2019年6月28日
マネトーンのエジプト史  skrhtp


 はじめに
マネトーン(Μανεθων)はプトレマイオス1世期(前300年前後)のエジプト人神官であり、ギリシア語で『エジプト史(Αιγυπτιακα)』を記した人物である。この『エジプト史』は3巻からなり、エジプトの歴史を30の王朝に分けて記したものであり貴重な資料であるが、この作品そのものは散逸して現存していない。現在『エジプト史』は古代の著作家たちの引用と言う形でその内容の一部が知られている。
特に重要な引用者は、キリスト教の年代記作家セクストゥス・ユリウス・アフリカヌス、カエサリアの司教エウセビオス、そして『ユダヤ戦記』の著者として知られるヨセフスである。前者2人は各王朝の王名表を伝えており、一方ヨセフスはヒクソスに関わる部分などの詳細な情報を残している。
本稿では、マネトーン『エジプト史』の断片に記されているエジプトの歴史をまとめ、それらが現実とどう対応するのかを脚注と言う形で記していく。残っている情報のほとんどは単純な王名表であるため、具体的な歴史よりむしろマネトーンの時代に過去の王名がどれほど伝わっていたか、及び過去の時間の感覚を見ていくことになる。なお、年代は主に山花(2010)によった。また、マネトーン以前にギリシア語でエジプトの歴史を記した人物としてはヘーロドトスがおり、その著作『歴史』の記述との比較も行っていく。
 なお、『エジプト史』の断片の情報はしばしば互いに食い違っている。本稿では、一部を除き王名・年代はアフリカヌス版を基にした。特にエウセビオス版で顕著な違いがある場合は注釈に記した。また、固有名詞については本文中では全てギリシア語に従った(例:アイギュプトス=エジプト)。長母音は分かる限り表記し、また帯気音π、θ、χはp、t、k音、ζはz音を用いた。

 第1王朝〜第6王朝(初期王朝・古王国)
 アイギュプトスで最初の人間の王はメーネースであった[1]。メーネースは外征を行って名声を得たが、カバに連れ去られて死亡し、息子のアトーティスが継いだ。アトーティスはメンピス[2]に宮殿を建てた。これ以降、前王の息子が跡を継ぐ形で6人が即位した。即ち、ケンケネース、ウーエネペース、ウーサパイス、ミエビス、セメンプセース、ビエーネケースの6人である。ウーエネペースはコーコーメー付近にピラミッドを築いた[3]。第一王朝は263年間続いた[4]
第2王朝はティス[5]の9人の王からなる。初代のボエートスの治世には、ブーバストスに大きな裂け目が現れて多くの人々が死んだ。次のカイエコースの代には、メンピスの聖牛アピス[6]、ヘーリウーポリスの聖牛ムネウィス、メンデース[7]の山羊が神として信仰されるようになった。次のビノートリスの下では、女性が王になりうることが決められた。ビノートリスの後には、トラス、セテネース、カイレース、ネペルケレース、セソークリス、ケネレースの6人の王が続いた。第2王朝は302年間続いた[8]
第3王朝はメンピスの9人の王たちからなる。初代のネケローペース[9]の治世には、リュビア人の反乱が起こった。ネケローペースの後には、トソルトロス[10]、テュレイス、メソークリス、ソーユピス、トセルタシス、アケース、セープーリス、ケルペレースの8人が続いた。第3王朝は214年間続いた[11]
第4王朝は8人のメンピスの王たちからなる。即ち、ソーリス、スーピス(1世)、スーピス(2世)、メンケレース、ラトイセース、ビケリス、セベルケレース、タンプティスの8人である。スーピス(1世)は大ピラミッドを築いた。第4王朝は284年間続いた[12]
第5王朝はエレパンティネの8人の王からなる。即ち、ウセルケレース、セプレース、ネペルケレース、シシレース、ケレース、ラトゥーレース、メンケレース、タンケレース、オンノスの9人である。第5王朝は218年間続いた[13]
 第6王朝はメンピスの6人の王からなる。初代のオトテースは衛兵に殺害された。オトテースの後にはピオス、メトゥースーピス、ピオープスが続いた。ピオープスは6歳で即位し、100歳まで在位した。ピオープスの後にはメンテスーピス[14]、ニトークリスが即位した。ニトークリスは女王であった[15]。第6王朝は197年間続いた[16]。第1王朝から第6王朝までで計1478年である [17]

 第7王朝〜第12王朝(第1中間期・中王国)
 第7王朝では、70人の王が70日間在位した[18]。続く第8王朝では、メンピスの王27人が146年間在位した[19]
第9王朝ではヘーラクレオポリス[20]の19人の王が409年[21]にわたって支配を行った。初代のアクトーエース[22]は残酷にふるまい人々を苦しめたが、やがて狂気に捉われ、最期はワニに殺された。
第10王朝ではヘーラクレオポリスの19人の王が185年間[23]支配を行った。続く第11王朝ではディオスポリス(テバイ)の16人の王が43年間[24]在位し、アンメネメース[25]がその跡を継いで16年間在位した。第1王朝からここまでで2300年[26]である。
 その後第12王朝では、ディオスポリスの王7人が即位した。アンメネメースの後にはセソンコシス、アンマネメースが続いた。アンマネメースは宦官に殺害された。次のセソーストリスは、アシアーの全体とエウローペーのトラーイケーまでを征服し各地に記念碑を建てた[27]。続くラカレースは自らの墓としてラビュリントスを建てた[28]。ラカレースの後には、アメレース、アンメネメース、スケミオプリスの3人が続いた。スケミオプリスはアンメネメースの姉妹であった。セソンコシス以降、第12王朝は160年間続いた[29]

 第13王朝〜第20王朝(第2中間期・新王国)
 第13王朝は60人のディオスポリスの王たちからなり、453年にわたって支配を行った。14王朝は76人のクソイスの王たちからなり、184年間続いた[30]
第13王朝のトゥーティマイオスの治世に、東から侵入者たちが進軍してきた。彼らはアイギュプトス勢を圧倒し、町を焼き、神殿を破壊し、殺戮を行った。やがて侵入者たちの中でサリティスと言う男が王となり第15王朝が始まった。サリティスはメンピスから支配を行い、またアッシュリアー[31]を警戒して東部の防備を固めた。更にサリティスは、ブーバストゥス支流東にアウァリスという町を築いた。サリティスの後には、ブノーン、アパクナン、アポーピス、イアンナス、アシスの5人の王が続いた[32]。彼らはヒュクソース[33]と呼ばれ、284年間アイギュプトスを支配した。
第16王朝もまたヒュクソースの王朝であり、32人の王たちが518年間支配を行った[34]。第17王朝はヒュクソースの王43人とディオスポリスの王43人からなり、151年間続いた[35]
第18王朝はディオスポリスの16人の王からなる。初代はアモース、2代目はケブロース、3代目はアメノープティス、4代目は女王アメンシス、5代目はミサプリス[36] [37]、6代目はミスプラグムートーシスである。ミスプラグムートーシスはヒュクソースを打ち負かし、ヒュクソースの支配はアウァリス周辺に限定された。これに対しヒュクソースはアウァリス周辺を高い壁で囲んで防備を固めた。7代目のトゥートモーシスはミスプラグムートーシスの子で、アウァリスの攻略を試みた。トゥートモーシスはアウァリスを480000人の軍で攻囲したが、落とすことができなかった。結局トゥートモーシスはヒュクソースが安全にアイギュプトスからシュリアーへと去るという取り決めを結んだ 。8代目はアメノーピス、9代目はオーロス、10代目はオーロスの娘アケッレース(1世)、11代目はラトース、12代目はケブレース、13代目はアケッレース(2世)、14代目はアルメシス、15代目はラメッセース、16代目はアメノーパトである。18王朝は263年間続いた[38]
第19王朝はディオスポリスの6人の王からなる。初代のセトース[39]、別名ラメッセース(2世)は兄弟のハルマイスを副王とし、キュプロス、ポイニーケー、アッシュリアー、メーディアーへと遠征を行い、これら全てを征服した。セトースは更に東征を続けたが、やがてハルマイスが反乱を起こした。セトースは神官たちからの報せでこれを知り、ペールーシオン[40]へと帰還し王国を奪還した。セトースの跡は長男のランプサケースが継いだ。3代目のアンメネプテースは[41]神を見ることを望み、パアピオスの子アメノーピス[42]の助言を受けて8万人もの病人たちを東部の採石場へと送って隔離した。やがてアンメネプテースは彼らをアウァリスに移した。彼らはアウァリスに着くと、オサルセーポスという神官を指導者とした。彼らは神々や聖獣への信仰を否定し、また防備を固めアンメネプテースとの戦いを企てた。彼らはヒュクソースに使いを送り、ヒュクソースはこれに応じてアイギュプトスに攻め込んだ。アンメネプテースはアメノーピスが残していた予言からこれが神意であると判断し、アイティオピアーへと逃れた。ヒュクソースはアイギュプトスを征服すると、町を焼き、神像を破壊し、聖獣を殺した。13年後、アンメネプテースは息子ラメッセース[43]と共に大軍を率いて王国を奪還した。アンメネプテースの後の王は、ラメッセース(3世)、アンメネメース、トゥーオーリスの3人である。第19王朝は209年間続いた[44][45]
 第20王朝はディオスポリスの12人の王からなり、135年間続いた[46]

 第21王朝〜第31王朝(第3中間期・末期王朝)
 第21王朝はタニス[47]の7人の王からなる。即ち、スメンデース、プスーセンネース(1世)、ネペルケレース、アメノープティス、オソコール、プシナケース、プスーセンネース(2世)の7人である。第21王朝は114年間続いた[48]
第22王朝はブーバストスの9人の王からなる。即ち、セソーンキス、オソルトーン、25年間支配した3人の王たち、タケローティス、42年間支配した3人の王たちの順である。第22王朝は120年間続いた[49]
第23王朝は4人のタニスの王からなる。即ち、ペトゥーバテース、オソルコー、プサンムース、ゼートの4人である。第23王朝は89年間続いた[50]
第24王朝には、サイス[51]の王ボッコーリスがいた。彼は6年間在位し[52]、この間に子羊が喋るという事件が起きた[53]
第25王朝はアイティオピアーの3人の王たちからなる。初代のサバコーンはボッコーリスを捕らえると、これを焼き殺した。サバコーンの後には、息子のセビコース、続いてタルコスが続いた。第25王朝は40年間続いた[54]
 第26王朝はサイスの9人の王[55]からなる。初代から4代目の名はステピナテース、ネケプソース、ネカオー(1世)、プサンメーティコスである。5代目のネカオー2世はイェルーサレームを制圧し、ヨーアカズ王を捕虜とした。ネカオー2世の後には、プサンムーティス、ウーアプリスが続いた。ウーアプリス王の時アッシュリアーがイェルーサレームを制圧し、一部のユーダイアー人たちがウーアプリスの許へ逃れてきた。ウーアプリスの後にはアモーシス、プサンメケリテースが続いた[56]。第26王朝は168年間[57]続いた。
第27王朝はペルシスの8人の王たちからなる。カンビュセースは王位に就いて5年目にアイギュプトスの王となった。カンビュセースの後には、ヒュスタスペースの子ダーレイオス、大クセルクセース、アルタバノス、アルタクセルクセース、クセルクセース(2世)、ソグディアノス、クセルクセースの子ダーレイオス(2世)が続いた[58]。第27王朝は124年間続いた。
第28王朝では、サイスのアミュルテオスが6年間支配を行った。続く第29王朝は4人のメンデースの王たちからなる。即ち、ネペリテース(1世)、アコーリス、プサンムーティス、ネペリテース(2世)の4人である[59]。第29王朝は20年間支配を行った。  第30王朝はセベンニュトスの3人の王たちからなる。即ち、ネクタネベース、テオース、ネクタネボスの3人である[60]。第30王朝は20年間続いた。
(第31王朝はペルシスの3人の王たちからなる。オーコスは王位に就いて20年目にアイギュプトスの王となり2年間支配した。オーコスの後にはアルセースが3年、ダーレイオス(3世)が4年間在位した。) [61]
ここでマネトーンの記録は終わりである。 


    注釈
  1. ^ マネトーンはメーネースの前に神と半神がエジプトを支配したことを記している。神の治世という記述はヘーロドトスにも共通する。メーネースは『歴史』ではミンと記されている。メーネースは一説に第一王朝のアハ王に比定される。
  2. ^ メンフィス。デルタの付け根に位置する古都。上下エジプトの境界を成した。
  3. ^ コーコーメーはメンフィス近くのサッカラに比定される。サッカラからは第1王朝期の墓が見つかっている。ただし、最初のピラミッドは第3王朝のジェセル王(トソルトロス)のものである。
  4. ^ 原文では253年となっている。実際は第1王朝の期間は170年前後だったようである。
  5. ^ エジプト中部の町アビドスの一地方。
  6. ^ アピス信仰は実際にはもっと古くからおこなわれていた。
  7. ^ ブーバストス(ブバスティス)はデルタ東部の町。ヘーリウーポリス(ヘリオポリス)はデルタの付け根に位置する太陽神ラー信仰の中心地である。メンデースはデルタ中部の町。
  8. ^ 実際は第2王朝の期間は150年前後だったようである。なお、クレイントン(2008)ではカイエコースが2代目ラネブ王に比定されている。
  9. ^ 第2王朝最後のカセケムィの別名に由来すると考えられている。
  10. ^ トソルトロスは第3王朝のジェセル(ネチェリケト)王に比定される。現在伝わる断片ではこの王は医療や建築で名を残したということになっているが、これはジェセル王の廷臣イムヘテプ(イムーテース)の事績であり、マネトーンの時代にはイムヘテプは医術の神として知られていたことから文に欠落があるものと考えられている。
  11. ^ 第3王朝の存続期間は実際には70年前後だったようである。知られている王の数は5人とネペルケレースを考慮してもマネトーンの記録より少ない。
  12. ^ 第3王朝は実際には130年ほどだったようである。ソーリスは初代のスネフェル王、スーピスはそれぞれクフ王、カフラー王、メンケレースはメンカウラー王、セベルケレースはシェプセスカフ王に比定される。クフとカフラーの間の王ジェドエフラーは順こそ違うがラトイセースに比定される。ビケリス、タンプティスは不明。なお、ヘーロドトスはクフ、カフラー、メンカウラーをそれぞれケオプス、ケプレーン、ミュケリノスと呼んでいる。
  13. ^ この王名は実際の第5王朝の王名(ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー、シェプセスカラー、ネフェルエフラー、ニウセルラー、メンカウホル、ジェドカラー、ウナス)と大体において一致する。但し存続期間は150年前後だったようである。
  14. ^ オトテースはテティ、ピオスはペピ1世、メトゥースーピスはメルエンラー1世、ピオープスはペピ2世、メンテスーピスはメルエンラー2世に比定される。テティ王の治世には後宮で何らかの陰謀が起こったことが知られている。なお、ピオスとピオープスが別の名で記録されている理由は不明である。このような例は以降も現れる。
  15. ^ ヘーロドトスもニトークリス(ネイトイケルティ)について記している。この人物については、近年では男性の王の名が誤って伝わったものと見られている。
  16. ^ 原文では203年間となっている。ニトークリスの治世12年を引くと185年だが、実際の存続期間は130年前後だったようである。ピオープス(ペピ2世)の治世は記録では94年となるが、これはヒエラティックの64年を読み間違えたという説がある。
  17. ^ 原文では1497年となっている。実際の初期王朝・古王国の期間は1000年未満と見られている。
  18. ^ エウセビオス版では5人の王が75日間在位したとされている。
  19. ^ エウセビオス版では5人の王が100年。なお、第7・8王朝の期間は数十年程度と見られている。
  20. ^ エジプト中部の町。
  21. ^ エウセビオス版では4人の王が100年。
  22. ^ 第9王朝のアクトイ王に比定される。
  23. ^ 第9・10王朝は長大な王朝として記されているが、実際は合わせても120年程度だったと見られている。第7・8王朝と合わせて情報の混乱が窺える。
  24. ^ ディオスポリスはいわゆるテーベ。上エジプトの町。第11王朝は統一王朝であり、統一後の期間はこの記録と大体一致するようである。
  25. ^ 第12王朝初代のアメンエムハト1世に比定される。
  26. ^ ここで第1巻が終わる。前述の1497年に単純に足すと2296年。
  27. ^ セソーストリスはセンウセレト3世に比定されるが、アジア方面への大遠征を行った様子ない。ほぼ同じ記述をヘーロドトスも残しているが、この記述はラメセス2世とセンウセレト3世が混ざっているようである。
  28. ^ このラビュリントスはアメンエムハト3世(ラカレース)の葬祭殿のことである。この王をヘーロドトスはモイリスと呼んでおり、また葬祭殿についてはストラボンが記録している。
  29. ^ 第12王朝はいずれも実際の王との比定がなされている。但しセンウセレト2世の存在が欠落しているようである。スケミオプリスはセベクネフェル女王に比定される。期間もアンメネメースの16年を足せば大体一致する。
  30. ^ クソイスはデルタ西部の町。第14王朝の王についてはほぼ知られていない。第13・14王朝は併存しており、その期間は150年程度だったようである。
  31. ^ 実際には当時はまだアッシリアはエジプトにまでは脅威を及ぼしてはいない。
  32. ^ ヨセフスの記述。イアンナスはキアン王に比定され、またアポーピスについてはアペピと言う王名が知られている。
  33. ^ マネトーンはこれらの人々を主に「羊飼いたち」と呼んでいる。なお、ヒクソスはこの記述のように一挙に襲来したのではなく、実際は中王国から移住してきていた人々が徐々に力を持ち王朝を築くに至ったようである。
  34. ^ 第15・16王朝の期間は100年程度と見られている。
  35. ^ 第17王朝は実際には第18王朝の前身で、期間は100年程度だったようである。
  36. ^ 史実上の王たちはイアフメス1世、アメンヘテプ1世、トトメス1世、同2世、ハトシェプスト(女王)である。ハトシェプストはアメンシスに対応するようである。
  37. ^ ミスプラグムートーシスはトトメス3世に当たり、別名のメンケペルラー+トトメスに由来するようである。トゥートモーシスはトトメス4世に当たる。実際にヒクソスを追放したのはイアフメス1世(アモース)だが、ここでは両トトメス王によるものとされている。これについてはトトメス3世がアジア遠征を行ったことがヒクソスの征服者に充てられた原因という指摘がある。
  38. ^ アメノーピスはアメンヘテプ3世、ラメッセースは第19王朝の初代ラメセス1世、アメノーパトは同2代目のセティ1世に当たる。アルメシスは第18王朝最後のホルエムへブか。9〜13代は実際ではアメンヘテプ4世、スメンクカラー、トゥトアンクアメン、アイに当たるが、代数も合わずはっきりしない。一方、王朝の期間は実際と大体一致しているようである。
  39. ^ ヘーロドトス『歴史』中のセソーストリスに当たる名。事績も一致する。
  40. ^ デルタ西端の町。
  41. ^ 以下のアンメネプテースの事績はヨセフスの引用部分。ヨセフスはアメノーピスと言う名を用いている。この記述は第19王朝のメルエンプタハと第18王朝のアメンヘテプ4世(アクエンアテン)が混同されて生じたもののようである。エジプト宗教の否定にはアクエンアテンの改革との関連が指摘されている。
  42. ^ アメンヘテプ3世期の廷臣ハプの子アメンヘテプに当たる。ハプの子アメンヘテプはイムヘテプと同様にプトレマイオス朝期には神として崇拝された。
  43. ^ ヨセフス版ではランプセース。
  44. ^ 第19王朝はセトースがラメセス2世、アンメネプテースはメルエンプタハ、ラメッセース(3世)がシプタハ、アンメネメースがアメンメセス、トゥーオーリスがタウセレト女王に比定される。ラプサケースが不明で、またセティ2世に当たる王が見られない。順番にも異同がある。期間は実際には100年程度だったようである。特にラプサケースの治世が66年ある(なお、セティ2世の治世は6年)ため誤差が大きくなっている。
  45. ^ 第2巻がここで終わる。なお、第2巻の王の統治年数の合計も書かれているが、王の治世年数の合計で時期の重複は考慮されていない。
  46. ^ 第20王朝はセトナクトとラメセス3〜11世の10人の王が知られている。この人数には第20王朝末に成立したテーベ大司祭国家のヘリホルなどを数えている可能性がある。期間は凡そ一致する。
  47. ^ デルタ東部の町。なお、第21〜第25王朝は複数の王朝が併存した時期であり、現実の王名表・年代にも混乱がある。
  48. ^ 第21王朝の王名と凡そ対応する。特にスメンデス(ネスバネブジェト)とプスセンネス(パセバカエムニウト)は現在もこの名で呼ばれることが多い。プシナケースはサアメンか。ネペルケレース(アメンネムニスウ)とプスーセンネース1世の順は逆転している。存続期間は大体一致している。なお、原文では130年となっている。
  49. ^ セソーンキスは初代シェションク1世、オソルトーンは2代目オソルコン1世に対応する。タケローティスについては、第22王朝にはタケロトと言う名の王が存在する。存続期間はマネトーンの記録よりずっと長い200年程度と見られている。
  50. ^ 第23王朝は本来テーベの王朝だったようだが、途中で一部が分離してレオントポリスの王朝が成立したようである。4人の内の前3人は第23王朝(レオントポリス)のパディバステト2世、オソルコン4世、プサムスに対応する。ゼートの名はアフリカヌス版にのみ現れ、現実の誰に対応するかも不明である。ギリシア語の「不明である」と言った内容が名前と解されたという説もある。治世年数は総じて不正確である。
  51. ^ デルタ西部の町。
  52. ^ エウセビオス版では44年。アフリカヌス版が実際に近いようである。
  53. ^ 第24王朝は第23王朝後期にサイスに成立した王朝で、テフナクトとバクエンレンエフの名が知られている。ボッコーリスは後者に当たる。
  54. ^ 第25王朝はヌビア人の王朝であり、ここに挙げられた王名はシャバカ、シャバタカ、タハルカに当たる。第25王朝の王は他にもいるが、ここではエジプト全土を掌握していた時期の3人が挙げられているようである。期間は大体一致する。なお、ここで挙げられている逸話に反しシャバカの支配は穏健なものだったようである。へロードトスもサバコース(シャバカ)の治世を穏和なものとして記しており、この点でマネトーンと異なる。
  55. ^ エウセビオス版には第25王朝最後のタヌトアメンに比定されるアンメリスの名が最初に記されている。第25王朝はアッシリアの支配で終焉し、その後アッシリアの内紛に乗じエジプト人の第26王朝が独立する。
  56. ^ プサンメーティコス以下の王名は第26王朝の王名とほぼ対応し、治世年数もほぼ一致する。ヘーロドトスも同様の名を伝えている。ネカオー(1世)はアッシリア支配下でサイスに勢力を持ったプサムテク1世(プサンメーティコス)の父ネカウに当たる。
  57. ^ 原文では163年となっている。
  58. ^ 第27王朝の王名は第一次ペルシア支配期のペルシアの王名である。ここには王を暗殺した人物(アルタバノスとソグディアノス)も含まれる。治世年は大体一致する。
  59. ^ 実際の王と名前・治世ともにほぼ対応する。但し内紛のためか、ヘゲルゥ(アコーリス)とプサムティス(プサンムーティス)の順は逆転している。
  60. ^ 名前・治世ともに実際の王と対応する。なお、ネクタネベースとネクタネボスはナクトネブエフとナクトホルヘブという別の名前である。第28〜第30王朝はエジプト人の王朝であり、ナクトホルヘブがペルシア軍に敗れてヌビアに逃れたことでエジプト人ファラオの支配は終焉する。
  61. ^ 第31王朝の情報はマネトーンによるものではなく後から付け足されたようである。

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