2018年11月
蒙古襲来と九州  skrhtp


 はじめに
 鎌倉時代、文永十一(1274)年と弘安四(1281)年の二度にわたり、モンゴル軍が北九州に襲来した。鎌倉幕府はなんとかこれを撃退したが、これをきっかけとして幕府は滅亡へと向かっていき、またこの戦いで生じた「神風」の思想は、その後日本に大きな影響を与えたとされる。この他に蒙古襲来について一般に語られることと言えば北条時宗、てつはう、竹崎季長、石塁といったところであろうか。だが、大きな事件であるためか実際に蒙古襲来に直面した九州について語られることはあまりない。
 九州の人々は蒙古襲来で多大な被害を受け、また幕府の対応に振り回されたが、その一方でこの一大事件を利用する強かさを見せることもあった。本稿では、九州及びそこで活動した人々を中心にして、蒙古襲来とその影響について記していく。
本稿の性質上、九州に関わりの小さい部分、例えばモンゴル側の動機や幕府及び朝廷の事情などについては、叙述上の必要がなければ省略していく。

   蒙古襲来への序章
 文永四(1267)年、高麗使藩阜はんぷがモンゴル帝国のクビライ・カアンの国書と高麗王元宗の書状を持って対馬にやってきた。十一月には藩阜は筑前国博多に入り、翌年正月には筑前国守護少弐資能しょうにすけよしと大宰府で面会した。国書は資能によって関東に送られ、それから朝廷に送られた。国書は国交を求めるものであったが、朝廷は返牒(返信)を送らないことを決定した。国書を黙殺された藩阜は帰還したが、クビライは翌年に再び使者を送った。三月に使者らは対馬に至り、島民2人を捕らえて帰った。そしてこの2人の返還という名目で、高麗使金有成きんゆうせいが国書を携えて大宰府に到着した。だがこれに対しても、幕府の判断で返牒を送らないことが決定された。
 文永八(1271)年九月、日本国信使張良弼ちょうりょうひつが100名もの使節団を率いて筑前国今津に到着した。張良弼は資能に国書を直接「国王」に伝えることを要求した。結局資能は国書の写しを受け取ったが、これは返牒がないことに業を煮やしたクビライからの最後通告であった。しかし幕府はこれも黙殺した。張良弼は翌年いったん帰国した後、再び来日して一年に渡り交渉を続けたが結局成果を得られず、大宰府で仕立てた「日本国使」とともに帰国した。
 一方幕府は国書を黙殺しつつ、九州の防御に着手した。文永九(1272)年には幕府は、九州に所領を持つ東国御家人らに九州に下向して防衛に当たるように命じた。九州にやってきた御家人たちは所領を開発すると共に、幕府の命で悪党[1]の鎮圧を行った。これと同時に、少弐氏と大友氏には守護の範囲を超えた権限が与えられた。豊前守護大友頼泰おおともよりやすは幕府の命を受けて、配下の九州御家人たちに東国御家人到着までの警固を命じた。これは異国警固番役いこくけいごばんやくの始まりとなった。翌年には少弐氏が九州の御家人に一ヶ月ごとの番で警固を行わせる「蒙古警固結番もうこけいごけちばん」を定めている。
外敵への対処に当たり、幕府では執権北条時宗の下での権力安定化の動きが起こった。文永九年、反得宗[2]勢力の中心的人物であった名越時章なごえときあきらが得宗被官らによって殺害されたのである。これは二月騒動と呼ばれている。時章を殺害した者たちは、時章に罪がなかったことを理由に処刑されたが、他方で時章の有していた筑後・肥後・大隅の守護職は没収された。筑後守護職は大友頼泰に、肥後守護職は安達泰盛あだちやすもりに与えられた[3]

   文永の役
 文永十一(1274)年十月五日午後、対馬西岸の佐須浦さずうらにモンゴル・高麗連合軍(以下モンゴル軍)が着岸した。報せを受けた地頭宗助国そうすけくには現地に向かい、通訳を送って仔細を尋ねようとしたが、モンゴル軍は助国らに対して矢を射かけ上陸を始めた。助国らは奮戦したが討ち死にし、モンゴル軍はそのまま山間にまで侵攻して家屋を焼き払った。
 このことは助国の郎党によって博多に伝えられた。一方モンゴル軍は十四日には壱岐に侵攻、また同時に平戸・鷹島をはじめとした肥前国松浦(まつら)地方に侵攻した。壱岐では守護代平景隆たいらのかげたか率いる島民武士が庄ノ三郎城しょうのさぶろうがじょうで迎え撃ったが、数に押されて樋詰ひのつめ城に追い詰められ、翌日に景隆らは自害した。更に壱岐では全島に渡って掃討戦が行われたようである。また壱岐の牛は「筑紫牛」として知られていたが、モンゴル軍によって一時的に全滅させられた。松浦地方でも、松浦党[4]の武士たち数百人が討ち死にあるいは捕虜になった。
 モンゴル軍は十月十九日には博多湾で合流し、翌日には百道原ももちばるや今津から上陸を開始した。九州軍は資能の子景資かげすけに率いられてこれを迎え撃ち、景資や肥後の御家人である菊池武房きくちたけふさ詫磨別当太郎たくまべっとうたろう竹崎季長たけざきすえながといった武士たちが奮戦を見せたが、「てつはう」や射程に優れた短弓から放たれる毒矢といったモンゴル軍の武装や戦術に苦しめられた。景資はやむを得ず博多を捨て、水城みずき[5]でモンゴル軍を迎え撃つことを企図して大宰府へと撤退した。このためにはこざき八幡宮は焼かれ、多数の人々が捕虜となった。
 一方モンゴル軍では、方針の違いにより内部で対立が生じていた。そして翌二十一日[6]の朝、モンゴル軍は撤退し、志賀島しかのしまに一隻が座礁しているだけだった。撤退の理由ははっきりしないが、内紛や想定外の抵抗が原因であったとも、予定通りの撤退であったとも考えられている。なお、所謂「神風」については、実際には帰還途中に嵐に遭遇したものとみられている。

   異国警固と高麗出兵計画
 侵攻してきた軍こそ撤退したものの、モンゴル帝国の脅威が消えたわけではなかった。九州ではモンゴル軍に対する恐怖が広まっていた。人々の間では、対馬では男は皆殺され、女は手に綱を通されて船縁に吊るされたという噂が広まっていた。松浦地方でも住民数百人が殺害されたといわれた。
 武士や住民たちが被った損害は極めて大きかった。直接の損害に加えて、家長や子息の討ち死にによる遺領争いが発生した。松浦党の佐志さし一族では、家長の差志ふさしと三人の子息全員が戦死し、嫡子ただしの子熊田丸くまたまると三男いさむの娘源氏女久曽みなもとのうじめくその間で争いが起こり、結局は房の譲状ゆずりじょうを基に源氏女が惣領として認められた。その一方で、熊田丸には次男とまるの遺領が与えられた。幕府としては、モンゴルの脅威に対して御家人たちの一族内に亀裂が生じることを防ぐ必要があった。
 このような争いの中で一族内の亀裂が顕在化していき、争論を契機として惣領からの独立していくものも現れた。それと同時に、恩賞給与を求める動きが高まることになった。軍功申し立ては当事者による自発的なものであったため、鎌倉へと出訴を試みる者も現れた。特に肥後の竹崎季長は、蒙古襲来以前から続いていた遺領争いに敗れたのを機に自ら鎌倉へ向かい、御恩奉行安達泰盛に面謁した。最終的に季長は泰盛から直接将軍家政所下文まんどころくだしぶみを下付され、肥後国海東郷かいとうごうの地頭に任命された。
 恩賞を求めるため九州を離れようとするのは季長に限らなかった。また、寺社も異国降伏の祈祷を行っていたために恩賞を求め、幕府はこれにも対応する必要があった。幕府は主要神社に土地を寄進した。この寄進は御家人への恩賞より先に行われた。この姿勢は弘安の役でも維持された。
 文永の役に衝撃を受けて、幕府は十一月一日には各守護に荘園の非御家人までをも動員する本所一円地ほんしょいちえんち[7]動員令どういんれいを発した。更に翌建治元(1275)年には本格的な形での異国警固番役が開始された。しかし異国への恐怖は武士たちの間にも広まっており、幕府は半ば脅しで督戦を行わなければならなかった。また家長の死による知行関係の混乱を防ぐため、「重病」を騙って子息親類を代官として送る御家人も相当数いたようである。
 同年三月には、少弐経資はモンゴル軍の再来襲に備えて石築地いしついじ(元寇防塁)の構築を命じた。構築は九州各国の御家人の場所ごとの分担と言う形で行われた。完成目標は八月とされたが、実際に完成したのは翌年に入ってのことだったようである。築地が完成すると、そこがそのまま警固の場所となった。
 防備を固める上で、兵糧の確保は重要な問題であった。このため幕府は九州からの積み米を差し押さえ、また荘園を一時的に食料料所にすることも行った。この結果、京では米の流通が滞り食糧事情が急速に悪化した。また一部の荘園では年貢が免除あるいは不納となっており、料所化と合わせて九州の荘園は不知行化することが多かった。
 また幕府は、異国の脅威に対して神仏にも積極的に助けを求めた。それまで異国降伏いこくごうぶく祈祷は朝廷の命で行われていたが、文永の役を機に幕府が命じるようになった。以降幕府は重要な場面で度々祈祷頼みを行っていく。
 一方モンゴル側は建治元年の内に杜世忠とせいちゅうらを使者として送ってきたが、幕府は杜世忠らを鎌倉で処刑した。これは実質的に徹底抗戦の宣言であり、以降異国警固番役はさらに強化された。この年、幕府は守護の大更迭と呼ばれる各国守護の交代を行った。九州では、豊前守護が少弐資能から金沢実時かねさわさねときに、筑後守護が大友頼泰から北条義政よしまさに、肥後守護が資能から安達泰盛に交替した。そして十二月、幕府は資能の子で鎮西ちんぜい西方奉行の少弐経資つねすけに高麗出兵の計画を伝えた。翌年三月、経資は御家人たちに出兵の準備を命じた。しかし結局、高麗出兵は実行されず立ち消えとなった。

   弘安の役
 弘安二(1279)年、クビライは再び使者を送ったが、使者は博多で処刑された。これとほぼ同時に、杜世忠らが処刑されたことがモンゴル側に伝わった。弘安四年、モンゴル軍は遂に再遠征を開始した。軍はモンゴル兵・高麗兵を中心とする東路軍と南宋[8]の降兵を中心とする江南軍に分かれていた。東路軍は五月二十一日に対馬、二十六日に壱岐に侵攻し、六月六日に志賀島に到達した。これを迎え撃ったのは大友氏率いる武士たちだった。六日に筑後国の草野経長くさのつねながら抜け駆けの武士たちが夜襲を行ったことに始まり、連日武士たちは奮戦を続けた。一方東路軍は、石築地の存在と激しい抵抗により上陸を一旦諦め、江南軍と合流するため十八日頃に壱岐へと撤退した。
 六月末、東路軍は壱岐に達し合戦が起こった。薩摩の御家人比志島時範ひしじまときのりらは島津長久の船で壱岐に渡り、モンゴル軍の上陸を防いだ。戦闘は激しいものとなり、少弐資能や少弐資時すけとき、肥前の御家人龍造寺りゅうぞうじ季時すえときが戦死、松浦党の山代栄やましろさかえも負傷した。一方東路軍は元々江南軍との合流が目的であったため、上陸を諦めて海上で江南軍を待つことにした。しかしその間に、東路軍では伝染病の発生や内部対立が生じることになった。
 一方江南軍は総司令官の急病による交替で出発が大幅に遅れており、更にその間に目的地が平戸島に変更されていた。江南軍と、先発隊から集結海域変更を知らされた東路軍は七月初旬に平戸島近海に集結し、7月下旬になると九州上陸を目指して東進し始めた。やがてモンゴル軍主力は鷹島を占領して伊万里いまり湾に迫り、先行部隊は博多湾に迫った。しかし七月三十日から翌閏七月一日にかけて、暴風がモンゴル軍を襲った。この暴風でモンゴル軍艦隊は壊滅状態に陥った。一部のものは残った船で大陸へ帰還したが、収容しきれなかった者たちは取り残された。
 モンゴル軍の被害を知った武士たちは追撃にうって出た。五日、筑後国木小屋きこや地頭香西度景こうさいのりかげらは肥前国御厨みくりや海上でモンゴル船に乗り移り分捕り合戦を行った。七日には、武士たちは脱出を試みていたモンゴル兵たちを鷹島で襲撃した。この襲撃に参加した武士としては、薩摩の島津忠経ただつね、比志島時範、筑後の西牟田永家にしむたながいえ、豊後の都甲惟親とごうこれちか、肥前の黒尾社大宮司だいぐうじ藤原資門すけかどなどが知られている。双方多大な被害を出し、最終的にモンゴル兵たちは降伏した。捕虜たちは博多へ連れて行かれた後に那珂なか川で旧南宋人以外は皆殺しにされ、旧南宋人は奴隷とされた[9]

   蒙古襲来の余波
 モンゴル軍は再び撃退されたが、脅威はなおも残っていた。そこで幕府は八月に高麗出兵を決定、少弐氏もしくは大友氏を大将として筑前・肥前・豊後の御家人を動員することが決まった。そのために幕府は、山城・大和の悪党たちを九州の領主たちの下に送るということも行った。しかし出兵計画はまたも結局立ち消えになった。
 文永の役から続いて、御家人たちの間では紛争と恩賞要求が相次いだ。蒙古襲来では非御家人も動員されたため、御家人である地頭と争っていた小武士もまた地位向上のため恩賞を求めた。これら非御家人の訴訟は九州の訴訟の相当部分を占めていたようである。
 鎌倉へと訴えに来ようとする者もいる状況下で、幕府としてはモンゴルの再襲来を考慮して武士たちを九州に留めておく必要があった。弘安八(1285)年には、幕府は鎮西御家人の鎌倉への参向をしないよう通達している。また、恩賞地の問題もあった。外敵撃退という戦いの性質により恩賞地捻出の問題が生じたことに加えて、武士たちが九州から離れないように原則として九州に恩賞地を設定する必要があった。このため軍功認定の判断は厳しいものとなった。
 紛争と恩賞の問題は深刻であり、幕府はそれに対応する必要に迫られた。弘安七(1284)年から、安達泰盛の下でいわゆる弘安徳政が実施された。その中で本来幕府の管轄外である九州の非御家人の名主職みょうしゅしき安堵が行われ、この結果九州の本所一円地の武士たちは半御家人化していくことになる。
 また弘安徳政では売却された九州の神領の返付が命じられ、同時に社殿修復や神事興隆も定められた。これを実行するため、明石行宗あかしゆきむね長田教経ながたのりつね兵庫助ひょうごのすけ政行まさゆきが派遣され、大友頼泰・肥後守護代安達盛宗もりむね・少弐経資と共に返付に当たった。この政策は寺社への恩賞と言う性質のものであった。その一方で、これは当然ながら社地を有していた人々へ大きな影響を与えることになった。
 弘安徳政は新たな勢力を生む一方で既得権益を破壊し、多くの矛盾を生むことになった。その中で弘安八年、泰盛が内管領平頼綱たいらのよりつなに滅ぼされるという事件が起こる(霜月騒動)。この余波で、筑前国では文永の役で大将を務めた少弐景資が岩門いわと城で安達盛宗と共に挙兵し、少弐経資に討たれるという事件が起こった(岩門合戦)。この結果景資と盛宗の所領は没収され、恩賞地が確保されると共に北条氏の北九州、特に景資が多く領地を有していた肥前国における支配が強化されることになった。
 泰盛の死後も弘安徳政の方針は凡そ維持されたが、その一方で神領興業と九州名主職安堵については完全にではないものの否定された。神領は神役勤仕と引き換えに領主に返還された[10]。また新たな法によって、九州の非御家人が新たに御家人となる道は閉ざされる形となった。
 弘安九(1286)年には、九州の統治・軍事統率及び訴訟処理のため鎮西談議所が博多に設置された。大友頼泰・少弐経資・宇都宮通房みちふさ渋谷重郷しぶやしげさとが談議所頭人とうにんに任じられ、談議所は4人の合議によって運営された。この段階になって、九州武士への恩賞配分も一挙に実行に移された。正応元(1288)年には筑前国比伊ひい郷・七隈ななくま郷・三奈木みなぎ荘・長淵ながぶち荘が、正応二年には肥前国神埼かんざき荘が、正応三年には筑前国怡土いと荘が「孔子くじ配分」[11]されている。
 その一方で、少弐・大友両氏が各国守護の上に立つ状況は北条家にとって放置できないものであった。そのため北条氏は一族を九州へ下向させ始めた。まず北条時定ときさだが肥前国守護として下向した。正応六(1293)年には六波羅探題ろくはらたんだい北方きたかた北条兼時かねときが下向し、これにより鎮西談議所はその役目を終えた。2人の下向により北条氏は九州の軍事指揮権を握った。しかしその一方で、兼時は少弐・大友両氏の権限を剥奪しきれず、しかも在任二年で病気により関東に戻った。これにより九州支配は曖昧化するが、永仁四(1296)年には金沢実政さねまさが下向し、以降は彼ら鎮西探題[12]が九州における最終決定権を握るようになる.
 幕府は国内の問題に対応しつつ再襲来への警戒を続けていたわけであるが、正応五(1292)年には高麗使金有成が大宰府に来て国書を呈した。その内容は友好を求めるものであったが、幕府は緊張した。幕府は再度外征を検討したが結局実行されなかった。2年後、幕府は筑前から肥前に至る烽火とぶひの制度を築き、北条兼時は通信訓練として壱岐から肥前国に烽火を上げることを命じた。この国を越えたシステムは、北条氏による強力な指導によって可能となったものだった。
 これと同年にクビライは死去し日本遠征は取りやめになるが、幕府は警戒を止めることができず、北九州の異国警固体制は鎌倉幕府が滅びるまで続くことになった。

   その後の影響
 蒙古襲来の余波は日本の社会に様々な矛盾を生みだした。それらに加えて九州においては、異国警固体制の継続が御家人たちの負担となり、正和の神領興行法では多くの人々が領地を失った。また蒙古襲来後の支配強化で北条氏の力ばかりが強まったことも武士たちの反感を呼び起こした。特に少弐・大友・島津の三氏は鎮西探題の下に置かれた上に伝来の守護職を奪われ、北条氏への不満を募らせていった。そしてこの三氏は最終的に鎮西探題を滅ぼす当事者となる。
 だが、蒙古襲来が九州の情勢に残した影響はそれに留まらない。蒙古襲来にあたり幕府の命で多くの東国御家人たちが九州へ下向し、そして土着化した。中世九州で活躍した東国系の御家人たちの多くはこのとき土着したものである。以降の九州史でとりわけ大きな役割を果たしていく大友氏・島津氏もまた、蒙古襲来を機に土着化した一族であった。大友氏は戦国時代に至るまで南北の九州情勢において中心的な位置にあり、他方島津氏は江戸幕府が終焉を迎えるまで、約600年にわたり現地支配を続けていくことになる。
 また、蒙古襲来においては神仏の加護が強調された。蒙古の更なる脅威に曝される中で強烈な神国意識が生み出され、異国、そして自国そのものへの認識が歪められていったことが知られている。九州においては「異国降伏の神」として八幡信仰の流行が起こった。この流行は『八幡愚童訓はちまんぐどうくん』を通して広まった。同書において、神仏の霊験は「三韓出兵」を行ったとされる神功皇后じんぐうこうごうと結び付けられて誇示される。寺社はこの信仰と結び付けてその霊験を喧伝した。これらの信仰はその後も長く続いていくことになる。
 だが何よりも、九州北部は蒙古襲来の被害を直接被ったことにより、その恐怖が長きにわたって記憶されることになった。玄界灘沿岸や博多では、子供を泣き止ますのに「ムクリコクリ(蒙古高麗)の鬼が来る」とおどかす風習が近年まであったという。
 蒙古襲来については、鎌倉幕府滅亡の要因となる徳政を通じた御家人の困窮と、その後長く日本に影響を及ぼした「神風」の思想が語られる。だが蒙古襲来を直に経験した九州においては、その影響はそれら2つに留まるものではなく、様々な次元で影響を与え続けていったのである。


    注釈
  1. ^ 社会秩序を乱す集団の意で使われた言葉。
  2. ^ 北条氏嫡流の惣領家のこと。
  3. ^ 大隅守護職は千葉氏、おそらくは千葉宗胤むねたねに与えられたようである。
  4. ^ 肥前松浦地方を中心に活動した中小領主たち。一字名を共通して用いた擬制的同族集団であった。
  5. ^ 663年の白村江の戦いの後に築かれた大宰府防衛の施設。鎌倉時代にもある程度機能していたようである。
  6. ^ 実際にはモンゴル軍が博多湾に現れてから撤退するまでには一週間前後の時間があったとも考えられている。
  7. ^ 武家領でない荘園。
  8. ^ クビライは1276年に臨安の南宋政権を降伏させ、1279年には残党を滅ぼして南宋を滅亡させている。
  9. ^ 博多に南宋人の租開地そかいちがあるなど、宋・南宋は日宋貿易以来のかかわりがあったことが影響したとみられる。
  10. ^ ただし神領興行は正和元(1312)年にも、宇佐宮(豊前)、筥崎宮(筑前)、高良こうら社(筑後)、香椎かしい宮(筑前)、安楽寺(太宰府天満宮、筑前)の五社を対象として実施されている。
  11. ^ 配分する土地・屋敷をくじ引きで決定したということである。
  12. ^ 鎮西探題の成立については、北条兼時が下向したときとする見方と、最終的判決権を得た金沢実政の時とする見方がある。『日本史用語集 A・B共用』(全国歴史研究協議会編、2016年)では前者の説が採られている。

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