2018年11月
  白山文


 自序
今日において三国志という分野は極めて人気が高い(筆者としてはそこまで好きではないが)。魏・呉・蜀やその君主である曹操・孫権・劉備の名を聞いたことのない人はいないであろう。三国志は東洋史を学ぶための門であると言っても過言ではない。
英雄たちが活躍した三国時代は、最終的に司馬氏の勝利で幕を閉じる。その初代たる司馬懿もまたライバルとされる諸葛亮と並んでその名を知らぬ人はいない。そして司馬懿の孫である司馬炎が晋(西晋)を建国して、三国の統一を果たすのである。
しかし天下統一後の晋代となると途端に知名度が激減する。第一諸葛亮死後の三国志自体が物語としてあまり読まれていないのではなかろうか。まして西晋となればなおさらである。そこで西晋とは如何なる時代であったのか、そしてどのような末路をたどったのかを、以下において稚拙ながら紹介させていただこう。
完全に余談ではあるが筆者は魏・呉・蜀・晋というと春秋戦国時代の方が好きである。春秋戦国もまた極めて興味深い時代である。

 西晋建国前夜
司馬懿は初め曹操(武帝)に出仕した。曹操の子曹丕(文帝)が220年に後漢から「禅譲[1]」を受けて魏を建国すると、司馬懿は引き続き仕えて文帝から一層の寵愛を得、文帝の「四友[2]」と称されるほどだった。文帝の子曹叡(明帝)が即位すると司馬懿は更に重用され、蜀漢の丞相諸葛亮の北伐を防ぎ、公孫淵の反乱を討伐するなどの軍功を挙げた。そして明帝の最期には後事を託された。
239年に明帝が崩御すると、幼少の斉王曹芳(廃帝)が即位する。司馬懿は明帝の遺言通り宗室の曹爽と共に幼帝の補佐を務めるが、結局両者は派閥に分かれて深刻な対立が発生してしまった。司馬懿は隠退を装って慎重に立ち回り、249年に曹爽が皇帝を連れて首都の洛陽を離れた間隙をついてクーデターを実行、曹爽とその一派何晏[3]らをことごとく誅したのである(正始の変)。かくして朝廷の実権は司馬氏の手中に収められた。
司馬懿は251年に没し、長男の司馬師が跡を継いだ。先述の通り司馬懿が朝廷を掌握していたが、この時点では司馬氏に反対する勢力はまだ多かった。司馬師・司馬昭の時代には不満が多数噴出することになる。
254年には中書令李豊と外戚の張緝が司馬師を排斥して夏侯玄に政権を掌握させる陰謀を巡らせたが、失敗に終わった。これを口実に司馬師は曹芳を廃し、高貴郷候曹髦(廃帝)を即位させる。翌年にはカン(貫から貝を抜いた字)丘倹・文欽が寿春にて挙兵するがその年の内に鎮圧された。しかしこの時に司馬師は病をおして出征したため、無理がたたって255年に急死してしまう。
司馬師には男子がなく、猶子の司馬攸(司馬昭の三男)も幼少だったため、弟の司馬昭が跡を継いだ。257年にカン丘倹の後釜となっていた諸葛誕がやはり寿春にて反乱を起こすと、翌年にはこれを鎮圧した。ここを以て司馬氏に対する軍事的抵抗は終わり、司馬昭は政治・軍事の権限を完全に掌握する。
しかし曹髦は司馬昭に実権を奪われているという現状に不満を抱いていた。260年彼は「司馬昭之心、路人皆知也」と言って司馬昭の野心を非難し、武装した奴隷100余人ばかりを率いて自殺的突撃を敢行したが、素早く対応した司馬昭に返り討ちにあい無残にも弑逆[4]された。同年司馬昭は陳留王曹奐(元帝)を擁立するが、魏王室は全く無力な傀儡であることが明らかとなった。263年に元帝は蜀漢討伐の令を司馬昭に下し、同年の内に鍾会やケ艾らの活躍でついに蜀漢を滅ぼした。この功によって司馬昭は九錫を与えられ、相国に任じられて晋公に封ぜられることをようやく承諾した[5]。翌年には爵位が晋王となり、官制などを整備して新たな王朝の準備に励むが、265年にこの世を去った。
後継者となったのは長男の司馬炎であるが、ここでひと悶着あった。司馬昭は自分の死後、司馬炎の弟である司馬攸に後を継がせようと思っていたようである。先述の通り司馬攸は司馬師の猶子になっており、司馬昭としては尊敬する兄の家系に家督を返上したかった。個人としても司馬攸は兄より才覚に溢れ人格的に立派であったという。そこで司馬昭の心は大きく傾いていたわけであるが、結果的に多くの旧臣を味方につけた司馬炎が世子の座を勝ち取った、というのが一連の流れである。司馬昭の真意については議論があるが、その心は誰も知らない。とはいえ炎・攸兄弟の間には大きなしこりが残るばかりであった。

 建国と統一
司馬懿・司馬師・司馬昭の三代が魏の実権を掌握する過程は、曹操が後漢王朝を無力化して支配したことに似ている。なれば則ち司馬炎は曹丕に相当すると言うことができよう。265年、元帝は「禅譲の詔」を発して司馬炎はこれを受け晋王朝(西晋)を開き[6]、同時に魏王朝は滅亡した。
司馬炎(武帝)は建国の翌日、一族を尽く諸王として封建した。先述の通り魏はたちまち内部から司馬氏に乗っ取られてしまったわけであるが、それは曹植などの例が示す通り皇族の力が甚だ弱体であったことが原因に挙げられる。つまり武帝は魏の失敗を顧みて、宗室の諸王に「藩屏」の役割を期待したのであった。そして諸王の権限も大幅に強化されている。すなわち彼らは封国に赴けば兵権が認められて地方軍の指揮官としていう地位を占め、中央の役職にも任命された。
これと同時に武帝は内政に力を注いだ。即位の翌年には魏の屯田制を廃止し、代わって占田・課田制を実施した。彼はまた国家運営の方針を整備し、268年には泰始律令を完成させた。これは司馬昭が魏の苛酷な統治を改めるべく賈充に編纂させていたものである。この時に初めて刑法たる律と政治法規たる令が分立したとされる。
武帝は内政を充実させつつ、三国で最後に残った呉を征服する準備を進め、269年に羊コ(しめす偏に古)を都督荊州諸軍事に任じた。荊州(湖北省)経営を成功させ準備を整えた羊コは276年に呉征伐を上奏する。当時呉では名将陸抗が没し、皇帝孫晧の悪政によって国力が衰えていたのである。しかし西晋でもまた朝廷に派閥争いが生じており、賈充らの反対にあって見送られた。その後羊コの後継者となった杜預[7]らによる熱心な運動と、張華らの賛同によって武帝の意は決した。
そして279年12月、呉討伐の軍が発せられた。総司令官は反対派の筆頭賈充である。四川省より王濬、湖北省襄陽より杜預、安徽省寿春より王渾がそれぞれ出撃し、まさに「破竹の勢い[8]」で快進撃を続けた。しかしそうした状況下で賈充はなおも遠征中止を進言したという。とはいえ大勢は覆ることなく280年に孫晧は降伏、ここに西晋による三国の統一がとうとう実現された。

 平和と退廃
呉の征伐によって戦時体制が終結したことにより西晋国内は然るべき状態に戻っていった。州郡の兵を廃止し、かつ軍の屯田をやめて兵士たちを帰農させた。州郡の軍団廃止は諸王の力をさらに強める一因になったが、これで平和な世の中が戻ってきたと言えよう。
しかし平和は同時に政治の弛緩にも繋がったのだろうか。武帝は忽ち政治への関心を失い、広大な後宮の女性たちと遊興に耽溺した。こうした退廃的風潮は皇帝のみにとどまらず、社会に広まっていった。西晋の政治主体である貴族[9]たちは奢侈[10] とその表裏をなす吝嗇[11]に傾倒し、極端な拝金主義[12]が社会に蔓延した。極めつけは「清談[13]」の流行である。清談とは世俗を超越した学問的議論であるが、これは政治からの逃避に他ならない。まして清談を以て人物を登用するような始末であった。政治的退廃は西晋王朝を徐々に蝕んでいく。
内なる問題は退廃のみではなかった。武帝の皇太子となった司馬衷は甚だ暗愚であり、一方で斉王司馬攸は才気あふれ人格者として声望が高かった。そこで太子衷を廃して斉王攸を後継者にするべきであるとか、斉王攸に太子を輔弼させるべきだという議論が起こる。しかし賈充ら重臣は太子衷を支持した。そこで282年、武帝はそれまで司空として朝廷で政治に参画してきた斉王攸へ封国の斉(山東省)へ赴くことを強要した。斉王攸は翌年に途上で憤死した。首都に残った汝南王司馬亮(司馬懿の三男)は斉王攸ほどの人物ではなく、宗室もまた一体感を失い始めた。
奢侈・吝嗇・清談といった退廃的風潮と政治家たちの党争・分裂により西晋の衰亡が始まりつつある中、享楽により寿命を縮めたのであろうか、武帝は290年に病が重くなり、汝南王亮と外戚の楊駿に後事を託して崩御した。

 八王の乱
結局のところ無事に司馬衷(恵帝)が即位するが、彼は前評判通り暗愚[14]であり政治への関心がないに等しかった。ここにおいて楊太后(武帝の皇后)は武帝の遺志に背いて父の楊駿のみに輔政させ、楊駿は二人の弟と共に専権を振るった。楊駿は武帝の生前から実権を掌握していたが、その統治はあまりに厳格であり人々は彼を恨んだという。
反楊氏の最先鋒となったのが恵帝の皇后賈南風(賈充の娘)である。彼女は陰険で嫉妬深く[15]、権力志向が強かった。彼女は楊氏の専横に不満を抱き、大胆かつ勇猛果敢な楚王司馬イ(たま偏に韋)(武帝の六男)に協力を持ち掛け、楚王イは荊州より入朝した。そして291年3月、楚王イらは決起して楊駿とその三族を誅滅し、楊太后を廃位の上幽閉して後に暗殺した。これが八王の乱[16]の始まりである。
楊駿に代わって朝政を担当したのは汝南王亮と老臣の衛カンである。衛カンは恵帝の廃太子問題をめぐって賈皇后から憎まれており、また汝南王亮とはかって諸王を封国に追い返そうとしたため楚王イの怒りを買っていた。そのため賈皇后と楚王イは共謀し、楚王イはクーデターを決行して汝南王亮と衛カン(たまへんに灌の旁)を殺害した。しかし賈皇后はすぐさま楚王イは用済みとばかりに処刑してしまった。
かくして賈氏政権は盤石となったのである。賈皇后の甥である賈謐(賈充の孫)は年少ながらも高位にのぼり、豪勢な生活を送って広く文人と交流した。しかし張華・裴ギ(危に頁)らの名望ある人士が賈氏を補助して政権の中枢にいたため、291年からの9年間において政権運営は概ね安定していた。

ここまでにおける八王の乱とは首都の洛陽内で完結したクーデターであった。しかし300年以降、争いは全国規模に拡大し深刻な内乱へ陥る。
賈皇后には男子がなく、恵帝の夫人謝氏がうんだ聡明の誉れ高い太子司馬イツ(橘の旁にしんにょう)(愍懐太子)に危機感を募らせていた。そこで賈皇后は愍懐太子を誣告して299年に廃し、翌年三月には暗殺してしまった。
賈皇后が廃太子を敢行するとこれに対して反対の声が朝野に満ちた。するとそれまで賈皇后に接近していた趙王司馬倫(司馬懿の九男で末子)は斉王司馬冏(斉王攸の子)を誘って四月にクーデターを決行、恵帝の詔を得たことで賈皇后を廃して賈氏一族を誅滅し、張華・裴ギら政権の要人を処刑した。趙王倫は賈氏討伐の功績により相国などに任命された。彼は淮南王司馬允(武帝の十男)の軍事権を奪って攻め滅ぼすと文武の実権を手に入れ、九錫を加えられて権威を付けた。そして斉王冏を出鎮の名目で許昌に追い出すと、恵帝を幽閉し、宣帝の神言を得たとして「禅譲」を実現し自らが帝位についた。
趙王倫は凡庸な人物として知られ、なんと文字の読み書きができなかったと言う。そんな彼を補佐していたのが孫秀という者だった。孫秀は低い身分の出身であったが学問を修めその智謀を以て趙王倫の側近となった。先述の張華・裴ギら朝廷の主要人物が殺されたのは孫秀の恨みを買っていたためであるとも言われる。彼は事実上趙王倫を裏から操っていたと言ってもよく、趙王倫が政権をとると実際には孫秀が専権を振るった。
皇帝に即位した趙王倫は官爵を濫発[17]して朝政は乱脈となった。これに対して301年3月、許昌に出鎮していた斉王冏は趙王倫討伐の檄を下して挙兵すると、ギョウ(業におおざと)にいた成都王司馬司馬穎(武帝の十六男)が呼応し、趙王倫側に立っていた河間王司馬ギョウ(禺に頁)(司馬懿の弟司馬孚の孫)は形成を見て二王に味方した。所謂三王挙兵である。趙王倫は抗戦したものの尽く敗れ、翌月には孫秀ともども配下の裏切りで殺された。
代わって中央を壟断したのは斉王冏であるが、彼は酒色にふけり贅沢を極め、愍懐太子の子である清河王司馬覃を皇太孫にした以外は何ら適切な政策をうつことはなかった。人々は斉王冏に失望し、趙王倫を破る軍功を挙げた成都王穎に自然と名声が集まることとなる。河間王ギョウの謀臣李含はギョウに帰っていた成都王穎、並びに洛陽にいた長沙王司馬乂[18](武帝の十五男)に働きかけた。この結果302年12月に長沙王乂は宮中に乱入して斉王冏を斬った。
この時成都王・河間王・長沙王らそれぞれの勢力関係は微妙だった。長沙王乂が執政となる[19]が、李含が彼に殺されるに及び、河間王ギョウは成都王穎を誘って洛陽の長沙王乂を攻撃する。長沙王乂は善戦したものの、厭戦的になった軍に支持された東海王司馬越(司馬懿の弟司馬馗の孫)の裏切りにあって捕らえられ、市中にて火刑に処されてしまった。304年1月のことであった。
洛陽に入朝した成都王穎は皇太弟になるとギョウに戻って政権を担うが、やはりというべきか奢侈に走って失政を重ねた。そこで304年7月、東海王越は恵帝を奉じてギョウの成都王穎を討たんとするが敗北し、恵帝はギョウに留められて東海王越は封国に出奔した。帝王不在となった洛陽は河間王ギョウの将である張方[20]によって占領された。しかし翌月、成都王穎と遺恨を抱える幽州刺史王浚は、并州刺史・東贏公司馬騰(東海王越の弟)と共にギョウを陥落させる。成都王穎は恵帝を連れて洛陽に逃れたが、洛陽は張方の略奪で荒廃していていた。そこで張方は11月に二人を伴って長安へと遷都を強行し、河間王ギョウも長安へ入った。成都王穎は実権を喪失して皇太弟を廃され、予章王司馬熾(武帝の二十五男)がその地位を継いだ。
封国に逃亡した東海王越であるが、王浚らに推されて305年7月に皇帝奪還を掲げて決起した。時に長安では張方があまりに横暴であり、河間王ギョウも声望を失って関中一帯を統治できなくなっていた。東海王越は翌年5月に関中へと進撃して河間王らを破り、6月に恵帝を奉じて洛陽への帰還を果たした。成都王穎と河間王ギョウは相次いで殺され、東海王越の勝利のもと、ここに八王の乱はようやく終結するのである。

 異民族の動向
時を少し戻すとともに、異民族へと話を移そう。
後漢初期のこと、南匈奴の呼韓乎単于が光武帝に降伏すると、彼らは内モンゴルから山西・河北に移住を開始する。その後北匈奴も移住するようになり、やがて鮮卑の圧迫を受けた匈奴は少しずつ中国内地へと南下して并州(山西省)南部にまで至った。
羌族は秦の時代から甘粛・四川にいたが、後漢代には陝西省にまで広がって漢人と「雑居」するようになった。テイ(低の旁)族もまた羌族と同じく甘粛・四川に住んでいたが、漢の武帝の時に武都郡が設置されて以降漢の支配に属し、後漢末期から魏にかけて関中に移住させられた。
鮮卑族は後漢初期に烏桓族が長城の南に遷されると支配域を長城のすぐ北まで拡大し、その後北匈奴の西走に伴って空いたモンゴル高原に進出する。2世紀に檀石塊が大人[21]となって統一されると一層強勢を誇り、幾度となく中国へ侵入した。彼の死後は分裂が続いたが、3世紀には後漢・魏に臣従し、山西省北部から遼寧省まで居住するようになった。
このように異民族は中国内地へ少しずつ移住してきていたのである。彼らが従来持っていた部族制は崩壊へ向かい、現地の漢人と軋轢を生じることも少なくなかった。296年には羌族の族長斉万年[22]が関西にて反乱を起こし、鎮圧に3年近くを要している。その後この地で飢饉や内乱のために発生した流民たちをまとめ上げた巴人の李特[23]は四川省へと移り、302年にこの地で益州刺史を自称して自立を宣言する。翌年に現地民の反発で李特は討ち死にするが、その子の李雄は304年に成都を占拠して王位を自称し、306年には皇帝に即位して成[24](成漢)を建国した。
北方に目を移すと、八王の乱において王浚は鮮卑族、司馬騰は烏桓族をそれぞれギョウ攻撃の際に従えていた。対して匈奴の劉淵は成都王穎の味方として将軍になりギョウに駐屯していたが、成都王穎の敗北を受けてギョウを脱出した。劉淵は南匈奴の本拠地であった離石に戻って大単于[25]に推戴され、まもなく304年10月には漢[26](前趙)を建国して西晋からの独立を宣言し、山西諸郡を征服して司馬騰を敗走させた。李雄と劉淵が独立した304年を以て五胡十六国時代[27] が始まりを迎えるのである。

 西晋の滅亡
さて306年6月に八王の乱は終結したわけであるが、これで西晋の混乱が静まったわけではない。同年11月に突如として恵帝が崩御してしまうのである。かわって皇太弟熾(懐帝)が即位したわけであるが、彼が即位した時点で西晋はほとんど回復不能の致命傷を被っていた。先述の通り山西は晋陽に駐屯する并州刺史劉コン(たまへんに昆)[28]を除いて劉淵の漢にほとんど制覇され、四川では李雄の成漢が割拠していた。湖北・湖南では張昌[29]なる者が自立したのちに混乱が広まっており、青州・徐州(山東省)では王弥が挙兵してこの地を荒らしまわっていた。
特に漢の進撃は止まらない。劉淵はすでに挙兵していた羯族の石勒を307年に従え、翌年には皇帝を称した。その後王弥らを帰順させて東方への進出をはかり、石勒をして山東を征服せしめ、ついにはギョウを手中に収める。こうして劉淵は山西より河南・山東に覇をとなえ、洛陽を孤立させたのである。
ここに至って東海王越は劉淵の勢力に対して有効な手立てを打つことができなかった。それどころか彼は専横を恣にして懐帝の側近を粛正したため、二人の間には深刻な対立が発生していた。310年11月のこと東海王越は劉淵を討伐するという名目で自ら大軍を率いて洛陽を出発したが、翌年3月に道中にて憤死してしまった。その軍は王衍[30]が受け継いで山東に向かうが、石勒の襲撃を受けて壊滅させられる。同年六月には劉曜(劉淵の族子)・石勒・王弥らの軍によって洛陽が陥落し、略奪を受けた後に破壊された。懐帝らは捕虜となって漢の都平陽に送られた[31]。これを永嘉の乱と呼ぶ。
しかし西晋はまだ命脈を繋いだ。洛陽陥落後に呉王司馬晏(武帝の子)の息子である秦王司馬ギョウ(業におおざと)(愍帝)は百官に伴われて長安に逃れた。313年1月に懐帝が処刑されると同年4月愍帝が即位したのである。とはいえ関中一帯は先述の飢饉で荒廃しており、加えて愍帝は長安周辺という極めて狭い地域を保持したのみだった。何とか持ちこたえたものの、316年11月に愍帝は劉曜に降伏し、ここに西晋は完全に滅亡した。

 其の後
劉曜に降った愍帝であるが、懐帝と同様の扱いを受けた後317年12月に処刑された。
その後の河北は一層混迷を深めた。漢では310年すでに劉淵が逝去していたが、その子劉和はすぐに弟の劉聡によって帝位を簒奪された。劉聡の時代に西晋を滅ぼしたものの、西晋滅亡時に漢の領域は事実上山西と関中に限られており、東方では王弥を倒して襄国による石勒、王弥の将だった山東を支配する曹嶷らがいた
318年に劉聡が没すると子の劉粲が後継者となるが、外戚のキン(革に斤)準に弑される。劉曜はこの混乱を鎮めて帝位につくと、国号を趙(前趙)と改めた。一方で石勒もこの乱に乗じて趙(後趙)を建国し、河北は二大勢力がにらみ合う状態になる。その後の河北における戦乱についてはもはや西晋に関係ないので記述しないが、河北統一は前秦による一時的なものを除けば、5世紀の北魏太武帝を待たねばならない。
江南にも目を向けてみよう。時は八王の乱までさかのぼる。司馬懿の四男司馬チュウ(人偏に由)の孫である琅邪王司馬睿(元帝)は東海王越の忠実な一党であった。東海王越が成都王穎の討伐に失敗したとき、琅邪王睿はギョウを脱出し封国の琅邪に逃れた。成都王穎が討たれて八王の乱が終結すると、東海王越は琅邪王睿を安東将軍に任じ、琅邪王睿は王導など少数の部下と共に建業に赴いて、江南豪族の協力も得つつ軍府を開設した。時に河北は永嘉の乱が勃発しており、多数の漢人が琅邪王睿の支配する江南に逃れてきていた。愍帝が捕らえられると琅邪王睿は改元して晋王と称し、317年愍帝の処刑されるに及んで、北来貴族と江南豪族の推戴を受けて自らが皇帝に即位した。こうして晋は江南の地で命脈を繋ぐとともに復活を果たしたのである。

 小結
以上が西晋の顛末である。
西晋というのは久方ぶりに訪れた平和の時代であった。宣帝・景帝・文帝の三代が慎重に立ち回って基盤を作り上げ、文帝が蜀を平定して天下統一の前段階とした。武帝が即位するに及び、呉を討伐して天下は統一され、黄巾の乱以来長く続いた戦乱は終わりを迎えた。武帝は魏の苛酷な統治を改めて寛容の政を以て臨み、人々は平穏を享受した。資治通鑑が引く所の干宝の論には「天下無窮人」という諺が載せられている。これは諺でありそのままに解釈することはできないが、晋が統一という平和のもと繁栄したことは概ね事実であろう。
しかし栄光は長く続くことがなかった。繁栄の中で武帝は快楽に耽溺し、臣下は奢侈・吝嗇・清談という退廃に陥った。恵帝が即位するに及び、外戚が専権し、賈皇后の陰謀が炸裂し、宗室は藩屏の役割を放棄して寧ろ混乱を加速させた。異民族問題に対しては過激な論が出ただけで適切な対応をとることができなかった。懐帝の時西晋は致命傷を負い、愍帝に至ってはもうほとんど滅亡と同じだった。
西晋は貴族政治の時代であったが、出身家格の低い人々は「寒門」と呼ばれ出世の道は閉ざされていた。前述の孫秀・張方らがこれに相当する。彼らは政治の上層から排除されている現状への不満を抱くことになる。そこに宗室の問題が重なった。武帝は一族を王として各地に封建したが、その際に中央の官職を兼ねさせ軍権を与えたことが裏目に出た。諸王は強い野心を持って各自の利益を追求し、寒門の人々は現状打開をかけて諸王に与した。結果として八王の乱は制御不能に至ったのである。
この時代は全体的に自己の利益を追求する姿勢がみられる。賈皇后や諸王らの乱脈や、人々の間での吝嗇・拝金主義の流行はまさにそれであろう。その一方で随分と刹那的でもあり、奢侈や清談は象徴的である。激しさを増す政争、過酷な現世からの逃避なのだろうか。
そこで我々は考えるわけである。斉王攸が即位していればどうなったのだろうか。武帝が即位後も政治への関心を持っていたならどうなったのだろうか。或いは云々。そのような考えが物語の原動力となったのは確かである。しかし我々の前には事実のみがある。そしてそれは動かすことができない。嗚呼哀哉!


    注釈
  1. ^ この禅譲とは形式的なものである。王朝内での功労者が高位にのぼって公・王に封ぜられ、九錫などの儀礼特権を受ける。前後して各地で瑞祥が報告され、旧王朝の皇帝は徳の尽きたことを悟って「自発的に」帝位を徳ある王に譲ろうとする。王は幾度も辞退したのちようやく禅譲を受け、新たな王朝を開くという流れである。なお国号には公国・王国の名前がそのまま用いられる。事実上簒奪と言ってよいであろう。
  2. ^ 他のメンバーは呉質・陳羣・朱鑠である。
  3. ^ 彼は『論語集解』の編纂で名高い。また儒学と老荘思想を合体させた玄学の創始者のひとりとしても知られる。
  4. ^ 実際に皇帝を弑逆した者は司馬昭の腹心賈充である。しかし司馬昭は賈充を処罰せず、実行犯の成済を族滅にしただけでこの事件を片付けてしまった。かつて春秋時代に晋国の趙盾はその君霊公と対立して出奔したが、彼の一族趙穿が霊公を暗殺したため、国境を越えずに帰国した。趙盾は趙穿を罰しなかったため、史官の董狐に「趙盾弑其君」と書かれ、反論できなかった。高貴郷候弑逆は司馬昭のせいであると言うことができよう。
  5. ^ 最初に打診されたのが258年であり、実に六回も拒否した。司馬昭の慎重な性格がうかがわれる。
  6. ^ 同時に司馬懿に高祖宣皇帝、司馬師に世宗景皇帝、司馬昭に太祖文皇帝と追尊した。
  7. ^ 『春秋左氏伝』の注で名高い。自らに「左伝癖」があると称するほどで、自他ともに認める春秋左氏伝愛好家であった。
  8. ^ 呉に侵攻する際の快進撃ぶりを杜預が「如割竹」と表現したことが語源である。
  9. ^ 魏文帝の創始した九品官人法により豪族は貴族へと成長した。魏晋南北朝時代は貴族の全盛期であるが、その弊害もまた大きかった。
  10. ^ 石崇と王トなる大富豪は贅沢を常日頃より競い合っていた。彼らは煮炊きに高級品の飴や蝋燭を使い、絹や錦を無駄遣いした。ある時王トは武帝から南方より得た二尺の珊瑚を賜ると、石崇はこれを粉々に打ち砕いてしまった。王トは激怒したが、石崇は返すからと言って三尺四尺の珊瑚を六・七本も取り寄せた。王トは茫然としたという。
  11. ^ 竹林の七賢の一人で使徒の王戎は大富豪であったが、借用書を妻と共に深夜まで計算するほど金銭に細かかった。彼は息子の結婚祝いに衣服一着を贈ったのみでそれさえも後に代金を請求し、庭になるスモモの種をくりぬいて売ったほどだという。
  12. ^ 魯褒なる人物はこの状況を風刺して「銭神論」を著した。当時の世の中で頼りになるのは銭だけであり、銭さえあれば何でもできるとは彼の言である。
  13. ^ 「竹林の七賢」と呼ばれる隠逸の士が名高い。後に登場する王衍なる貴族は血筋と清談の才能だけで重臣に出世したようなものであった。
  14. ^ 穀物がない時に「何不食肉糜(なぜ肉粥を食べないのか)」と発言した逸話はあまりにも有名である。カエルが鳴いているのを見て「あの蛙は公事のために鳴いているのか、私事のために鳴いているのか」と臣下に質問したりもしている。
  15. ^ 彼女は恵帝が太子だった頃に彼の子をなした夫人を自ら刺殺したと言われている。また夫の即位後は毎日のように美少年を宮中に連れ込んでみだらな行為に耽ったという。
  16. ^ 八王とは、汝南王司馬亮・楚王司馬イ・趙王司馬倫・斉王司馬冏・成都王司馬穎・長沙王司馬乂・河間王司馬ギョウ・東海王司馬越らを言う。汝南王亮以外は大軍を擁して地方に出鎮し、それぞれ自分の部下を任命していた。
  17. ^ 官爵は趙王倫一派の能力に欠ける人々ばかりか「奴卒」にまで及んだという。人々は「貂不足、狗尾続」と言ってこれを罵った。当時役人の冠には貂の尾が使われていた。
  18. ^ 彼は宗室一の勇猛果敢な人物として名高かった。後述の洛陽をよく守ったことからもうかがわれるように軍事的能力もあったようで、八王の中では後世の評価も比較的高い。
  19. ^ 実際には成都王穎のいるギョウまで逐一使いを遣って伺いを立てていた。
  20. ^ 彼もまた孫秀と同じように低い身分の出身だった。八王の乱の背景には、彼らの貴族政治に対する不満があった。
  21. ^ 大人とは鮮卑における君主の称号である。
  22. ^ 彼の反乱が鎮圧された299年に江統という人物は「徙戎論」を上表した。しかしこれはかなり民族主義的で異民族を本来の居住地に強制送還するべきという過激なものであり、食糧問題もあって採用されるものではなかった。
  23. ^ 巴人はまた巴テイ族とも称され、曹操によって略陽に移住させられていた。なおこの流民集団には漢人も多く含まれている。
  24. ^ 後に漢と改称したため、後世からは成漢と呼ばれる。
  25. ^ 単于とは匈奴における君主の称号である。
  26. ^ 後に劉曜が皇帝に即位すると趙と改称した。石勒が建国した趙(後趙)と区別するために改称後の漢は前趙と呼ばれることが多い。
  27. ^ 五胡とは匈奴・鮮卑・羯・テイ・羌ら五つの異民族のことである。439年に北魏太武帝が河北を統一したことで終結する。
  28. ^ 彼は鮮卑拓跋部と結んで漢の侵攻を防いでいた。やがて驕り高ぶって贅沢に走り漢人からも信頼を失った。それでも何とか持ちこたえたが318年に鮮卑段部により討たれた。
  29. ^ 彼はかつて李特の率いる流民集団にいたが、李特らが四川へ向かう際密かに脱出して湖北に入った。当時湖北は豊作で流民にもここに移る者たちが多かったため、張昌は流民や現地民の政府に反感を持つ者たちを味方に付け、丘沈なる一官吏を漢王朝の子孫劉尼として担ぎ上げ独立した。その後は湖南を征服し、一時は安徽・江蘇を荒らしまわったが、人々の支持を失って304年に朝廷の名将劉弘に討たれた。
  30. ^ 「竹林の七賢」の一人である王戎のいとこであり、当時筆頭の貴族であった。王衍は清談に優れ、金銭を嫌って銭というもの見たことがないかのように振舞った。清談の才能と血筋だけで大臣である大尉にまで出世するが、政治的な実力には乏しかった。
  31. ^ 懐帝は当初こそ礼遇されたものの、最終的には奴隷の服装をさせられた上宴会でお酌をさせられたりした後に処刑された。またこの時に恵帝の皇后であった羊献容は劉曜の妻にさせられている。

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