2018年6月29日
孟子  白山文


 
 儒学が魯の地に誕生して凡そ2500年が経つ。斯文は時に苦難に直面して退けられ、時に尊ばれて用いられ、数々の浮沈を経験して今に至る。ある人問う、果たして今はどうか。遺憾にも私は見識が浅く時事に暗いため、その質問への回答は差し控えさせていただきたい。
 さて夫子の道2500年を振り返るとき、最重要なのは孔子であることは疑いようがない。周公の定めた礼を復興し、道を3000人の弟子に受け継いだという功績があるからだ。ではその次に大切な人物は誰であろうか。これには様々な議論があるだろうが、やはり孟子だろうと言えよう。彼は孔子より僅か百年後の人物で、その教えを受け継ぐこと甚だ近い。さらに韓愈、二程、朱熹へといたる大きな流れにおいて、孔子と彼らの結節点となったのは孟子に他ならない。大略をつかむため孟子について知ろうではないか。

 孟子その人
 孟子、諱は軻、字は子與。鄒の人である。前372年出生、前289年死没といわれる。この紀年は元の程復心がその著『孟子年譜』[1]にて定めたものであり、残念ながら完全に正確かは断言できないが、状況証拠から正しいといってよかろう。
 彼の前半生には不詳な点が多いが、いくつかの逸話が伝わっている。即ち孟母三遷、孟母断機の故事である。母の熱心な教育もあって、孟子は学問に打ち込み子思の門人に師事した。
 成長した孟子は立派な学者となった……と言いたいところであるが、若いころの彼はやはり未熟だったようだ。妻の私室へ入り裸の妻を目撃して無礼な態度を取り、彼女を怒らせてあわや離婚の危機に至っている。この時も孟母のとりなしにより事なきを得た。孟子は「礼」の何たるかを改めて学んだことだろう。
 やがて孟子は自らを孔子の後継者と位置づけ、その事業を継承することを生涯の使命とした。曰く、「由堯舜至於湯、五百有餘サイ(歳の小を捗の右下部分にした字)、若禹・皋陶、則見而知之、若湯、則聞而知之。由湯至於文王、五百有餘サイ、若伊尹・ライ(草冠に來)朱則見而知之、若文王、則聞而知之。由文王至於孔子、五百有餘サイ、若太公望・散宜生、則見而知之、若孔子、則聞而知之。由孔子而來至於今、百有餘サイ、去聖人之世、若此其未遠也。近聖人之居、若此其甚也。然而無有乎爾、則亦無有乎爾」と。つまり、堯舜から湯王まで五百年、湯王より文王まで五百年、文王より孔子まで五百年、だが孔子より孟子まで100年も経たない。しかも孔子の魯と我が鄒はこんなにも近い。私こそが孔子の後継者だ、ということである。
 しかし孟子の時代、儒家は難敵に直面していた。楊朱・墨テキ(擢のつくり)の徒が天下に横行していたのである。楊朱[2]は究極の利己主義を唱え、墨テキ[3]は極端な功利主義を主張して、ともに儒家を非難した。また法家[4]、農家[5]、名家[6]、縦横家などの諸子が争いて起こり、議論はますます盛んとなって、何が正しいか全く決着を見なかった。ここに至り孟子は楊墨を退け諸子を論破して、儒家を再興することを決心したのである。
 彼は魏恵王[7]に、次いで斉宣王[8]に遊説した。当時の諸侯は即戦力となる遊士を求めていたからである。しかし孟子はいずれでも重用されることはなかった。諸侯が望んでいたのは富国強兵であり、あるいは戦争(戦闘)に勝利する方法だった。孟子が唱えたのは堯舜・三代の徳を以て民を利する方法であり、需要に合致しなかった。
 失望した孟子は故郷に退き、弟子の万章とともに著作に励み、『孟子』を著した。同書は不朽の名作として受け継がれ、孟子の思想を今日に伝えている。

 孟子の思想
 孟子の思想は、以下の四点に集約される。即ち、
 (1)伝統制度の重視
 (2)王道政治
 (3)性善説
 (4)神秘主義
である。それぞれが密接に関わり合っているが、ここでは順を追って見ていこう。
 
(1)伝統制度の重視
 これは概ね孔子の立場を継承したものであるといえよう。孟子も『詩』『書』をはじめとする六経[9]に通じていた。そして孔子と同じように、弟子をとり六経による教育を行っていたようだ。
 また孟子は周代の制度を擁護する立場をとった。周代に聖人が実行した理想的な政治を今の世に復活させるという主張は、孔子の言に違わない。だが孟子は孔子からさらに一歩進んで、周制を具体的に描写している。公・候・伯・子・男からなる五等爵制度。正方形の田地を「井」の字型で境界を引いて九等分する井田制[10]。諸侯・卿・大夫・士の身分制と、それぞれの土地の所有量。農民の五等の身分制。以上は孟子によって明らかにされ、今日まで伝わっている。
 ただし孟子の記すところの周礼をそのまま事実とみなすことは、少々危険かもしれない。孔子以来、儒家の基本的態度が「述べて作らず[11]」だったとはいえ、主張には幾分かの創作もあるだろう。寧ろ古の聖人の言行や聖王の政治に仮託し、祖述の形をかりた創作を行ったといってもよい。これにより自説に権威付けを行い、正統性を付与したのである。孟子もまた古代の周礼という形をもって、新秩序を説いたのだろう。
 
(2)王道政治
 孔子が生きた春秋時代とは、諸侯が覇権を求めて抗争に明け暮れる覇者の時代であった。今孟子の生きる世となり、諸侯は富国強兵に努めて戦争は一層盛ん、下剋上が相次ぎ、最早秩序は崩壊した。
 そこで孟子が唱えたのが王道政治である。これは後世の言葉を借りて民本主義[12]といってもよい。次の言葉が最もよく表している。曰く、「民為貴、社稷次之、君為輕。是故得乎丘民而為天子、得乎天子為諸侯、得乎諸侯為大夫。」と。即ち、君主は民の支持があって初めて君たり得るのであって、最も尊い存在こそが民である。そのために王者は徳を以て全ての制度を人民のために定めなければならない。そして人民は喜んでこれに従うのである。覇権を得んという野望のため人民を酷使し、日夜戦争を続けて武力で人を服従させる「覇」[13]との明確な対比にして、当時の為政者への痛烈な批判である。
 王道の実現のため、つまり民を本とする政治をするためには、君主はその地位の根拠として最大限の仁徳を身につけなければならない(徳治主義)。仁徳なき君主はその君主たる資格を喪失し、「残賊」へと転落する。武王が紂王を伐ったことは君主への弑逆にはあたらない、ただ一人の男を誅しただけであるとは、孟子の弁である。こうして彼は易姓革命を正当化したのだ。目上の人間に盲従することを否定したわけである。
 彼は聖人とされる堯舜[14]の治世を至高とした。彼によれば、堯舜の政治とはまさに徳を以てする仁政であった。さらに二聖人は、最高の政権移譲とされる禅譲を実現させている。有徳の聖人たる君主が、若い聖人を宰相に推挙し、政を共にする。老聖人が崩ずると位は若い聖人へと受け継がれる。これこそが真の禅譲[15]である。一方で孟子は、孔子にならって文王・周公をもまた尊んでいるため、王位の世襲は否定していない。論理の矛盾というほかない。ただしこのことには、墨家が禹王を持ち上げたため、儒家としては対抗してさらに古い堯舜を持ち出さなければならなかったという事情があることを付け加えておく。
 また孟子は民本主義を主張したとはいえ、あくまで身分制には反対していない。寧ろ徳のある者は為政者となり、徳無き者は人民となるという分業と互助を推進している。これは当時行われていた農家の「君臣兼耕」説に対抗してのものである。万民が同じ仕事をしたら天下は無秩序になるというのがその根拠だ。
 
(3)性善説
 さて前項に述べた通り、孟子は仁政の重要性を説いた。では仁政は何によって可能となるのか。それは人の本性が「善」だからである。曰く、「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有ジュツ(立心偏に朮)タ惻隱之心。非所以ナイ(内の人を入にした字)交於孺子之父母也、非所以要譽於コウ(郷の艮の上に`)黨朋友也、非惡其聲而然也。由是觀之、無惻隱之心、非人也。無羞惡之心、非人也。無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。惻隱之心、仁之端也。羞惡之心、義之端也。辭讓之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣。若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母。」と。人には皆「不忍人之心」があり、他人の苦しみを見逃すことができない。だから君主は仁政を行わざるを得ず、個人においても、井戸に落ちそうな幼児を下心なしに自然と助けるのである。
 「不忍人之心」があるとは、人の性が善であることに等しい。しかし彼によれば、人が持っているのはあくまで善の端緒であって、完全に善なる心そのものではないという。善の端緒を拡充することで人は仁・義・礼・智へと至り、やがては聖人の域に到達する[16]ことができる。逆に四端を拡大させなければ、人は禽獣とほとんど変わらない存在へと成り下がってしまう。
 なお孔子は性について明言していない。そのためか性善説は後世、大いに議論を起こしてしまった。荀子は性悪説を、揚雄は性善悪混説を、韓愈は性三品説[17]をそれぞれ唱えている。性善説か性悪説か、或いはそのどちらでもないのか[18]。現在に至るまで決着はつかない。
 
(4)神秘主義
 孔子は鬼神を語らなかったし、況してや生死についてさえ言及しなかった。それに対して孟子は神秘的な議論を多く残している。
 孟子は度々「天」という語を用いている。それは単に我々の頭上にある存在、つまり天空をさすのではない。彼の言う天とは主催者であり、運命であった。
 ここで先述の王道政治と性善説が密接に関わってくる。孟子によると、君主は有徳の聖人が天命を受けてなるものだが、人は天命を知るすべはない。そこで天は民意や自然を通じて、その意思を表すという。即ち自然災害や民衆の反乱は君主の徳のなさが原因であり、逆に君主が相応しければ民はその人を喜んで迎え入れる。このように人為と天意が密接に関わり合うことを、天人相関という。天人相関説[19]が盛んになるのは漢代だが、その端緒を開いたのは孟子といえよう。
 一方で性善説において、人の善なる性の「四端」は天より授かったものだとしている。「心を尽くす」ことで人はその性を知り、性を知れば則ち天を知ることができる。「心を尽くす」とは、人が持つ善の端緒をゆっくりと止まることなく拡大させ、自己と他人の境界線を取り払うことである。そして天を知ることは、万物と心の障壁をなくし世界と一体化することに他ならない。こうした個人単位で至高の精神状態を、孟子は「浩然の気[20]」と呼んだ。   

 後世の孟子
 今日でこそ孔子の継承者という地位が固まっている孟子であるが、その評価は長らく高くないものだった。
 荀子は孟子と正反対の性悪説を提唱し、孟子に対して激しい攻撃を加えた。曰く、孟子は「甚僻違而無類、幽隱而無セツ(説の`´を八にした字)、閉約而無解」である。酷く偏向的で秩序はなく、神秘的すぎて説明を欠き、独りよがりで解答を出さないということだ。そしてこんなものを信ずるのは「溝猶モ(矛と攵の下に目)儒」、つまりアホな儒者くらいだと締めくくる。とてつもない酷評である。
 漢の時代、中国史上初めて書物の分類が行われた。劉向・劉キン(音偏に欠)父子による『七略』である。ここでは『孟子』は「諸子略」、つまり諸子百家の書に分類された。『七略』を基礎にした『漢書』芸文志でも同様である。形式こそ違うが唐代の『隋書』経籍志でも子部に入れられ、この立場は受け継がれた。孟子は長らく諸子百家と同列扱いだったということである。
 状況が変わるのは宋の時代である。南宋の朱熹が体系化した宋学(朱子学)は、孟子の学説を多く継承するものだった。そこで朱熹は『孟子』を四書の一つと定めたのである。朱子学が正統と位置付けられると、孟子は孔子に次ぐ大儒としてひろく尊ばれるようになった。

 
 孟子という人、そしてその思想を簡略に紹介させて頂いた。どのように思われただろうか。朱熹のように彼の説を尊び、継承していく立場だろうか。或いは現代の荀子として、彼に容赦ない酷評を浴びせるだろうか。
 思うに孟子は功罪を併せ持つ人物である。王道政治、則ち民本主義や易姓革命は当時において極めて革新的な主張である。為政者は民に認められてこその存在であるということは、民主主義を採用する国家が地球上で多数を占める現状において尚更説得力を増す。現在では為政者にとって大切なのは徳ではなくなったとはいえ、少なくとも人の上に立つ者はそれに相応しい資格、例えば適切な能力などを身につける必要があるだろう。人が存在する限り有効な説ではないか。
 その反面、彼が神秘主義に偏りすぎてしまったことは否めない。神秘的な議論というのは往々にして決着を得ないものである。孔子が性について言及せず、また鬼神を語らなかったのは、余計な議論を避けるためではないか。蘇軾は「子思論」において、性についての議論が起こり、儒学が内輪もめに陥ったのは孟子の責任であるとして批判している。また散見される論理の矛盾についても隠すことができない。こうしてみると、荀子が酷評したのもまた遠からずということか。
 しかし冷静に考えると、人が誕生して以来その営みが完璧だったことがどうしてあろうか。人は何かすれば必ず過ちを犯すのである。孟子とてその例外ではない。その説の正しいところは取り、誤ったところは去り、折衷していくほかないといえよう。どうしてそのすべてを妄信し、或いはすべてを捨てることがあろうか。
 人という者はともすれば完璧に拘って極端に走る。しかし自らを完璧たらしめんとすればその精神を破壊し、他者に完璧を望めば徒に敵をつくる。それは破滅の予兆なのである。嗚呼哀しいかな!


    注釈
  1. ^ 清代の『四庫提要』によると、この書は明代の偽作という説がある。ここではその是非を問題にしない。
  2. ^ 何処の人か、或いは生没年など、一切不詳。『淮南子』より孟子から若干世代が先であろうと推測される。彼の思想を継承し発展させたのが後の道家である。
  3. ^ 『史記』は彼を宋の大夫だろうと推測する。生没年不詳。墨家の祖として儒家を激しく攻撃した。なお墨家については非攻、兼愛などの思想がある。
  4. ^ 孟子に先立つこと数十年、公孫鞅(?〜前338)が秦で変法を行っている。
  5. ^ 許行(生没年不詳)が祖。万民が耕作することを主張した。
  6. ^ 公孫竜(生没年不詳)が祖。「白馬非馬説」で知られるが、詭弁家といわれる。
  7. ^ 諱はオウ(火二つの下にワ冠の下に缶)。在位前370〜前319。『孟子』では梁恵王と呼ばれている。
  8. ^ 諱は辟彊。在位前319〜前301。学者を多く招き「稷下の学」を興した。孟子もまた稷下の学士となったということだろうか。
  9. ^ 易』『書』『詩』『禮』『楽』『春秋』。聖人の言を記したものとして尊重される。『楽』のみ焚書坑儒で滅亡し、今日では五経なってしまった。
  10. ^ 単に九つに分けるというときと、真ん中を共同で耕作させるという場合がある。周文王の実施した制度。
  11. ^ 古文学派の説。今文学派は「作りて述べず」、則ち五経は孔子の創作であり、その思想を余すところなく述べたものだという。両者を折衷して考えるのがよいだろう。
  12. ^ 先述する周代の制度は民本主義的だったとは考え難い。論理的に矛盾しているともいえるが、やはりここは「述べて作らず」と創作のバランスが大切である。
  13. ^ 孟子によると当時の諸侯は覇者未満の存在である。「為政者失格」とでも言うべきか。
  14. ^ 堯舜と対になるのが「桀紂幽氏vである。なお脂、は幽王より前時代の人だが、語感を整えるためかかる順番となっている。
  15. ^ 歴史上初めて禅譲を実現させたのは前漢の王莽だといわれるが、彼の場合は禅譲の名を借りたクーデターに過ぎない。
  16. ^ 「聖人学びて至るべし」とは朱子学のスローガンである。
  17. ^ 人の性には上善・中人・下悪の三等があり、中人は善悪の間で揺れ動くという説。
  18. ^ どちらでもないものとして、王安石や蘇軾が主張した性無善悪説がある。宋代には性についての議論がことさら激しくなった。
  19. ^ 代表的なものが董仲舒の「災異説」である。瑞祥の出現などもこれを受けてのものか。
  20. ^ こうした自己と宇宙との一体化について、体系的に突き詰めていったのが朱子学である。朱子学では孟子の思想を継承し、人の性こそが理であるとした(「性即理」)。朱子学を批判して興った陽明学は心に利を求めた(「心即理」)。理を追及する姿勢から、これらは漢唐訓詁学と対比して宋明理学と呼ばれる。

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