幸侃を手討ちにしたことで庄内の乱が起こった。戦いは翌年まで続いたが、結局は徳川家康の調停で終結し首謀者の伊集院忠真も許された。
関ヶ原合戦においては、大友吉統は石田三成らに勧められて七月に豊後に侵攻した。しかし黒田如水(孝高)の迎撃に遭い、九月には降伏した。吉統は出羽の秋田実季の下で幽閉され慶長十年に没した。鍋島・龍造寺勢は西軍に与したが、その後立花宗茂討伐によって所領を安堵された。島津氏では、伏見にいた義弘が西軍に味方することになり義久に増援を求めたが、義久は庄内の乱での疲弊もあり戦いへの関与を拒否した。義弘はわずかな兵と出陣し、関ケ原で西軍が総崩れになると東軍の直中に突撃、そのまま包囲を破って甚大な被害を出しながらも追撃を振り切って帰国した。家康は義弘の行動を詰問し、義久は謝罪したがその一方で許しが得られないときは徹底抗戦する姿勢を示した。その後家康は義久に上洛を再三命じたが義久は警戒してこれを拒み続け、結局は家康が所領安堵の起請文を記すと忠恒が上洛した。ここに徳川・島津の主従関係が成立した。
忠恒はその後島津家当主となり、初代薩摩藩主となった。慶長十二年には忠恒は家康から偏諱を受けて島津家久を名乗った。その後家久は徳川家との関係を強化していき、以降藩体制の終わりまで島津家は鎌倉期以来の領地である薩摩を支配し続けていった。
一方龍造寺家では、慶長十二年に龍造寺高房が江戸屋敷で自殺を図った。この時、高房は一命をとりとめたが、半年後に自殺した。その後間もなく龍造寺政家も死去した。これを受けて幕府は龍造寺家督を直茂に相続させ、国政は龍造寺氏から鍋島氏に完全に移った。その後高房の子伯庵が龍造寺家再興を幕府に訴えたが退けられた。これにより龍造寺宗家は完全にその地位を失った。
注釈
- ^ 戦国大名が制定した施策・法令。
- ^ 荘官・地頭が土着化し領主層に成長した武士のこと。
- ^ 足利尊氏が九州の守護統制と南朝勢力討伐のためにおいたもの。
- ^ 地方国衙で下級役人を監督する役人の総称。
- ^ 鎌倉時代、九州に領地を与えられ九州に移った御家人のこと。
参考文献
- 川添昭二 他『県史40 福岡県の歴史』山川出版社,2010年
- 坂上康俊 他『県史45 宮崎県の歴史』山川出版社,2015年
- 杉谷昭 他『県史41 佐賀県の歴史』山川出版社,2002年
- 瀬野清一郎 他『県史42 長崎県の歴史』山川出版社,2012年
- 全国歴史教育研究協議会編『日本史用語集 A・B共用』山川出版社,2016年
- 豊田寛三 他『県史44 大分県の歴史』山川出版社,2011年
- 原口泉 他『県史46 鹿児島県の歴史』山川出版社,2011年
- 松本寿三郎 他『県史43 熊本県の歴史』山川出版社,2012年
- 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館,2007年
- 吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社,2014年