2018年11月
興亡の室町大名  リトルフ


 はじめに
   近年室町時代がじわじわとブームになってきている。二度にもわたる元寇に対応し、盤石と思われた鎌倉幕府に対した、皇統の一本化をもくろんだ後醍醐天皇の無謀な挙兵。その結果生じた空前絶後の内乱である南北朝時代と、それを勝ち抜いた足利一門を軸にした室町幕府の成立(足利氏が鎌倉時代から源氏のUTSUWAとされていたかどうかはこの際置いておこう)。そして数々の政変の結果、出口の見えない大乱となった応仁の乱・享徳の乱の勃発。ついには織田信長の登場によって滅ぼされてしまう、ある種の歴史のあだ花に過ぎなかった室町幕府への注目が研究者のみならず一般でも高まっていることは、中公新書の『応仁の乱』、『観応の擾乱』の大ヒットが何よりも表しているだろう。
 だが、しかしである。お家問題と諸大名の複雑な対立が導火線となった、かの応仁の乱の勃発から、講談、小説そしてゲームなどで華々しく活躍する戦国大名たちの時代を経て、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑の登場まで150年以上にわたって室町幕府の秩序は保たれていたはずである。しかし、実際のところ、室町幕府とそこで活躍した多くの大名たちの軌跡を知っている人は極めて少ないのではないだろうか。
 もちろんここで今川義元、武田信玄、島津四兄弟といった室町時代の守護を引き継ぐ大名の存在を出そうと思えば出せるだろう。だが、彼らとて、各地で群雄割拠する戦国大名の一例として、名前が列挙されるにすぎない存在ではないだろうか。そして、学校の教科書でならった南北朝や応仁の乱で登場する、細川、山名、斯波、畠山、赤松、一色、京極、さらに言ってしまえば足利将軍家さえ、この150年間の間に何をしていたのかを教科書から知ることはできない。
 というわけで、まずはググってみよう、と試しにニコニコ大百科で戦国時代の人物の一覧のうち、斯波義銀を見てみようではないか。もう、ぼろくそである。確かに織田信長のかませ犬的な役割なのは史実通りなのだが、いくらなんでもここまでぼろくそに書くことはないじゃないかと擁護したくなるくらいぼろくそである。そういえば最後の将軍である足利義昭も、あまりいいイメージがないなあ、とここで連想する方もいるかもしれない。確かに今川義元も大河ドラマで『風林火山』をやったころまではあまりかっこいいイメージはなかったなあ、とあちらのゲーム会社やこちらのゲーム会社の蹴鞠狂いの麻呂を思い出すかもしれない。
 これは何が原因であるのだろうか。戦国時代の人物は、例えば「真田幸村」という伝説に代表されるように、後世に編纂された軍記物、それを元ネタとして引用した江戸時代の文学、それをタネとしてさらに二次創作した近代の講談や小説、と言ってしまえば、物語の孫引きの孫引きを再生産し続けたことによってイメージが固定化されている。この結果勝ち組は勝ち組、負け組は負け組としての役割が固定化され、勝ち続ければやれチート、負けてしまえばやれ無能のかませ犬、という物語的な立ち位置が広く一般的に膾炙してしまっているのである。
 だが現実の歴史や政治は『機動戦士ガンダム』や『銀河英雄伝説』ではない。先の見えない中、生き残りをかけたサバイバルレースを強いられた人々は、自分の選択肢が正しかったか間違っていたか知るすべはない。その点に関しては現実の我々も同じである。
 よって今回は当時の史料を基にした近年の研究成果を踏まえて、室町大名たちはどのように生き残りをかけていったか、そしてそのほとんどがどのように散っていったかを描こうと思う。ただ、先に断っておくが、私は史学科の人間だが、日本史の専門家ではない。さすがに、これは当時の文献に基づき歴史家の助言を得て史実を描いたものである、と銘打ちながら、関ヶ原の前哨戦で徳川家康が石田三成に命じられた忍者軍団と戦うBBCの某ドキュメンタリー番組のようなことはない、とは思う。ただし、あくまでも私の管見の限りで再構成した一種の歴史叙述であるので、未知の世界に旅立つ際の一つの絵地図めいたものであることはご容赦いただきたい。なお、紙数の都合上、奥羽甲信越駿を含めた東国史は基本書が多いこともあり、省くことを最初に承知いただきたい。
 それでは、応仁の乱の後、それまえ体制側で秩序を形作っていた人々がどのように、夢を見て涙して傷ついてもがむしゃらにくる現実の中、今日までの自分を潔く脱ぎ捨てて世界を変えるのには程遠い、終局へ向かうとさえ思えた世界の中、潔くもカッコよくもない泥くさい戦いに挑んでいったか、幕を上げようではないか。 

 足利将軍家―そもそも室町時代はどのように終わりに向かったのか―
   室町幕府を象徴するのは足利将軍家である。というより室町幕府のほとんどが、足利将軍家の「御一家」で構成されていた。そもそも彼らはどこから来たのか。
 足利将軍家の先祖は源頼朝や源義経と同じ義家流河内源氏である。保元の乱の後、源義朝が平清盛に次ぐ軍事貴族のナンバーツーになるなか、彼らの先祖である源義康はナンバースリーの立場にあった。しかし熱田神宮家にそろって嫁ぎ、これから没落した河内源氏を立て直そうとした矢先、源義康は亡くなり、平治の乱で義朝も討ち取られてしまった。
 そして源平合戦にて、義康の子である足利義兼は、義朝の子である源頼朝に協力。どちらかと言えばサポート役だった義兼であったが、門葉に列される。その後も足利氏は、北条氏と歩みを同じくすることで没落を免れ、鎌倉幕府体制下ではかなり上位にいた豪族的領主であった。
 しかしその北条氏の最大の与同勢力であった足利氏は、元弘の乱の際、京を攻める後醍醐天皇方への討伐軍として出立したが反転、六波羅探題を攻める。さらに足利高氏の息子であった足利千寿王(後の足利義詮)や、傍流の新田義貞率いる新田一門は、鎌倉を攻略する。こうして後醍醐天皇方を勝利に導いたが、北条氏の決起である中先代の乱後、独立し、北朝を守護する室町幕府を成立させたことまではご存知の方も多いかもしれない。
 だが、しかし応仁の乱が勃発した。今では、90年代以降の家永遵嗣らの研究成果によって、足利義政の弟である足利義視、息子である足利義尚のどちらを将軍にするか、足利義政の妻である日野富子の介入もあって混乱した末に乱がおきた、とはもはや考えられていない。
 では原因は何なのか。簡単に見ていこう。父親の足利義教を引き継いで側近政治を勧めようとする足利義政に対し、諸大名は反発した。しかし関東は享徳の乱という未曽有の戦乱の中にいた。そこで足利義政は軍事力確保のため、諸大名に中途半端に配慮した結果、御家騒動が複数勃発。さらに嘉吉の乱で一度滅ぼされた赤松氏と、その旧領を勝ち取った山名氏は対立し、赤松氏は細川氏に接近していった。細川氏の当主細川勝元は山名氏の当主山名宗全の娘婿であったため、板挟みになったが、畠山氏の家督争いが着火して乱が勃発。両陣営が形成されてしまったのである。
 さらに別の問題が起こる。足利義政と弟・足利義視はわりかしツーカーな仲であり、足利義視を中継ぎとし、足利義尚にさらに継がせる道筋は両者の合意の下であった。しかし、足利義政の側近は将軍後継者として、彼らが取り除きたいはずの諸大名と仲良くする足利義視の存在を疎ましく思っていた。ただし、細川勝元、山名宗全といった諸大名によってこの側近連中が排除される、1466年の文正の政変が起きて丸く収まったはずだった。しかし1467年、応仁の乱が勃発すると、細川勝元らの手によって、ここで排除された側近が許され、ふたたび政権の中枢に戻ってきていた。そのため暗殺騒動で一度京都から伊勢に逃れていた足利義視は、かつて仲の良かった山名宗全の下で将軍の代わりを務める。こうして後々禍根を残す、二人の将軍問題が勃発したのである。
 応仁の乱の過程を長々とみるのはこの文章の趣旨から外れるので、一気に終結まで飛ばそう。応仁の乱が終わった後、足利義視は美濃の土岐氏に保護され京を離れていった。そして新将軍足利義尚が誕生…したはずであったのだが、彼の両親である足利義政、日野富子は頑なに権力を譲り渡そうとしなかった。その目的は資金繰りのためである。
 こうして足利義尚は、父親で前将軍の足利義政と対立。各地に引き上げていった大名たちに代わって、直轄軍である奉公衆を頼る。そして奉公衆や寺社の領地を侵しているとして1487年、近江の守護大名・六角高頼を攻める。一般的なイメージと違い、この戦いには国許に引き上げていった諸大名たちもわりかし多く付き従っていった。
 しかし足利義尚は六角高頼が没落してもなお、引き揚げず、側近集団である「評定衆」を中心に政務を行う。その目的は戦う将軍像を復権させるだけでなく、京都の両親から離れて、自分で政治を行うことであったのだ。しかし、足利義尚は1489年に25歳で生涯を終える。病死であった。
 足利義尚には当然息子はおらず、足利義政の一人息子であったため縁戚から候補を選ぶ他にはなかった。ここで選ばれたのが、美濃に没落した足利義視の息子・足利義稙、混乱する関東に派遣した足利義政の兄。・足利政知の息子・足利義澄の二人であった。細川政元は足利義視の復権を認めず、足利義澄を推すが、日野富子は足利義稙を将軍に選んだのであった。
 しかし、日野富子と足利義視・足利義稙父子はあっけなく仲が悪くなる。さらに、義視の死後、足利義稙はまず六角高頼、続いて畠山義豊を攻め、次には越前の朝倉孝景を攻めるという噂もあった。この理由は美濃で生まれ育った足利義稙には、当然将軍直臣とのつながりがなく、外政を繰り返して自分の実力を認めさせなければいけなかったのである。しかし、足利義視から引き継いだ近臣たちを重用し、遠征を繰り広げた足利義稙は、諸大名から次第に孤立する存在となっていた。
 そして起きたのが1493年の明応の政変である。足利義稙が諸大名を引き連れて畠山義豊を攻める中、京都で日野富子、細川政元、将軍家譜代の伊勢貞宗といった人々がクーデターを起こし、新将軍に足利義澄をつける。当初は足利義稙から側近を排しようとする御所巻程度に思っていた諸大名も赤松政則や武田元信といった細川派が旗幟を鮮明にさせることで、状況を理解し離脱。将軍家の直轄群である奉公衆も、四番以外は離脱してしまったのである。こうして足利義稙には討伐軍が差し向けられ、幽閉される。
 しかし、足利義稙はめげなかった。彼は自分の唯一の与同勢力であった畠山尾州家のつてで越中に脱出。協力者のタカ派とハト派の対立で、一度目の放棄には失敗するも、今度は周防に逃れる。そして細川政元が家督問題で暗殺される、1507年の永正の錯乱が起きると、大内義興を引き連れて、上洛し、足利義澄を追い落とす。彼には細川高国、大内義興、畠山尚順、畠山義元の四大名家が仕えた。
 そして十年にわたる統治を行ったのだが、次第に広がる戦乱の世で、彼を支えた大名たちも次第に国に戻ってしまう。そして唯一残った細川高国は政敵・細川澄元の攻撃を受ける。しかし周到に計画されたこの侵攻に対し、見事追い返すことに成功した。
 ここで問題になったのは、足利義稙はいったん細川澄元の陣営についてしまうのである。将軍に疑心を抱いた細川高国は赤松氏の下で養育していた足利義澄の息子・足利義晴を迎え入れ、1521年足利義稙は出奔してしまった。足利義稙は以後淡路でこれまた同じく家中から追放された畠山尚順らとともにひっそりと生きた。
 さて細川高国に新たに擁立された足利義晴であったが、肝心の細川高国が家臣団のコントロールに失敗し、古参と新参の対立から生じた誅殺の結果、家臣団の離反を招く。それに対し細川澄元の息子・細川晴元が侵攻し、1527年に高国は潰走。細川晴元は、堺に足利義晴の兄弟である足利義維を推戴し、両者は対立したのである。しかし細川晴元陣営も、足利義晴と結んで将軍位を一本化し敵内の戦乱を治めようとする派閥、細川高国陣営を壊滅させて細川氏を一本化し畿内の戦乱を治めようとする派閥、の二派が複雑に絡み合う。
 この結果細川高国の敗死、足利義晴の細川晴元の容認、足利義維派だった三好元長の敗死といった事件が立て続けに起き、足利義維は四国に戻り、足利義晴の下、細川晴元派と旧細川高国陣営残党が相争う構図へと変化したのである。
 その結果細川晴元もまた、家臣団の新参と古参の対立を招き、1542年の木沢長政の乱、ついには1549年に三好長慶の細川高国残党の首魁・細川氏綱への離反を招く。こうして足利義晴は細川晴元に連れられて、たびたび朽木といった近江に逃れていった。しかし、足利義晴は幕政を積極的に改革し、変質し縮小される足利将軍権力をうまく立て直そうとしたことが、史料の多さからも物語られている。
 そして足利義晴の病死とも自殺ともいえる1550年の近江での陣没の後、ついに足利義輝が登場する…のだが、この将軍、一般的なイメージと違い実はあまり史料を残しておらず、語れることがあまりない。しかし、父を引き継ぎ、足利将軍権力の再興を目指した義輝が、栄典授与や各国の大名への和敬交渉などに積極的にかかわっていったことは事実である。
 しかし、足利将軍家が京都に長いこと誰もいなくなることが頻発した結果、特に足利義輝と三好長慶の対立によって京都を実効支配する三好権力というものが誕生する。そして三好長慶の死後、三好義継や松永久通らは暴走し、1565年に将軍・足利義輝を殺害する。これは当初は穏便な御所巻を行おうとしていたとも、初めから幕府をつぶすつもりだったとも論争され、いまだ決着はつかない。
 しかし松永久秀の下保護されていた足利義昭は、朝倉義景との交渉の末に脱出。逃亡を繰り返し、一度目の上洛戦が三好政権内で三好三人衆と松永久秀の対立の末に阿波三好家と三好本宗家の抗争に至り白紙に戻るも、ついに織田信長に擁立され上洛。以後の歴史はもはや物語る必要はないだろう。
 しかし織田信長ももともと室町幕府を滅ぼし天下人になるつもりはなく、足利義昭の息子。足利義尋を擁立する気満々だったといわれている。しかし足利義昭はどうも信長を許すつもりはなく、備後の鞆で毛利家の支援の下反抗。晩年は豊臣秀吉の御伽衆として過ごしたとされる。そして足利義晴の系列である、足利義輝、足利義昭の子孫は残らず、足利義維の息子で、三好三人衆に擁立され数か月で亡くなった足利義栄の弟・足利義助の子孫である平島公方が阿波蜂須賀氏の下ひっそりと命脈を保ち、現在に至る。 

 三管領のその後―分裂する幕府重職たちの子孫―
   三管領、それは足利氏の執事を務めていた高一族の没落に端を発する役職である。観応の擾乱での足利氏の執事である高一族の没落後、それを最初に引き継いだのは、足利氏の庶流もいいところの仁木氏であった。しかし仁木氏もまた高一族同様基盤を持ちえず没落。それをさらに引き継いだのが、仁木氏と同祖の足利氏の庶流もいいところの細川氏であった。しかし細川氏と斯波氏の対立の末に執事はどんどん権限が強化され、管領という別の存在になる。やがてそれに同じく足利氏の一門であった畠山氏も加わり、三管領と呼ばれる地位になったのである。
 しかし実のところ管領が実務を伴っていたのは室町時代も中期までで、前述のとおり側近政治がそれに代わっていく。戦国時代になるともはや儀礼の時数日置かれる程度の臨時職となり、実を持たない彼らは分裂する家督の中、生き残りをかけていくのである。
 実のところ最初に脱落したのは、足利将軍家に次ぐ足利一門のナンバーツーという最上位の家格を持っていた斯波氏であった。この最大の原因は足利義教時代に当主が若くして死ぬことが何度も続いた結果断絶。傍流の大野斯波氏から斯波義敏を迎える結果になってしまったことに端を発する。
 この斯波義敏とその家臣である二宮氏は、もともとは大野斯波氏の分国であった加賀の奪還をもくろむが、斯波本宗家の重臣であった甲斐氏を中心とした本宗家の家臣たちが反発したのである。その結果1458年に越前で内乱・長禄合戦が起きる。足利義政は絶賛享徳の乱中の関東に援軍を送るため、何とか収めようとするが、関東に斯波氏を派遣しようとしたところ、その軍勢を使って越前の内乱を続け、ついに足利義政の逆鱗に触れる。
 足利義政は、斯波義敏とその息子の松王丸(後の斯波義寛)を家督から退け、御一家で関東の足利政知の重臣であった渋川義鏡の息子を斯波氏の家督に据える。彼こそが斯波義廉であった。しかし、関東の京都方・堀越公方府の中での政争の末、渋川義鏡はあっけなく失脚。結局奥州探題大崎氏、羽州探題最上氏、高水寺斯波氏、といった同族とのパイプを持っていた、斯波義敏を足利義政は復権させる。これが前述の文正の政変の原因となり、斯波義敏と斯波義廉のどちらが斯波氏を継ぐかで応仁の乱の導火線の一つになったのである。
 そして斯波義廉が自分を陥れた足利義政の側近たちが細川方にいるという積極的な理由から山名方につくと、斯波義敏は必然的に細川方についた。ところが、ここでまさかの事態が起こる。細川方の計略により1471年、斯波義廉の重臣であった朝倉孝景が寝返り、越前を自分の支配下におさめる。これには細川方であった斯波義敏、斯波義寛も困ってしまった。
 そして越前を追われた斯波氏は、応仁の乱の後、尾張で戦いを繰り広げる。尾張では足利義政政権初期の「三魔」が君臨した時代に守護代織田家が分裂していた。それを斯波義廉、斯波義敏は利用したのである。当初は斯波義廉がついた織田伊勢守家の織田敏広が、美濃守護代斎藤妙椿の援護もあって有利に戦いを繰り広げ、織田大和守家と結びついた斯波義敏、斯波義寛父子を追い払う。しかし、尾張での戦いは、最終的には斯波義敏の勝利に終わり、足利義尚の六角攻めのころには、斯波氏は一本化されていた(なお、斯波義廉の子孫は朝倉氏を頼り、彼らの家中にいたともいわれている)。
 その後、斯波義寛は越前奪還に燃え、足利義稙に朝倉攻めを進言するために六角高頼討伐などでは奮戦する。明応の政変があってもなおこれをあきらめず、加賀の一族と本願寺による挟撃作戦などを行っていった。
 しかしこのとき危機に瀕していたのは越前だけではなかったのである。1494年の駿河守護今川氏の遠江侵攻である。さらに美濃では守護をめぐり、守護代斎藤氏の斎藤妙純と石丸利光が争う。その結果斯波義寛はそれまで両将軍の対立で旗印が不鮮明だったのを、足利義澄方につき、細川政元、信濃の守護小笠原氏、関東管領山内上杉氏の協力を取り付け、1501年に今川氏と対峙する。
 しかし足利義稙の復権によって遠江守護は今川氏のもとに行ってしまう。これを受け継いだ息子の斯波義敦も引き続き、越前への勢力回復と今川氏からの遠江防衛をもくろむが、どちらも失敗してしまった。そして彼については尾張に閉塞していたという情報しかわからない。
 そしてその息子斯波義統はなおも越前奪還に燃えていた。しかし尾張では織田信長の父・織田信秀が台頭し、これは止められてしまったようだ。そしてついに守護代の命によって1554年に織田彦五郎、坂井大膳に殺される。
 その息子が織田信長のもとに駆け付け、信長の尾張統一のきっかけとなった斯波義銀である。しかし『信長公記』によると信長が尾張を席巻する中、御一家・石橋忠義、吉良義昭と共謀し復権をはかるがまとめて追放されてしまった。しかし津川義近と名を改めた彼は、割とすぐに信長に帰参。その後秀吉政権でかつての奥羽とのパイプを生かし公家成大名となるが、弟の蜂屋謙入が聚楽第落書き事件に巻き込まれる、彼も北条氏との和議を勝手に取り計らい北条氏直の助名嘆願をする、といった行動から改易。この際も帰参し秀吉の御伽衆になるが、かつての栄光は遠いものとなってしまった。
 斯波氏、もとい津川氏は大坂の陣で豊臣方についた津川近治などもいたが、次男の津川近利が伊予松山藩の、三男の津川辰珍の子孫が肥後細川氏の家臣として続き、後者は近世を生き延びている。また、加賀藩にも子孫を称する津田氏がおり、この子孫が明治維新後に斯波氏を再興し男爵となるが、こちらは織田氏の傍流とみられている。
 次に畿内の戦乱を戦っていった畠山氏、細川氏を見ていく。畠山氏は二家に分裂し、応仁の乱の直接の契機となったことでも有名だが、その最大の原因が足利義教の大名分断策である。足利義教はそれまで家督にあった畠山持国を退け、その弟・畠山持永を家督に据える。これに対し、畠山氏は、まあ仕方ないこととしてスムーズに家督継承を行った。ところが、嘉吉の乱での足利義教の横死である。その結果畠山持国が復権。ここでそれまで持国にそば仕えしていた近臣層の権力伸長におびえた重臣の遊佐国政、斎藤因幡入道が彼の暗殺をもくろみ逆に粛清される。そして内衆には持国のそばにいた人々が台頭し、それまでの内衆たちは排除されていったのだ。
 ここで畠山持国は次の家督を弟・畠山持冨に決める。というのも、彼の息子である畠山義就は諸大名の間を転々としていた卑しい身分出身の母の出とされ、家督に据えるのに難色を示さざるを得なかったためである。ところが、ここで持国に重用された新興家臣層が持冨の家督継承で没落することを警戒し、畠山義就を擁立したのである。そこに紀伊や大和で蠢動する後南朝や寺社勢力を警戒した足利義政が介入する。彼は畠山義就の家督継承を認めたのである。
 畠山持冨が亡くなった後、その与同勢力は京都でその息子の畠山弥三郎を擁立する。しかし、洛中での政治運動に重心を置いた彼らは領国で支持勢力を固めた畠山義就に敗北する。だが、時の管領・細川勝元は対抗馬である畠山持国の追い落としをもくろみ、畠山弥三郎を家督に据えることに成功する。しかし伊賀に没落した畠山義就も負けてはいない。彼は足利義政の支持を取りつけ、復権したのである。
 ところが、この畠山義就、どうも軍事センスだけ高く、他は壊滅的だったようだ。弥三郎派の討伐を進め大和へも進行していく中で、大和の寺社領を侵していく。その結果足利義政からの信頼はどんどん下がっていった。
 さらに弥三郎派だった山名宗全の復権。義就派だった「三魔」の今参局の失脚などがあり、細川勝元、山名宗全の支援の下、畠山弥三郎が赦免されたのである。弥三郎はその直後に亡くなったものの、その弟・畠山政長が畠山氏の家督を継いだのであった。こうして畠山氏の家督は畠山義就の畠山総州家、畠山政長の畠山尾州家に分かれることとなる。
 応仁の乱後、畠山義就は河内で軍事的に優位に進めるも、あっけなく亡くなってしまった。それを受け継いだのが畠山義豊である。彼は細川政元と手を結び明応の政変に関与する。こうして足利義稙の下で畠山氏統一をもくろんでいた畠山政長は細川政元に攻められて敗死してしまった。その息子の畠山尚順は紀伊に脱出。畠山尾州家の近臣層の多くを失ってしまったものの、北上して畠山義豊を敗死させ、高屋城を奪うこととなった。
 畠山義豊の後を継いだ畠山義英と畠山尚順はここで和平を結ぶ。両者が河内を折半することで、手を打とうとしたのである。ところが、これを許す細川政元ではなかった。彼は配下の赤沢宗益を送り込み、両者を大和に追い落としたのであった。
 ところで、最初の足利将軍家の節で、細川氏が二派に分かれて戦っていたことに、特に突っ込みを入れなかったため、ここまで疑問に思っていた読者もいるかもしれない。細川政元には実子がいなかった。当初は分家の細川野州家の細川高国を家督に付けようとしていたが、すぐに養子を解消し、自分が取り立てた新参の内衆に支持された、公家の九条家出身の細川澄之を家督に付けようとしたのである。しかし、これには古参の家臣やほかの領国を治めていた分家たちが猛反発。かつて今谷明の学説では細川政元の代に京兆専制が行われたとさえ言われていたが、その後の末柄豊の反論に象徴されるように、応仁の乱後、細川氏の分家たちは独立化していたのである。
 こうして阿波の守護であった細川讃州家の細川澄元を今度は養子にし、家督に付けようとする。ところが当然この流れに細川澄之派は猛反発する。そして1507年、細川氏の与同勢力である若狭武田氏の一色氏との争いに支援を行っている最中、風呂場で細川政元が細川澄之派に暗殺される永正の錯乱が行ったのである。細川澄之派は澄之も含めあっさり殲滅したものの、細川政元暗殺を聞いた足利義稙がひょっこり大内義興の大軍を連れてくる。
 しかし、当然足利義澄はまだ現役。細川澄元はこれに困り、畠山尚順を自派に引き込む。そして畠山義英を追い落とした後、大内義興と交渉する。しかしこれは突っぱねられた挙句、細川澄元は自分の支持勢力である三好氏などが京兆家の家臣団から反発され追い出されてしまう。この結果、細川典厩家の細川政賢か、その子・細川澄賢に継がせる運動があったが、細川玄蕃頭家の細川元治の進言で細川高国が家督につく。そして細川高国は畠山尚順とともに足利義稙を迎え入れ、足利義澄&細川澄元対足利義稙対細川高国という図式の両細川の乱が勃発したのである。しかし1511年に足利義澄は病死し、細川澄元は阿波に落ち延びていった。
 さらに能登からは能登守護畠山義元・畠山義総父子が上洛し、前節で述べた細川高国、大内義興、畠山尚順、畠山義元の4大名による体制が確立したのである。しかし、大内義興は、長く領国を空けていたことで安芸武田氏といった反大内勢力が領国を脅かし、1518年に帰国する。細川高国は細川政元の轍を踏まないよう保守的に進めていったが、次第に新興の側近が権力を伸長させていく。さらに、細川澄元の第3次上洛戦では前述のとおり足利義稙が離反。結果最終的には足利義稙を追放し、赤松氏のところで養育していた足利義晴を迎え入れる。一方畠山尾州家内部でも足利義稙に近しかった畠山尚順を追放。その息子の畠山稙長に家督が移る。
 しかし1524年に細川高国の息子の細川稙国が亡くなったあたりから歯車が狂い始める。細川高国は細川氏のうち阿波守護の讃州家、典厩家、淡路家、両和泉家と大半の分家が離反している中、典厩家、両和泉家、備中家に自派を送り込み対抗する。バランス感覚に優れた細川高国はこれを乗り切ろうとするも、前述のとおり細川高国の家臣団対立の末に高国派の求心力は低下する。それに対し、細川澄元の息子・細川晴元は足利義維を擁立して上洛。1527年に細川高国は惨敗し、潰走する。
 細川高国は赤松氏の重臣・村上村宗の支援でようやく京に戻るが、決戦の最中、かつて父・赤松義村を殺された赤松晴政が寝返り、浦上村宗を討ち取る。細川高国もまた長い逃亡の末、1531年に討ち取られることとなってしまった。こうして両細川の乱は終わるのだが、細川高国残党がなおも蜂起を続けていく。
 一方畠山稙長は対立陣営である細川晴元側の柳本賢治の攻撃を受ける。この中、細川高国残党を支援しようとする畠山稙長と、細川晴元側に転じようとする守護代・遊佐長教が対立。畠山稙長は紀伊に出奔する。その結果畠山尾州家は細川晴元陣営に転じ、家督は弟の畠山長経、さらに畠山晴煕が擁立されるが、細川晴元から畠山弥九郎が送られ、細川晴元と遊佐氏に都合のいい傀儡君主が据えられる。
 畠山尾州家に対抗する畠山総州家も畠山義堯に代が変わり、細川晴元政権に引き続き仕えるが、晴元政権内の政権抗争対立の末に、1532年に三好元長とまとめて家臣の木沢長政や一向宗に滅ぼされてしまう。こうして木沢長政にその弟と思われる畠山在氏が擁立。こちらも傀儡君主であった。木沢長政は足利義晴派であり、細川氏、畠山氏を巧みに移りながらも、義晴の推戴を軸に据えた。
 そしてここで両者は協力する。畠山弥九郎と畠山在氏は河内を折半し、それを陰で操る遊佐長教、木沢長政が畠山氏を乗っ取ったのである。しかし、前述のとおり、木沢長政は細川晴元政権での争いの末、三好政長、三好長慶に攻められて敗死してしまう。こうして畠山稙長が復権し、畠山弥九郎と畠山在氏を追い落とす。ところが畠山稙長は急死。弟とされる畠山政国が跡を継いだ。
 一方、細川高国残党は高国の弟・細川晴国、彼の死後軍事面で残党をまとめ京をも支配した玄蕃頭家の細川国慶、典厩家の細川氏綱らが挙兵する。しかし、細川晴元が三好元長を滅ぼした後、一向宗が晴元のコントロールを外れ暴走する中挙兵した細川晴国派は、協力を持ち掛けた本願寺が態度を明らかにせず自壊。1538年に畠山稙長・尼子晴久と協力した細川国慶と細川氏綱の挙兵も、細川晴元派の反撃で国慶を失う結果となる。
 だがしかし、遊佐長教が細川氏綱側へと離反。三好長慶をも味方に引き入れ、畠山在氏を没落させる。遊佐長教は暗殺されたが、1549年の江口の戦いで三好長慶に細川晴元派は潰走。細川氏綱が政権を握った。細川晴元は1552年に息子の細川昭元を氏綱の後継者にすることで和睦したが、以後も足利義輝とともにたびたび反旗を翻す。結局細川晴元は1563年に、細川氏綱は1564年に亡くなった。傀儡と言われる氏綱だったが、京兆家当主として統治を行っていたようだ。しかし三好長慶の幕臣化、自身の擁立者である内藤国貞の戦死をもって、統治能力の限界を認識し、穏やかに三好政権に譲り渡していったとされる。
 一方、遊佐長教の暗殺で、畠山政国の息子・畠山高政が家督を継ぐ。彼らは足利義輝陣営に入るが、六角義賢の放棄で畠山高政も三好方を離反。三好長慶の弟・三好実休すら打ち破るも、河内を失陥する。
 やがて三好長慶の没後の将軍暗殺劇である永禄の変を受け、畠山高政は足利義昭支援に向かい、国の統治は弟の畠山秋高が引き継ぐ。一方畠山総州家の畠山尚誠も足利義昭と連絡を取り合うという、総州家の最後の記録が残されている。細川京兆家は幼い細川昭元が三好三人衆に取り込まれ、織田信長の挙兵によってようやく京都に返り咲くことができたようだ。
 しかし畠山秋高は足利義昭政権下で、三好義継や松永久秀と対立。義昭、信長の協力を得る。しかし家中で遊佐信教と対立し、足利義昭と織田信長の対立の中信長に就こうとしたところ、信教に暗殺されてしまった。遊佐信教もまた1574年に三好康長とともに潰走し、織田家の佐久間信盛の支配下で畠山氏はひっそりと命脈を保っていたようだ。その後兄の畠山高政も死没し、甥の畠山貞政が秀吉の紀伊侵攻に抵抗の末降伏。その子畠山政信は徳川家康に仕え、高家旗本として命脈を保っていった。
 一方細川昭元は織田信長の妹であるお犬をめとり、公方衆として捨扶持同然にとどめ置かれた。本能寺の変が起きると後ろ盾を失った彼は阿波に逃れ、長宗我部元親の庇護を受ける。彼はその後毛利氏における足利義昭のように、対豊臣秀吉用のいざという時の切り札として扱われたが、その価値もなくなると六角義賢の縁で本願寺顕如のもとに移る。その後津川義近同様聚楽第壁落書き事件に巻き込まれたこと以外は定かではない。彼の息子細川元勝は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣に参戦。敗北後はその子細川義元の子孫が三春秋田家の家臣として続いていった。
 こうしてみると、三管領は押しなべて家督問題に巻き込まれたが、少なくともその片方の血脈を残すことができたのである。 

 山名氏と赤松氏―山陰と山陽の混乱―
   続けて室町時代までは在京していた大名たちの動向を見ていこう。
 山名氏は新田氏の庶流である。と入ったものの本家を早くから離れて鎌倉時代から独立した御家人になっており、足利氏の縁戚といってもいい存在であった。一方赤松氏は播磨にいた村上源氏の子孫を名乗る存在である。南北朝時代を象徴する悪党勢力の一つと言われることが多いが、近年では御家人でもあったといわれている。
 さて、この二家の因縁は南北朝時代までさかのぼる。南北朝時代に観応の擾乱が起きると、山名氏は室町幕府から離反。京都への侵攻を繰り返す存在となる。それを主に防衛したのは播磨に本拠地を置いた赤松氏であった。やがて山名氏は勢力を維持ししたまま室町幕府へ帰参。家督争いを利用されて一度は1391年の明徳の乱で勢力を削減されたものの、さらに西の大内氏への防衛線として復権。但馬、備後、安芸、因幡、石見、伯耆といった山陰山陽の多数の国を領国とする。山名氏は細川氏と同様各国をそれぞれの分家が世襲化し、それを但馬守護の本家が統括する体制を取った。一方赤松氏はさらにその防衛線として、播磨、美作、備前という三カ国を宗家が一手に引き受けることとなった。
 だが不幸は突然訪れる。将軍の側近を務めた赤松氏の庶流の人々が権力を伸長させ、将軍から彼らを本家に代える企みが企てられたのだ。その結果赤松氏は先手を打つ。1441年の嘉吉の乱での足利義教暗殺である。しかし、赤松氏は最終的に敗北し、山名氏が赤松氏の領国をすべてのっとってしまったのだ。
 赤松氏は何度も復興を願い出たが、反乱として処理されるなどがあり、その結果一門のほとんどを失ったのである。ところがここで奇跡の逆転劇が起こる。1443年に後南朝が蜂起した禁闕の変で、三種の神器のうち神璽が奪われてしまう。それに対し赤松氏の旧臣たちが立ち上がり本拠地に乗り込む。1457年の長禄の変で見事に取り戻し、赤松本宗家の生き残りであった赤松政則を加賀半国の守護として復権させたのであった。
 さて当然赤松氏の次の目標は本国である播磨・美作・備前への復権である。しかし山名氏の惣領である山名宗全はこれを譲らない。そのため赤松政則は細川派につき、前述のとおり細川勝元を板挟みさせることとなった。
 応仁の乱で赤松政則は領国回復までは和平交渉を認めないなど、タカ派の存在の一人であった。その結果乱が終結すると、見事山名氏から播磨・美作・備前を回復したのである。一方山名氏は次第に混乱を始めていた。細川氏と異なり管領の職にあらず、あくまでも私的に勢力を拡大させていったため、その限界が露呈したのだ。山名宗全を継いだ山名政豊は、次第に庶家たちが寝返りだすのを見ると急いで応仁の乱の講和に向かい、直ちに分国の回復へと向かった。
 すでに備後、安芸、石見は山名氏の統制を離れつつあった。因幡では赤松政則の支援で毛利次郎の乱がおき、1479年には守護・山名豊時が敗走。伯耆では同じく赤松氏の支援を受けた山名元之が守護・山名政之と対立。そう、赤松政則はこれまでの復讐を諮り山名氏を弱体化させようとしたのである。
 そして1479年に山名政豊は但馬に下向する。翌年には因幡・伯耆の騒乱を鎮圧。1483年にこれまでの逆襲として赤松領の播磨・美作・備前へと侵攻する。しかしこの結果は両者の痛み分けであった。緒戦の真弓峠の戦いであっけなく負けた赤松政則は威信を低下させる。しかし浦上則宗、別所則治などの重臣を用いた反撃で、山名氏は敗走し、1488年の坂本城の戦いでついに退却することとなった。この結果山名政豊も威信を低下させる。
 赤松政則は、1493年に細川政元の姉である洞松院尼と結婚する。これは明応の政変のための準備であった。そして従三位に列されるが、1496年に突然亡くなってしまう。赤松政則の死後、遠縁である赤松七条家の赤松義村が継ぐが、次第に重臣たちが亡くなっていく中、1512年に細川澄元方についてしまい、敗北した際、洞松院尼の助けで細川高国に赦免されるということがあった。
 ともあれ、この和睦でようやく、赤松義村は赤松氏の後継者として独り立ちしたが、家臣の浦上村宗と対立する。ついに両者は戦いに至り、赤松義村は惨敗。威信を大きく低下させ、家督を赤松晴政に譲ることとなった。さらに細川高国は新将軍擁立をもくろみ、浦上村宗と交渉して赤松氏で養育していた足利義晴を据えるが、この結果1521年に赤松義村は用済みとばかりに暗殺されたのであった。
 山名氏では政豊の後継者をめぐって山名俊豊が擁立され、政豊と父子の争いをすることとなる。最終的には別の息子の山名致豊が跡を継ぐが、被官の垣屋氏と対立し、1505年には足利義澄に和平調停をされるほどであった。その後の中央での足利義稙の復権で、義澄派だった致豊は引退させられ、その弟の山名誠豊が擁立される。
 ここで登場するのが、尼子氏である。1510年ころから次第に東西に侵攻した尼子氏は、伯耆を制圧。因幡も山名久通を擁立して但馬の本宗家と対立する。一方赤松氏は依然として浦上村宗が支配を行い、晴政派の小寺氏、宇野氏、別所氏といった人々が蜂起していった。しかし村宗は高国派で、高国が政権を取っていた間には有利に働いていたのだ。そんな赤松領に山名誠豊は1522年に侵攻。結局両者は手を結び1523年に山名氏を追い払うことに成功したが、なおも混乱が続いていた。
 1528年に山名誠豊を引き継いだ山名祐豊は、1542年に因幡へ侵攻。山名久通を没落させ、弟の山名豊定を据える。一方1531年前述のとおり赤松晴政は浦上村宗への復讐から、細川高国方を離反。村宗を死に追い込み、細川晴元派の勝利を導くのである。しかし、赤松氏領国の混乱はなおもやまず、1537年に尼子晴久の侵攻を招く。さらに1544年には三好勢が東から迫る。1553年には美作・備前の守護職は尼子晴久に与えられてしまった。
 ここで1550年代以降毛利元就の台頭である。因幡・伯耆では尼子対毛利の争いが展開され、1563年は因幡で武田高信が毛利方として挙兵し、山名対武田・毛利の戦いが展開される。一方、1558年には赤松晴政は失脚。息子の赤松義祐が擁立される一方、晴政は分家の龍野赤松氏の赤松政秀を頼る。彼らは義祐派に対抗すべく毛利を頼ったのだ。しかし晴政、義祐ともにあっけなく亡くなり、赤松領国はもはや混乱状態に陥ったのである。
 さらに東からは織田信長が上洛。織田と毛利が同盟を結んだため、1569年に羽柴秀吉に但馬は攻略されてしまった。また毛利は備前・美作の浦上宗景や宇喜田直家への対抗から信長に出兵を依頼。播磨は中間地域として織田信長に制圧されることとなった。
 その後織田と毛利が対立すると、山名氏は毛利方につく。この結果またまた羽柴秀吉の攻撃を受け、1580年に羽柴秀長が但馬を攻略。因幡の山名豊国も降伏した。一方赤松領では毛利や荒木村重と手を結んだ諸将の離反が相次ぐが、こちらも秀吉によって制圧されていく。赤松氏の最後の当主である赤松則房は秀吉に従った。また龍野赤松氏の赤松広英、後の斎村政広は早くから秀吉に従い、藤原惺窩と親交を結ぶなど文化的にも重要な役割を担った。
 結局山名・赤松両氏は秀吉政権に参画し、但馬守護家・山名堯煕、因幡守護家・山名豊国は御伽衆、赤松則房は阿波置塩の大名に、斎村政広は天空の城でおなじみの竹田城の城主として本家とは別に大名となった。ところが、赤松氏・龍野赤松氏は関ヶ原の戦いで西軍についたことによって改易され、切腹させられる。実はそのあたりも混乱しており、よくわかっておらず、赤松則房の息子・赤松則英という実際にいたかどうかわからない当主が立項されていたりするのである。
そして大坂の陣、斎村政広の兄・赤松祐高、赤松則房の息子と称する赤松貞義、山名堯煕の息子山名堯政といった人々が大阪方として参戦する…ということだがこれまた史料の制約でわからないことが多い。とにかくこの4家のなかでは、関ヶ原以降東軍についた山名豊国の子孫が江戸幕府の交代寄合になり、明治維新後山名男爵家として唯一華族になった。また、本来の嫡流であった山名堯政の子孫は、旧臣の支援で幕臣に取り立てられ、因幡守護家ほどではないが、清水氏として細々と命脈を保った。一方赤松氏は結局嫡流に近い人々の行方は知れず、分家の石野氏が寄合、有馬氏のそのまた庶流が大名として存続していった。
 こうして南北朝時代から続いた両家の泥沼の戦いは終わったのであった。 

 若狭武田氏と一色氏―京北の利権争い―
   では次は視点を山城の北、若狭(今の福井県)、丹後(今の京都府)に移してみよう。両国は南北朝時代が終わると三河(今の愛知県)、佐渡(今の新潟県)と合わせて足利一門の一色氏が守護として治めていた。一色氏は初代の九州探題を務めるほど足利氏からの信頼が厚く、侍所頭人を務めるほど中央で重用された大名の一つだったのである。
 だが、苦難は突然訪れる。一色義貫が1430年に足利義教の右大将拝賀の供奉で布衣一騎打ちを務めようとしたところ、義教に許されず、欠勤。次第に孤立し、1440年に大和永享の乱の鎮圧中将軍近臣の武田信栄に殺害されたのだ。彼の死後領国は、若狭は武田信栄、三河は細川讃州家の細川持常、丹後は一色氏庶流の一色教親と、すべて将軍近臣を務めていた人々に分割されてしまったのである。1441年の嘉吉の乱で足利義教が亡くなっていたこともあり、1451年に一色教親が亡くなると、一色義貫の子・一色義直のもとに家督・丹後守護・伊勢守護の座が転がり込む。しかし当然若狭と三河が戻ってこないことに不満を抱いたのである。
 さてここまでで登場した人物のうち、武田信栄について語ろう。彼は甲斐源氏の名門武田氏のうち、安芸を拠点にしていた嫡流の系譜に属する人物であった。殺害の下手人であった武田信栄自体は返り傷ですぐに亡くなったものの、その弟・武田信賢が父・武田信繁の補佐のもと若狭を新たに治めることとなった。
 両者は当然対立し、一色氏は妻の祖父が山名宗全であること、三河の守護がそもそも細川氏であること、から山名氏に、若狭武田氏は山名宗全の縁戚である大内氏と対立していたこと、から細川氏に接近。応仁の乱の際、最初に洛中で戦端を開いたのもこの両者であった。
 応仁の乱の際足利義政に丹後を若狭武田氏、伊勢をもともとの守護である土岐世保家に一度は奪われたものの、終戦の際一色氏に丹後と伊勢は返還されることとなった。ところが1484年、一色義直の息子一色義春は19歳で亡くなり、さらに北畠氏の抵抗で伊勢の実権も失う。一色義直は足利義尚の六角高頼攻めにも付き従い、1487年にもう一人の息子・一色義秀に家督と丹後守護を譲った。しかし、1498年に国人一揆の手によって義秀が死に、この際義直も討ち取られてしまったといわれている。
 一方若狭武田氏は武田信賢の弟・武田国信がこれを引き継ぎ、安芸を治めていた弟の武田信綱の自立はあったものの、若狭を死守することに成功していた。武田国信の息子・武田元信はこれまでの対大内の対立から細川氏にさらに接近。1493年の明応の政変では真っ先に足利義澄、細川政元陣営につき、赤松政則没後は細川政元の有力な同盟者かつ、足利義澄にとっては数少ない政元以外の在京大名であった。そんな武田元信は若狭武田氏として初めて四位以上に昇進することとなったのである。
 そして武田元信は応仁の乱で奪い取れなかった丹後を狙う。丹後は守護代延長春信、黒人石川直経の対立でただでさえ混乱している中、若狭武田氏は着実に支配領域を広げていった。しかし一色氏も一色義直の弟・一色義遠の子孫とされる一色義有、一色義清が継いでいき、丹後守護を死守しようとした。
 1507年、細川政元とともに大規模な一色氏攻撃に出ているさなか、細川政元が後継者争いの末暗殺される、永正の錯乱が起きてしまう。これに対して武田元信は細川氏の重臣である赤沢朝経と違い戦死を免れ、直ちに体勢を立て直す。元信は若狭にこもり消極的足利義澄・細川澄元派として状況を静観した。やがて1521年に足利義稙が逐電し、細川高国が足利義澄の子である足利義晴を将軍として迎え入れると中央に復帰する。細川高国は貴重な見方として武田元信を重用し従三位まで官位を上げる。なお、一色氏はもはや守護としての実態はほとんどなく、丹後守護も若狭武田氏に奪い取られたといってよい状況であった。
 しかし、ここまで読んだ読者の中にお気づきの方もいるだろう。若狭武田氏は、あまりにも細川氏、つまり中央の情勢に近すぎて、その動向を直に受けすぎているのである。そう、若狭武田氏は細川高国派になった状態で、武田元光に代替わりする。そう、1531年に細川高国は大物崩れの末に敗死することとなる。当然武田元光も運命を共にし、多くの家臣を討ち取られることとなったのである。この跡前述のとおりなんやかんやの末、細川晴元が足利義晴側についたために、幕府と疎遠になることはなかったものの、大幅に求心力を低下させることとなった。
 そう、細川晴元派になったのである。結果武田元光の息子・武田信豊は叔父の武田信孝らの反乱の傍ら、1542年以降三好長慶らを相手取ることになったのだ。1552年には足利義輝の命令で丹後に出兵した武田信豊であったが、松永久秀の弟・内藤宗勝に大敗し、家臣団を多く失い、さらに求心力を低下させることとなった。なお、一色氏の支配はもはや完全に瓦解し、丹後は三好政権の支配する所となっていく。
 そして若狭武田氏の家督は武田信豊の息子・武田義統に移る。移った…のだが、弟・武田信由との家督継承の争いに父親・武田信豊まで介入し、1558年以降若狭は義統派と信豊派に二分されてしまったのである。武田義統は武田信豊を追放し、さすがに見かねた足利義輝が六角義賢に調停を依頼。信豊は1561年に帰国し、以後は実権のない存在として一生を終えた。
 この武田信統、足利義輝に重用され、足利氏の妻をめとった最初の大名であった。しかしもはや大名として統治するには求心力が落ちすぎてしまっていた。1561年、ようやく信豊と和議が鳴った直後、重臣・逸見昌経の乱がおこる。その背後にいたのは丹波・丹後を治める内藤宗勝であった。もはや武田義統にこれを抑え込む実力はなく、朝倉氏を介入させる。
 そして迎えた1565年の永禄の変である。武田義統はもはや足利義昭に真っ先に協力を呼びかけられても、応える実力はなかった。というのも、粟屋勝久を筆頭に下反義統勢力が息子である武田元明を担ぎ上げ、反乱していたからである。若狭は混乱の絶頂となり、義昭は朝倉氏の下に移り、1567年に武田義統は亡くなった。
 そして武田元明であるが、彼は1562年生まれ、つまりまだ幼児であった。彼は半ば朝倉氏に保護される形で擁立され、若狭は親朝倉、反朝倉に分かれつつも、次第に朝倉氏の勢力が浸透していく。
 一方1565年の内藤宗勝の戦死とその後の三好政権内の争いでまさかの事態が起こる。一色氏の復権である。ところがこの復権した一色氏は、前述した一色義遠系ともさらに異なり系図上よくわからない。というか軍記物語にもっぱら登場し、同時代史料がほとんどない。美濃守護土岐氏の分家とさえ言われてしまうこの一色義幸系は、織田信長の上洛まで何をやっていたかよくわからず、守護として実権があったかすら疑問視されている。
 とはいえ1568年に織田信長が上洛すると、一色氏は丹後を、若狭武田氏は若狭を安堵される。しかし、やがて織田信長は混乱する若狭情勢に介入。朝倉氏の滅亡によって武田元明が解放されると丹羽長秀が若狭衆を統治する。もはや武田元明は守護として逸見氏や粟屋氏の上位にあるのではなく、彼らと同格の存在になった。さらに丹後も足利義昭の挙兵に一色義道が付き従うと、細川藤孝、細川忠興父子や明智光秀が侵攻。1579年に義道の息子・一色義定が奮戦し、義定と細川藤孝の娘の婚姻を条件に和睦することとなる。
 武田元明、一色義定の両者は京都の御馬揃えにも参加するなど、以後織田家臣として穏やかな日々を過ごしていた。だが、1582年の本能寺の変である。両者はともに明智方につき、誅殺されることとなる。一色氏はその叔父の一色義清が継いだとされるが、彼もまた討ち死を遂げ、滅亡(そもそも彼らが本来の一色氏だったのか疑問はあるが)。若狭武田氏は、元明の正室・京極竜子が豊臣秀吉の妻となり、元明の息子の津川内記が京極氏の重臣となったとされる。
こうして京都の北で日本海交易の拠点でもあった若狭・丹後をめぐった争いは終結したのであった。 

 大内氏と九州四国―西国の覇者をめぐる争い―
   大内氏、といえば毛利元就の躍進の中で敗れていった軟弱大名、という今川義元と同じような立ち位置に物語上置かれることが多かった大名である。その起源は百済王の子孫を称する多々良氏にあたり、平安時代以来周防の代表的な武士団を構成していた。そして鎌倉幕府滅亡の際に躍進し、南北朝を通して両陣営を行き来しながら周防・長門さらに豊前の三カ国の守護を得ることとなる。しかし土岐氏、山名氏、今川氏といった他氏と同様足利義満に勢力を減じられ、あくまでも西国の一在国大名の一つにすぎない存在であった。
 そんな彼らに与えられたもう一つの使命、それは九州探題…と言えば聞こえはいいが、奥羽の大崎・最上両氏と同様中央の動向で骨抜きにされてしまった肥前守護・渋川氏の補佐であった。大内氏は渋川氏と少弐氏の争いが続く、筑前に介入し、実質的な守護になる。さらに山名氏の領国であった安芸・石見、そして伊予守護・河野氏といった存在とも結びつき、事実上西国の覇者ともいうべき存在だったのである…そのために畳の上で死ねた当主はほとんどいないのであるが。
 一方大内氏は瀬戸内の交易をめぐって細川氏と対立関係にあった。細川氏が大内氏に取った常套手段、それは大内氏の庶流を擁立して領国を混乱させ、東の安芸武田氏、南の大友氏、西の少弐氏に三方向からの攻めをさせることであった。しかし、この戦略には致命的な欠陥があった。少弐氏、大友氏、そして肥後守護・菊池氏が筑後国をめぐって争っていたのである。
 大内氏は、大内政弘が大軍勢を率いて上洛した応仁の乱でも細川氏のいつもの手を使われたが、国を任せてきた守護代の陶弘護の策略によって見事乗り切ることができた。1477年には京都で大内義興が誕生し、大内氏は帰国した。そして1478年には北九州の再征服を行う。1482年には陶弘護の怪死があったものの、1487年の足利義尚の六角征伐には意気揚々と出兵するつもりで大軍勢を編成していた。ところが1489年に足利義尚はあっけなく亡くなる。とはいえ次の将軍は、かつて応仁の乱の際推戴した足利義視の息子・足利義稙だったのである。
 1491年の六角高頼征討に大内政弘は、息子の大内義興を送り出した。この戦いはあっけなく終結し、1493年に足利義稙は畠山義豊を攻める。もちろん京にいた大内義興もこれに従った。ところが明応の政変が起こる。どうも大内義興はこのころ妹を若狭武田氏の手のものに誘拐され、ただ状況を静観するのみになってしまったようだ。大内義興の翻弄のうっ憤を晴らすように、国許では大内政弘が義興の側近を切腹させている。
 明応の政変後、1495年には重臣であった内藤弘矩の怪死があってすぐ、大内政弘が亡くなり、大内義興が跡を継いだ。1496年には足利義稙から西国の大名たちに気楽に協力するよう使者が届いている。一方大内義興は、大友氏の家督争いに関与して大友政親を殺害、さらに1497年には少弐政資を討ち取ることに成功する。さらに、1499年に発覚した大内義興の弟・大内高弘の反乱計画を抑える。この結果杉武昭ら協力者は処罰された。
 北陸での再起に失敗した足利義稙は、この年大内義興の領内に亡命してきた。細川政元はなおもいつもの戦略を用いる。大友氏が大友親治の登場によって、前代の親大内路線を見直し、家中を刷新し侵攻したのである。しかし、1501年に大友親治、少弐資元軍は破られ、足利義稙の手によって和睦した。
 またさらに南部の肥後守護・菊池氏は1504年に菊池能運の死去で断絶。庶流の菊池政隆と大友氏をバックにした阿蘇氏の阿蘇惟長、もとい菊池武経が対立する。その後政隆、武経のどちらも敗れ、結局庶流の菊池武包が継承することとなった。
 後顧の憂いを取り除いた大内義興は、1507年の細川政元の永荘の錯乱での横死を受け、足利義稙を引き連れて上洛する。1508年にはついに細川高国と手を結び、畠山尚順、畠山義元といった在京大名の一角を占めたのである。1511年の足利義澄・細川澄元勢の攻撃も打ち破り、1512年には大内義興は従三位に昇進したのである。
 しかしやがて帰国の意思を見せ始めた大内義興は周防へ戻る。このころには安芸武田氏の武田信繁を毛利元就が討ち取るなど、反大内方もおおよそ静まり、しばらくは平和な日々が続いていた。1521年の将軍交代劇に義興がどのような気持ちを抱いたかは知れない。
 なお、ここで伊予守護・河野氏についても触れておきたい。応仁の乱以前に総領家、予州家の二流に分かれた対立していた河野氏は、細川氏からたびたび守護職を狙われて攻撃を受け、親大内方として行動していた。しかし応仁の乱中に総領家の河野通直が東軍に寝返り、領国へ戻り制圧。1508年の大内義興の上洛の際はその子・河野通宣が再度大内方に付き従い、予州家を無力化させていったようだ。
 山陰では、この時期出雲国守護代・尼子経久が勢力を拡大させつつあった。尼子経久は大内義興が在京していたころから、石見山名氏に調略の手を伸ばすなど、次第に蠢動しつつあった。そして経久による大内氏領への侵攻は、大内義興の帰国後から本格化する。経久は出雲の情勢を固めるために、山内氏などがいる山名領・備後へと侵攻する。さらに厳島人主家の家督争いを大内義興が泥沼化させ、安芸武田氏の武田光和が介入すると、尼子と武田は手を結ぶ。
 こうして1523年に尼子経久の電撃的な安芸侵攻が行われるが、経久本隊は早々と引き換えし、以後は武田光和と大内氏の周防守護代家・陶興房との戦いに移る。陶興房の奮闘によって、安芸は大内氏方に再制圧されていき、但馬・備後・安芸守護の山名祐豊は大内方につきつつあった。そして、1527年にはついに備後の和智細沢山で尼子経久を破ることに成功したのである。ところがここで大内義興が急死。大内軍はいったん軍事行動を停止さえることとなった。
 一方北九州も動乱が激化していた。1516年の朽綱親満の乱を乗り越え、1518年に大友義鑑が家督を継ぎ、これまで着々と進めていた菊池氏への弟の菊池義武の継承も1520年に実現させる。さらに1528年には少弐資元が細川高国の支援の下家督を少弐冬尚に譲り、自身は大宰府へと侵攻する。大内義隆はこれに対抗するが、1530年に筑前守護代・杉興運が少弐方の龍造寺家兼に敗北する。さらに1531年の大友義鑑と菊池義武の兄弟間の争いに、大内義隆は義武を支援して大友氏と手切れをする。
 こうしてまたまた大内対・大友・少弐という構図が出来上がったのである。しかし大内義隆は、1534年の大村山合戦に代表される一進一退のこの戦いを、1535年に肥後の菊池義武が大友義鑑に敗走した一方、太宰大弐の座を手に入れた1536年に少弐資元を敗死させ、双方痛み分けで1538年に足利義晴の手で和平が結ばれた。
 一方中国地方では、尼子氏の対外政策が行き詰まると、1530年に尼子経久の息子・塩冶興久が反乱を起こす。この終息で尼子晴久を中心とした新たな対外発展の時期に尼子氏は入るのだが、それは前述のように東方への進出であり、大内氏との関係は小康状態に移る。しかし、北九州の戦乱が沈静化されると、尼子晴久は石見・安芸・備後方面へと再び進出を開始する。
 だが、武田光和の死や、大内義隆の出陣で、尼子方は播磨遠征軍を引上げさせ、1540年末の安芸銀山上の戦いに臨むが敗走。1541年には安芸の尼子方は総崩れとある。さらにこの年には尼子経久も亡くなり、1542年には尼子氏の本拠地である出雲に大内義隆は逆侵攻したのである。ところが1543年に今度は大内氏が撤退することとなり、大内義隆は養子の大内晴持を失うこととなった。
 大内対尼子、大内対・大友の戦いが繰り広げられたこの時期には伊予でも1530年に重見通種が河野通直に反旗を翻す。その背後には大内氏の影が認められた。河野氏はこれに対抗し、大友・尼子、つまり大内氏包囲網へ参加する。その結果、大友氏と大内氏の和睦によって包囲網が瓦解したにもかかわらず、河野氏は引き続き反大内方として行動した。その結果1540年以降大内氏は河野氏への戦端を開いていく。大内氏の圧力が増していく中、1542年に河野通直、河野晴通父子が対立するも通直はこれを乗り切り、大内氏との関係修復にも成功した。しかし、1551年頃から家督争いが再燃し、河野通直は当主の座を追われた。
 やがて、1550年に大友氏では二階崩れが起き、大友宗麟が家督を継ぐ。同年には大内義隆は陶晴賢のクーデターにあい、義隆は死亡。大友家から大内義長が迎え入れられるが、1555年に新生大内家の最大の有力者であった陶晴賢は厳島の戦いで毛利元就に敗れ、1557年に大内氏は滅亡することとなった。以後、西国は毛利氏と大友氏の戦いに推移していく。菊池氏、少弐氏、渋川氏、河野氏はもはや彼らの戦いに翻弄される地域権力の立場になっていき、やがて滅んでいく。そして激戦の末、どちらも豊臣政権まで大名として君臨した。ところが、朝鮮出兵の際大友義統は失策で改易され、関ヶ原の戦いでの毛利輝元の後押しによる再興も黒田官兵衛らによって阻止。何とか江戸幕府の中では高家として生き残っていくこととなる。
 なお、南九州は大内氏を中心とした争いにはかかわっておらず。どうしても触れられないため、島津氏を最後にまとめておく。惟宗忠久に始まる島津氏は南北朝の騒乱を乗り越え、大隅を当初は与えられた島津奥州家が、もともと薩摩を継承していた総州家を下し、本宗家となった。しかし、一揆と一族の内紛に悩まされ、応仁の乱では島津立久が東軍についたのに対し、豊州家の島津季久が西軍につく。さらに、1474年に島津立久が亡くなり幼い島津忠昌が家督につくと、1476年には薩州家・島津国久、豊州家・島津季久ら島津「一家中」一揆が反乱を起こす。翌年には和睦するが、以後も争いは絶えず、日向の伊東氏、肥後の相良氏といった外部勢力の介入も多く見られた。1492年には伊作家に島津忠良が生まれ、1500年の夫の死後相州家・島津運久に母・常盤が再嫁したことから忠良流の躍進が始まる。
 1508年に島津忠昌が自害。その後彼の息子も相次いで亡くなり、1519年に息子のうち末弟の島津忠兼が跡を継ぐ。1525年に有力者であった薩州家の島津忠興の死を引き金にし、島津運久・島津忠良のクーデターらしきものの後、島津貴久への家督継承が一度決まる。しかし、やがて島津実久の台頭による巻き返しが起き、大内義興の和睦調停によって相州家と薩州家の和平会議の後、島津実久の守護就任が決まる。
 しかしこれに対する巻き返しによって、紫原合戦の末に薩摩半島を統一した島津貴久の「太守」化が進行し、大隅進出によって有力御一家による守護承認が進む。そして島津義久に家督が移り、島津義弘らの世代で大友氏、龍造寺氏を破り北九州へと進出。その後豊臣秀吉に敗北するも、関ヶ原の戦いの後も何とか薩摩・大隅、そして日向の南部と琉球国との交易を通じ、幕末維新に至るまで大大名として君臨するのである。 

 土岐・六角・京極・富樫―幕府の東方の諸勢力―
   室町幕府史のなかでは、東方にいる美濃・伊勢守護・土岐氏、近江守護・六角氏、加賀の富樫氏の三氏はいささか地味な存在かもしれない。これが越後守護・上杉氏、信濃守護・小笠原氏、甲斐守護・武田氏、駿河守護・今川氏といった東国の門番ともいうべき存在たちが関東史で大きく取り扱われ得るのに比べるとその差は歴然である。さらにいえば、この間の越中・能登は畠山氏、三河は一色氏、越前・尾張は斯波氏と幕政の中枢にいる大名たちがおさえているので、より目立たない存在となっている。しかし彼らと、飛騨・出雲・隠岐守護で、近江に居座っていた京極氏を含めた四氏もまた、戦乱の世に生き残りをかけていったのである。
 近江の六角氏と京極氏は宇多源氏・佐々木氏の嫡流と庶流で鎌倉時代以来の名門。さらに土岐氏は清和源氏、富樫氏は利仁流藤原氏で、これまた平安時代末期の軍事貴族に連なる名門である。そんな彼らも南北朝時代を経て、足利一門を頂点とする秩序に組み込まれていったのである。しかし、応仁の乱の少し前から続く有力諸大名同士の対立は、そんな彼らをも引き裂いていく。
 富樫氏は前述のとおり一度斯波氏に守護を奪われており、1414年に嫡流と将軍近臣を務めた庶流がそれぞれ半国守護となり、いったんは嫡流に一本化される。今度は1441年に足利義教に富樫教家から弟の富樫泰高に家督の据替が行われる。これは嘉吉の乱のわずか数日前であり、兄弟は当然乱後家督をめぐって対立。富樫氏の亀裂は取り返しのつかないところまで来ていた。
 1447年ようやく両派が和睦したが、1458年に長禄の変で手柄を立てた赤松政則が加賀半国守護に任じられ、富樫教家、富樫成春父子は追放される。そして富樫泰高が隠居することで、富樫成春の息子・富樫政親が当主となるが、北加賀を支配する赤松氏の味方である細川勝元方についたことで、不満を抱く家臣の一部が弟・富樫幸千代を擁立したのであった。
 六角氏は1436年に延暦寺と戦いはじめ、これを足利義教がサポートしていたが、1441年の嘉吉の乱で義教は亡くなってしまう。この結果かの有名な徳政一揆が生じ、六角氏もまた家督を交代させられたのである。この結果家臣団との間に亀裂が起き、旧当主六角満綱、その息子で現当主・六角持綱の父子と、持綱の弟・六角時綱が争い、時綱が勝利する。だがさらに細川勝元の介入でさらに弟の六角久頼が家督継承戦に勝ち、その久頼も1456年に京極持清との争いでか、突然自害したのである。
 跡を継いだのが六角高頼で、その補佐には山内政綱がついたが、1458年に幕府は六角政尭を家督に据える。しかし1460年に政尭も家臣・伊庭氏の子を殺害したために家督を奪われ出家に追い込まれたのである。こうして再び六角高頼が家督を継いだが、西軍についた彼らは、東軍に就いた京極持清や六角政尭と争っていく。
 京極氏は鎌倉時代には得宗に接近して評定衆の家系にあり、南北朝時代のばさら大名佐々木道誉の活躍でもおなじみである。室町幕府でも当然活躍し、こちらは1439年の京極持高の死後の足利義教の家督継承介入も、足利義教の近臣で家督を継いだ京極高数が嘉吉の乱で討ち取られたことから、無事京極持清の手に戻ってきた。
 しかし1468年に嫡子・京極勝秀が病没。1470年には持清も亡くなってしまう。その結果起きたのは勝秀の嫡子・京極孫童子丸、庶子京極乙童子丸、それぞれを擁立した勝秀の弟・京極政光、京極政経、守護代・多賀高忠、多賀清直の二陣営の分裂であった。後者は西軍に寝返り、京極氏は以後混乱していく。
 土岐氏は南北朝時代には桔梗一揆と呼ばれる強い絆で結ばれ、ばさら大名・土岐頼遠の誅殺はあったものの、土岐頼康のもと幕閣として高い地位にあった。しかしその養子・土岐康行が1389年に土岐康行の乱で守護の座を追われ、美濃には土岐西池田家の土岐頼忠がなんとか復活する。ところが、土岐世保家ともいわれるそれまでの嫡流であった土岐康行はあっけなく伊勢守護として復権。さらに土岐世保家は美濃に領地を持ち、土岐世保家に従う庶家も多かったのである。
 よって土岐西池田家はそれまでの一族の強い絆が嘘のように領国の統治に混乱をきたし、守護代の斎藤氏の支援の下、なんとか守護をやっていたというレベルであった。さらに、土岐世保家の土岐持頼は、一色義貫とともに足利義教の命で誅殺されてしまう。伊勢守護は前述のとおり一色教親に奪われ、嘉吉の乱の後は一色氏嫡流の支配する所となったのである。この結果土岐世保家は一色氏からの奪還を目指し東軍につく。一方土岐西池田家の土岐成頼(一色氏から迎えた養子)は西軍につき、家臣の斎藤妙椿の支援の下、西軍の重要勢力となる。
 ここまで見てきたようにこの4家、実はかなり亀裂が激しく、支配体制が西側にいた大名たちに比べると、あまり盤石とは言えなかったのである。これには足利一門の主導権争いに巻き込まれやすい地域だったこと、またそれぞれ将軍直轄軍である奉公衆の領地が多い国で、庶家もその奉公衆として独立性を高めていき、三管領といった最上位の幕閣たちに比べると一門統制に困難をきたしていたこと、などが原因として考えられる。そしてついに応仁の乱で限界を迎えた彼らだったが、その後たどった道は異なるものであった。
 富樫氏のその後は教科書にも載っているレベルなので知っている方もいるかもしれない。1474年に富樫政親は本願寺を、富樫幸千代は高田専修寺と結び、一向一揆が強大化する。ついに1488年に富樫政親は一揆に包囲されて自害することとなった。とはいえ一揆勢は富樫泰高を擁立しており、以後富樫泰高の子孫が一揆とのパワーバランスの駆け引きの中で、何度も当主が自害に追い込まれながら、織田信長のころまでは生き延びていった。
 六角氏はここまで度々見てきた通り、六角高頼が応仁の乱終息後、再び近江守護に認められるも、1487年に足利義尚の、1491年に足利義稙の攻撃を受け、そのたびに甲賀に没落することとなった。明応の政変で新たに山内就綱が守護となるが、美濃の斎藤妙純の支援で復権。1502年に伊庭氏の乱がおきるが、これを乗り越え、六角氏綱、その弟の六角定頼が跡を継ぎ、定頼の代に安定期を迎える。六角定頼は足利義晴政権で管領代を務めるなど畿内政治史のキーパーソンとなり、北近江の京極・浅井両氏との戦いにも優勢に進めていった。
 ところが、1563年に観音寺騒動が起きる。六角義賢・六角義治父子はこれを何とか乗り切るも、1567年に織田信長に観音寺城を追われる。六角氏はたびたび織田氏に抵抗するも、ついに降伏。六角義治は豊臣政権下で御伽衆として活動し、やがてその弟・六角高定が跡を継いだが、その系統が1681年に断絶し、完全に滅亡することとなった。
 京極氏は前述のとおり、京極乙童子丸派、というか京極政光派が西軍に寝返り、六角高頼と手を結ぶ。京極孫童子丸を早くに失った京極政経派は六角政尭とこれを防ぐが、政尭も戦死し、斎藤妙椿の協力で京極政光派が近江を奪還。政光の死後は成長した孫童子丸、京極高清と多賀清直、多賀宗直父子が北近江を支配した。
 京極政経・京極材宗父子は出雲へ逃亡し、雌伏の時を過ごした後1475年に上洛。京極高清の間に溝ができていた多賀宗直と協力した。この後北近江は30年近く戦乱の中に陥り、その末に京極高清は勝利したのである。なお、この過程で飛騨も出雲も隠岐も失うこととなる。だがしかし、1523年京極高清の後継者をめぐり、京極高広と高清の推す京極高吉の争いが生じる。浅井亮政らの協力の末、京極高広が勝利するが、国衆たちの権力拡大を見かね、父親の京極高清と和睦。六角氏と結んだ京極氏と浅井氏を筆頭にした国衆たちの戦いに陥った。
 朝倉氏の調停で両者は和睦。京極氏は浅井氏の庇護のもとに入る。ところが京極高清の死後、京極高吉は再度六角氏と結びついて復権を狙う。そこで起きたのが浅井長政のクーデターと六角義賢を敗走さえた野良田の戦いであった。京極高吉は織田信長が上洛すると彼に従い、その息子・京極高次の代になる。そう、姉・京極竜子、妻・浅井初の力で出征していく蛍大名である。しかし彼の転機、関ヶ原の戦いでの大津城籠城によって江戸時代も大名として存続し、明治維新後は華族の一員となったのだ。
 土岐氏は1495年の船田合戦で土岐成頼の嫡子・土岐政房、その弟・土岐元頼のどちらを家督に据えるかで斎藤妙純と石丸利光が争う。さらに、勝利した斎藤妙純も利光派だった近江に侵攻し討ち取られてしまう。跡を継いだ土岐政房もまた、息子である土岐頼武と土岐頼芸の家督争いを招き、長井新左衛門尉、斎藤道三父子の美濃掌握を引き起こす。とはいえ土岐頼芸の息子・土岐順次はその後豊臣秀吉の下で御伽衆となりこちらの家系は1706年に断絶したものの、頼次の弟・土岐頼元の子孫が江戸幕府の下、高家を務めていったのだ。
 早くから分裂抗争が激化していた東方の諸勢力は、こうして明暗分かれる結果となっていった。 

 終わりに
  ここまで見てきたように室町幕府の大名たちは様々な理由から生き残りをかけて戦いに挑んでいったのである。最初にも書いた通り、結果だけ見れば彼らはほとんど江戸時代に至る流れの中でかませ犬的な立場として消えていった。しかし、簡単に見つかるオアシスは蜃気楼。明日雨が降るかどうかを待つのではなく、雨の降らし方を考えつけるものはほんの一握りなのだ。そこでいつ終わるのかもわからない戦乱の世、これまでのシステムが終局に向かいつつある世界で、どう生き、何を残したか。それらに焦点を当てることで得られるものもあるのではないか。
 それでは、死せる者たちの物語をここで終えることにしよう。 

 本当の終わりに
   伊賀守護・仁木氏は史料が少なすぎて仁木長政が最後に追放されたくらいしかわからないんだ、すまない。 



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