2018年6月15日
ヘーロドトスのエジプト史  skrhtp


 はじめに
 ヘーロドトスはエジプトを旅し、エジプトについて多くの記録を残した。その著書『歴史』はペルシア戦争についての著作であるにもかかわらず、2巻(エウテルぺの巻)はほぼエジプトについての記述に費やされている。本稿では、そんなヘーロドトスがエジプトで見聞きしたことを基にまとめたエジプトの歴史について、列王記の形で記していく。本稿ではペルシア王カンビュセースがエジプトを征服するまでを記し、また実際の歴史と関連して適宜注釈を挿入する。伝聞という性質上、ヘーロドトスは多くの場合「〜と言われている」というように述べているが、本稿では基本的にはこの書き方はしない。なお、地名・人名は一部を除き古典ギリシア語に従う。一部の固有名詞についてはギリシア語表記も併記する(なお、本来σは語末では別の文字を用いるがここでは一律σを用いる)。また本稿の「今日」はヘーロドトスの時代を指すものとする。

 オーロスからモイリスまで
 初めエジプトは神々によって支配されていて、この時代には神々は人間と共に住み、その内1柱が主権を掌握していた。そして神々の中で最後にエジプトの王となったのがオシリスの子オーロス(’Ωροσ)[1]であった。この神はギリシアではアポッローンと呼ばれている。
 エジプト最初の人間の王はミン(Μιν)[2]であった。ミンの時代にはテーバイ州を除くエジプト全土が一面の沼沢地であり、今日ギリシア人たちが通行しているデルタ地帯はまだ水面下に沈んでいた。ミンは堤防を築いてナイルの河流を堰き止めて干拓地を作ると、今日メンピス(Μεμφισ)と呼ばれている町を築いた。ミンはこの町に宏壮なヘーパイストス[3]神殿を築いた。
 ミンから後、モイリスまで三百三十人の王が即位した。この内18人がアイティオピア人で、エジプト人の女性が1人おり残りはエジプト人の男性であった。この女王の名はニトークリス(Νιτωκρισ)[4]といい、彼女の兄弟はエジプトの王であった。しかしエジプト人たちは彼を殺してニトークリスを王位につけた。ところがニトークリスは兄弟の仇を討つため、巨大な地下室を作ると落成式と称して兄弟の殺害に関与した者たちを招き、河の水をこの地下室に流し込んで殺害した。その後ニトークリスは灰の詰まった部屋に身を投じて自殺した。
 その他の諸王については、最後に即位したモイリス(Μοιρισ)[5]を除いてはこれといった業績を残さなかった。モイリスはヘーパイストス神殿北に楼門を築いた他、湖を開削しその湖中にピラミッドを築いた。モイリスが没してから今日までは、900年も経過していない。

 セソーストリスからセトースまで
 330人の王たちの後、セソーストリス(Σεσωστρισ)[6]という人物が王位についた。セソーストリスは初めて艦隊で「紅海」[7]沿岸の住民たちを征服した。この遠征から帰還すると、セソーストリスはエジプトの統治を弟に任せてアジアに侵攻し諸民族を次々に平定して各地に記念碑を建てた。彼は更にヨーロッパに渡り、スキュタイ人やトラキア人をも征服した。セソーストリスはこの遠征を終えると征服地の住民多数を連れて帰還したが、ペルシオン[8]に着いたときセソーストリスの弟が彼とその家族を饗応に招くと、その建物の周りに薪を積み上げ火をつけた。窮したセソーストリスが打開策を妻に求めると、妻は6人いる子供の内2人を橋代わりにしてその上を渡って脱出することを提案した。セソーストリスはこれに従い、2人の子供は焼死したがセソーストリスと妻と他の子供たちは生き延びた。その後セソーストリスは弟に報復を行った。
 セソーストリスは捕虜を用いてヘーパイストス神殿に多数の巨石を運び、また多数の運河を掘削させた。この運河は河畔から離れて住む者たちに水を供給するためのものであったが、これによりエジプトは馬や戦車を駆るのに適さない土地となった。またセソーストリスはエジプト人たちに方形の土地を与え代わりに毎年の納税義務を課し財源を確保した。更にセソーストリスはエジプト人で唯一アイティオピアを支配した王ともなった。
 セソーストリスが死去すると息子のペロース(Φερωσ)が王位を継いだ。この王は氾濫したナイルに槍を投げ入れたことで神罰を受けて盲目となった。それから十一年後、ブート(Βουτο)の町から託宣が届き、処罰の期間が過ぎたこと、夫だけにしか接したことがなく他の男を知らぬ女の尿で目を洗えば目の患いを免れるであろうことが告げられた。そこでペロースは自分の妃でこれを試みたが眼は治らず、それから次々と多くの女で試みていった。その末に眼が治ったペロースは効果のあった尿を取った女を妃に入れ、効果のなかった女たちを悉く1つの町に集めて町ごと焼き殺した。それからペロースは多くの神殿に奉納品を献じ、特にヘーリオス[9]の神殿には1対のオベリスクを奉納した。
 ペロースの跡を継いだのはメンピス出身のプローテウス(Πρωτευσ)[10]であった。プローテウスの治世に、スパルタからヘレーネーを奪ったアレクサンドロス(パリス)が風に流されてエジプトにやってきた[11]。アレクサンドロスの従者たちはエジプトで彼に謀反を起こし、神殿で嘆願者となってアレクサンドロスを告発した。これを知ったプローテウスは一同を召喚して言い分を聞くと、アレクサンドロスを非難して退去を命じ、一方ヘレーネーについては夫メネラーオスが連れ戻しに来るまでエジプトに留め置くことを決定した。トロイアが滅ぼされた後、メネラーオスはエジプトにやってきた。プローテウスはメネラーオスを歓待しヘレーネーを返還した。しかしメネラーオスは出航に際して悪天候が続いたため土地の住民の子供2人を人身御供としたことで住民の憎悪の的となり、リュビア目指して退散した。
 プローテウスの後にはランプシニトス(Ραμψινιτοσ)が即位した。ランプシニトスはヘーパイストス神殿に二つの巨像を建てた。ランプシニトスは莫大な量の銀を有していて、その量は他の王と比較にならない程だった。またランプシニトスは生きながらにして冥界へと下り、デーメーテール[12]から黄金の手巾を貰って帰還したという。
 ランプシニトスの跡を継いだケオプス(Χεοψ)[13]は神殿を閉鎖し、国民が生贄を捧げることを禁じ、更に道路やピラミッドの建設のため国民に過酷な労働を強いた。ケオプスはピラミッド建設に大金をかけ、果てに金に窮して娘を娼家に出して金を稼がせたという[14]。この娘は父に命じられたことに加えて、自身にとって記念になる物を残そうと客一人一人に工事用の石を1つ寄進するよう頼んだという。
 ケオプスの治世は50年に及んだ。ケオプスの死後は弟ケプレーン(Χεφρην)[15]が後継者となった。ケプレーンは56年にわたって在位し、ケオプス同様の悪政を布いた。ケプレーンもまたピラミッドを築いたが、その規模はケオプスのものに及ばなかった。
 ケプレーンの跡を継いだのはケオプスの子ミュケリノス(Μυκερινοσ)[16]だった。ミュケリノスは閉鎖されていた神殿を開き、国民を開放し、更に歴代の王の中で最も公正な裁判を行った。善政を行ったミュケリノスだったが、彼には2つの不幸が降りかかった。1つ目は一人娘の死であり、これを嘆き悲しんだミュケリノスは金箔を張った木製の牛を作り、その中に娘の遺体を納めてサイス(Σαισ)にある王宮[17]内の一室に安置した。娘の死に続いて第二の不幸が降りかかった。ブートの町から王の寿命はあと6年であるという託宣が届いたのである。ミュケリノスが使者を送って神を責めると、エジプトは百五十年にわたり辛酸を嘗めねばならぬのにミュケリノスはそれを悟らなかったが故に寿命を縮めることになったのだ、という託宣が返ってきた。ミュケリノスはこれを聞くと、日が暮れると火をともして夜昼を問わず歓楽に耽った。これは夜を昼にして自分の寿命の6年を12年にしようとしたものであった。ミュケリノスもまたピラミッドを築いたが、これは父や叔父のものより遥かに小さいものであった。
 ミュケリノスの後に王位に就いたのはアシュキス(’Ασυχισ)という人物だった。この王はヘーパイストス神殿の東楼門を築いた。アシュキスの治世には金融が逼迫し、父親のミイラを担保に借金ができるという法律が作られた。またこの法に関して、債権者は融資を受けた者の葬儀一切に権限を持つということも定められた。またアシュキスは煉瓦造りのピラミッドを築いた。
 アシュキスの跡を継いだのは、アニュシス(’Ανυσισ)という盲目の人物であった。この王の時代に、アイティオピア王サバコース(Σαβακωσ)[18]がエジプトに侵攻した。サバコースはエジプトを50年支配すべしという託宣を受けていた。アニュシスは沼沢地へ逃れ、サバコースはエジプトの王となった。サバコースはエジプト人に死刑を用いることを好まず、罪人には町の前面に土を盛る労役を課した。これにより町々は以前より高くなった。50年後、サバコースは神託の期間が過ぎまた不吉な夢を見たためエジプトから自発的に撤退した[19]。サバコースが去るとアニュシスが復位した。
 その後に即位したのはヘーパイストスの祭司セトース(Σεθωσ)であった。セトースは武士階級を軽視して冷遇した。この王の代にサナカリボス(Σαναχαριβοσ)[20]が侵攻してきた。このときエジプトの武士たちは王の救援を拒否した。しかしセトースは神に激励される夢を見て、自らに従うものと共に出陣した。エジプト軍が陣を構えた夜、サナカリボス軍を野鼠の大群が襲った。鼠によって武器や防具が食い荒らされ、翌日サナカリボス軍はエジプト軍に大敗した。

 十二王からペルシア支配へ
 セトースの後、エジプトの王位は空白となった。そこでエジプト人たちは全土を十二分し十二人の王を立てた。彼らはヘーパイストス神殿で青銅の盃で灌祭を行ったものが全土の王になるだろうという託宣を受けて、神殿には揃って参拝し協定を結んで共同で統治を行った。十二人の王たちは共同で記念物を残すことを決め、モイリス湖のそばに「迷宮(λαβυρινθοσ)」を築いた[21]
 十二人の王の中に、プサンメーティコス(Ψαμμητιχοσ)[22]という男がいた。プサンメーティコスは父ネコース(Νεκωσ)をサバコースに殺害されて[23]シュリアに逃れていたが、サバコースが撤退するとサイスで復権して王位に就いていた。あるとき、十二人の王がヘーパイストス神殿で生贄を捧げたのだが、祭司長が献酒の黄金盃を誤って11個しか用意していなかった。プサンメーティコスはやむなく青銅の兜を脱いでそれを用いて献酒を行った。他の諸王は託宣を思い出し、プサンメーティコスを沼沢地へと追放した。プサンメーティコスは他の諸王に報復しようと考え、ブートの町で神託を受けそれに従ってイオニア人とカリア人を率いて諸王を打倒しエジプトの単独の王となった。
 プサンメーティコスはヘーパイストス神殿の南楼門を築き、またエパポス(’Επαφοσ)[24] を養う中庭を造った。プサンメーティコスはイオニア人とカリア人たちに居住地と恩賞を与え、またエジプト人を彼らに預けギリシア語を学ばせた。プサンメーティコスはまた29年にわたりシュリアの大都市アゾートス(’Αζωτοσ)[25]の包囲攻撃を続け、遂にこれを占領した。プサンメーティコスの統治は54年間続いたのだが、あるとき彼は人類最初の民族は何者か知りたいと考え、生まれ立ての赤子2人を羊と共に言葉を聞かせずに育てさせた。やがて赤子は「ベコス」という言葉を発した。調べるとこれはプリュギア人の言葉でパンを意味することが分かり、以来エジプト人たちはプリュギア人が自分たちより古い民族だと認めるようになった[26]
 プサンメーティコスの子ネコースは父の跡を継いで即位すると、「紅海」へ続く運河の建設に初めて着手した。建設は困難を極め十二万人に及ぶエジプト人の死者を出したが、ネコースはこの工事は異国人たちのための露払いであるという神託を受けて開削を中断した。その後ネコースは軍事に関心を向け、多数の三段櫂船を造らせ、またシュリア軍をマグドーロス(Μαγδωροσ)で破りシュリアの大都市カデュティス(Καδυτισ)を占領した。16年の治世の後にネコースは死去し、息子のプサンミス(Ψαμμισ)が跡を継いだ。彼の統治はわずか六年で、アイティオピア遠征を試みた後没した。[27]
 プサンミスの跡を継いだのは息子のアプリエース(’Απριησ)だった。アプリエースの治世は25年に及び、その間にシドーンを攻めテュロス王と海戦を交えた。しかしその後、アプリエースはキュレーネーに侵攻したが大敗を喫し、更にエジプト人たちがこの失敗を責めて蜂起した。王はアマシス(’Αμασισ)を派遣して説得させようとしたが、アマシスは反乱を率いる側にまわった。王はパタルベーミス(Παταρβημισ)を派遣してアマシスを説得しようとしたが失敗し、アプリエースは怒ってパタルベーミスの耳と鼻を削ぎ落とさせた。これを知ったエジプト人たちはこぞってアマシスの側へと離反した。アプリエースは傭兵を率いて反乱討伐に向かった。両軍はモーメンピス(Μωμεμφισ)の町で衝突した。戦いはアマシスの勝利に終わり、アプリエースは捕らえられた。その後アプリエースはエジプト人たちに絞殺された。[28]
 アマシスは即位すると人心を掌握した。アマシスは朝には熱心に仕事をするがそれ以降の時間は酒を飲んで飲み相手とふざけ散らした。このことについて諫言されると、彼は自分を弓にたとえ、常に引き絞っていては折れて必要なとき役に立たなくなる、と言ったという。アマシスはサイスのアテーナー神殿に壮大な楼門を築き、また他の著名な神殿にも悉く奉納品を献じた。アマシスの治世にエジプトは大いに繁栄した。アマシスは、エジプト人は毎年各自の収入を州長官に申告するべしという法を作り、申告を怠ったり正当な手段で生計を立てていると証明できない者は死罪に処すと定めた。アテーナイのソローンはこの法を取り入れてアテーナイに施工し、この法は今日でもアテーナイで守られている[29]
 アマシスはギリシア贔屓の人で、エジプトに渡来したギリシア人たちにはナウクラティス(Ναυκρατισ)に居住することを許し、またここに住むことを望まぬ者には祭壇や神域のための土地を与えた。かつてはナウクラティスには唯一の開港都市としての特権が与えられていた。デルポイ神殿が焼失した際には、アマシスは再建のための寄付を行った。アマシスはまたキュレーネーと友好攻守同盟を結び、キュレーネーからラディケーを妻として迎えた。
 アマシスの治世中、アマシスに恨みを持ったあるエジプト人がペルシア王カンビュセース(Καμβυσησ)を唆してアマシスの娘を求めさせた。アマシスはペルシアの国力を恐れたが、一方でカンビュセースが娘を妾にするつもりであることが分かっていたため逡巡した。その末にアマシスは先王アプリエースの娘ニテーティス(Νιτητισ)を自分の娘としてペルシアに送った。しかしニテーティスはカンビュセースにこのことを明かし、怒ったカンビュセースはエジプト遠征を決めた。
 カンビュセースが遠征を決行したとき、アマシスは44年の統治の後に死去しており、息子のプサンメーニトス(Ψαμμηνιτοσ)[30]が跡を継いでいた。プサンメーニトスの治世にはエジプトのテーバイで雨が降るという異変が起こった。このようなことは今日まで先にも後にもなかった。プサンメーニトスはペルシオン河口のそばでペルシア軍と対峙した。戦いは激戦となり両軍多数の戦死者が出たが、結局はペルシア軍の勝利に終わった。エジプト軍は潰走し、プサンメーニトスは捕らえられた。カンビュセースはプサンメーニトスに自らの許で平穏に余生を送ることを許したが、やがてプサンメーニトスは陰謀を企んでいることが発覚して牡牛の生血を飲んで自殺した。こうしてエジプトはペルシアの支配下に入り、今日までその支配は続いているのである。


    注釈
  1. ^ 天空神ホルス。
  2. ^ マネトーンの「エジプト史」におけるメネスと同一と思われる。また、現在一般に第一王朝二代目とされるアハ王がメンという別名を持つためアハ王に比定されることも多い。
  3. ^ エジプトのプタハ神。メンピスの主神である。
  4. ^ 第19王朝期の「トリノ王名表」にはネイトイケルティとして現れ第6王朝末に位置付けられている女王である。この女王については、男性の王の名が誤って記録され女王とみなされたと考えられている。
  5. ^ 通常第十二王朝のアメンエムハト3世に比定される。この王の治世にはモイリス湖周辺のファイユーム地方の農業開発が進んだ。
  6. ^ 通常第十九王朝のラメセス2世に比定されるが異論もあり、第十二王朝の王の名であるセンウセレトに由来する可能性もある。
  7. ^ 主にインド洋を指す。
  8. ^ デルタ東端の町。
  9. ^ 太陽神ラー。
  10. ^ プローテウスの初出は『オデュッセイア』だが、こちらではエジプト付近の海神となっており何故ヘーロドトスの『歴史』で王となっているのかは不明。
  11. ^ 以下トロイア戦争に関連した記述。
  12. ^ 冥界神オシリスの妻イシス。
  13. ^ 第四王朝のクフ王。ここから3人の王は実際にはニトークリスよりも遥かに前の時代の人物である。一説には、本来ケオプス以下3人の記述はミンの後に位置し、ヘーロドトスが手稿の順序を間違えたためにこの位置に来たのだといわれている。
  14. ^ 原文では’αργυριονという語が使われており、これは銀や小銭を表す。文脈的に後者の意であろうが、クフ王の時代にはまだ貨幣は出現していない。金属貨幣出現は前7世紀に成立したリュディア王国でのこと。
  15. ^ カフラー王。なお、実際はクフとカフラーの間にはジェドエフラーと言う王が在位している。
  16. ^ メンカウラー王。
  17. ^ 実際にはサイスに王宮が置かれたのは第26王朝時代のことである。
  18. ^ 第25王朝のシャバカ王。実際には先王のピィの時には既にエジプトの大半を支配下に収めており、シャバカが全エジプトを掌握した。
  19. ^ 実際にはエチオピア王のエジプト支配は数代にわたる。
  20. ^ アッシリア王センナケリブ。実際はアッシリア侵攻時のエジプトはエチオピア支配下にあった。
  21. ^ 実際にはこの迷宮を築いたのはアメンエムハト3世(モイリス)である。
  22. ^ 第26王朝の初代王プサムテク1世。以下第26王朝についての記述であり、実際に即位した王たち全員について詳細に記されている。
  23. ^ ネコースはネカウ1世(ネコ1世)を指す。実際にはネカウ1世はエチオピア支配の後にアッシリア王の下でサイス王とされていた。プサムテクは父の死後にアッシリアから「エジプトの王」と認められ、その後アッシリアの傀儡から抜け出して第26王朝を開いた。
  24. ^ アピス。メンピスの聖牛。
  25. ^ ペリシテ人の町アシュドド。
  26. ^ この言葉は実在するようだが、この場合羊の鳴き声の擬声語だろうと考えられている。
  27. ^ ネコースはネカウ2世、プサンミスはプサムテク2世に当たる。
  28. ^ アプリエースはウアフイブラー、アマシスはイアフメス2世に当たる。この戦いは前570年に起こったものである。
  29. ^ イアフメス2世の治世は前570〜前526年、ソローンの改革は前594のこととされるためこれは時系列が一致しない。
  30. ^ プサムテク3世。第26王朝最後の王。

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