2018年11月
川越合併史
一地域から見る日本近現代の地方行政の歴史  月瀬 まい


 はじめに
 本稿では市町村合併を通して、近現代の市町村の姿を見てみようと思う。合併と聞いて平成の大合併を思い浮かべる方は多いだろうが、合併はそれだけではない。本邦において町村の概念が生まれて以来、合併は繰り返されてきた。その結果が今ある市町村である。
 扱う対象は著者の故郷である川越市である。現在の川越市域(以下、川越地域と呼ぶ)は維新以来、明治の大合併、戦時合併、昭和の大合併を経てきた。平成の大合併は経験していないが、構想は存在していた。まだ時が浅いため平成の大合併については扱わないが、先述した3つの合併はいずれも全国的に大きな影響を与えたものであり、そこで見られた市町村の葛藤や対立は普遍的なものだろうと思う。

明治の川越

図 1 明治の大合併直後における川越地域の地図(『川越市合併史稿』p.77より抜粋)


 廃藩置県
 幕末の頃、川越地域には92もの町村があった。しかしその規模はとても小さく、1町村あたりの人口は400人程度[1]であった。もちろんこれらの町村の大部分は川越藩の領地であったが、幕府代官地、旗本知行地、寺社領などが複雑に組み合わさっていた。これらの町村は現在の自治体と同様に財産や債務を管理するという面もあったが、その一方で封建的身分支配の末端組織でもあり、貢租を確実に徴収するための組織でもあった。
 さて、幕末から明治にかけて日本の政治はめまぐるしく転変し、それに伴い行政制度もまためまぐるしく変化した。慶応3(1867)年10月14日、時の将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、12月9日王政復古の大号令が発せられた。さらに翌明治元年1月10日、新政府が旧幕府領没収を宣言したことで従来の幕府代官地、旗本知行地、寺社領などは新政府の管轄となった。同年閏4月27日には「政体書」が公布され、旧幕府領のうち重要地には府を、他には県を置き、藩はそのまま残された。これらの措置により、川越地域は川越藩、岩鼻県、武蔵知県事[2]の管轄となった。
 明治2(1869)年6月、諸侯の版籍奉還に伴い、川越藩主松平康戴は封土を返還して改めて川越藩知事に任命された。ただこれは藩主が藩知事に変わっただけであり、末端では何ら変わらなかった。その後、中央集権体制を整えたい明治政府は廃藩置県の詔書を発した。これによって明治4年7月14日、川越藩は川越県となった。そして明治政府は府県の統合をも断行し、全国を3府72県の管轄に整理した。これによって11月13日、武蔵国北西部を管轄する入間県が置かれた。初代長官は小笠原幹であったが翌5年9月に沢簡徳に代わり、更に6年2月、河瀬秀治に代わった。
 河瀬秀治は群馬県令も兼ねていた。両県の知事を兼ねるのは不便であったため、3月28日に入間県の事務が熊谷に移された。次いで6月15日、入間県と群馬県が統合され熊谷県が成立した。川越には支庁が置かれた。その後も明治政府は府県の統合を繰り返し、熊谷県の命数も長くはなかった。熊谷県は明治9年8月21日をもって廃止され、その管轄区域のうち旧入間県の地域は埼玉県に編入された。なお、このとき現在の埼玉県の管轄区域がほぼ確定した。

   大区小区制
 一方で、町村にも変革の波は及んでいた。明治4年4月4日に公布された戸籍法は、地方行政に直接の関係はなかったが、町村制度に大きな影響を及ぼした。戸籍法はこれまで地域により異なっていた戸籍を統一するための法律であり、7〜8村を組み合わせて一区とし、各区に戸長・副戸長を置いて区内の戸籍事務を行わせるというものであった。しかし実際の運用においては区の広さや戸長の選任、人数などはかなり自由であった。
 戸長・副戸長は戸籍事務のみを取り扱うはずであったが、一般の行政事務をも取り扱うようになっていった。その結果従来の庄屋、名主などとの二重支配となり弊害が生じた。そこで明治5年4月9日、庄屋・名主など従来の村役人を廃し、すべて戸長・副戸長に改めて一般行政を行わせることになった。こうして従来の町村は行政単位としての実質を失い、大区小区が代わって地方行政の一単位となった。
 入間県では管内を11大区94小区に分けた。行政機構や役員が必ずしも明確ではなかったために当初は混乱があったが、明治6年5月に当時の県令河瀬秀治が「職制概略」を通達して職制を細かく規定したことでようやく落ち着いた。川越は第一大区第一小区[3]とされた。
 また当時、無住の村や人口の少ない村の合併が進められた。明治5年4月10日、太政官布告によって町村分合の方針[4]が示され、更に12月25日、これを拡大して大蔵省が人口の少ない村を合併するよう通達を発した。当時地租、区費、村費を払っていた地方農民の負担は大きく、弱小村の合併が地方の財政確立のために必要だったのである。熊谷県管内においても無住村や弱小村の合併が進められた。川越地域における合併は2件あり、明治6年[5]に寺井宿、寺井松郷、寺井伊佐沼村が合併して寺井村となり、明治7年6月28日に松郷と杉下村が合併して松郷となった。寺井村の場合はいずれの村も小さく、かつ境界が錯綜していることが理由であった。松郷の場合は、杉下村の人口が81人と小さいうえに関係が密接であることが理由であった。  その後明治10年9月から、合併の自発的な発展を恐れた政府が合併を抑制したため、川越地域では明治17年まで合併は行われなかった。

   郡区町村編成法
 大区小区制は極めて画一的なものであった。これは中央集権体制を確立させ藩政期の封建的組織を瓦解させた一方で、住民の生活の実情には合わないものであった。そこで地方制度を郡村制に戻す動きが進み、明治11年7月22日、郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則の三法が布告された。これがいわゆる三新法である。
 三新法の根幹をなす郡区町村編成法は、大区小区制を廃し郡村制を復活させるものであった。しかしこの郡村制は大区小区制以前の郡村制とは違った。郡の区域が行政区画として適さない場合は、内務卿の許可を得て新郡域を定めることが出来るとされた。また郡ごとに郡長一名(小さい郡の場合は数郡を合わせて一名)が置かれ、郡長には町村の戸長に対する指揮権が与えられていた。また町村は自治体と行政区域の二重の性格を持たされ、戸長は公選とされた[6]
 三新法公布の際、埼玉県管内では地租改正が進んでいなかったために実施が延期となり、明治12年4月にようやく実施となった。埼玉県管内は18郡に編成され、9つの郡役所が開設された。入間郡・高麗郡の郡役所は、川越に設置された。知っての通り川越地域の町村の大部分は入間郡・高麗郡に属しており[7]、ここで川越は周辺地域との結びつきを回復することができた。入間郡・高麗郡役所は明治12年4月1日、広済寺の一部を庁舎として開庁した。
 当時、政府は西南戦争による財政難や自由民権運動の高まりなどの問題を抱えていた。そこで政府は明治13年から17年にかけて徐々に財政負担を地方に転嫁させていった。さらに、これを円滑に進めるため地方の権限を削り政府の統制を強めた。明治17年5月には戸長を住民の公選から府知事・県令の任命制にし、町村会の権限を縮小するなど地方自治は阻害された。また郡区町村編成法施行の際、いくつかの町村が連合して戸長役場を置くということがあり、やがてそれは一般化されていった。これは町村の権限を縮小し政府の統制力を強めるという政府の方針にも適うものであり、明治17年の町村行政制度改革の際に規定された。こうして、府県→郡→連合戸長役場→町村という四重の構造が生み出された。
 埼玉県では5月24日に布達を発し町村連合の基準を示した。5町村程度の連合、500戸程度の規模が標準とされた。県管内の各郡長は6月2日、それぞれの町村連合案を県に提出した。県はそれらを検討して最終案を編成したが、ほぼ郡長答申通りであった。6月18日に内務卿に上申が行われ、7月12日に認可された。こうして連合戸長役場制が成立し、埼玉県管内には329戸長役場が、うち川越地域には13戸長役場が設置された。この編成にあたっては、明治6年小学校設置の際の組合、明治14年の学区組合、その他水利や地勢が考慮された。しかし全ての町村がこれに従ったわけではなかった。松郷は戸数643戸で標準戸数を超過していたため、連合からの分離を県に上申した[8]。県は、郡長に対しこの運動を抑えるよう通達した。
 また明治17年の地方行政改革に合わせ、政府は合併許可の方針に転換した。しかしこれは条件がかなり厳しく、無住の場合や数年内に分離した場合のみ認められた。川越地域では明治18年11月27日の入間郡府川村と高畠村、明治19年3月26日の比企郡鹿飼村と川口村、同年4月5日の比企郡中老袋村と戸崎村の3件の合併が行われた。高畠村、川口村、戸崎村はいずれも無住村であり、この合併により川越地域から無住村が消滅した。

   市制及町村制
 明治17年の地方行政改革は地方自治を阻害し、自由民権運動に拍車を加える形となった。同年秩父事件が発生するに至り、政府は憲法発布、国会開設の準備を進めるとともに本格的な地方行政制度の制定を急いだ。こうしてできたのが市制及町村制[9]であった。明治21年4月に公布され翌年に施行された。ただし、ここでは自治制度を形式的に整備したのみで地方議会の制御、中央集権体制の確立が図られた。政府は指定事項に関する市町村会議決事項の許可権や市町村会の解散権などを握った。
 市制及町村制実施にあたり問題となったのは、事務内容の増加による財政面の問題であった。これを解決するため町村合併が推進され、全国的な町村合併が市制及町村制実施と同時に行われた。これがいわゆる明治の大合併で、明治21年末に71314町村であったものが明治22年末には15820町村へと大幅に減少した。明治22年3月から翌年1月までの間に記録に残っているだけでも全国で24件の合併反対の紛争が起こったものの、旧町村所有の財産処分を後回しにするという政策が功を奏し、大きな騒乱を経ずに全国的な合併が実施された。
 政府は明治20年3月に「町村郡市区画標準」を作成して府県知事に内示し、埼玉県では同年6月頃から合併の準備が進められた。埼玉県では、8月下旬に県全体の町村編成を決定して内務省に上申した。従来の18郡を20郡とし、1909町村を451町村とする計画であった。県は民情掌握に努めたが、石原村騒動をはじめ争議が多発した。異議申し立ては175件に及び、うち96件が受理された。
 埼玉県管内では、なんとか明治22年4月1日に市制及町村制を施行することができた。なお、当時埼玉県管内に市はなく、409町村が成立した。

   川越地域における町村制
 明治22年4月1日町村制施行に伴い川越地域に誕生した14町村について、町村誕生に至る経緯をそれぞれ述べる。

(1) 川越町
郡長案では川越町、松郷、寺井村、東明寺村、小久保村、脇田村の6町村に野田村の一部[10]を加えたものであった。この6町村は大区小区制時代に第一大区第一小区を構成しており、境界が錯綜し市街地も連続していた。新町名は当然川越町とされ、異議も出なかった。
 しかしここで小仙波村が川越町との合併を希望してきた。希望の理由は社会経済的な結びつきの強さだけでなく、当初合併する予定の4村が小仙波村の財産について保証を与えなかったこと、大合併により市制施行[11]を狙う人々が合併を働きかけたことがある。当初6町村は冷ややかであったが、小仙波村住民の強力な運動により6町村の態度も軟化した。こうして小仙波村は川越町に合併することとなった。
 明治22年4月1日、川越町、松郷、寺井村、東明寺村、小久保村、脇田村、小仙波村の7町村と野田村の一部を以て川越町が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は18651人。

(2) 仙波村
 郡長案では大仙波村、小仙波村、岸村、新宿あらじゅく村、大仙波新田の5村合併の予定であった。ところが先に述べたように小仙波村が川越町合併を希望したため紛糾した。特に戸数が合併標準を下回ることになり他村は反対、郡長も反対の立場であった。しかし県が独立可能と判断したため4村合併となった。入間郡に属した。
 明治22年4月1日、大仙波村、岸村、新宿村、大仙波新田の4村を以て仙波村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は1656人。

(3) 芳野村
 郡長案では谷中村、北田島村、鴨田村、石田本郷、菅間村、伊佐沼村の6村合併の予定であった。この6村はともに北田島村連合戸長役場の管轄にあり、民情や地勢にも支障はなかった。それ故に区画への異議は出なかったが新村名選定で揉めた。大規模な村名一つをとることには反対意見が出て、折衷案についても意見が一致しなかった。結局村名は三芳野に因んで芳野村と命名され、役場は従来連合戸長役場のあった北田島村に置かれた。
 明治22年4月1日、谷中村、北田島村、鴨田村、石田本郷、菅間村、伊佐沼村の6村を以て芳野村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は3072人。

(4) 古谷村
郡長案では古谷上村、古谷本郷、小中居村、大中居村、高島村、八ツ島村の6村合併の予定であった。この6村はともに古谷上村連合戸長役場の管轄にあった。しかし、伊佐沼村と古谷上村字握津の帰属問題が生じた。
前者については伊佐沼の水利権が絡み、古谷村側が編入を主張した。しかし伊佐沼村自身が芳野村編入を希望しており、さらに県知事の決裁によって芳野村への編入が決まった。
後者については、古谷上村字握津は荒川左岸に位置しており住民が同じ側にある北足立郡指扇さしおうぎ村との合併を主張していた。耕作地の所有問題[12]も絡んでいたが、古谷村の納税能力と事務能力を担保させる観点から住民の主張は退けられた。
村名は大村である古谷上村、古谷本郷の古谷をとった。
明治22年4月1日、古谷上村、古谷本郷、小中居村、大中居村、高倉村、八ツ島村の6村を以て古谷村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は3873人。

(5) 南古谷村
郡長案は南田島村、久下戸くげど村、並木村、今泉村、牛子村、木野目村、古市場村、渋井村の8村合併の予定であった。これは南田島村連合戸長役場の管轄区域に古市場、渋井の2村を加えたものであった。また、郡長案における村名は三芳野里山田庄から一字ずつとって芳田村とされた。区域に関しての異議は出なかったが村名については適当でないと反対意見が出て、この地域がかつて古尾谷ノ庄と呼ばれたこと、また古谷村を考慮して南古谷村となった。
明治22年4月1日、南田島村、久下戸村、並木村、今泉村、牛子村、木野目村、古市場村、渋井村の8村を以て南古谷村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は3635人。

(6) 高階たかしな
郡長案では砂新田、砂村、扇河岸、下新河岸、上新河岸、寺尾村、藤間村の7村合併の予定であった。区域に対する異議は出なかったが村名で紛糾した。大村の呼称をとる案、折衷案など様々な意見が出された結果、『和名類聚抄』中の入間郡高階郷からとり高階村と決まった。この名称は既に学校名に採用されていたものであった。
明治22年4月1日、砂新田、砂村、扇河岸、下新河岸、上新河岸、寺尾村、藤間村の7村を以て高階村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2843人。

(7) 福原村
郡長案では下松原村、下赤坂村、上松原村、今福村、中福村、砂久保村の6村合併の予定であった。ここの合併は明治の大合併でも最も問題の少なかった合併の1つであった。役場は中福村字足ヶ窪とされた。
明治22年4月1日、下松原村、下赤坂村、上松原村、今福村、中福村、砂久保村の6村を以て福原村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2634人。

(8) 山田村
当初の郡長案は志垂しだれ村、中寺山村、下寺山村、福田村、綱代村、宿粒しゅくりゅう村、向小久保村、府川村、石田村の9村合併の予定であった。これは志垂村連合戸長役場管轄区域のままであったが、上寺山村、中寺山村、下寺山村の3村がこれに上寺山村を加えることを希望した。また他村も上寺山村編入に積極的であった。郡長は当初案に固執したが上寺山村他9村ともこれを納得せず、結局上寺山村も加えた10村合併となった。新村名は歴史的に著名な庄名からとったものである。
明治22年4月1日、志垂村、中寺山村、下寺山村、福田村、綱代村、宿粒村、向小久保村、府川村、石田村、上寺山村の10村を以て山田村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2672人。

(9) 田面沢たのもざわ
郡長案では小室村、今成村、小ヶ谷村、上寺山村、野田村[13]、野田新田の6村合併の予定であり、新村名は月吉村とした。前述の通り、上寺山村は離脱して山田村に加わった。他の5村からは区域についての異議はなかったが村名には異議が出て、田面沢村と改められた。役場は小室村に置かれた。
明治22年4月1日、小室村、今成村、小ヶ谷村、野田村、野田新田の5村を以て田面沢村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2014人。

(10) 名細なぐわし
郡長案では鯨井村、上戸うわど村、小堤村、下小坂村、平塚村、平塚新田、吉田村、天沼新田、下広谷村の9村合併の予定であった。これらの村々は用水等の関係も深かったために郡長案通り円滑に進んだ。役場は小堤村に置かれた。村名については大村がなく折衷も難しかったことから、古老などに問い合わせたところ当地を称賛する古歌の枕詞から採られた。
明治22年4月1日、鯨井村、上戸村、小堤村、下小坂村、平塚村、平塚新田、吉田村、天沼新田、下広谷村の9村を以て名細村が誕生した。高麗郡に属した。明治22年末における現住人口は3306人。

(11) 霞ヶ関村
郡長案は笠幡村、的場村、安比奈あいな新田しんでん柏原かしわばら村の4村合併の予定であった。これは笠幡村連合戸長役場の管轄区域そのままであったが柏原村が一村独立の道を選び離脱を希望し、他の3村もそれを認めた。新村名は古い庄名に基づいたもので、役場は笠幡村に置かれた。
明治22年4月1日、笠幡村、的場村、安比奈新田の3村を以て霞ヶ関村が誕生した。高麗郡に属した。明治22年末における現住人口は2854人。

(12) 日東村
郡長案は山城村、大袋村、大袋新田、藤倉村、増形村、柏原新田の6村合併の予定であったが柏原新田と大袋村が異議を唱えた。
柏原新田は戸数8戸の小村で、地勢上入間川の洪水には常に被害を受ける位置にあった。そこで治水上有利な合併を模索しており、共同の利害を有する増形村と一村を形成するのを希望した。しかし増形村は郡長案に異議なかったため、代わりに奥富村への合併を希望するに至った。奥富村側も賛成であったため、これは認められた。
大袋村は豊田村、池辺村との関係が深いため両村と同じ大田村への合併を望んだ。しかし大袋村の離脱を認めると日東村の戸数が標準に達しなくなるために却下された。
また、新村名についての郡長案は「八ツ瀬村」であったが、かつての「入東にっとう[14]」からとり日東村とすることで各村一致した。
明治22年4月1日、山城村、大袋村、大袋新田、藤倉村、増形村の5村を以て日東村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2137人。

(13) 大田村
郡長案は豊田本村、豊田新田、大塚新田、南大塚村、池辺いけのべ村の5村合併の予定であった。各村とも異議はなく、郡長案通り5村合併でまとまった。村名の「大田」は大塚と豊田の合成である。
明治22年4月1日、豊田本村、豊田新田、大塚新田、南大塚村、池辺村の5村を以て大田村が誕生した。入間郡に属した。明治22年末における現住人口は2880人。

(14) 植木村
郡長案は鹿飼ししかい村、上老袋おいぶくろ村、中老袋村、下老袋村、東本宿村、出丸中郷、上大屋敷村、出丸下郷、曲師まげし村、西谷村、出丸本村、下大屋敷村の12村合併の予定であった。これは出丸中郷連合戸長役場の管轄区域に一致していた。しかし、鹿飼村、上老袋村、中老袋村、下老袋村、東本宿村の5村が他村と入間川で分断されている[15]ことを理由に12村合併に反対、5村で新村を構成し植木村としたいと県に申し出た。他の7村もこれを了承し、戸数は標準に満たなかったものの県も承認した。
明治22年4月1日、鹿飼村、上老袋村、中老袋村、下老袋村、東本宿村の5村を以て植木村が誕生した。比企郡に属した。明治22年末における現住人口は1179人。

このように川越地域の合併では、村々が積極的な要求を提示して郡の原案を変えていった。川越地域ではこの先大正11年の川越市制施行まで合併は行われなかった。しかし、明治31年の第八十五銀行設立、明治33年の商工会議所設立、明治35年の川越電気鉄道株式会社発足、明治37年の電灯電力の供給開始などを通して川越の商工業は発展を続け、川越はますます周辺農村との結びつきを深めていった。

   市制施行
 前述したように明治22年に市制及町村制が施行されたが、次いで明治23年に郡制が布かれた。府県と町村の間に行政機関としての郡ができたことで町村の機能は弱体化し、郡費の負担が町村財政を圧迫した。しかし第一次世界大戦後の自由主義、民主主義思想の発達に伴い地方制度は改革を迫られ、郡制は大正10年4月に廃止されるに至った。郡制廃止によって郡費の負担から解放された町村の地位は著しく向上し、また弱小町村の合併も進んだ。
 そのような状況で、川越では市制施行の機運が高まっていた。川越市制施行は明治22年に市制及町村制が施行された頃から既に構想されていた。またこの時期の川越町の発展は目覚ましいものがあった。金融機関が軒を並べ、商工会議所、実業・工業学校、織物市場が次々と開設、電話や鉄道等社会資本の整備が進み、物資の集散地となり、綿織物の市場は東日本全域に拡大、茶と生糸は海外へも販路を伸ばし、人口も地方都市としては顕著な増大を示した[16]。産業の発達と人口増加、そして地方自治に関する住民の意識も向上したことで市制施行の要望はますます高まっていった。
 特に明治33年には町会において全会一致で市制施行に関する請願書を県知事に提出することが決定された。しかしこの時は反対意見が多く、9月に新田町区長坂田一清が町会議員若干名と図って県知事と面会して市制すべきでないことを述べ、さらに川越で反対運動を展開した。これに対して11月30日、町会は全会一致で追請願を提出することに決定した[17]。残念ながらこの時には市制施行はならなかった。
 その後、大正6年4月の町会議員選挙後の町会において市制問題が取り上げられた。ここでも施行論と時期尚早論の対立が起こった。時期尚早派は市制を施行するのは市街の膨張がある程度に達してからにすべきと論じ、賛成派は川越発展の準備段階として市制施行が必要であると論じた。しかし両者とも、川越が未だ「市」たるに足るほど発展しているとは言えないことは認識していた。
 その後大正6年から7年にかけて、町会では論戦が続いた。大正7年12月8日、町会における市制施行提唱者であった喜多欽一郎は市制施行調査会設置の建議案を提出し、翌日可決した。調査会には町会議員をはじめ商工会議所議員、各区長などが選ばれた。そして大正8年6月24日、調査委員会は市制施行すべきという結論を出した。論争は終止符を打たれ、市制促進運動が一層高まった。
 しかしながら、埼玉県管内に一つの市もなく、郡制が存在し、町村合併について政府が消極的であった当時、市制施行は困難であった。川越町は市制施行を目指して町政の充実を図った。委員会を設けて調査研究を進め、また企業等からも市制に向けた運動費の寄付が相次いだ[18]。民間からも市制促進同盟会が生まれた。なお市に相応しいよう町役場の新築も行われたが、「東洋一の町役場」と新聞で諷刺的に報道された[19] 。また、市制施行のために仙波村合併問題の解決と監督官庁との折衝が必須であった。
 川越町は大正9年11月、仙波村に対して両町村合併で市制施行に踏み切りたい旨を伝えた。これに対し仙波村では市制実行委員会を設けて調査・研究のうえ合併促進の決意を固めた。村民への説明会でも圧倒的に賛成意見が多かった。そして大正11年4月1日に仙波村長が村会を招集、満場一致で合併の案件が可決された。なお、合併決議後になって大字岸の区長から合併反対の陳情が県知事に提出[20]されたため内務省と県により実情調査が行われたが、村会の決議が尊重されることになった。
 その後5月3日に両町村合同の委員会が開かれ合併に関する協約を締結、6月10日川越町会で市制施行に関する議案を決議、6月12日埼玉県知事堀内秀太郎を経て内務大臣に意見の上申を行った。
 しかし政府は積極的ではなく、社会福祉施設や上水道などが整備されていないと指摘した。川越町側では施設事業計画を定めるなどして対応した[21]。先に述べた合併反対派による妨害も乗り越えた。そしてついに11月24日、内務省告示第三一三号で川越市制施行について公布された。
 大正11年12月1日、市制第3条と町村制第3条に基づいて川越町と仙波村が廃止されその区域を以て川越市が置かれた。埼玉県管内で最初の市制施行であり、後発の熊谷市や川口市などとは異なり郡制離脱の意味をも持ったものであった。12月17日には市制施行の式典が執り行われた。

   戦時体制下における合併
 昭和6年の満洲事変を契機に、本邦は戦時体制を強めていった。その波は地方行政にも及んだ。第一次世界大戦後に発達した地方自治も戦時統制のもとに置かれた。合併により指導力の強化、施設の合理化、余剰人員の確保、経費節約等の利点が生まれるとされ、合併が促進された。昭和15年から16年にかけて紀元二千六百年記念事業の町村合併が実施され、昭和17年7月に府県制、市制、町村制の改正と東京都制の制定が行われるに至った。
 入間郡内では所沢町と飯能町で大規模な合併が行われ、川越地域では「記念事業」以前に植木村の分割合併、田面沢村の川越市への編入が、独自の要求に根差した自発的な合併として行われた。また戦時下の昭和18年に大田村と日東村の合併が行われた。

・植木村解体
 植木村は入間川と荒川に接し、水防施設がなかったので雨期には必ず水害を被る厳しい環境にあった。そのため人口は約1100人にまで減少し、村の財政は窮乏していた。そのうえ荒川・入間川の河川敷に土地を取られたためますます財政難となり、昭和10年4月頃に村民の間から芳野村・古谷村に分村合併しようという動きが出ていた。これは中老袋の住民の反対で立ち消えとなっていたが、昭和12年6月16日に火災で村役場と小学校が全焼したことでこの動きが進展した。このときも中老袋の反対で実現が延びたが、昭和13年1月20日に植木村会は全会一致で分割合併を決議した。当初芳野村は反対していたが3月9日賛成に転じ、4月30日内務大臣もこれを許可した。
 昭和13年5月1日、植木村は廃止され、大字鹿飼、上老袋、中老袋が入間郡芳野村に、大字下老袋、東本宿が入間郡古谷村に編入された。

・田面沢村編入
 田面沢村は川越市の西に隣接し密接な交流があった。特に野田地区は台地上にあり川越市と市街地が連続しており合併への動きが強かった。しかしその他の地域は低地の水田地帯で、合併へは消極的であった。
 昭和14年、当時の川越市長伊達徳次郎は田面沢村合併に興味を持ち、これを推進した。また市の下水工事が田面沢村との境界で終わっており野田地区の住民が下水施設を要望したことも合併への契機をつくった。この合併は促進委員会などの組織は構成されず、川越市から田面沢村の幹部一人一人に対する個人折衝により準備された[22]。昭和14年7月14日川越市会で田面沢村編入が決議され、同日田面沢村会でも同様の決定がされた。
 昭和14年12月1日、田面沢村は廃止されその区域が川越市に編入された。

・大田村・日東村の合併
 この合併は戦時下での強制的な合併で、「軍の命令」というべきものであった。地方事務所の強力な指導の下で行われ、合併に関する協議も必要最低限しか行われなかった。
 昭和18年11月3日に大田村、日東村が廃止され、その区域を以て大東村が新設された。

 昭和の大合併 
 太平洋戦争後の新憲法発布、昭和22年の地方自治法施行によって、地方自治は抜本的に改革された。地方自治は憲法で保障され、議員や首長は公選とされ、警察、教育、消防などが地方自治体の手に委ねられた。内務省も解体された。
 しかしドッジ・ラインの実施に伴う予算削減と激しい物価上昇により自治体の財政は窮乏した。昭和24年5月に来日したシャウプ博士を団長とする使節団は日本の地方自治について勧告を行い、その中には地方自治体の自主性を確立させるための町村規模の適正化、すなわち市町村合併の奨励も含まれていた。また昭和25年12月には地方行政調査委員会が市町村合併について勧告し、町村合併促進法[23]が昭和28年10月1日に施行されるに至った。しかし、ここでは地方の自立といった当初の理念は薄れ、町村を行政単位・財政単位と考えてその規模の適正化を図るだけのものに堕してしまった。
 一方埼玉県では、すでに昭和26年3月、「町村規模の必要性および標準」というパンフレットを作成し各市町村に配布していた。そして昭和27年4月には埼玉県町村規模適正化促進委員会が設置された。さらに町村合併促進法施行後はそれに基づき埼玉県町村合併促進審議会が設置された。このように埼玉県では町村合併促進法施行前から合併への志向が強まっていた。その後続々と地区町村合併推進協議会が設置され、入間地区は10月31日に設置された。また昭和29年2月26日の町村合併促進審議会の会合で町村合併試案が作られた。この合併試案の作成方針においては、標準人口は8000人とされ、郡の境界は軽視された。

 大川越市の成立
 川越市は埼玉県管内で最初に市制を施行していたが、市域が狭いうえ幹線交通から外されたために後発の各市に比べて発展が抑えられてしまっていた。そのため川越市は昭和14年の田面沢村編入の際に隣村にも合併を呼びかけたが、実施には至らなかった。また戦時中の昭和18年にも合併を呼びかけたところ、北部の名細村、山田村、芳野村は賛成であったが南部の高階村、福原村などは反対したため合併は断念された。
 しかし、戦後になって埼玉県が合併を推進したため川越市は大合併への期待を抱いた。一方、県の方針を受けて入間地方事務所が合併の試案を作成していた。これは、山田村と芳野村、南古谷村と古谷村、福原村と大東村、霞ヶ関村と名細村をそれぞれ合併させる案、また川越市と山田村、芳野村、名細村、古谷村、南古谷村の1市5村、福原村、高階村、福岡村の3村、大東村と霞ヶ関村の2村をそれぞれ合併させ3地域とする案の2つが考えられていた。しかしこの案は行政単位を合併させるという観点が強く現れたものであり、地域の結びつきは軽視されていた。
 昭和29年1月、この情報が偶然川越市長伊藤泰吉たいきちの元に入り、川越市は独自の合併試案作成に動いた。隣接9村に加え大井村、福岡村の11村を合併するというもので、これは大井村を除いた10村合併案となって県試案に採択された[24]。この合併案は、川越と周辺地域との結びつきを一挙に回復せんとするものでもあり、周辺地域に工場、公共施設、住宅の敷地を確保して市政振興を狙う川越市の宿願を実現しようというものでもあった。
 川越市では3月8日の町村合併促進委員会に10村の議会議長を招き、合併への呼びかけを行った。北部の水田地帯は概ね肯定的であったが南部の畑作地帯は財政状態が良好で、当時赤字財政であった川越市との合併には慎重であった。しかし町制施行に向かっていた福岡村以外では積極的な反対論はなく、11日、川越市議会は正式に県の試案に基づく合併の実現を期する決議を行った。
 それでも村の合併研究会が生まれる機運はなく、伊藤市長が中部行政支会長でもあった芳野村長金子武兵衛に協力を要請して研究会発足を呼びかけた。4月中旬になると各村に合併研究会が発足しようやく合併運動は活発化した。5月7日、中部行政支会と10村長・議会議長などの合同研究会を開催することになったが、福岡村は鶴瀬行政支会の研究会に参加するという理由で欠席した。このとき中部行政支会町村合併研究会が結成された。6月28日に川越市は合併促進委員会の組織を決定、関係各村に方面班が出張して研究会や懇談会に参加し、促進運動を進めた。
 7月29日の中部行政支会合併研究会幹事会において各村の状況が発表された。山田村・芳野村は合併決定の旨を表明、福原村・霞ヶ関村は研究会としては合併決定であるが世論一致に若干の日時を要するとし、名細村・南古谷村は合併決定の線に近いが若干の日時が必要、古谷村・高階村・大東村は合併の線に努力すべきだが若干の日時が必要とした。特に大東村は反対論が強く、資料の配布などを行って説得を図った。中部行政支会合併研究会では足並みを揃えての合併を申し合わせていたため、8月下旬に予定されていた最終の結論を出すための会合は9月18日に延期された。
 9月18日の中部行政支会合併研究会では、9村の研究会は全員一致で知事の合併に関する諮問を受ける[25]ことに賛成した。しかし実情は複雑であり、村内に異論を抱えたままの村も多かった。知事は9月20日に県議会に諮問したが、時期尚早とみた知事により一時諮問は保留されることになった。
 川越市は段階的な合併とする覚悟を決め、準備を進めた。10月13日に川越市は方針を定め、10月20日に合併決定した村と合併準備の態勢をとるが30日までに決定した村はそれに参加させ、その後決定した村も参加できる余地を残し場合によっては第2次合併とすることにした。合併の期日は12月1日を目標とした。
 10月20日の中部行政支会合併研究会において大東村と古谷村を除く7村は川越市と連署で知事の意見聴取につき具申書を提出することに決定した。その日の夜、古谷村も調印することに決定し大東村のみが残された。翌21日、川越市長及び8村長連署で知事諮問に対する申請書への調印が行われた。27日、知事は関係市町村長および関係機関に対し諮問[26]を行った。翌日以降関係各所から適切である旨の回答がなされた。また11月4日に川越市合併促進委員会が開かれ、12月1日の合併は困難とした。
 一方大東村に対する説得も続けられ、遂に11月17日の大東村合併研究会において賛成に転じた。翌18日に大東村の具申書が県に提出され、22日に知事が諮問、その後適切である旨回答があった。
 11月22日、川越市合併促進委員会は川越ブロック合併促進協議会に改組された。27日の第1回幹事会では翌年1月1日の合併を目標とし、12月20日の県議会に間に合うよう合併手続きを進めることなどが決められた。
 編入合併であったため、村側の議会議長は29日に議長会を開いて川越市議会議員が合併議決後に即日総辞職することを求めた。その他に税、財産、職員等に関しても要望が出された。しかしながら、議会、農業委員会、教育委員会については市と村の要望にかなりの違いがあった。12月12日に開かれた川越ブロック合併促進協議会幹事会では、村側幹事が市側の態度に納得しなかった。協議は難航したが、翌年1月13日の幹事会において決定に至った。川越市議会議員は必要案件の議決が完了次第可及的速やかに辞職するものとし昭和30年度予算は改選後の議員により審議することとされ、選挙区は小選挙区制で人口比例、教育委員会には各村から1名参加[27]、農業委員会は川越市15名各村2名ずつとなった。17日の川越ブロック合併促進協議会で協議が整い、合併目標は2月11日とされた。
 1月19日名細村議会において知事諮問に対する答申を議決、次いで20日に福原村、山田村、霞ヶ関村、21日に南古谷村、22日に芳野村と高階村の議会が答申を議決した。
 1月22日、伊藤市長はそれぞれの市村議員と委員に対し23日に市村全議員協議会、合併促進協議会、そして協定事項の調印を行う予定を通知した。しかし古谷村の議員は出席か否か意見が一致せず午後にようやく出席、大東村は出席の段階に達しないとして市と8村の議員で協議会を開いた。村側議員の間には市の議員が辞職しないのではないかという不安があったが、市議会議長西川卯八により既に36人分の辞表が集められていた。開会後は円滑に進み、古谷村では翌24日に知事諮問に対する答申を議決した。
 次いで1月26日朝、川越市役所応接室において市長と8村長の協定事項の署名が行われた。午後には各市村議会による議決を経て決定する段取りとなっていた。ところが先立つ24日に「地方公共団体の議会の議員及び長の選挙期日等の臨時特例に関する法律[28]」が公布されていた。協定事項に基づいて川越市議会議員が辞職した場合、議員の任期満了期限であった4月29日以前に一般選挙を行うとこの法律に違反してしまう。このことが明らかとなり、午後に予定されていた議会は全て休会または流会とされ、改めて翌27日に合併促進協議会が開催された。ここで合併期日を4月1日に改めることになり、予算は4・5月分のみ暫定予算として予め各市村で編成し、合併後に市の暫定予算に編成替えすることが決まった。
 そして1月29日、川越市と8村の議会が一斉に開かれ、合併が決議された。翌30日に合併申請書が県に提出され、2月1日開会の県議会において合併が議決されて内閣総理大臣に申達された。
 この決定に参加できなかった大東村では、4月1日の合併には参加しようという動きが活発になった。2月13日に組織された大東村勤労者連盟が合併を推進し、3月1日に大東教友会[29]が合併の要望書を提出した。また川越市、8村、入間地方事務所からの説得も依然続けられた。そして3月10日の臨時村議会で知事諮問に対する答申が議決された。12日、協定事項の決定と署名調印が行われた。17日、川越市議会および大東村議会において合併の議決が行われた。18日に合併申請書が県に提出され、県議会の議決を経て内閣総理大臣に申達された。

 以下、昭和の大合併における各村の態度について述べる。

(1) 芳野村
 人口4500人、面積10.20km2[30]
 水田農村。昭和14、18年の川越市からの合併呼びかけにも賛成した村で、当初から合併に賛成であった。一部には山田村或いは古谷村と合併すべきという声もあり、古谷村長から合併の申し出もあったが経済面の結びつきが強い川越市との合併が最も良いということになった。

(2) 古谷村
 人口5454人、面積12.56km2
 水田農村。芳野村、南古谷村と水田が連続し、水利関係でも深い関係があったため村同士の合併という意見が強かった。川越市との合併に絶対反対というまでではなかったが、市の農政への熱意に不信があった。荒川右岸耕地整理組合から川越市が脱退していたことも不信を生んだ。
 しかし芳野村と南古谷村が川越市との合併へ動いていくと、古谷村だけが取り残されることに不安を抱き、古谷村も川越市との合併へ動いた。

(3) 南古谷村
 人口5347人、面積8.90km2
 水田農村。当時中学校の建設が重要な課題であったが資金面が問題となっており、中学校の建設を条件に川越市と合併することを望んだ。

(4) 高階村
 人口5534人、面積6.00km2
 村民の業種は農業、商工業など様々で、意見がなかなかまとまらなかった。また北部の水田農村より財政が豊かで、川越市が赤字財政であったことが合併への不安を抱かせた。農村同士で合併すべきという意見もあった。また、村長と助役が賛成、議長が反対であったため村をまとめるのが困難であった。福岡村[31] 、福原村からそれぞれ合併への働き掛けがあった。

(5) 福原村
 人口4841人、面積11.92km2
 野菜類の生産が県管内有数で、豊かな村であった。そのため赤字の川越市との合併には反対であった。また周囲の大東村、堀兼村、福岡村などからも農村同士の合併を持ち掛けられたが、どこも自村を中心にしようという意思が見えたために受け付けなかった。隣の高階村が賛成となったことが影響し、5月15日ごろ突然賛成に転じた。特に学校建築の条件が受け入れられたことで合併への動きが固まった。

(6) 大東村
 人口6912人、面積11.72km2
 昭和18年に日東村と大田村の合併によって誕生した村で、人口も町村合併促進法による適正規模7千人〜1万人に達しつつあった。また昭和28年10月には新役場を建設しており、川越市との合併に賛成な議員もほとんどいない有様だった。村内では大東村は単独という考えが強く、合併に関する調査も行われていなかった。入間地方事務所や川越市による説得にも応じる気配は見せなかった。
 しかし、南大塚など一部の地域は賛成に傾いていた。これらの地域の村議会議員は、合併しない場合は村民税の賦課方式を川越市と同じくすべきと主張していた。村では所得に対しての賦課であったが川越市では所得税に対して賦課しており、村の税金は相対的に高くなっていた。仮に賦課方式を変えた場合歳入が3割減少する計算となり、事業縮小を余儀なくされることになる。さらに電源開発が大東村からの移転を決めており、固定資産税の減収が見込まれていた。このような事情が最終的に合併へと踏み切らせた。

(7) 山田村
 人口3398人、面積6.24km2
 人口・面積とも他の村に比べて少なめであった。商業関係者は川越市との合併を望んでいたが、農村が都市と合併したら不利になるという考えもあった。そのため町村合併促進法施行直後は芳野村と合併すべきという方針であったが、芳野村が川越市との合併に賛成を示したため山田村も合併に踏み切ることとなった。

(8) 名細村
 人口5546人、面積12.35km2
 村内を入間川、小畔川が流れ豪雨の際にはしばしば氾濫した。水害が起こる度に臨時の支出が生じて県に補助を要請する状態であり、財政は厳しかった。村の幹部は川越市と合併すれば河川を統一して改修できるということを考えており、合併に賛成であった。霞ヶ関村や鶴ヶ島村から合併を持ち掛けられた際も断っている。坂戸に近い地域では一部反対もあったが円滑に話がまとまり、霞ヶ関村の合併が難航した際には説得に協力したほどであった。

(9) 霞ヶ関村
 人口6055人、面積12.79km2
 川越市との間に入間川を挟んでいるため他村よりも距離があった。この「川越が遠い」ということ、また適正人口にも達しつつあり、ゴルフ場と工場が立地して財政が豊かであったということも合併反対の理由となった。特に笠幡地区では鶴ヶ島村、高萩村と合併すべきという意見が根強く、実際に鶴ヶ島村や高萩村からも呼びかけがあったことで反対派の勢いが強まった。しかし村長は3村合併では将来性が無く役場の位置などで揉めると考え、文化や経済の面で繋がりの深い川越市と合併するほうが良いと考えていた。当時村の4割程度が反対であり村民の説得は困難であったが、村長が各集落で座談会を開いて説得を重ね、また名細村も説得に協力して村内をまとめることができた。


昭和30年4月1日、芳野村、古谷村、南古谷村、高階村、福原村、大東村、山田村、名細村、霞ヶ関村は廃止され、その区域が川越市に編入された。その後の昭和30年10月1日に行われた第8回国勢調査における川越市の人口は104612人、面積は109.97km2であった。
合併記念式は川越高等学校講堂で行われ、埼玉県知事らが臨場した。市長の式辞、市議会議長の挨拶の後祝辞があり、知事の発声により全員が大川越市万歳を三唱して式を閉じた。大川越市万歳!大川越市万歳!!大川越市万歳!!!


    注釈
  1. ^ 明治5年入間県管内における平均値。
  2. ^ 明治2年に品川県となり、のち一部は韮山県に移された。
  3. ^ 所属町村は川越町、小久保村、寺井村、東明寺村、脇田村、松郷
  4. ^ これは従来1村内で郷や組などの区分けを設けてそれぞれ村役人を選んでいたのに対して、1村で選ぶよう勧めるものであった。
  5. ^ 史料の散逸により正確な日付は不明である(『川越市合併史稿』)
  6. ^ 戸長の被選挙権は当該町村に本籍を有し居住して地租を納めている満20歳以上の男子に与えられた。選挙権は当該町村に本籍を有し居住して地租を納めている男子の戸主に与えられた。選挙は記名投票とされた。
  7. ^ 入間郡68町村、高麗郡12村、比企郡5村
  8. ^ 松郷は川越と市街が連続しており事実上川越の一部を成すものであった。
  9. ^ 明治21年法律第1号
  10. ^ 字堺町ほか3字
  11. ^ 大仙波村、大仙波新田、小仙波村、新宿村等の合併が想定されていた。しかし、市制施行にあたっては人口25000人以上の市街が標準とされており、可能であったかは怪しい。
  12. ^ 握津の耕作地の3分の2は荒川右岸住民が所有していた。
  13. ^ 川越町に編入される地域を除く。
  14. ^ 「入間の東」の意。
  15. ^ 元来は地続きであったが、元禄年間に河道を直線化したため分離された。またこの5村は藩政期に老袋村として一村を成していたこともあった。
  16. ^ 明治44年に26687人であったのが大正11年には28200人となり、10年間に5.6%増加した。
  17. ^ 坂田一清は懲戒処分とされたが、郡長に訴えて撤回された。
  18. ^ 大正10年度には以下のような寄付があった。八十五銀行500円、武蔵水電350円、綾部利右衛門300円、山崎嘉七200円、渡辺銀行150円、川越商業銀行150円、黒須銀行支店150円、武州紡織100円。
  19. ^ 素晴らしい建築であったが、現存しない。
  20. ^ 仙波村大字岸の区長奥富信太郎ほか4名が、大字岸や大字大仙波では反対が多いとして、合併反対の陳情書を県知事に出していた。しかしながらこの陳情書は、村会議員に落選した奥富が報復として無頼の徒を買収して調印させたものであった。
  21. ^ 託児所や下水道の整備がこの時始まった。また市民会館が必要であるという条件があったが、川越市側は既設の川越会館で済ませようとした。政府はそれでは承認しなかったが、形ばかりの積立金を用意していずれ建設することとしてなんとか承認された。市民会館は市制施行後40年経過後にようやく完成した。
  22. ^ 村職員の待遇が問題となった。
  23. ^ 昭和28年法律第258号
  24. ^ 当時の川越市助役が前入間地方事務所長であった縁も関係している。
  25. ^ 知事の合併に関する諮問を受けると合併が進展するという認識で、ここでは十分です。
  26. ^ 9月20日付の諮問から大東村を除いたもの。
  27. ^ 議決に加わる委員は村側から4名とされた。
  28. ^ 昭和30年法律第2号
  29. ^ 大東村出身ならびに在住の教職員で結成された会。
  30. ^ 人口は昭和25年第7回国勢調査による。面積は合併申請書中の記載による。以下同じ。
  31. ^ 福岡村、高階村、大井村が合併して町となり、その後川越市と新設合併をしようという動きがあった。そんなことをするくらいならおとなしく編入されてほしい。

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