2018年5月11日
肥前国の形成と発展  skrhtp


 はじめに
 肥前国ひのみちのくちのくにと呼ばれる九州島北西部とその周辺の島々からなる地域は大陸の影響を強く受ける位置にあり、古代のヤマト王権から見ればその領域の西の端に当たる地域であった。このことからこの地域は歴史上においても大陸との関係で重要な役割を担うことになった。本稿では、主に小国が形成される弥生時代から、肥前国内の諸勢力が鎌倉政権の統治機構に組み込まれる鎌倉初期までの肥前地域の歴史を記していく。

 小国の形成
 後に肥前国となる地域は、三方を海に囲まれた土地と多数の島々からなる。西部は岩礁性の海岸が続く半島部と島々からなり、海を介して大陸とつながる交通路であった。一方東部の南側には平野が広がり、その南には干満の差の大きい有明海が続く。また北東部からは、山地が平野部と北部を区切るように延びている。肥前国南部はリアス式海岸を成す半島と火山によって形成された半島からなる。
 肥前地域は、対馬・壱岐とともに大陸からの影響をいち早く受ける地域となった。縄文期には既に朝鮮と遺物の共伴に共通性が見られ、対馬を介したある種の漁撈文化圏が形成されていた。稲作については、菜畑なばたけ遺跡で現在確認される限り日本最古の水田跡が確認されている。この遺跡は東松浦半島の付け根に位置し、晩期の縄文土器の段階で本格的な灌漑農耕が行われていたことが確認されている。弥生初期には水田の主水路の直近に集落が形成されている。肥前地域では縄文晩期には支石墓の出現も見られる。これは大きな平石の下に小さな石を配した墳墓で、朝鮮半島より伝わったと見られ特に北部に集中している。支石墓は弥生中期にはその姿を消した。
 弥生時代には、集落が発展し地域的な小集団として小国が形成された。肥前国域においては、北松浦まつうら半島の里田原さとだばる遺跡において装飾品や祭祀具、職人集団の痕跡が見られ集落の階層化や職能分化が推測される。また菜畑遺跡に近接した桜馬場さくらばば遺跡では素環頭大刀そかんとうたち片が副葬された甕棺が出土しており王の存在が窺える。
 大規模な環濠集落遺跡としては、吉野ヶ里よしのがり遺跡が存在する。この集落は佐賀平野の丘陵部に弥生初期に形成され、長期にわたり持続・発展していった。この遺跡には多重の環濠を特徴とし、祭祀遺構や祭祀遺構も見られる。北端の墳丘墓の周辺には甕棺墓地が形成されており、また墳丘墓の内部にも複数の甕棺が存在している。甕棺墓は吉野ヶ里遺跡に限らず弥生時代の九州北部で多く見られる。弥生時代後期に吉野ヶ里の環濠集落は最盛期となり、中濠・内濠に囲まれた南内郭・北内郭が営まれた。吉野ヶ里遺跡からは、自然集落から政治的集落への移行の様子を推測することができる。また吉野ヶ里遺跡の周辺は、この集落の衰退した後も肥前国において重要な地域であり続けることになる。
 吉野ヶ里遺跡以外の小国については、『魏書』烏丸うがん鮮卑せんぴ東夷伝とういでん倭人条わじんじょうにおける末盧国まつろこくが東松浦半島周辺に比定されている。末盧国についての記述からは、草木の生い茂った様子や魚や貝を捕える漁の様子が分かる。[1]また同書には韓国・狗邪韓国くやかんこく対馬国つしまこく一大国いきこく‐末盧国‐伊都国いとこくという、朝鮮半島‐対馬‐壱岐‐松浦地方‐怡土いと地方に比定されるルートが記されており、肥前地域と大陸の接触が窺える。
 このように弥生時代、肥前地域は大陸の影響を受けながら文化を発展させていった。大陸との接触は以降もこの地域において重要な要素となる。なお、肥前地域の西端にある五島列島では弥生中期の海進で海沿いの集落の多くが失われ、一時海民が離れていたようである。

 ヤマト王権との接触
 古墳時代には、肥前地域でも多数の古墳が造営された。初期の前方後円墳としては、きんりゅう銚子塚ちょうしづか古墳や松浦川河畔の久里双水くりそうずい古墳が存在する。前者は有明海沿岸部の前期古墳では最大級で、その出現についてはヤマト王権との関係を指摘する向きもある。これからやや時期を置いて谷口古墳が造営されるが、この古墳は従来の竪穴式石室に横口部が付設された竪穴系横口式石室を持つ最古の例である。この形態は高句麗の影響を受けたものとみられ、石室が竪穴式から横穴式に移行する過渡期に位置する。中期の古墳としては、船塚古墳が存在する。この古墳は竪穴式石室を有する大型前方後円墳であり、設計において畿内の古墳と共通性が見られ被葬者としては佐嘉県主さかのあがたぬしが推測されている。
 一方松浦地域では、初期の横穴式石室を有する横田下よこたしも古墳が出現するほか、迫頭さこがしら古墳群のような円墳群が造営される。これら松浦地方の古墳には、朝鮮との関係が特に強くみられる。後期の古墳としては、佐賀平野の西原にしはら古墳・西隈にしぐま古墳が存在する。これらは横穴式石室を有する装飾古墳で、西隈古墳からは石人石馬も確認されている。また東部では中期から後期にかけて目達原めたばる古墳群[2]が造営された。これらの古墳からは安定した勢力の存在が推測され、筑紫嶺県主つくしのみねのあがたぬし筑紫米多国造つくしののめたのくにのみやつこ [3]との関係が指摘されている。
 筑後川河口部では古墳の築造は僅少であるが、その一方で他地域の土器が集中的に確認される。この地域は弥生後期から重要な港として機能していたとみられる。また出土物からは、この地域が大陸との交流点であり仏教文化の影響を早くに受けた場所とも推測される。また、5世紀半ばには若建大君わかたけるのおほきみ若建大君(雄略天皇)の使いが呉から持ち帰った犬をみづ間君まのきみまたは筑紫嶺県主泥麻呂ねまろの犬が食い殺したという話があり、共に筑後川河口周辺の豪族と比定されることからもこの地域の役割が窺える。
 古墳時代の肥前地域について記したものとして、肥前国風土記ふどきがある。肥前国風土記には首長と見られる土蜘蛛つちぐもについての記述が多くみられ、打猴うちさる海松橿媛みるかしひめ大耳おほみみ垂耳たりみみ浮穴うきな沫媛わひめ石欝比袁麻呂いはこもるひをまろなどの名が記されている。これらの多くはヤマト王権に逆らい滅ぼされたあるいは服従させられたとされる。その一方で、土蜘蛛の大山田女おほやまだめ狭山田女さまやだめが荒ぶる神を宥めるため佐嘉県主等祖さかのあがたぬしらがおや大荒田おほあらたに協力したという記述も見られる。[4]また風土記の松浦郡まつらのこほり値嘉郷ちかのさとの項には、西の島々の内近くにある2つの島に住む土蜘蛛大耳・垂耳が服従して貢納を申し出たとある[5]。ここからはヤマト王権が五島列島(特に宇久島うくじま小値おぢ賀島かじま)と関係を結んだことが示されており、実際宇久島では古墳後期からアワビの生産・加工・貢納が行われたことが分かっている。この他、風土記には神代値かみしろのあたいの名がたびたび登場する。神代値は高来郡たかきのこほり[6]北部の首長と見られ、肥後地域に向かう位置にあるこの地域が当時ヤマト王権との関連で重要な地位を占めていたことが推測されている。

 肥前国の成立
 古墳時代、九州北・中西部地域は火国ひのくにあるいは肥国と呼ばれるようになった。この時期の肥前地域については、527年に筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いはいが火国・豊国に救援を求めたこと、537年に大伴連おほとものむらじ金村かなむらの子狭手彦さでひこ任那みまな救援のため朝鮮に渡る際に火国に滞在したことが知られている。大伴連狭手彦については、松浦佐用姫まつらさよひめ(または弟日姫子おとひめこ[7]との悲恋伝説[8]が知られている。[9]
 その後も火国は朝鮮との接触に際しての拠点となった。663年の白村江はくすきのえの敗戦の後、ヤマト王権は防衛のための施設の建設を進めた。九州北部・壱岐・対馬に防人さきもりとぶひ[10] 、城が築かれた。肥前地域においては烽が特に多く設置されたようであり、風土記によると計二十所となっている。これらはとりわけ松浦郡・高来郡に集中している。松浦郡においては烽火台のあった鏡山の近くで甲斐国かひのくに出身の防人関連の木簡が出土しており、防人の駐屯地の存在が推測される。城としては、665年に朝鮮式山城である基肄城きいのきが築かれた。基肄城はおほ宰府みこともちのつかさの背後に位置し、緊急時に逃げ込み危機をしのぐための城であった。この他、おつぼ山や帯隈山おぶくまやま神籠石こうごいしと呼ばれる列石群も、同様の役割を負った城の遺構であると考えられている。このように肥前地域は対外拠点として重要であったが、この頃になると大宰府の成立によって外交拠点としての役割は筑前に移っていった。
 火国は7世紀末に分割され、令制国の肥前国が誕生した。なお、肥前国と肥後国ひのみちのしりのくには陸続きではないが海路での繋がりがあった。大宰府から肥後への駅路えきろは当初は肥前を経由しており、当時軍事的に不安定であった筑後を避けたものと考えられている。やがて九州の情勢が安定化していったことでこの駅路の重要性は失われていくことになる。
 肥前国という名が初めて現れるのは『続日本紀しょくにほんぎ』天平十二(740)年十月かむなづき条である。肥前国の等級は中国[11]であった。肥前国府は現在の佐賀市大和町惣座やまとちょうそうざを中心とする地域に置かれた。肥前国庁の建物配置は大宰府政庁と同じであったことが知られている。この他、吉野ヶ里遺跡の西に位置する中園なかぞの遺跡が神埼郡かむさきのこほり郡家ぐうけの中心域に推定されている。この周辺では道路や切通しの遺構も確認されている。
 肥前国に関わる最初期の出来事として、藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱がある。天平十二年九月、つくしの前国みちのくちのくに大宰小弐だざいのしょうに藤原広嗣が反乱を起こした。肥前国の軍は広嗣の弟である綱手つなての配下としてこれに従ったようである。これに対し朝廷からは大野朝臣東人おおののあそんあづまびとが大将軍として派遣され、間もなく反乱は鎮圧された。広嗣は五島列島を経て耽羅たんら[12]へ逃亡しようとしたが失敗し、十月には安倍朝臣黒麻呂あべのあそんくろまろによって肥前国松浦郡値嘉島長野村で捕らえられ、十一月に綱手と共に同郡で斬刑に処された。この6年後、広嗣の政敵であった玄ムげんぼうが死亡するとこれが広嗣の怨霊によるものとされた。その鎮魂のため松浦郡で怨霊を祀る寺社が建てられた。広嗣の怨霊はやがて航海の守護者とされるようになり、大中元(847)年には大陸から帰還した円仁えんにんが、広嗣の霊に対し航海安全を感謝して『金剛般若経』500巻の転読を行っている。
 8世紀の肥前国における宗教としては、肥前国東北端に位置する脊振せふり山地の山岳信仰が知られている。脊振山の寺院は8世紀前半に開山されたと見られ、やがて背振千坊せふりせんぼうと呼ばれる山岳修験道の修行地へと発展していった。
 天平宝字元(757)年頃に肥前国は上国に昇格した。なお7世紀後半から8世紀の肥前における有力者については、海部直鳥あまべのあたいのとりの要請に応えて神埼郡から三根郡みねのこほりが分立したこと、慶雲元(704)年に米多君北助めたのきみほそが従五位下に叙されたこと、宝亀七(776)年に佐嘉郡大領たいりょう[13]佐嘉君児君さかのきみこきみ安居会あんごえを設けたことなどが伝わる程度である。

 肥前国と大陸
 肥前国は大陸との接触点としての役割を担った。松浦地方は大陸に渡る船が壱岐・対馬に向かうための中継点とされた。肥前には大宰府から延びる官道とは別に博多付近から松浦地方へ向かう道が存在し、筑前国深江ふかえ・肥前国大村おほむら賀周かす逢鹿あふかを経て登望ともに至り、そこから海路に接続した。実例としては、天平八(736)年の遣新羅使は筑紫館つくしのむろつみ[14]‐筑前国玉島郡たましまのこほり韓泊からとまり引津泊ひきつのとまり‐肥前国松浦郡狛島亭こましまのとまり‐壱岐‐対馬というルートを用いたことが『万葉集』第十五巻から推定される。また、小川島・加部島かべしま[15]の漁民は交易において活躍し、大陸への使節派遣の際には挟取かぢとり水手かことして、また船の建造のためにも動員された。その一方で、これらの移動によって大宰府管内ではときに疫病の流行が起こった。特に天平九年に帰国した遣新羅使が持ち帰った天然痘もしくは麻疹はしかは九州に留まらず平城京でも大流行した。この大流行の後には肥前国の一部のさとの数が激減しているという指摘もある。
 八世紀には、遣唐使は五島列島から東シナ海へ向かう南路を用いるようになる。五島列島の港としては相子田之停あひこだのとまり川原浦かはらのうらが『肥前国風土記』に見え、遣唐使船はこれらを経て福江島の美弥良久之埼みねらくのさきから東シナ海へ出港した。この時期の肥前国の水夫の活躍としては、松浦郡出身の川部酒麻呂かはべのさかまろが天平勝宝四(752)年の遣唐使第四船の?師(かぢし)を務め、帰路において出火した船を無事帰還させたことで松浦郡員外主帳いんがいしゅちょう[16]に任命され後には外従五位下に叙されたことが知られている。またこのようなことと関連して、航海安全の守護神として信仰された松浦郡加部島の田島神社は肥前の式内社[17]四座の1つとなっており、9世紀には正四位上に叙されている。
 防衛の面でも肥前を含む九州北部は重要であった。延暦十一(792)年に軍団制は廃止されたが、大宰府管内は陸奥みちのおく出羽いでは佐渡さどと共にその例外となった。更に延暦十八年には烽の制も廃止されたが、大宰府管内では存続となり、値嘉島周辺ではむしろ強化された。これは遣唐使船や不審船に関わる情報伝達のためであった。
 9世紀になると律令制の動揺により水夫の徴発が難しくなり、このことは外国使節派遣中止の一因になったと見られる。寛平六(894)年に遣唐使船派遣は停止されたが、その頃には唐や新羅の商船が五島列島に数多く寄港するようになっていた。それと共に、新羅人の海賊行為も問題となっていた。弘仁四(813)年には新羅人が小値嘉島の島民100人を殺害したという記録がある。五島列島は対外拠点として重視され松浦郡司の管轄下とされていたが、松浦郡司が恣意的支配を行うなど朝廷の支配は不安定なものだったようである。これに関連して、貞観八(866)年には肥前国基肄郡擬大領ぎたいりょう[18]山春永やまのはるなが藤津ふぢつ郡領葛津貞津ふぢつのさだつ、高来郡擬大領大刀主たちのぬし彼杵そのぎ郡人永岡藤津ながおかのふぢつらと共に新羅人と共謀して対馬を襲撃しようとする事件が起こっている。このような状況を受けて、貞観十八年に大宰府が肥前国松浦郡値嘉郷と庇羅郷ひらのさと[19]を合わせて上近かみつちか下近しもつちかの二郡からなる値嘉島を独立させることを献策した。この献策は承認され、島司しまのつかさ・郡領が置かれ値嘉島が一時的に独立することになった。

 荘園の時代
 平安時代になると、肥前国でも荘園が成立していく。承和三(836)年、神埼郡の空閑こかん地690町が勅旨田ちょくしでんに指定された。この勅使田がやがて院領の神埼荘となる。10世紀には律令制崩壊が公然化し平安時代後期になると多数の荘園・公領が発展していく。十一世紀末頃には、筑後川上流域から松浦郡にまでわたって分布する形で宇野御厨うののみくりやが設置された。この御厨は大宰府に食料を貢納する場所として設置された。肥前国の院領荘園としては神埼荘のほかに佐嘉郡の川副かはそえ荘、巨勢こせ荘、松浦郡の松浦荘が存在した。この他、肥前には大宰府の支配下にある荘園が多数存在し、前述の神埼荘についても大宰府との関連が指摘される。これら以外の大規模な荘園としては、藤津郡ほぼ全域に及んだと見られる仁和寺領藤津荘、九条家や仁和寺・東福寺領の彼杵荘が存在した。
 このような開発において神社はある種の位置を占めた。神埼荘の鎮守である櫛田くしだ神社を中心とする白角折おしどり神社・高志たかじ神社は神埼荘三所大明神と呼ばれ、用水に関連した開発拠点域となった。また、式内社である与止日女よどひめ神社は貞観二(860)年に従五位下、同十五年には正五位下に叙されており、佐賀平野の農耕・水利の守護者として信仰され平安時代後期からはその重要性を増していった。
 9世紀末になると武士が出現し、武士団が形成されていった。肥前国では、宇野御厨において松浦党が勢力を形成した。肥前において武士団が関わる最初期の事件として刀伊といの入寇がある。寛仁三(1019)年、刀伊と呼ばれる集団が壱岐・対馬・九州北部を襲撃、壱岐守藤原理忠ふじわらのまさただが殺害され島民にも多大な被害が発生した。この襲撃は大宰権帥だざいのごんのそつ藤原隆家率いる武士団によって撃退されたが、このとき松浦党の祖先とみられる前肥前介さきのひのみちのくちのすけみなもとのともが活躍している。
 系譜によると、松浦党の始祖源久みなもとのひさしは延久元(1069)年に下松浦志佐郷しさのさと今福いまふくに土着したとされる。松浦党は源久を祖とし一字名を共通して用いる、複雑な婚姻関係によって形成された擬制的一族結合であった。松浦党は松浦郡全域に拡大しときに在来勢力と衝突した。特に五島の浦部うらべ(中通島)では、その知行をめぐり在来勢力との抗争・内紛が起こった。12世紀半ばにはここは清原是包きよはらのこれかねが知行していた。源久の子とされる御厨みくりやなほしは是包の姪である三子さんのこと結婚、山代囲やましろかこひが生まれたが、直はその後離婚・再婚して値嘉つらぬが生まれた。仁平二(1152)年、是包は高麗船に略奪行為を働いて知行を没収される。この事件は初期倭寇の早い例であると指摘されている。没収された知行は直が受け継いだ。その後、囲・連が知行について争いはじめ、その後是包の一族も知行を主張した。この知行争いは鎌倉時代になっても続くことになる。
 11世紀には神埼荘は開発が進み、後には3000町[20]という肥前国最大の荘園へと発展していく。長和四(1015)年には宋僧念救ねんきゅうが神埼荘荘司豊島方人とよしまのかとうどとともに下向したことが知られ、神埼荘と日宋貿易との関わりが指摘されている。長元九(1036)年には神埼荘は後一条院から後朱雀院へと後院領として渡り、以降天皇・上皇の間で伝領されていった。

 武士の時代へ
 平安時代後期、九州は平氏の勢力基盤の一つとなっていった。平氏は大宰府を介して肥前に進出した。平清盛の父である平忠盛は当時鳥羽院領だった神埼荘の預所あずかりどころに任命されたのを機に日宋貿易に着手し、忠盛は院宣いんぜんと称して貿易の利益を独占した。長承三(1133)年には忠盛は神埼荘に来着した宋船に対する大宰府の官人の介入を排除しようとして訴えられている。宋船の着岸地については、現佐賀市蓮池町蒲田津かまたつ、現神埼市蔵戸くらと津、現吉野ヶ里町下中杖しもなかつえなどが比定されているほか博多を着岸地とする説もある。
 平忠盛に代表されるように、院政期は北九州を中心とした日宋貿易が活発化した時代であった。この日宋貿易においても、松浦地域は寄港地としての役割を果たした。平戸には「蘇船頭」という宋商人がおり、松浦党と関係を有していた。平戸にはこのような宋人綱首こうしゅ[21]が住んでいたようである。また五島列島や加部島は日宋貿易の中継点となった。五島列島からは博多に次ぐ量の日中貿易船の碇石が見つかっており、また天台僧成尋じょうじんは延久四(1072)年に加部島で綱首曽聚そしゅうの船に乗って宋に渡航している。
 平氏の肥前への進出には、肥前・筑前の府官の協力もあった。大宰少弐兼肥前国司たちばなの以政もちまさや、神埼荘と博多の中間に領地を持ち神埼荘の江上えがみ氏とも関係のあった有力者原田はらだ種直たねなおは平氏と近い関係にあった。そして保元三(1158)年に平清盛が大宰大弐に任命されたことで平氏の九州支配強化が進むことになる。
 この頃肥前国では、日向ひゅうが一族が広範な勢力を築いていた。その中で、平治元(1159)年に肥前総追捕使そうついぶし日向太郎通良ひゅうがたろうみちよしが謀反を起こしたとして清盛に鎮圧が命じられた。通良は源義朝に呼応して兵を挙げたようである。清盛は平家貞を派遣してこれを追討させた。通良は綾部あやべ城に立て籠もり、その後杵島山の稲佐いなさ城に移って戦ったが翌延暦元年四月に敗死した。このとき通良の男子6人の内3人も戦死したが、四男以下は落ち延びた。家貞が京に帰還した後、通良以下主だった七人の首が六条河原に晒された。同じ年、清盛の弟教盛のりもりは清盛が通良を追討した褒賞として従四位上に叙せられた。その後清盛は杵島郡長島荘を、教盛は佐嘉郡嘉瀬かせ荘を獲得した。
 治承・寿永の乱における肥前の武士の立場は明確ではない。寿永二(1183)年に都落ちした平氏軍本隊が大宰府へ逃れてきた後、豊後の緒方惟義おがたこれよしが大宰府を攻撃すると肥前のたか宗家むねいえ南季家みなみすえいえ綾部通俊あやべみちとし嘉瀬通宗かせみちむねらが攻撃に加わった。この攻撃で平氏軍は讃岐国屋島に逃れることになる。一方松浦党は平氏に味方し、壇ノ浦の戦いでは筑前の山鹿やまが秀遠ひでとおと共に平家水軍の主力となったが、戦いの途中で源氏方に寝返った。
 寿永四年八月、源頼朝は混乱収拾のため中原久経なかはらのひさつねを九州に送った。当時高木氏などの諸氏は荘園を荒らすなどの乱行を行っていた。文治二(1186)年には天野遠景あまのとおかげが鎮西奉行として大宰府に入り、乱行の停止を命じた。
 平氏一門の没落・滅亡によってその荘園は平家没官領もっかんりょうとして没収され、その多くは頼朝に与えられ地頭が補任された。ただし神埼荘に関しては後白河院領とされ没官領とはされなかった。諸氏の処分については、平氏方の有力豪族が処罰された一方で中小勢力多くは許され御家人となった。肥前の諸氏は地頭に任じられたが、それらは小地頭でありその上に惣地頭が存在した。惣地頭は東国御家人が任じられた。両者はしばしば利害対立を起こし訴訟がなされたようである。
 肥前の土着武士としては日向通良の五男通益みちますが文治三年に杵島郡白石しろいし郷の地頭に任じられ白石氏を名乗っている。松浦党に関しては、各々の一族が個別に幕府と御家人関係を結んだようである。またこの頃の肥前の有力な土着武士としては高木氏がおり、高木宗家は文治二年に佐嘉郡甘南備かんなびの地頭に任じられ、また佐嘉地域北部に広く地頭職を有した。また建久五(1194)年に高木一族の南季家に小津東おづひがし龍造寺りゅうぞうじ村の地頭に補任された。南季家は龍造寺季家を名乗り、戦国時代に活躍する龍造寺氏の祖となった。

 おわりに
 肥前地域は大陸の影響をいち早く受けて発展した。中央政権の下でもその立地から大陸との接触において重要な役割を担い、特に白村江の敗戦後は対外防衛の要となった。平安時代には荘園が発達したが、肥前国では最大の荘園でありまた日宋貿易にも関わった神埼荘と、松浦党が形成された宇野御厨荘が特筆に値する。平安後期には肥前国は平氏の勢力圏となるが、平氏の没落に伴い肥前の諸氏は源氏方に寝返りそのまま鎌倉政権の支配に組み込まれた。これ以降肥前国は多数の小さな土着勢力が中央の派遣した探題や守護・地頭の下で活動することになる。その一方で大陸との接触という点での重要性は続き、特に松浦党が貿易や海賊行為に大きく関わった。鎌倉幕府が崩壊してからは九州では戦乱が延々と続き、肥前国の諸氏もそれに巻き込まれていくことになる。そしてその中から、「五州の太守」龍造寺隆信が現れるのである。


肥前国

図1 肥前国(五島列島を除く)

五島列島

図2 五島列島

    注釈
  1. ^ 「至末盧国有四千餘戸濱山海居艸木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」(書き下し文)「末盧国に至る。四千餘戸有り。山海にいて居る。艸木そうもく茂盛もせいし、行くに前人を見ず。好んで魚腹ぎょふくを捕らえ、水深浅と無く皆沈没して之を取る。」(『魏書』烏丸鮮卑東夷伝倭人条。)
  2. ^ 目達原古墳群は七基の古墳からなっていたが、昭和十七年の陸軍飛行場基地建設のため、都紀女加つきめか陵墓とされた上のびゅう塚古墳を除き調査の後破壊された。
  3. ^ 両者は同一氏族とも考えられている。
  4. ^ 「此川上有荒神。来之人生半、殺半。於茲、県主等祖大荒田占問。于時、有土蜘蛛、大山田女・狭山田女。二女子云、取下田村之土、作人形・馬形、祭祀此神、必有応和。大荒田即随其辞祭此神、々コン(音偏に欠)此祭、遂応和之。」(書き下し文)「川上かはかみに荒ぶる神有りき。来たる人の半ばを生かし、半ばを殺す。ここに、県主等あがたぬしらおや大荒田おほあらた占問うらどふ。時に、土蜘蛛、大山田女おほやまだめ狭山田女さやまだめといふ有り。ふたり女子をみなはく、『下田村しもだのむらの土を取りて、人形ひとかた馬形うまかたを作り、此の神を祭祀まつらば、必ず応和やはらがむ』といふ。大荒田、すなはことばまにまに此の神をまつるに、神、此のまつりをうけて、つひ応和やはらぐ。」(『肥前国風土記』佐嘉郡条。)
  5. ^ 「時大耳等、叩頭陳聞曰、大耳等罪、実当極刑。万被殺戮、不足塞罪。若降温情、得再生者、奉造御贄、恒貢御膳。即取木皮、作長蚫・鞭蚫・短蚫・陰蚫・羽割蚫等之様、献於御所。於茲、天皇、垂恩赦放。」(書き下し文)「時に大耳おほみみども叩頭陳聞のみまをしてはく、『大耳が罪、まこと極刑しぬるつみあたれり。よろづたび殺戮ころさゆとも、罪をふさぐにらじ。温情みめぐみくだしたまひて、また生くること得ば、御贄みにへを造りまつり、つね御膳みけたてまつらむ。』即ち木のかはを取り、長蚫ながあはび鞭蚫むちあはび短蚫みじかあはび陰蚫かげあはび羽割蚫はわりあはびどもためしを作りて、御所みもとたてまつる。茲に、天皇すめらみことみめぐみれて赦放ゆるしたまふ。」(『肥前国風土記』松浦郡条。)
  6. ^ 島原半島を中心とする地域。
  7. ^ 『万葉集』では松浦佐用姫、『肥前国風土記』では弟日姫子と記される。
  8. ^ 「昔者、檜隈廬入野宮御宇武少広国押楯天皇之世、遣大伴狭手彦連、鎮任那国、兼、救百済之国。奉命到来。至於此村即、娉篠原村篠謂志弩。弟日姫子成婚。日下部君等祖也。容貌美麗、特絶人間。分別之日、取鏡与婦。々含悲H、渡栗川、所之与鏡、緒絶沈川。因名鏡渡。褶振峰。有郡東。烽家。名曰褶振烽。大伴狭手彦連、発船渡任那之時、日姫子登此、用褶振招。因名褶振峰。」(書き下し文)「昔者むかし檜隈廬入野宮ひのくまのいほりのみやに御宇あめのしたをさめたまひし武少広国押楯たけをひろくにおしたての天皇すめらみことみよに、大伴狭手彦連おほとものさでひこのむらじつかはして、任那みまなの国をしづめ、また百済くだらの国をすくはしめたまひき。みことうけたまはりて到来きたる。此の村に至る即ち、篠原村しのはらのむら(「篠」を志弩しのふ。)の弟日姫子おとひめこつまどひて成婚みあふ。(日下部君くさかべのきみおやなり。)容貌かほ美麗きらきらしく、こと人間ひとのよすぐれたり。分別わかるる日に、鏡を取りてをみなあたふ。をみな、悲しみHきつつ栗川くりかはを渡りしに、与えられし鏡、えて川にしづみき。りて鏡渡かがみのわたりと名づく。褶振峰ひれふりのみね。(こほりひむがしに有り。烽家とぶひあり。名づけて褶振烽ひれふりのとぶひと曰ふ。大伴狭手彦連、発船ふなだちして任那に渡りし時に、日姫子ひめこここに登り、ひれちて振りきき。因りて褶振峰と名づく。」(『肥前国風土記』松浦郡条。)
  9. ^ この伝説について、万葉集では当時筑前国司であった山上憶良やまのうへのおくらが、松浦郡に旅した大宰府での同僚大伴旅人おほとものたびとの歌を見て幾つかの歌を詠んでいる。一方でこの大伴狭手彦の遠征については、『日本書紀』にこそ記されているものの新羅・百済の反応が確認できないことから実態は不明である。
  10. ^ 狼煙施設。
  11. ^ 領制国の等級には大国・上国・中国・下国がある。
  12. ^ 現在の済州島。
  13. ^ 大領は郡司の四等官の1つで郡司の長官。
  14. ^ 後の大宰府鴻臚館こうろかん
  15. ^ 共に東松浦半島の北に存在する島。
  16. ^ 郡司の四等官で、主典さかんに当たる。員外は定員外であることを示す。
  17. ^ 『延喜式』の「神名帳」に記載のある神社。
  18. ^ 擬大領は中央ではなく国司が任命した大領。
  19. ^ 後の平戸。
  20. ^ 鎌倉後期の地積。
  21. ^ 中国の貿易船経営責任者。「船頭」はこの綱首を示すと見られる。

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