2019年11月
エジプト・王朝区分の誕生  skrhtp


 はじめに
 古代エジプトの歴史においては、一般に第1〜31王朝とプトレマイオス朝の計32王朝が存在し、またそれらは初期王朝、古王国、第一中間期、中王国、第二中間期、新王国、第三中間期、末期王朝、プトレマイオス朝に区分される。この区分の基礎には、プトレマイオス1世の時代の神官マネトーンの『エジプト史(Αιγυπτιακα)』の記述がある。マネトーンはエジプト史を基本的には王の家系を基にして30(あるいは31)の王朝(δυναστεια、支配権)に分類しており、この区分が現在も用いられているのである。しかし、この区分の基準は現実には曖昧な部分があり、現在用いられる形に関しても、一般的な「王朝」の分け方とは合致しないこともある便宜的なものとなっている。では、この王朝区分はどのように形成されていったのか。本稿では、マネトーン『エジプト史』に至るエジプト王朝区分に関わる歴史を見ていく。 

 王朝区分の不条理
 山川出版社の『世界史用語集』によれば、王朝国家とは「同じ家柄に属するものが世襲で王位を継承している国家」のことである。実際、マネトーンは家系を基準に王朝区分を行っている。しかし、現在知られる王朝区分は家系と一致しないことがある。
 第18王朝後期の王たちが分かり易い例である。トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)以降、王位はトゥトアンクアメン、アイ、ホルエムへブと続き、ホルエムへブが王位を部下であるセティの子パラメスに譲ったことで第19王朝が始まるのであるが、実はアイは外戚であり、ホルエムへブに至っては軍人でその出自は平民であったといわれている。トゥトアンクアメン以降、王位継承は3代にわたり血縁の外で行われているのである。
 また第4王朝の初代スネフェル王はこれと逆のケースである。スネフェルは大ピラミッドで知られるクフ王の父親であるが、彼は第3王朝最後の王フニの息子であると考えられている。つまり、王朝が変わっているにも関わらず家系が普通に継続しているとみられるのである。この区分はマネトーンのものを踏襲している[1]が、マネトーンは第3・4王朝をいずれもメンフィスの王家としており、現存する情報では何をもって王朝が分割されているのかは分からない[2]
 また特殊な事例として、中王国時代と新王国時代の最初の王、メンチュヘテプ2世とイアフメス1世の扱いが挙げられる。古代エジプト史には複数の王朝が並立する中間期があり、この2人はともにそれらの王朝の中で即位しエジプトを再統一した王である。メンチュヘテプ2世はテーベを拠点とする第11王朝4代目の王であり、ヘラクレオポリスの第10王朝を破ってエジプトを再統一し「二つの土地[3]の統一者」を名乗った。第11王朝はメンチュヘテプ2世の後2代続いている。一方、イアフメス1世は第17王朝のセケンエンラー・タア2世の子で、ヒクソス[4]勢力を放逐しエジプトを再統一した。しかし、メンチュヘテプ2世の場合と異なり、イアフメス1世は第17王朝ではなく第18王朝の王として扱われている。この違いはマネトーンがイアフメス1世に比定されるアモーシスを第18王朝初代としていることに由来すると思われる[5]
 最後に、中間期の問題がある。中間期は複数の王朝が並立する時期であり、情報に混乱が見られる。王朝ごとの王名表に混乱があることに加えて、後に見る「大司祭国家」のような1〜30の王朝に含まれない王朝・勢力が存在しているのである。また、前1千年紀半ばのアッシリアによるエジプト支配はそもそも王朝区分に組み込まれていない。
 以上に見たように、エジプトの王朝区分は様々な点で不完全な、ある種便宜的なものといえる。では、エジプトの王朝区分はどのように形成されていったのか。以下では、統一期からプトレマイオス朝までのエジプトの「王朝」とその記録に関わる歴史を、マネトーンの記述を参照しながら見ていく。

 初期王朝から古王国時代
 エジプトが初めて統一されたのは、前4千年紀末頃のことである。統一から第二王朝までの時代を初期王朝時代と呼ぶ。マネトーンは最初の王の名をメーネース[6]としているが、これが誰に当たるかははっきりしない。第1王朝最初の王は一般にナルメルとされるが、次代のアハ王は「メン」という別名を持つことからこちらがメーネースに比定されることも多い。以降も初期王朝時代の情報には混乱が多く、マネトーンの記述と整合性をとるのも難しい。特に第2王朝は初代のへテプセケムイ王の情報が少ないこともあり王朝交代がどのようなあり方であったのかは分からない。マネトーンは第1・2王朝の王を共にティス[7]の王としており、こちらも王朝交代の基準は不明である。また、初期王朝時代には第一王朝の王アネジブの名を後継者セメルケトが抹消するなどの争いの痕跡が複数あり、王家に関わる事情は複雑だったようである。
 続く第3〜6王朝を古王国時代と呼ぶ[8]。第3王朝に関してはマネトーンの記述と一致しない部分が多いが、第4王朝の王名に関しては比較的一致している。マネトーンは第4王朝初めの2人をソーリス、スーピスとし、スーピスは大ピラミッドを築いたとしている。この点からスーピスはクフ王に当たると考えられ、ソーリスはその父スネフェルに比定される。このことからスネフェルは第4王朝初代となるが、前述の通りスネフェルは第3王朝最後のフニ王の子とされるため王朝交代の基準は不明確といえる。
 第5王朝については王家あるいは王統の交替があったようである。マネトーンの第5王朝の王名表は実際の王名と大体一致している。第5王朝初代のウセルカフ(マネトーンではウセルケレース)は出自不明の王であった。王朝交代に関わる事情を窺わせる史料として、『ウエストカー・パピルス』がある。このパピルスに書かれているのはクフ王の時代を舞台にした物語で、宮廷で賢者ジェディがやがて王になる3人の子供の誕生を予言し、神々がその誕生を助けるというものである。その3人の子供というのが、第5王朝の最初の3人、ウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラーなのである。この物語は第12王朝時代に成立したものとみられているが、プロパガンダ的要素の強い内容から第5王朝の王たちが何らかの王権正当化を必要とした事情が窺える。
 第5王朝期に、現存中最初期の王名表である「パレルモ石」が作られた。「パレルモ石」には先王朝時代末からネフェルイルカラーまでの王名に加えて、「〜王の治世〜年」という形で治世ごとの出来事が記されている。統一前後から続く系譜という認識が窺える史料といえるだろう。
 第5王朝末には政情不安が起こったようであるが、第6王朝初代となるテティ(マネトーンではオトテース)の即位で安定化した。テティは第5王朝最後の王ウナスの娘イプト1世と結婚しており、また「二つの土地に平和をもたらす者」を意味するセヘテプタウィを名乗っている。

 第一中間期から中王国時代
 第6王朝期には貴族の強大化や内戦で王権の弱体化が起こったようであり、3千年紀の終わり頃にはエジプトは分裂状態に陥った。第一中間期の始まりである。第7〜10王朝の情報は非常に混乱している。特に第7王朝については、マネトーンは「第7王朝はメンピスの70人の王たちが70年日間在位した[9]」と伝えている。第7・8王朝はメンフィス、第9・10王朝はヘラクレオポリスの王朝だったようである。第一王朝期は王朝の並立に加えて、ナイルの増水位が低く飢饉が発生した時期でもあった。この時期は混沌の時代とされ、中王国時代に書かれたと見られる「イプウェルの訓戒」には秩序が失われた様が以下のように描かれている。

見よ、ナイルは氾濫しているのに誰も耕すことをしない。門番たちは言う。「略奪に行こう」と。見よ、洗濯人は仕事をすることを拒む。鳥刺しは戦いの準備をしている。男は自分の息子を敵と見做している。

(Kaster 1970: 206より)

このような記述は、秩序の復活が強調される中王国時代の表現と好対照をなす。王朝の分裂・統一は時代の変わり目として強く認識されるものであったといえる。
 第11王朝はこれまでの諸王朝と異なりテーベを拠点としていた。4代目のメンチュヘテプ2世は第10王朝と戦って勝利し、エジプトを再統一して「二つの土地の統一者」を名乗った。ここに中王国時代が始まる。
 第11王朝はそれから2代続いたが、3代後にアメンエムハト1世(マネトーンではアンメネメース)が即位して第12王朝が建てられた。この王は第11王朝最後の王メンチュヘテプ4世の宰相アメンエムハトと同一人物とも考えられている。アメンエムハト1世は上下エジプトの境に要塞都市イチタウィを築きこれを首都とした。この時期に書かれた『ネフェルティの予言』は王朝の正当化に関わるものとみられる。この作品は第4王朝を舞台とし、神官ネフェルティが王に混沌の時代の到来とそれを終わらせる「アメニ」という救世主の出現を予言するというものである。この「アメニ」はアメンエムハト1世を指すとみられ、王朝交代に関わる事情が窺える。

 第二中間期から新王国時代
 第12王朝は女王セベクネフェルの治世で幕を閉じ、第13王朝が始まる。第13王朝は第12王朝の制度を受け継いだが、治世の短い王たちが続き国家の管理も不安定化した。第13王朝を以て第二中間期の始まりとされる。情報にも混乱があり、マネトーンは第13王朝は60人の王たちからなる王朝としている。末期にはデルタ地帯に第13王朝の支配から離れた小君主たちが現れ、マネトーンはその内の1つを第14王朝としている。マネトーンは第14王朝には76人の王がいたとしているが、この王朝の王については僅かしか知られていない。
 第二中間期には「ヒクソス」と呼ばれる勢力がデルタに第15・16王朝を築いた。彼らはアジアからエジプトに移住してきた人々の系譜と見られ、中王国以降地位を固め遂には王朝を築くに至ったのであった。この内アヴァリスの第15王朝は強大化し下エジプトを支配した。一方第16王朝についてはよくわかっていない。ヒクソスの王たちはエジプトの伝統を踏襲し、エジプト王として振舞った。特に第15王朝のキアン王は強力なエジプト王として周辺世界に知られていたようである。
 ヒクソスの第15王朝に対峙することになったのはテーベに興った第17王朝であった。但し両王朝はある種の休戦状態にあったようで、また第17王朝側も第15王朝の王をエジプトの支配者と認識していたという指摘もある。しかしセケンエンラー・タア2世のときに第17王朝は第15王朝と衝突し、2代後のイアフメス1世によってヒクソス政権はエジプトから放逐された。このイアフメス1世を以て第18王朝、並びに新王国時代の始まりとされる。
 初めての異民族王朝であるヒクソスの支配はエジプト史の記憶として強く残ったようである。ヒクソスは中王国以降徐々にエジプトに移住してきたと考えられているが、マネトーンの記述に見られる内容は全く異なる。以下は1世紀の著述家ヨセフスによるマネトーンの引用である。

トゥティマイオス。彼の治世に、(中略)東の地域から正体不明の侵入者たちが勝利を確信して我々の土地に進軍してきた。(中略)支配者たちを圧倒し、我々の町を無慈悲に焼き払い、神々の神殿を破壊しつくし、住民全てを残酷な敵意を持って扱い、ある者は殺戮されある者は妻子を奴隷とされた。最後に彼らは彼らの中のサリティスという名の者を王に選んだ。

(Manetho Fr.42より)

 ここではヒクソスがエジプトに一気に侵攻し、エジプトを蹂躙したものとして描かれている。この敵対的な異民族という「ヒクソス」イメージは受け継がれ、プトレマイオス朝においてもシリア勢力との戦いと対比されることになる。この実像と合致するとは言い難いイメージは、初の異民族支配への恐怖に加えて、ヒクソスを打倒した第18王朝側によるプロパガンダに由来するものではないかと考えられている。
 イアフメス1世に始まる第18王朝は約250年にわたって続きこの間にエジプトはユーフラテス川までを版図とする「世界帝国」となったが、王家の継承に関わる事情は特殊であった。三代目のトトメス1世は出自のはっきりしない軍人で、前王アメンヘテプ1世と共同統治の後に王位を継いだ。このためかこの継承は王朝交代とは見做されていない。第18王朝末期には、前述した通り血縁によらない継承が起こった。第18王朝後期にはアクエンアテン(アメンヘテプ4世)のアマルナ改革による問題が発生しており、それ故に最後の王ホルエムへブ(マネトーンではアルメシス)はアクエンアテンからアイまでの4人の記録を抹消した。このためマネトーンの第18王朝後半の王名表は比定が困難な部分が生じている。
 ホルエムへブの部下のパラメスがラメセス1世として即位したことで第19王朝が始まった。第19王朝では、王位継承は王家の内部で行われた[10]。第19王朝末期にはある種の混乱が起こり、その中で出自不明のセトナクトが即位し第20王朝が始まった。この王朝成立の経緯については、同王朝期に記された『大ハリス・パピルス』というパピルスに記されている。
 新王国時代には、いくつかの王名表が知られている。「カルナク王名表」はトトメス3世までの歴代の王名が記されたものである。一方第19王朝のものと考えられる「アビドス王名表」「サッカラ王名表」はそれぞれセティ1世・ラメセス2世までの王名を伝えているが、第二中間期の王たちとアマルナ期の王たちは記されていない。また新王国時代に作られたと見られている史料として、「トリノ・パピルス」の王名表がある。これは神々の時代からの王名を治世年数付きで記したものであり、欠損が多いにもかかわらずエジプト人による王名表として最高のものとされている。王名表ごとに扱っている王に差異はあるが、いずれも最初の統一前後からの王の系譜を伝えているという点は共通している。 

 第三中間期から末期王朝時代
 第20王朝は10代にわたって続いたが、その間に内外の紛争に直面しラメセス11世の治世にはテーベで反乱がおこった。そしてラメセス11世が死去するとエジプトは再び分裂状態となった。北部を支配したのがタニスの第21王朝、南部を支配したのが「大司祭国家」である。第21王朝はスメンデス1世(ネスバネブジェト)が建てた王朝で、マネトーンも凡そ対応した王名表を伝えている。一方「大司祭国家」はテーベの首席神官ヘリホルが開いたものであるが、マネトーンは王朝として数えていない。このことは両王朝が婚姻関係を結ぶなど比較的良好な関係を保ち、また「大司祭国家」側は基本的に第21王朝側をエジプトの支配者とみていた様子があることと関係するかもしれない。
 続く第22王朝を開いたのは、リビア系の軍人シェションク1世であった。シェションク1世の下で第22王朝はエジプトを一時的に再統一したが、やがてテーベやレオントポリス、ヘラクレオポリスなどの勢力が独立しエジプトは再度の分裂状態となった。マネトーンはこのときの王朝として第23王朝を挙げているが、これは複数の勢力をまとめて1つの王朝と扱っている可能性がある。これに加えて、サイスでは第24王朝が第22王朝に代わるような形で成立した。第22王朝後半期から第24王朝にかけては「王」が乱立する時代であった。
 この混乱に終止符を打ったのは、エジプト南方ヌビアのクシュ王国によって建てられた第25王朝であった。第25王朝のピィ王は乱立していた王たちを撃破し、ヘリオポリスで「上下エジプトの王」として戴冠を行った。第25王朝の王たちはエジプトの伝統を積極的に踏襲し、ピィの後継者シャバカはメンフィスに王宮を構えエジプトで支配を行った。
 第25王朝はエジプト全土を支配したが、この時期には東方のアッシリアの脅威が迫っていた。前671年にはアッシリア王エサルハドンがエジプトに侵攻、メンフィスは陥落した。エサルハドンはエジプトを征服すると傀儡の「王」を置いてすぐに帰還し、間もなく病没した。その後第25王朝はエジプト奪回を試みるものの、新王アッシュルバニパルに敗れてエジプトから完全に放逐された。エジプトを支配下に置いたアッシリアであったが、アッシュルバニパルはエジプトの王として支配を行うことはなく、「傀儡王」に支配を任せて本国に帰還した。このこともあってか、アッシリアの王たちはマネトーンの記録ではエジプトの王に数えられていない。
 エジプト征服の後、アッシリアは急速な弱体化を起こした。サイスの「傀儡王」であったプサムテク1世はその状況を利用して傀儡から脱し、エジプトを独立させて第26王朝を開いた。末期王朝時代の始まりである[11]。第26王朝は王権を安定化させるためにギリシア系の傭兵の力を借り、また同時代にはナウクラティスにギリシア人の交易植民地が設置された。それと共に、ギリシア語を学ぶエジプト人も現れた。
 第26王朝はペルシア王カンビュセス2世の侵攻によって幕を閉じることになった。第27王朝の王たちはエジプトで統治を行うことこそしなかったものの、エジプト人に配慮した統治を行い王の名はエジプト王としての形式で表現された。第27王朝期には、ギリシア人であるヘーロドトスによってエジプトの歴史の記録がなされた。ヘーロドトスはメンフィスの神官からエジプトの歴史を学んだ。エジプトの神殿には王朝の歴史を記した巻物があったと考えられ、そこにギリシア語を解するエジプト人の存在が合わさった先にヘーロドトスの記録が成立したのである。
 その後ペルシア王家で内紛が起こると、ペルシアからの独立の動きが生じた。そして成立したのがサイスの第28王朝であった。この王朝は1代限りの短命な王朝であった。続く第29王朝はネフアアルド1世(マネトーンではネペリテース)が開いたメンデスの王朝であった。ネフアアルド1世は自らを第26王朝の再興者として正当性を主張した。ネフアアルド1世の死後には王子と簒奪者の間の内紛が起こり、最終的にそのどちらでもないハコル(マネトーンではアコーリス)が王位に就いた。ハコルはネフアアルド1世との結びつきを主張し、更に息子にネフアアルドの名を付けることで第29王朝の王としての正統性を示した。
 第30王朝はセベンニュトスのナクトネブエフ(マネトーンではネクタネベース)に追って創始され3代続いた。3代目のナクトホルヘブ(マネトーンではネクタネボス)のときにペルシアのアルタクセルクセス3世が侵攻し、結果として第30王朝は最後のエジプト人王朝となった。
 2度目のペルシア支配(第31王朝)は10年ほどしか続かなかった。ペルシア支配に終止符を打ったのは、マケドニアのアレクサンドロス3世である。そしてアレクサンドロス3世が死去すると、ラゴスの子プトレマイオスが実質的にエジプトを支配するようになる。そして後継者戦争の中の前305年にプトレマイオス1世が即位したことで、プトレマイオス朝が始まるのである。

 マネトーン、そして現在へ
 プトレマイオス1世がエジプトの支配体制を固める中で、マネトーンはエジプト人の側の重要人物であった。マネトーンは王の2人の神官顧問の一人として、国家神サラピスの創設にも関わった。マネトーンは『エジプト史』を著すに当たり、碑文や巻物として存在していたであろう王名表に加えて、ヘーロドトスのようなギリシア語の記録も参考にすることができた。『エジプト史』は神々の時代から第30王朝までの歴史を、王名表を軸にしてギリシア語で記したものであった。古代からの王名表の伝統を、エジプト人が、エジプトの歴史をギリシア人に示すために用いたのである。
 マネトーンの『エジプト史』には、後になって第31王朝の記述が追加されたようである。ここに31の王朝区分の原型が完成する。そして前30年、ローマのオクタウィアヌスによってプトレマイオス朝は滅ぼされ、エジプトの王朝時代は終わりを告げる。これにより31の王朝+プトレマイオス朝という構図が成立した。
 王朝区分の基礎はマネトーンの記述にあるわけだが、実際のところマネトーンの記述は特に古い時代や中間期で不正確であり、また王名が伝わっていない(あるいは記されなかった)王朝もある。しかしこの区分は便宜的なものとしては便利であり、現代でも修正を加えながら使われ続けているのである。


    注釈
  1. ^ 第3王朝初めのソーリス、スーピスがそれぞれスネフェル、クフに比定されている。
  2. ^ マネトーンの著作は散逸しており、引用の形で王名表と一部の記述が残るのみである。
  3. ^ 上下エジプトを表す表現。
  4. ^ 中王国時代以降エジプトに移住し、勢力を拡大して第15・16王朝を建てた人々。
  5. ^ マネトーンの第11王朝についての王名表は知られていない。
  6. ^ ヘーロドトスの伝えるミンと同一と考えられる。
  7. ^ アビドスの一地方。
  8. ^ 第7・8王朝を古王国時代に含める場合もある。以下時代区分は山花(2010)によった。
  9. ^ 断片史料によっては「5人の王が75日」「5人の王が75年」とするものもある。
  10. ^ 但しマネトーンは第19王朝最初の2人を第18王朝に組み込んでいる。
  11. ^ 末期王朝時代の始まりについては、第25王朝とする考えもある。

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