1997年10月3日
宗良親王  NF


@はじめに
 後醍醐天皇の悲願、親政実現のため、多くの皇子たちが地方に下り戦乱に身を晒した。その一人宗良は、倒幕の中心人物護良や奥州に下り後に皇位を継いだ義良(後村上)、九州を制覇した征西将軍懐良程有名ではないが、短命が多い皇子達の中で、一人七十余才の長寿を全うし、また南朝第一の歌人として君臨するなど興味ある存在である。しかし文書史料が殆ど無く、彼の撰した歌集である「新葉集」「李花集」の詞書から伺い知るしかないのが現状である。それも晩年の宗良の記憶違いのために、年代が正確とは言えず、「太平記」「梅松論」「増鏡」「神皇正統記」を参考にして正していく必要がある。ここでは宗良の生涯全体を一通り説明する。

A「ムネヨシ」か「ムネナガ」か?
 宗良に限らず、後醍醐の皇子は「良」の字を名に持っていることが多い。かつて「ナガ」と読むのが一般的であった。伝一条兼良著「諱訓抄」に「護良(モリナカ)大塔宮」とあるのが主な根拠である。しかし、天和元年(1681)の写なので「ナカ」が古訓かは不明であり、一方「人王百代具名記」に「ヨシ」と記され、「古版増鏡」にも「尊良(タカヨシ)」「世良(ヨヨシ)」とある。そして、当時の記録に後村上(義良)の名が「儀義」と記されており、「保暦間記」写本に「ナリヨシ親王」と仮名書きされた一文がある事から、現在では「ヨシ」が通説である。本文もこれにならう。

B素養形成時代
 宗良は応長元年(1311)に二条為子を母として生まれた。同母兄に尊良がいる。外祖父二条為世は文保二年(1318)に「続千載集」(20巻2148首)を後宇多院の命で撰し自らも36首入首している。また「風雅集」にも20首入首しており当時歌壇の中心だった。また母為子も「風雅集」に39首入首している。こういった環境の中で宗良も和歌に習熟したのである。

C門主時代
 宗良は「尊澄法親王」として幼時に妙法院に入り、正中二年(1325)に門跡になっている。朝廷のねらいは、梨本門跡に尊雲法親王(護良)を任じ、青蓮院門跡慈道を手懐けている事からも分かる通り、天台三門跡を手中に収めて僧兵を倒幕の為に組織することであった。元徳二年(1330)、尊澄は兄尊雲の後をうけ天台門跡に就任し、山門僧兵の結集に従事する。が、元弘元年(1331)天皇出奔直前にも古今集を書写するなど根は文人であった。叡山での蜂起が失敗した後に笠置に走るがそこで捕われ、京の長井高広邸に預けられる。
      いかにせむたのむ日吉の神無月照らさぬ影の袖の時雨を
      うきほどはさのみ涙のあらばこそ我が袖ぬらせよその村雨(共に新葉集)
やがて天皇は隠岐、尊良は土佐、そして尊澄は讃岐に配流された。
      すゑまでも同じ宿りの道ならば我いとうしと思はましやは
      思ひやる心づくしもかひなきに人まつ山とよしやきかれじ(共に新葉集)
建武新政実現後、帰京して天台座主に還任。建武二年(1335)三月には二品、六月には一品に昇進、「山門一品の初例」を開いた。また中壇の修理や十二神将の立て改めなど精力的に活動し、文人的な本領を発揮した。この頃が一番幸せだったといえよう。

D流浪
 建武二年、足利尊氏が挙兵し、束の間の平和は破れた。延元元年(1336)十月、尊澄は北畠親房と伊勢大湊に下り、翌年元俗して「宗良」と名乗る。大湊は伊勢神宮御厨の年貢揚陸港として早くから問丸・廻船が発達し、その有力支配者の一人光明寺恵観が南朝に味方していた。
      深山をばひとりないてぞ時鳥われも都の人はまつらむ(李花集)
その後、海路で遠江の井伊介高頼の井伊谷城へ向かう。遠江へ向かったのは、宮方西園寺公重の浜松荘があり、八条院領内の狩野介貞長のいる駿河安倍城も近く宮方勢力を作りやすかったからである。延元三年(1338)、奥州の北畠顕家と合流して京へ向かうが失敗、吉野へ下る。(時を同じくして新田義貞が越前燈明寺畷で流れ矢に当り討ち死にしている)この頃、従兄二条為定が、
      かえるさをはや急がなむ名にしおふ山の桜は心とむとも
と帰京を促したので、
      ふるさとは恋しくとてもみ吉野の花のさかりをいかがみすてむ(新葉集)
と返し、断っている。
      ふかき江もけふぞかひあるあやめ草君が心にひくと思へば(新葉集)
同年九月、結城宗広・北畠親房の計画で再び遠江に向かう。
      思ふにはなほ色あさき紅葉かなそなたの山はいかがしぐるる(新葉集)
興国元年(134O)、これに呼応して信濃伊那大徳王寺城で北条時行が諏訪頼継らと挙兵したが、守護小笠原貞宗に敗れている。また同年、井伊谷城も仁木義長に落とされ宗良は狩野館に移った。
      身をいかにするがの海の沖の浪よるべなしとて立ちはなれなば(新葉集)
 その後、興津、浮島ケ原、車返しを経て越後へ向かった。
      北になし南になして今日いくか富士の麓をめぐり来るらむ(新葉集)
 翌二年、新田氏の支族の五十嵐、池、風間氏を頼り越後寺泊(三島郡寺泊)へ入った。ここで宗良は父後醍醐崩御を知ったと思われる。
      おくれじと思ひし道もかひなきはこの世の外のみ吉野の山(新葉集)
 さらに翌年越中名古浦(新湊市)へ向かった。ここは越前気比神宮領で、土豪姫野氏を頼ったものである。
      今はまたとひくる人もなごの浦に潮たれて住むあまを知らなむ
      都にも時雨やすらむ越路には雪こそ冬のはじめなりけれ
      都には風のつてにも稀なりし砧の音を枕にぞ聞く(共に新葉集)
後に、宗良の影響か、井上俊清が宮方につき、興国六年(1346)に新川群滑川、高槻で守護吉見頼隆を破っている。
 興国四年(1344)、宗良は信濃大河原(下伊那郡大鹿町)に入り、香坂高宗に身を寄せた。

E信濃時代
 信濃は在地武士の荘園侵食により南北両朝に分れての争いが激しかった。宮方は、諏訪上社の諏訪氏、下社の金刺氏、上伊那の知久・藤沢ら諏訪一族、下伊那の香坂氏、佐久・小県の祢津・望月・海野ら滋野一族、安堂の仁科氏で、武家方は、松本・伊那が拠点の守護小笠原氏、更級・埴科・小県群塩田荘の村上信員、水内・高井の高梨経頼、佐久の大井光長・伴野氏であった。宗良はここに南朝の一大拠点を作ろうとしたのだ。また、糸魚川道筋は「仁科千田口」といい、新田氏の拠点越後など北陸に通ずる交通の要所で宮方の仁科氏がおさえていた。この確保も目的と思われる。
 大河原は山に囲まれた天然の要害で、以降宗良はこの大河原と大草(中川村)を拠点とし、「信濃宮」または「大草宮」といわれる。その期間も京の二条派歌人と交際は続いており、従兄為定が「風雅集」撰者にもれたのを嘆き、
      いかなれば身はしもならぬことの葉の埋もれてのみ聞こえざるらむ
      此のたびはかきもらすとももしほ草中々わかのうらみとはせじ(李花集)
と詠んでいる。
 正平三年(1348)一月、四絛畷合戦で楠木正行率いる畿内南軍が壊滅、行宮が賀名生に移ったので宗良は、
      たらちねの守りをそふるみ吉野の山をばいずち立ちはなるらむ(李花集)
と、吉野を捨てたことを詰っている。これに対し後村上は、
      ふる郷となりにし山は出でぬれど親の守りは猶もあるらむ(李花集)
と返歌し、苦渋を示した。
 正平六年(1351)、京では尊氏・直義の対立が激化(観応擾乱)、十月に尊氏が南朝に降伏(正平一統)。ちなみに、この年一月宗良が山門にまで上ってきたとの風聞もあった。正平一統により南朝方が勢い付いている頃なので、有り得ない事ではない。
 翌年、征夷大将軍に任命され(南朝天皇による任命は兄護良、弟成良に続く三人目である。)、
      思ひきや手もふれざりき梓弓おきふし我が身なれむものとは(新葉集)
と戸惑いを見せた。その直後、諏訪氏などを率いて、東国に身をひそめていた新田義興・義宗(義貞の子)や脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子)、奥州の北畠顕信(顕家の弟)とともに鎌倉を攻撃し、一時占領するが、間もなく人見原・金井原で敗戦を喫し、小手指原でも、
      四方の海のなかにも分けてしづかなれ我がをさむべき浦の波風(李花集)
      君のため世のため何か惜しからむすててかひある命なりせば(新葉集)
と将士を激励するが及ばず、鎌倉を捨てて越後へ逃れた。
 正平八年(1353)十一月、越後で宗良は義宗・義治と挙兵し和田義成と戦うが、小国政光により敗れている。翌年も宇賀城を攻めるが、和田義成・茂資に敗れた。そこで宗良は信濃に戻り、翌十年、拠点信濃を固めるために仁科・諏訪ら南朝方の武士を結集して桔梗ケ原(塩尻市)で守護小笠原氏と戦って敗れたため、以降信濃の南朝方は急速に衰微する。また、やや後の事になるが、正平二十三年(1368)には義宗が敗死し、義治は出羽に逃亡して越後新田党が消滅している。
      諏訪の海や氷を踏みて渡る世も神し守ればあやふからめや(新葉集)
      大空をてり行月しかこたれぬ身の光なき秋とおもへば(李花集)
 正平十四年、行宮が河内天野から観心寺へ、翌十五年には摂津住吉に移った。その年に、後村上は頻りに宗良に上洛を促した。
      いつまでかわれのみひとりすみよしのとはぬ恨みを君にのこさむ(新葉集、後村上天皇)
返歌      わがいそぐ心をしらば住吉のまつ久しさを恨みざらまし(新葉集)
        木曾路河あらしにさえて行く浪の滞るまをしばし待たなむ(李花集)
同じように、十七年にも、
      年をふるひなのすまひの秋はあれど月は都と思ひやらなむ(新葉集、後村上天皇)
返歌      いかにせむ月もみやこと光そふ君すみの江の秋のゆかしさ(新葉集)
というやりとりがあった。
 その後、後村上が病気になった時にも歌をかわしあっている。
      めぐりあはむ頼みぞ知らぬ命だにあらばと思ふ程のはかなさ(新葉集、後村上天皇)
      めぐりあはむたのみあるべき君が代に独り老いぬる身をいかにせむ(新葉集)
 また、建徳二年(1371)十二月、九州太宰府の懐良から、
      日にそへて遁れむとのみ思ふ身にいとどうき世のことしげきかな(新葉集、懐良親王)
      しるやいかによを秋風の吹くからに露もとまらぬわが心かな(李花集、懐良親王)
という歌が届いたので、
返歌      とにかくに道ある君が御世ならばことしげくとも誰かまどはむ
        草も木もなびくとぞ聞くこのごろのよを秋風と嘆かざらなむ(共に李花集)
        世の憂きにたへぬ心のままならばなほ山里も住みやうかれむ(新葉集)
と、弟を励ました。九月、今川了俊に押されて太宰府陥落寸前の時に詠まれた歌が三月かかって着いたものであり当時の交通(恐らく瀬戸内・東海の海路であろう)所要時間を知る手掛かりとなる。
      後はまた旅寝や月に忍び出でむ今は都のかたみなれども(新葉集)
      道知らぬは山しげ山さはるともなほあらましの末はとほさむ(新葉集)
 その後も宗良は信濃で体勢挽回をはかるが、宮方の劣勢おおうべくもなく、ついに吉野に下った。時に文中三年(1374)冬、後村上すでに亡く、その子長慶天皇の代となっていた。

F「新葉集」と「李花集」
      おなじくは共にせし世の人もがな恋しさをだに語りあはせむ(新葉集)
 宗良が吉野へ来てみると、四条隆資、洞院実世、北畠親房ら昔なじみや後村上ももはや過去帳の人となっており、懐旧の念と深い悲しみにおそわれた。一方、南朝における二条派の重鎮である宗良が来たことによって、南朝歌壇は空前の盛り上がりを見せ、天授元年(1375)の「南朝五百番歌合」、翌年の「内裏百番歌合」、千首歌が、絶望的劣勢という現実(楠木正儀は北朝和睦派細川頼之を頼り北朝に降っていた)から目をそむけるかのように催された。
      信濃路や見つつわが来し浅間山雲は煙のよそめなりけり(新葉集、千首歌で)
      庵崎や松原しづむ浪間より山は富士のね雲もかからず(新葉集、千首歌で)
      老の浪またたちわかれいな船のおぼれば下る旅の苦しさ(新葉集、内裏百首歌合で)
 宗良はこの頃、延元元年から建徳元年までの約九百首をおさめる「李花集」を撰した。宗良はかつて式部卿に任じられたことがあり、その官職の中国名からその名がつけられた。
 天授四年(1375)、宗良は再び信濃に下った。
      数たらぬ嘆きになきてわれはただ帰りわびたる雁の一つら(新葉集)
 途中、河内国山田で「新葉集」を撰した。この歌集は二十巻にわたり、元弘元年八月の花山院師賢の歌から天授七年の藤原師兼の歌までの1420首を収めている。弘和元年(1381)十月十三日、長慶天皇の綸旨で准勅選となり、宗良は序文でその礼を述べている。後村上の遺志を継ぐつもりが長慶にはおそらくあったのだろう。これら二つの歌集は、歌風を変革するまでには至らないが、戦乱流離に悲嘆し憤る人々(主に南朝方天皇・公卿)の心情がよく表われている。

G終焉
 宗良は再び信濃へ下る頃、子を失っている。
辞世      いかになほ涙をそへてわけわびむ親に先立つ道芝の露(新葉集、読人不知)
ここで「読人不知」とあるのは、立親王前だったからである。
      我こそはあらき風をもふせぎしに独りや苔の露はらはまし
      時雨よりなほ定めなくふるものはおくるる親の涙なりけり(共に新葉集)
このように宗良の嘆きはひととおりでなく、これで気落ちしたのか途中の長谷寺で二度目の出家をとげている。その後にも長慶から、
      忘るなよ木曾のあや衣やつるともなれし吉野の花染の袖(新葉集、長慶天皇)
と、吉野に再度来ることを求めてきたが、宗良は
      君になど我が世はつせの鐘のおとのかくなるとだにしらせざりけむ(新葉集)
と返して応じなかった。同じように数年後にも、
      ほととぎすそなたの空にかよふならばやよやまてとて言伝てましを(新葉集、長慶天皇)
返歌      今更になきても告ぐな時鳥われ世の中をそむく身なれば(新葉集)
というやりとりがなされている。
 没した年、場所は良くわからない。「三宝院文書」による信濃大河原で没したという説が有力だが「南山巡狩録」では元中二年(1385)八月十日遠江井伊谷で没したとある。「耕雲百首」には「故信州大王」とあるので、少なくとも元中六年(1389)一月までには没しているはずである。まさに南朝の為に苦闘し続けた生涯であったといえる。文人的で戦乱に向かない性格の宗良をここまで押し立てたのは父後醍醐の遺言ではなかっただろうか。

Hその後
 宗良死後の時点の南朝は、もはや九州も失っており、吉野周辺にわずかに残存しただけであった。残された現実的な道は面目を失わない形の「和睦」のみであった。その情勢下で主戦派の長慶天皇が退位し講和派の後亀山天皇が即位した。この天皇のもとで、南朝に帰参した楠木正儀や幕府管領細川頼元(頼之養子)が恐らく中心となり和睦が話し合われたのだろう。元中九年(1392)、知られている様に、大覚寺で三種の神器が後亀山から北朝後小松天皇に渡された。しかし実質的には南朝の一方的屈服であったため残党(例えば正儀の子正勝)が吉野で後南朝の戦いを繰り広げることになる。

I感想
 宗良の生涯を一通り述べた中で、多くの歌を折り込み彼らしさをいくらか表現できたと一応は自負している。しかし、資料が少なかったのや、私が未熟なのもあって、思ったより大雑把で不本意なものになってしまったのが残念である(特に当時の地図が手に入らなかった点)。ところで、これまで南北朝といえば戦前の皇国史観の反動からかそれとも複雑過ぎるからかあまり一般には注目されない傾向があるが、いわゆる日本の伝統文化にはこの時代にそのルーツを持つものも少なくない。(例えば能、狂言、茶道、華道、俳句)また近年客観的な視点から人物再評価がすすんでおり(人物の知名度が高い割にこれに関しては今日まで手つかず同然だったので、今の所諸説紛々である)、その点でも今後の研究が期待される時代である。

J参考文献
「静岡県の歴史」  山川出版社
「長野県の歴史」  同上
「富山県の歴史」  同上
「物語新葉集 太平記時代の美意識」  山口正 著  教育出版センター
「皇子達の南北朝 後醍醐天皇の分身」  森茂暁 著 中公新書
ピクトリアル足利尊氏 南北朝の争乱」  学研
「新修国語総覧」  京都書房
「日本列島大地図館」  小学館
「学習まんが 日本の歴史 G南朝と北朝」  小学館


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