2018年11月
ギリシア王国におけるクーデター 香宮希


はじめに

ギリシア王国は1832年にオスマン帝国から独立して以来、1974年に国民投票で王政が廃止されるまで、長期にわたって政治的に安定することはなく、政権交代はしばしばクーデターの形をとった。本稿では、ギリシア王国で起こったクーデターを概観する。なお、一時的に王政が廃止されていた1924年から1935年の期間に起こったクーデターについても述べる。また、ギリシアでは1923年3月1日にグレゴリウス暦を採用するまでユリウス暦を用いており、本稿においても1923年3月1日より前の日付はユリウス暦のものである。


1843年:オソン1世に対する憲法制定要求

列強の支援によって独立を果たしたギリシア王国では、列強の意向によってバイエルン国王ルートヴィヒ1世の次男オットーがオソン1世として国王になった。宮廷ではオソンに伴われてやってきたバイエルン人が幅を利かせ、ギリシア人は政治的に軽視されていた。独立戦争を戦った軍人を中心にバイエルン人支配に対する不満は高まる一方だった。

1843年9月3日、政治家数人と独立戦争を戦った軍人たちが中心になってクーデターが起こった。反乱軍は宮廷を包囲し、国王オソンに対して憲法制定を要求した。オソンはわずかに抵抗の意志を示したが、最終的に反乱軍に屈した。11月に憲法制定のための国民議会が招集され、1844年3月に憲法が発布された。この憲法は市民の平等や人身売買の禁止を定め、出版・言論の自由を保障し、賃金労働者以外の25歳以上の男性に選挙権を認めたが、一方で、立法、行政、司法に関する国王の権限を大幅に認めるものでもあった。


1862年:オソン1世の追放

1843年のクーデターの結果、憲法が制定されたが、国王の権限は大きく、国王オソン1世は依然としてギリシア政治の主宰者であった。しかし、オソンには男子がなく、バイエルン王家のオソンの兄弟たちも正教会の信者でなければならないという王位継承の条件を容れる気はなかったため、後継者の問題が表面化していた。また、専制を志向して憲法を形骸化しようとするオソンに対して不満が高まっていき、1861年2月には王妃アマリアの暗殺未遂事件が起こり、その犯人が英雄視され、1862年2月には陸軍が同時多発的に反乱を起こすなど、反オソンの動きが顕在化していた。

1862年10月23日、陸軍はクーデターを起こし、国王オソンの廃位、新憲法の制定と新国王の選出のための議会の招集を求めた。列強は領土拡張を掲げて好戦的な態度を強めつつあったオソンを見捨ててクーデターを支持した。オソンは列強の忠告に従ってギリシアを離れて故国バイエルンに向かった。ギリシア人は新国王としてイギリス女王ヴィクトリアの次男アルフレッドを望んだが、列強は列強の王族から国王を出すことに難色を示し、デンマーク王子クリスチャン[1]の次男ゲオルクがゲオルギオス1世として国王になった。ゲオルギオスは早期の新憲法制定を求め、1864年11月に新憲法に宣誓することになった。新憲法では国民主権の原則が掲げられて王権は著しく制限され、国王権力の補完勢力であった上院も廃止されて議会は一院制になった。議員は21歳以上の男子による秘密投票の普通選挙で選出され、選挙区の代表ではなく国家の代表であると規定された。


1909年:ヴェニゼロスの登場

1908年、オスマン帝国統治下のマケドニアで統一と進歩委員会が青年トルコ人革命を起こすと、これを好機とブルガリアは完全独立を宣言し、オーストリア=ハンガリーはボスニアとヘルツェゴビナを併合した。また、クレタ島ではギリシア系住民がギリシアとの統一を宣言し、エレフテリオス・ヴェニゼロスらの5人委員会が国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した。しかし、ギリシア政府は列強の圧力に屈し、クレタ島を併合することができなかった。この外交上の失策に加え、経済の失速から生じた財政赤字を増税で乗り切ろうとする政府の対応、軍隊の最高司令官の王太子コンスタンディノスが自分の部下を優遇することなどに軍隊の下級将校は不満を高めていった。そうした中、1908年の末に軍人ニコラオス・ゾルバスが主導して秘密結社「軍事同盟」が結成され、青年トルコ人革命を模範にして反乱を計画していた。

1909年8月15日、軍事同盟が指揮してアテネ守備隊はアテネ郊外のグディに集結し、内閣の退陣、王太子コンスタンディノスの軍隊からの除隊などの軍事改革、そして政治、司法、経済などの各種改革を要求した。政府はこの要求を受け入れ、辞任したディミトリオス・ラリスに代わって首相となったキリアクリス・マヴロミハリスは軍事同盟の圧力の下でこれらの改革を実行した。また、これらの改革は9月末にアテネで行われた大規模なデモで民衆に支持された。しかし、軍事同盟の政治への介入は議会の反発を招いたため、政府は軍事同盟と議会との板挟みになり、窮地に陥った。袋小路を脱するため、クレタ島で頭角を現していたエレフテリオス・ヴェニゼロスが呼び寄せられることになった。ヴェニゼロスは内閣の退陣、軍事同盟の解散、憲法改正のための議会の招集を提案した。国王ゲオルギオス1世や各政党の代表者はこの提案を受け入れた。1910年1月に首相のマヴロミハリスは辞任し、ステファノス・ドラグミスが選挙管理のための暫定首相となり、3月には軍事同盟が解散した。8月8日には総選挙が行われ、ヴェニゼロス支持派が勝利し、10月にヴェニゼロスが首相となった。ヴェニゼロスは安定多数を得るために再度議会を解散し、11月28日に総選挙が行われることになった。旧来の政党はこの議会の解散が違法であるとして選挙をボイコットしたため、ヴェニゼロスが新たに組織した自由党が362議席中307議席を獲得して大勝し、憲法改正と政治改革の基盤が整った。1911年5月20日に憲法改正が行われ、人権保障に関する規定が強化されるとともに、議会の改革などの政治制度改革も行われた。その後もヴェニゼロスは首相として各種改革を行い、その死までギリシア政治の中心人物であり続けた。


1916年:大戦への参戦を巡る対立による国家分裂

1912年から1913年にかけてギリシアは二度のバルカン戦争を戦い、広大な領土と多くの人口を得た。その一方で、領土恢復を目指すオスマン帝国やブルガリアの脅威、新たな領土や新たな国民の統合、そして、戦争による巨大な財政赤字などの問題を抱えることにもなった。首相のエレフテリオス・ヴェニゼロスは国力恢復のため、しばらくの平和を望んでいたが、ヨーロッパ中央の争いにギリシアも巻き込まれていくことになった。当時のギリシアでは伝統的に保護列強のイギリス、フランス、ロシアとの関係が重視されていたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義弟である国王コンスタンディノス1世[2]をはじめ、参謀本部や政府内の保守派はドイツに親近感を持っており、ドイツやオーストリア=ハンガリーと密接な関係を結ぶことを望んでいた。

1914年、オーストリア=ハンガリーとセルビアの間で戦端が開かれると、ヨーロッパ諸国は次々にこの戦争に加わり、オーストリア=ハンガリーとドイツの中央同盟国とセルビア、イギリス、フランス、ロシア、日本などの連合国との間で第一次世界大戦がはじまった。ギリシアは対ブルガリア戦について軍事同盟を結ぶなど、セルビアと良好な関係を持っていた。しかし、ギリシアの参戦によってオスマン帝国とブルガリアが中央同盟国に与して参戦することを恐れる連合国と、中央同盟国のドイツと敵対することを避けたいギリシア国内の親ドイツ派の思惑が一致し、ギリシアは中立を保つことになった。しかし、同年中にオスマン帝国が中央同盟国側で参戦すると、1915年1月、イギリスは小アジア西海岸を与えること見返りにギリシアの参戦を求めた。首相のエレフテリオス・ヴェニゼロスはこれに強い関心を示したが、イオアンニス・メタクサスを中心とする親ドイツ派の参謀本部は連合国側での参戦に反対し、国王コンスタンディノスも参謀本部に同調し、3月にヴェニゼロスは首相を辞任することになった。5月31日に行われた総選挙でヴェニゼロスを支持するヴェニゼロス派の自由党が勝利し、ヴェニゼロスは再び首相になったが、参戦を巡るコンスタンディノスとの対立は続いた。10月4日についにブルガリアが中央同盟国側で参戦すると、議会はセルビアとの同盟を守ってセルビア支援のための派兵を決議したが、コンスタンディノスは依然反対し、翌日の5日にヴェニゼロスを解任した。ヴェニゼロス派はコンスタンディノスの過度の政治介入を違憲であるとし、12月6日に行われた総選挙では抗議のために棄権した。一方で10月には連合国軍がテッサロニキに上陸してエーゲ海北部を占拠し、12月にはケルキラ島を占拠するなど、連合国による軍事的圧力も高まっていっており、1916年7月にはブルガリア軍がギリシア領のマケドニアに侵攻することにもなった。そうした中、マケドニアのヴェニゼロス派指導者たちは秘密結社「民族防衛」を結成して現地の陸軍部隊に接近していった。

1916年8月17日、マケドニアの中心都市テッサロニキで民族防衛の後ろ盾を得て陸軍部隊がクーデターを起こし、ギリシア北部の実権を握った。これに呼応してエレフテリオス・ヴェニゼロスはアテネを発ち、クレタ島のハニアでギリシア国民に対してセルビアとの同盟を守ってブルガリアと戦うよう呼び掛けた。さらにヴェニゼロスはテッサロニキに向かい、9月28日、ヴェニゼロス、陸軍将校パナギオティス・ダングリス、海軍提督パヴロス・クンドゥリオティスの3人を中心とする「国家防衛暫定政府」(以下、テッサロニキのヴェニゼロス派政府を「テッサロニキ政府」、アテネの王党派政府を「アテネ政府」とする。) を成立させた。「国家大分裂」の始まりである。連合国は内乱を激化させることを恐れてテッサロニキ政府を承認することはしなかったが、テッサロニキ政府に対しては費用を援助し、アテネ政府に対しては軍艦の引き渡し、陸上砲台の武装解除や中央同盟国の公使館員の追放を要求するなど、テッサロニキ政府を支援してアテネ政府に圧力を加えていった。12月には連合国軍とアテネ政府がアテネで軍事衝突を起こすことにもなった。この軍事衝突の後、アテネ政府は支配地域内でヴェニゼロス派の弾圧を始める一方、連合国はテッサロニキ政府を承認し、アテネ政府に賠償金の支払いを求めるとともにその支配地域を封鎖した。1917年6月10日、連合国はついにコンスタンディノスの退位を要求した。コンスタンディノスは正式に退位はしなかったが国外に逃れ、長男の王太子ゲオルギオスはコンスタンディノスに付き従ったため、次男のアレクサンドロスがアレクサンドロス1世として新たな国王になった。6月27日にヴェニゼロスはテッサロニキ政府を率いてアテネに帰還し、新たな統一政府の首相になった。ギリシアは7月2日に中央同盟国に宣戦布告し、連合国として第一次世界大戦を戦うことになった。「国家大分裂」は解消されたが、これはギリシア国内の王党派とヴェニゼロス派の長い抗争の始まりでもあった。


1922年:ギリシア第二共和政の成立

第一次世界大戦後、領土拡大を目指すギリシアはオスマン帝国領の小アジアに侵攻し、ギリシア=トルコ戦争を起こしたが、ムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府軍に敗北を重ねることになった。そうした中、戦争を主導していた国王コンスタンディノス1世[3]とコンスタンディノスを支える王党派への反発が高まり、エレフテリオス・ヴェニゼロスを支持するヴェニゼロス派が勢力を伸ばしていた。

1922年9月11日、ヴェニゼロス派の軍人ニコラオス・プラスティラス率いる「革命委員会」がクーデターを起こした。国王コンスタンディノスは退位し、王位は彼の次男のゲオルギオスがゲオルギオス2世として継いだ。また、革命委員会はギリシア・トルコ戦争での責任を口実に軍事法廷を開き、政治家、軍人6人に銃殺刑の判決を下した。その後、民政に移管するべく1923年12月16日に総選挙が行われることになったが、10月22日に王党派によるクーデター未遂が起こった。これによって王党派は選挙を棄権することになり、議会はヴェニゼロス派など反王党派一色に染め上げられることになった。革命委員会は議会への権力移譲を控えて、国王ゲオルギオスに対して、議会が政体を決定するまでは国外に退去するよう要求した。ゲオルギオスはこれに従い国外に退去し、海軍提督パヴロス・クンドゥリオティスが摂政となった。1924年1月に革命委員会は議会に権力を移譲し、ヴェニゼロス派の首領エレフテリオス・ヴェニゼロスが新たな首相となった。ヴェニゼロスは2か月以内に憲法についての国民投票を行うことを提案したが、アレクサンドロス・パパナスタシウら共和派は直ちに共和政を宣言して事後的に国民投票で承認を得るべきだと反対した。王党派との和解が進まなかったこともあり、国内の動揺を収拾することができなかったため、ヴェニゼロスは1924年2月に1か月足らずで辞職した。その後はパパナスタシウら共和派の首相が続き、1924年3月25日にクンドゥリオティスを大統領として共和政を宣言した。そして、共和政は4月13日に国民投票で3分の2位以上の賛成を得て追認され、ギリシア第二共和政が成立した。


1925年:パンガロス政権の成立

先に述べた経緯によって、ギリシア第二共和政が成立したが、王党派の勢力は依然として無視できないほどにあり、反王党派もヴェニゼロス派や共和派に分かれていて一枚岩ではなかったため、政局は安定しなかった。はじめ政権を握っていた共和派に代わってヴェニゼロス派が政権の座についたが、ヴェニゼロス派もリーダーシップを確立することはできなかった。そうした中、政局の迷走に対して軍部の不満が高まっていった。

1925年6月25日、陸軍のテオドロス・パンガロスは海軍とも手を組んでクーデターを起こし、政府を打倒して新政府を組織した。また、議会を解散し、新憲法を公表した。新憲法は1926年1月に選出される議会に提出することとしていたが、選挙は無期限延期された。こうして、パンガロスに無制限の権力が与えられることになり、パンガロスによる軍事政権が成立した。


1926年:パンガロス政権の打倒

先に述べた経緯によって、テオドロス・パンガロスの軍事政権が成立したが、その統治は決してパンガロス以前の政権より優れたものではなかった。内政面では、新聞に検閲を課し、対立者を追放するなど強権を振るい、女性のスカートの最短の長さを法令で定めるという頓珍漢な政策も実行した。外交面では、イタリアとの通商条約締結の交渉を開始し、ユーゴスラヴィアとの友好条約の交渉をまとめるなどの成果もあったが、陸軍部隊がブルガリアに侵攻し、国際連盟の介入によって軍隊の引き上げと補償金の支払いを強いられるという粗相もあった。パンガロスは1926年4月に新憲法が施行されると発表し、その憲法のもと、対立候補のコンスタンディノス・デメルディスを立候補辞退に追い込み、唯一の大統領候補として大統領選挙に臨んで大統領になった。しかし、7月になるまで首相を務める人物が見つからないなど、政権の崩壊はもはや時間の問題だった。

1926年8月22日、陸軍のゲオルギオス・コンディリスがクーデターを起こし、パンガロスを大統領の座から引きずり下ろし、3月まで大統領を務めていたパヴロス・クンドゥリオティスを大統領に復帰させて自らは首相になった。コンディリスは11月に総選挙を行ったが、王党派も反王党派も多数派を形成することはできなかったため、超党派政権「世界教会内閣」が成立し、超党派政権下で各派の和解のための調整が行われた。ギリシア第二共和政は一応の安定を見ることになった。


1933年、1935年:二度のクーデター未遂と王政復古

1933年、ギリシア第二共和政の安定には終止符が打たれることになった。「世界教会内閣」の後、短期間の中断をはさみつつもヴェニゼロス派の首領エレフテリオス・ヴェニゼロスが首相を務めていたが、3月5日に行われた総選挙では、ヴェニゼロス派の自由党が王党派の人民党に敗れる結果となった。同日、ヴェニゼロス派にとっては許しがたい選挙結果に対して、1922年のクーデターの首謀者でもあったヴェニゼロス派のニコラオス・プラスティラスがクーデターを画策し、失敗するという事件が起こった。新たに首相になった人民党のパナギス・ツァルダリスは共和国憲法の受け入れを宣言したものの、軍隊の共和政支持者の追放などを行い、着実に王政復古への布石を打っていった。1935年3月1日、王政復古への道を進むツァルダリス政権に対して、プラスティラスは再度のクーデターを画策したが、これも失敗に終わり、ヴェニゼロスとプラスティラスには欠席裁判で死刑の判決が下され、クーデターの協力者たちも厳罰に処された。また、いまだに反王党派の勢力が強かった上院[4]は廃止されることになった。戒厳下で行われた6月9日の総選挙で反王党派は抗議のために棄権したため、人民党と国民急進党からなる王党派の選挙同盟が300議席中287議席を得て大勝した。

総選挙での勝利によって、王党派は王政復古に王手をかけることになったが、それに待ったをかけたのは他でもない人民党の党首で王党派政権の首相のツァルダリスであった。ツァルダリスは慎重な人物で、共和政の廃止を性急に行おうとはしなかったし、下院が王政復古の国民投票を発議した後も、政府は王政復古に好意的であると声明せよという急進的な王党派の圧力に抵抗した。また、王党派の中でもツァルダリスのような穏健な王党派が多数を占めていた。しかし、高級将校のグループがツァルダリスに対して直ちに王政復古を行うか辞任するかの二択を迫り、ツァルダリスは辞任を選んだため、10月10日、1926年のクーデターの首謀者であり、国民急進党の党首として急進的な王党派の中心人物となっていたゲオルギオス・コンディリスが新たな首相になり、国民投票を前に王政復古を宣言した。王政復古は11月3日に行われた国民投票で追認されたが、この国民投票では国民の97%が王政復古に賛成したとされており、軍隊の介入によって操作されたとされている。経緯はともあれ、元国王のゲオルギオス2世が再び玉座に舞い戻ることになった。


1936年:八月四日体制の成立

王政復古は1933年から続く混乱に終止符を打ちはしなかった。首相のゲオルギオス・コンディリスは国王ゲオルギオス2世が進めようとした政治犯の恩赦に反対して辞任した。アテネ大学法学部教授のコンスタンディノス・デメルディスが暫定首相に任命され、恩赦を行うとともに、ヴェニゼロス派がボイコットする中で行われた総選挙のやり直しを求めて議会を解散した。1936年1月26日に総選挙が行われたが、結果は政治的安定をもたらすものではなかった。300議席のうち、人民党など王党派は143議席、自由党など反王党派は141議席で、いずれも過半数を制することはできず、15議席を獲得した共産党がキャスティングボートを握ることになった。自由党の党首であるテミストクリス・ソフリスと人民党の党首であるパナギス・ツァルダリスは協力[5]のための交渉を行ったが、それぞれの党の強硬派が重い足枷となった。また、両党はそれぞれ共産党の支持を得るための秘密交渉も行ったが、この情報は当然漏洩し、陸軍に不安を与えることになった。そうした中、4月に暫定首相のデメルディスが世を去り、国王ゲオルギオスは議会にわずか7議席を有する急進的な王党派の自由思想家党の党首であるイオアンニス・メタクサスを首相に任命した。ソフリスはメタクサスによるクーデターを避けるため、メタクサスが40人の議院委員会の承認を条件とする布告によって統治できるようにするとともに、議会を5か月間休会することを提案した。この提案は受け入れられたが、議院委員会は議会の構成を反映したものであったから、実際には機能しなかった。メタクサスは新たに得た権力に基づいて、労働界の指導者の逮捕やストライキの非合法化などを行って労働運動を弾圧した。共産党はストライキを組織して反発し、8月5日に全国的なストライキを行うと宣言した。ストライキ予定日の2日前の8月3日には、5月に死去したツァルダリスに代わって人民党の党首になっていたイオアニス・テオトキスを伴って、ソフリスが自由党と人民党が連立政権を結成する旨を国王ゲオルギオスに提案したが、ゲオルギオスはすでにメタクサスに強い政府を作らせることに決めていたため、この提案を拒絶した。

1936年8月4日、共産党による全国的なストライキを翌日に控える中、国王ゲオルギオス2世は非常事態を宣言する勅令に親署して個人の自由に関する憲法の条項を停止し、次の選挙の日を定めることなく議会を解散した。次の選挙の日を定めずに議会を解散することは明らかな憲法違反であったが、以後10年にわたって議会が開催されることはなかった。これによって、首相のイオアンニス・メタクサスは無制限の権力を手にし、軍事力でストライキを阻止した。メタクサスによる独裁体制である八月四日体制が成立することになった。国民の大半はメタクサスの政治に賛同していなかったが、政党政治の長い混乱があったため、八月四日体制に反抗することもせず、ギリシアは独裁体制下ではあるものの、安定を手にすることになった。八月四日体制は第二次世界大戦中の1941年1月29日にメタクサスが死去するまで続いた。


1967年:軍事政権の成立

第二次世界大戦後のギリシアでは中道右派の政府と共産党系の武装組織との間で内戦が起こったが、アメリカ合衆国の支援を受けた政府が共産党系武装組織を下し、1949年に内戦は終結した。内戦終結後には最初期には中道派[6]の連立政権が成立したが、アメリカ大使館の干渉で選挙制度が改変されたこともあり、すぐに右派政党の国民結集党のアレクサンドロス・パパゴスが政権を担うことになった。中道派連立政権期には西側の軍事同盟である北大西洋条約機構に加盟し、パパゴス政権期にはアメリカ軍基地の常設化、諜報機関の設立が行われ、ギリシアは東西冷戦下で東地中海における西側の最前線になっていった。1955年にパパゴスが死去すると、国王パヴロス1世[7]は国民結集党のコンスタンディノス・カラマンリスを首相に任命した。カラマンリスは国民結集党を国民急進連盟に改組し、1956年2月19日の総選挙に臨んだ。この選挙は与党有利に仕組まれ、中道派と左派の選挙同盟が国民急進連盟の得票数を上回ったにもかかわらず、国民急進連盟が過半数を獲得し、カラマンリスが続投した。カラマンリスは1958年3月11日の総選挙でも1961年10月29日の総選挙でも勝利し、長期政権を築いた。カラマンリス政権下でギリシアは経済発展を遂げて1955年から1963年の間に国民所得は倍増することになり、中間層が台頭することになった。一方、右派による相次ぐ選挙干渉に対して民主化要求が起こっていた。また、カラマンリスがパヴロスとの対立から辞任に追い込まれるなど、右派にも動揺が起こっていた。そうした中で行われた1963年11月3日の総選挙では中道派の中央連盟が過半数には至らないものの勝利をおさめ、民主左派連合の支持を得て中央連盟のゲオルギオス・パパンドレウが首相になった。翌年1964年2月19日には再度総選挙が行われた。右派が権力を用いた選挙干渉を行うことができないこの選挙では中央連盟が過半数を獲得し、パパンドレウを首班とする中央連盟の単独政権が成立した。

第二次世界大戦後のギリシア政治は王家、軍隊、右派政権の三角同盟によって支配されていたが、中道派の中央連盟によるゲオルギオス・パパンドレウ政権の成立はこの一角を崩すものであり、従来の支配層は危機感を抱くことになった。また、パパンドレウは東側諸国との関係改善も進めたため、西側の首領アメリカ合衆国も警戒感を抱くことになった。こうした中、パパンドレウ首相の息子のアンドレアス・パパンドレウが軍隊内部の陰謀組織「アスピダ」の指導者であるというアスピダ事件がCIAによってでっち上げられ、右派はこの事件を利用して中道派政権に揺さぶりをかけた。また、首相のパパンドレウは軍隊の指揮系統の改革を進めるために国防大臣を兼任しようとしたが、国王コンスタンディノス2世[8]がこれを認めなかったため、1965年7月に駆け引きのために辞表を提出した。しかし、コンスタンディノスは辞表を受理し、パパンドレウは首相の座を追われることになった。これに対して民衆は各地で大規模なデモを行って反発した。コンスタンディノスは中央連盟を分断し、ステファノス・ステファノプロスに自由民主中央党を結成させて右派の国民急進連盟との連立政権を組閣させた。しかし、ステファノプロスは政治的混乱を収束させることはできず、パパンドレウと国民急進連盟の党首であるパナギオティス・カネロプロスの合意の下、1967年5月28日に総選挙が行われることになった。しかし、中央連盟の勝利は確実であったため、陸軍の一部はクーデターを画策した。

1967年4月21日、陸軍将校のゲオルギオス・パパドプロスらがクーデターを起こし、前検事総長のコンスタンディノス・コリアスを首相に担いで臨時政府を樹立した。国王コンスタンディノス2世もしぶしぶこの政府を承認し、ギリシア軍事政権が成立することになった。コンスタンディノスは速やかな議院内閣制の復活を望んでいたが、軍事政権は左派や中道派への弾圧は当然として、右派の政治家までも逮捕して既存の政治勢力すべてと敵対した。コンスタンディノスはコリアスと組んで12月13日にクーデターを画策するも失敗し、国外に逃れることになった。国王不在となったギリシアでは軍事政権によって摂政が置かれ、パパドプロスが首相として軍事政権を率いていくことになった。


1973年:軍事政権の内紛

先に述べた経緯によって、ギリシアでは軍事政権が成立していた。軍事政権は決して国民の支持を得てはいなかったが、コンスタンディノス・カラマンリス政権以降の経済成長を維持することができたため、大規模な反対運動はほとんど起こらなかった。また、アメリカ合衆国を中心とする北大西洋条約機構の諸国も口先では軍事政権の蛮行を非難しつつも、反共の砦になり得る軍事政権に対して何らかの具体的な行動に出ることはなかった。軍事政権の内部では首相のゲオルギオス・パパドプロスが同僚を排除して重要な大臣職や摂政を兼任して権力を強めていった。しかし、1973年に入ると軍事政権にほころびが生じ始めた。3月には学生たちがアテネ大学法学部を占拠する事件が起こり、5月には海軍が反乱を起こした。いずれも軍事政権を転覆させることはなかったが、動揺を与えたことに違いはなかった。6月1日、パパドプロスは亡命中の国王コンスタンディノス2世が5月の海軍反乱に関与していたとして王政の廃止と自らを大統領とする共和政の樹立を宣言した。この共和政は7月29日に行われた当然に操作された国民投票で追認され、大統領のパパドプロスは全国の戒厳令を一時停止し、1974年に総選挙を行うと約束した。しかし、11月にアテネ工科大学を占拠した学生を鎮圧するために武装警察を用い、20人以上の死者を出すと、軍事政権の内部でもパパドプロスに反対する動きが強まっていった。

1973年11月25日、軍事治安警察長官のディミトリオス・イオアニディスはクーデターを起こし、大統領のゲオルギオス・パパドプロスを逮捕した。後任として軍人のフェドン・ギジキスが大統領になったが、イオアニディスの言いなりであった。再び戒厳令が敷かれ、反対派への弾圧が再開することになった。


その後:民政移管と第三共和政の成立

頭のすげ替えに成功した軍事政権であったが、すぐに2つの危機に直面することになった。1つ目は1973年10月から起こった石油危機で、これによって政治的不満を好調な経済で吸収する道が閉ざされた。そして、2つ目はトルコとの戦争の危機である。1974年1月、エーゲ海のタソス島沖合で石油と天然ガスが発見されると、その採掘権を巡ってギリシアとトルコは対立を深めた。5月にはトルコ政府が海軍の護衛を伴う調査船の派遣を強行し、これに対してギリシアは動員令で応じたため、軍事衝突の危機に陥った。この危機は北大西洋条約機構の諸国による仲介で収束されたが、今度はギリシア系とトルコ系が混住していたキプロスでトルコとの衝突を招く事態が起こった。軍事政権は長年の懸案事項となっていたキプロスの併合を成し遂げるべく、その障害となっていたキプロス大統領のキプロス大主教マカリオス3世を排除しようとし、7月15日にキプロスでクーデターを起こさせ、マカリオスを追放して軍事政権を成立させた[9]。当然トルコはこれに反発し、7月20日にトルコ軍がキプロス北岸に上陸し始めた。ギリシアも軍隊に動員を命令し、ギリシアとトルコは戦争目前の状況になった。しかし、ギリシアの動員は大混乱となり、軍隊はトルコ攻撃の命令を拒否して文民政府の復帰を求めた。軍事政権は右派政治家と会合を重ね、かつての首相であるコンスタンディノス・カラマンリスを呼び戻して政権を担わせることに決めた。

1974年7月24日午前4時、ギリシアへ帰還したコンスタンディノス・カラマンリスは首相就任の宣誓を行い、首相になった。軍事政権の大統領であったフェドン・ギジキスは大統領に留まったが、実権はカラマンリスが握り、軍事政権はあっけなく終焉することになった。カラマンリスがまず取り組まなければならなかったのは、トルコとの戦争回避であった。キプロスにおいて戦闘が起こり、トルコがキプロス北部を占領したものの、全面戦争は回避することができた。次にカラマンリスは民政移管の手続きを進めた。11月17日に総選挙を行い、カラマンリスが国民急進連盟を母体に新たに結成した新民主主義党が3分の2以上の議席を得て大勝し、新民主主義党による新たなカラマンリス政権が成立した。12月8日には王政の存続を問う国民投票が行われ、7割の有権者が共和政を支持し、王政は廃止されることになった。こうして現在まで続くギリシア第三共和政が正式に成立し、ギリシア王国はもはや過去のものとなった。第三共和政においてはクーデターによる政権交代は今のところ起こっていない。



    注釈
  1. ^ 1863年11月にデンマーク国王に即位してクリスチャン9世になった。
  2. ^ ゲオルギオス1世は第一次バルカン戦争のさなかにテッサロニキで暗殺され、長男のコンスタンディノスが新たな国王になっていた。
  3. ^ 1920年にアレクサンドロス1世がペットの猿に噛まれた傷がもとになって死去したことで、コンスタンディノスが再び国王になっていた。
  4. ^ 1927年に制定された共和国憲法で上院が復活していた。
  5. ^ 総選挙で自由党は126議席、人民党は72議席を獲得しており、両党が協力することができれば、議会の過半数に基盤を置く政権を成立させることが可能であった。
  6. ^ 大枠としては右派が王党派、中道派がヴェニゼロス派や共和派の系譜を引く。
  7. ^ 1935年の王政復古以来国王だったゲオルギオス2世は内戦のさなかの1947年に心臓発作で死去した。ゲオルギオスには子がいなかったため、ゲオルギオスの弟でコンスタンディノス1世の三男のパヴロスが新たな国王になっていた。
  8. ^ パヴロス1世は1964年に胃癌で死去し、パヴロスの長男のコンスタンディノスが新たな国王になっていた。
  9. ^ クーデターと軍事政権の輸出とは、なんとも迷惑な話である。
参考文献

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