1997年12月5日
横綱の歴史  NF


(1)はじめに
 大相撲を見ていると、横綱が特別な存在なのはすぐ気がつくだろう。実際、単なる「番付上の最高位」ではないのである。力量のみならず、人格も卓越していることが求められる文字通りの力士の模範なのである。その横綱の成立するまで、そしてその以後の歴史をここでは扱う。
(2)前史
 野見宿禰と当麻蹶早、建御雷神と建御名方主神の伝説からも判るように、古代から相撲は力比べとして行われてきた。初期は農作物の吉凶を占う卜占の意味で行われた。現在でも相撲が神事とされている所以である。そのうち宮中に入り相撲節会に発展した。聖武朝以来、志賀清林の子孫が代々行司をつとめてきた。が、平安末期に戦乱によりすたれ、1186(文治二年)に後烏羽天皇により相撲節会再興の沙汰がだされ、元義仲家臣で越前住人の吉田豊後守家永が従五位の位とともに行司の家元として「追風」の名を与えられた。これが吉田司家の起こりである。横綱の歴史と吉田司家は切っても切れない関係にある。後、信長が相撲を好んだところから職業化が進み、江戸時代に入ってから、寺社建立・再建の資金集めとしての勧進相撲が寺社奉行の許可の下で行われるようになった。番付に「蒙御免」とあるのはその名残である。喧曄多発のため禁止されることもあったが、1624(寛永元年)に明石志賀之助が四谷塩町で代銭を初めて取っての寄相撲晴天六日興行を行った。因みにこの明石が初代横綱とされているが、それは明治33年に陣幕久五郎が深川富岡八幡宮に横綱力士碑を自らの顕彰の為建立した際、「相撲鬼拳」で明石を「日下開山」(横綱の別称によく用いられる)と評しているのを根拠にそう定めてからである。しかしここでの「日下開山」は大力無双といった程度の意味で彼が横綱だった根拠はない。
(3)横綱の誕生
 横綱とは元は地面に張った綱のことで、これに地鎮祭で強豪力士が黒白の絹の注進縄を身に付けて四股をふむ儀式をあわせて横綱土俵入の儀式が作られたという。1789(寛政元年)、吉田司家が仙台藩抱えの大関谷風梶之助と久留米藩有馬家抱えの関脇小野川喜三郎に横綱免許を与え注進縄を腰に巻き、深川八幡の土俵上で四股を踏ませたのが最初である。この興行では寺社奉行から新奇な儀式は許されなかったので、吉田司家は「綾川、丸山の先例あり。書類は焼失」として行ったという話が残っている。谷風、小野川の前に明石、綾川、丸山の三人が数えられる所以である。実はこれは相撲の話題を呼び、さらに相撲における自らの権威を確立する為の吉田司家のデモンストレーションと考えられている。本来は谷風一人を顕彰する目的であったが公平を装うため小野川にも免許を与えたとも言われる。谷風には「免許」だが小野川には「證状」なのがその根拠だという。その人気の中1791(寛政三年)に江戸城吹上苑で初の上覧相撲が行われた。83番の結びの谷風・小野川戦は小野川が繰り返し待ったをした為、行司吉田追風は「気合い負け」として谷風に軍配をあげた。これが上覧相撲で上位力士に横綱を免許する先例となった。この結果か、吉田司家は十五代目に相撲指導役、十九代目に司家の地位が確立した。因みに、行司は信長時代に木瀬家・志賀家があり、木瀬家からは京相撲の岩井家・長瀬家や江戸の木村三左エ門が、志賀家からは1726(享保11年)に木村庄之助が出た。また、明和年間には行司伊勢ノ海五太夫から式守五太夫さらに式守伊之助が出た。現在残っているのは木村・式守の二流のみだ。
(4)江戸時代の横綱達
 谷風と同時代の強豪大関で有名なのが雷電である。1790(寛政二年)に関脇でデビューし、生涯で96.2%の勝率を誇りあまりの強さに張り手・鉄砲・閂の三手が禁じられたとさえ伝えられる。しかし横綱を免許されることはなかった。日記「諸国相撲和帳」には恨み言は一切見られない。彼が謙虚なのもあろうがやはり上覧相撲でのみ横綱が出されたということだろう。(しかし歴代横綱碑には番外として雷電の名が記されている。)谷風・小野川から約三十年後の1828(文政11年)、毛利氏抱えの阿武松に免許が出された。毛利氏領内の名所に因んだ名誉ある四股名であるという。この時、同等の実力を持つ稲妻(雲州系)は無視された。そこで野見宿禰の子孫と称する菅原氏の一流、五条家が免許を与えた。二年後には司家からも免許が与えられている。五条家もその家系から相撲の元締めたることを主張するが、江戸は吉田司家に固められていたので京坂相撲に力を注ぐことになる。その後、1842(天保13年)に不知火諾右エ門(雲州系)、1845(弘化二年)に秀ノ山が横綱を許された。この頃から土俵入に様々なパフォーマンスがなされるようになり、1861(文久元年)の雲竜、同三年の不知火光右エ門のそれは見事で、それぞれ現在の不知火型、雲竜型の元となった。名称がなぜ逆になったかは後述する。1867(慶応三年)に陣幕(薩摩系)が横綱を許された。この陣幕は薩摩藩抱えの為か勤皇的で戊辰戦争の時には千年川・山分と共に新政府軍の荷駄掛、島津侯守護を勤めた。また自己顕示欲も強く、前述のように横綱力士碑を建立している。
(5)明治時代の横綱達
 明治二年、鬼面山が横綱を免許された。陣幕より年上であるが年寄と喧嘩して休み、その間に陣幕に先を越されたのである。陣幕が守成の相撲なのに対し、鬼面山は積極的な相撲であった。ところで明治に入り廃藩置県が行われて力土達は抱えを解かれ角界の体質改善が求められた。明治六年に高砂浦五郎が相撲会所を脱退し三都合併相撲を決意したが脱走者が多く改正組と改名、名古屋に入った。後に改正組は再び相撲会所と合併、成績による番付編成・力士の給与制を定め高砂が会所の実権を握った。さて、明治十年、大阪の境川が吉田司家から免許を与えられた。大阪相撲では明治四年に八陣が五条家から横綱を許されたことはあったが吉田司家から許されたのは初めてである。吉田司家の力が大阪にも及ぶようになったのである。明治17年、天覧相撲があり梅ケ谷(初代)が伊藤博文の推薦で横綱を免許された。貧乏で化粧まわしがそろえられない梅ケ谷は辞退したが伊藤がスポンサーとなり無事挙行されたという。この梅ケ谷は引退後も「大雷」と呼ばれ人望厚く明治42年には両国国技館を建設した。明治23年、九段階行社(後の靖国神社)での天覧相撲で土俵入する者がないため薩摩閥の黒田清隆の申し入れで急に薩摩出身の西ノ海(初代)が横綱免許を与えられた。このようないきさつから彼は「藩閥横綱」と影口を言われた。因みにこの西ノ海は井筒部屋の祖である。これまでは横綱とはあくまで土俵入の資格のことであり番付には大関と記されていた。しかしこの年五月、免許をもつ西ノ海が先場所の不成績から東張出大関となり不満をもらしたことから、番付に「横綱」と記して張出にした。またこの頃から東優位に変わった。因みに大阪では明治四年に「東大関」の右脇に、「横綱」と記していた。明治29年に西ノ海引退と入れ替わりに小錦が横綱を許された。以後、天覧に関わりなく好成績の大関を横綱にするようになった。前述した理由から西ノ海や小錦を始めとする高砂系が有力で東方を占めていた。明治34年、大砲が横綱を張った。194p・132sと体格に恵まれていた(当時では212p・135sの武蔵潟につぐ巨漢)が、リューマチ・高血圧の為に積極的な相撲が取れず引き分けが多く「分綱」と仇名された。明治37年に常陸山・梅ケ谷(二代)が同時に横綱となる。この時から番付に地位として「横綱」と記すようになった。この年、大雷(初代梅ケ谷)はタニマチ(後援者)である元本所区長で安田銀行本所支店長の飯島保篤より、無担保で40万円(今の百億円)の資金を出させ、42年に両国国技館を完成させた。江見水蔭が「国技館」と命名した。明治36年に大阪の若島が五条家から免許を受け横綱に。二年後に吉田司家からも免許を与えられた。大阪相撲の中で唯一東京力士に張り合える強豪横綱だったが惜しくも自転車事故が原因で引退した。明治40年常陸山が近江富士、和歌ノ浦、平田山と米国に行き更に英仏独露をまわって翌年帰国した。これが最初の海外巡業である。明治44年、太刀山が昇進した。強烈な突き出しが得意だったために「45日」「一月半」(共に「一突き半」の意)と呼ばれた。また呼び戻しの大変な名手で「仏壇返し」と言われた。大正五年夏に栃木山に敗れるまで56連勝をしたことでも知られる。ところで彼は16代木村庄之助の勧めで「雲竜の型」の土俵入をした。各新聞もそう正しく報道したが、「日月」、「万朝報」などの雑紙が誤報した。後に相撲評論第一人者彦山光三が、太刀山と同じ型の土俵入の羽黒山の土俵入に雑紙のみ見て機関誌に「不知火型」と書いた。それ以来、土俵入の型の名称が逆に呼ばれている。因みに羽黒山以降の「不知火型」の吉葉山、玉の海、琴桜、三重ノ海、隆の里、双羽黒は皆短命横綱だ。
(6)大正・昭和初期
 大正四年、鳳が昇進。美男で、掛け投げが巧く「ケンケン」と仇名された。因みにこの前年に鳳がハワイ巡業に行った際、三段目力士袖ケ浦が脱走、市民権を得てレストラン経営の片手間に現地住民に相撲を教えた。これがハワイ相撲の起こりで、高見山・小錦らハワイ勢の台頭・曙の横綱昇進につながるのである。大正五年に西ノ海(二代目)、翌六年に大錦が昇進した。大錦は力士の中では際立ったエリートでローマ字で常陸山に入門を申し込んだところローマ字の返事で許されたというエピソードがある。入幕からわずか六場所で昇進した。翌七年に栃木山が昇進。このころ大錦・栃木山ら常陸山の出羽一門が東方を占めた。大正九年、不況による不安から力士達が養老金の値上げを求め三河島に篭城する三河島事件が起きた。横綱大関による調停が失敗し、解決した後大錦が責任を感じ自ら廃業した。大正12年の関東大震災により国技館が全壊、名古屋で場所が行われた。この再建のため協会は大赤字となり大阪との合併の声がで始めた。この期間、大正12年に源氏山(昇進により三代目西ノ海と改名)、翌13年に常ノ花が昇進したが依然として栃木山時代であった。大正14年に栃木山は引退した。一般には禿で髷が結えないのが原因とされるが、一門の春日野親方が常ノ花と同郷の大日本麦酒社長の馬越恭平に興行資金を借りていた見返りに常ノ花への番付上の優位がなされていたことへの不満が真因という説もある。いずれにせよ体力の限界で引退したのでないことは明らかで、昭和六年の天覧相撲では玉錦・沖ツ海といった現役の強豪を破り優勝している。さてこの14年に好角家の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の為の台覧相撲の際に宮内庁から莫大な下賜金が与えられこれを元に協会は賜盃を作り「独り占め恐れ多い」として東西合併した。この際、大阪横綱の宮城山は東京の小結並の実力しかないといわれたが大正11年に吉田司家の免許を受けているためそのまま横綱として編入された。宮城山は昭和二年の一月に優勝して意地を見せている。この時代は常ノ花が奮戦した。昭和六年に宮城山が引退して以来横綱不在が続き巨漢出羽ケ嶽で人気をつないだ。やがて、玉錦、清水川、武蔵山、朝潮(後の男女ノ川)、天竜らが台頭し人気を呼んだ。昭和七年、小結武蔵山が関脇天竜を飛び越えて大関になったのをきっかけに天竜は大ノ里以下出羽系関取31名全員をひきつれ春秋園に立て篭もり経済待遇改善を求めた。春秋園事件である。同じ出羽海部屋でも先代出羽海の常陸山系の天竜と後を継いだ両国系の武蔵山とはあまりうまくいっていなかったのである。交渉は物別れに終わり、非出羽海系の東方と共に協会から脱退しそれぞれ「新興力土団」「革新力士団」を結成、やがて「大日本相撲連盟」を作った。一方協会は関取の大多数が出奔したため十両・幕下から幕内に、幕下から十両に臨時昇進させ残った力士で場所を開催した。双葉山もこの時十両から幸運な入幕をした一人である。また人数不足から今までの東西制から系統別総当たり制に変わった。また場所直前に大関武蔵山が帰参し看板も手に入った。天竜らの方は赤字続きで鏡岩・朝潮(男女ノ川と改名)が協会に帰参、昭和八年に「大日本関西角力協会」と改名したが結局13年に解散した。ところで男女ノ川は帰参した昭和八年春場所で別席(帰参者の別番付)で全勝優勝をとげている。昭和八年に玉錦が昇進し長い横綱不在にようやく終止符が打たれた。充分な実力がありながら、東西制で非出羽海系であり上がつかえて大関になれなかったのと喧嘩早く「ボロ錦」「ケンカ玉」と呼ばれ協会ににらまれたため横綱になかなか成れなかったのである。(昇進までの優勝回数六回は二代目貴乃花の七回に次いだ記録である。)昭和十年に武蔵山、翌年に男女ノ川が昇進したが、それぞれ右腕、下半身を痛めており弱い横綱となってしまった。もう少し後だと昇進できなかったかも知れない。というのはこの頃から双葉山が台頭したからだ。昭和11年夏場所関脇から連勝が始まった。双葉山はこの場所で初めて玉錦を破り全勝で初優勝。「たまにしきゃ負けない」といわれた玉錦から双葉山への覇者の交代が近づいていた。
(7)双葉山時代
 昭和13年、双葉山は大関を二場所連続全勝で突破、横網に昇進した。この年に玉錦が急死し翌年武蔵山引退、双葉山の独走が始まった。連勝を続ける双葉山に人気は沸騰した。一方出羽海一門は連勝ストップに執念を燃した。昭和14年春場所四日目に安芸ノ海が一門の期待に応え勝利。連勝は69で止まりその日は号外が出たという。この記録は今も破られていない。この日、双葉山は知人に「イマダモッケイタリエズ」と電報を打った。「木鶏」とは荘子にある、鍛え抜かれた闘鶏はまるで木彫りのように空威張りせずにらみ付けず徳により敵の方から逃げていくという話から来ているのである。また彼は力水は決して一度しか使わず待ったをせず右四つで攻めた。この様に精神主義的傾向が強く、例えば15年夏に四敗目を喫して12日目から休場、「信念の歯車が狂った」と滝に打たれたという。双葉山が心技体とも充実した理想の横綱とされる所以である。しかしこれは軍国日本の精神主義とあいまっていると言えるかも知れぬ。そのためか戦後の22年に敗戦のショックからか新興宗教「璽光尊」の狂信者に成ったこともある。ところで双葉山時代に大関前田山、関脇名寄岩・綾昇、小結羽黒山・玉ノ海が台頭した。前田山は強烈な横殴りの張り手を得意としそれで双葉山を破ったこともある。この時あまりの激しさから張り手是非論が沸き起こった。昭和16年に羽黒山が昇進、翌年に安芸ノ海・照国が同時昇進した。安芸ノ海はあの一番以来急成長した。しかし双葉山に二度と勝つことはできなかったという。照国は天性の相撲のリズムの巧さ、肌の美しさから「相撲の天才」「桃色の音楽」と言われた。戦禍が激しくなるにつれ空襲が激化し各部屋は地方へ疎開した。また勤労奉仕や軍需工場・軍病院の慰問に従事した。健児意識が強く時局に敏な角界は戦争協力に積極的であった。20年の東京大空襲で国技館が全焼し、また双葉山を破ったこともあり将来を期待された関脇豊島が死亡した。やがて日本は敗戦を迎えたのである。それとほぼ同時に双葉山時代も終焉を迎える。
(8)終戦直後の横綱改革
 戦後、武蔵川の尽力もあってGHQは角界に寛大であった。角界の時勢への対応の巧みさがここからも窺える。この年の秋場所のみ土俵の幅が15寸(4.55m)から16寸(4.85m)に拡げられた。この場所、東富士・佐賀ノ花・千代ノ山・羽島山・力道山・神風ら次代を担う若手が台頭。また双葉山は引退した。これにより今まで双葉山の陰に隠れていた羽黒山時代が到来した。この頃、国技館が進駐軍にメモリアルホールとして接収され協会はジプシー興行を余儀なくされていた。22年夏に幕内優勝決定戦・三賞の制度が取り入れられた。これまでは最高成績者でもっとも番付が上のものを優勝としていたため画期的な改革であった。また秋場所には系統別総当たりが七年ぶりに復活・定着した。さて夏場所に前田山が戦後初めて横綱に昇進した。しかしすでに全盛期は過ぎており歴代唯一の勝率五割未満の横綱となってしまった。24年、東富士が昇進。早くから期待され双葉山に「謹坊」と呼ばれ目をかけられた逸材で初の江戸っ子横綱でもある。双葉山を初顔で破ったことが双葉山引退のきっかけだったというエピソードもある。巨体を活かす「怒涛の寄り」で恐れられた。この年の秋場所、腸カタルを理由に1勝5敗で休場した野球好きの前田山は後楽園球場でシールズ対巨人戦を観戦しオドール監督と握手した。この写真が新聞に掲載されて場所開催地・大阪の好角家は激怒、協会は「不謹慎」として前田山に引退勧告した。この事件がきっかけで横綱の「品位」が問題とされ負け越し二場所で大関に落とすという横綱格下げ問題も浮上した。これは世論の大反対でなくなったが「横綱審議会」ができ昭和25年の五月に「横綱審議委員会」が発足した。この情勢下の25年春に蔵前仮国技館が元力士でホテルニューオータニ社長の大谷米太郎らがスポンサーとなり完成。この場所に千代ノ山が二場所連続優勝を遂げるが前述した事情から昇進は見送られた。五月、「横綱審議委員会」が発足し横綱を協会が推挙しこの委員会に許可を得るという形で協会が自主的に横綱を産み出せるようになった。吉田司家は特権を剥奪され授与式だけ代表者が臨席することになったのである。因みにこの時横綱が「地位」であることが明文化された。25年秋と翌年春に照国が連続優勝した。横綱でありながらこれまで優勝できなかったのが晩年になり悲願達成したのである。夏場所に千代ノ山が三度目の優勝をした。以前の埋め合わせという意味もあって横綱に推挙された。審議委員会による初めての横綱の誕生である。この頃から栃錦が台頭した。二年後の初場所に照国が引退。続く春場所にも羽黒山全休・千代ノ山途中休場で看板不在のため初優勝の大関鏡里が昇進した。せっかくの委員会も協会の御用組合であったといえる。この場所中、千代ノ山は成績不振を痛感、「横綱返上」を申し出た。結局慰留されたが横綱の在り方を巡る議論を再び巻き起こした。
(9)角界の改革時代
 29年初場所、吉葉山が全勝で初優勝し昇進した。美男であったのに加え、早くから期待されながら幕下時代に兵役で体力が落ち(一時期行方不明で戦死説も流れた)出世が遅れまた番付面で恵まれなかった悲運のため同情が集まり大変な人気力士であった。長年の苦労が実った昇進であったがその後は不振に終わった。この年の夏と秋に栃錦が連続優勝を遂げ昇進。秋には蔵前国技館が正式に完成。この頃から若ノ花が台頭。室蘭での荷運びで鍛えられた強靭かつ柔軟な体から「軟体動物」「異能力士」と呼ばれた。特に呼び戻しを得意とした。昭和32年に社会党の辻原氏が灘尾文相に協会の在り方を@財団法人としての在り方A茶屋制度B八百長相撲の三項目で詰問した。協会は中でも財団法人の地位の固守を図った。株式会社になると残余資金の同目的団体への譲渡・株の公開・賜盃の返還が必要だからである。問題の紛糾化のため出羽海理事長(元常ノ花)が切腹未遂事件を起こした。理事長の座は時津風(元双葉山)に引き継がれ彼が改革を実施していくことになる。結局協会は財団法人のままで茶屋の株式会社化、力士らのサラリーマン化ということになった。
(10)栃若時代
 若ノ花は30年に大関昇進、翌年夏に初優勝の後、愛児を事故死させた翌場所、連勝街道を進み千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦に続く空前の五横綱時代かと騒がれたが終盤に病気で倒れそれはならなかった。この場所でのすさまじさから「土俵の鬼」とも言われるようになる。33年初場所に若乃花は優勝を遂げて昇進。この年初めに横綱審議委員会で@品格力量抜群A二場所連続優勝が原則B全委員一致の決議C休場、体面汚す、不成績の際は三分の二の賛成で激励、注意、引退勧告という原則が定められた。このAに反するのではないかとの問題も出た。しかし栃若は横綱としての責務を果たし相撲人気の担い手となった。「栃若時代」である。栃錦は体力の衰えを技の冴で補い34年春には「奇跡の優勝」を遂げている。34年には朝潮が昇進。巨体を利した押し相撲と男性的風貌で人気を博したが脇役に終わった。大阪の春場所に強く5回の優勝のうち4回を春にしていることから「大阪太郎」といわれた。35年春千秋楽の栃若全勝対決(寄り切りで若乃花藤利)が、多くの熱戦を繰り広げた二人の最後の対戦になった。翌場所栃錦は引退。二年後に若乃花も引退し栃若時代は終りを告げた。対戦成績は栃錦の18勝15敗で優勝回数は共に10回であった。二人は後に相次いで理事長を勤めた。
(11)柏鵬時代
 栃若時代末期の35年初場所に大鵬が入幕し11連勝した。彼を誰が止めるかが注目されたがそれが柏戸であった。二人とも若いときから将来を期待された逸材だったのもあってこれ以降二人の対決が評判を呼び人気を二分した。取組の時間帯になると女湯が空になると言われた色白の美男大鵬と男性的風貌の柏戸は好対照でもあった。36年秋、二人は横綱同時昇進した。大鵬は21才3ケ月の最年少記録を樹立した。これに関して、2場所連続優勝の大鵬は文句なしであるが、最近三場所の成績が11勝4敗、lO勝5敗、12勝3敗(準優勝)の柏戸は人気に押し切られた甘い昇進との批判も出たが、大部分のファンは粋な措置として歓迎した。対戦成績こそ互角だが優勝回数で一方的に大鵬に水を明けられる柏戸に同情する声も少なくなく、38年秋に柏戸が大鵬を下し2度目の優勝を全勝で飾った時は柏戸ファンで大騒ぎであった。この時に作家石原慎太郎が八百長との意見を雑誌に掲載、協会が告訴に持ち込み石原氏が謝罪するという事件が起こったのはよく知られている。39年春に栃ノ海、40年春に佐田ノ山が昇進。栃ノ海は小兵ながら師匠栃錦ゆずりの名人横綱と期待されたが怪我のため短命で終わる。佐田ノ山は37年春に前頭13枚目で平幕優勝して以来、不調気味の出羽海部屋の期待を一身に背負ってきた。この重圧に耐え抜き柏戸を上回る6回の優勝をとげている。現在の境川理事長である。やがて大鵬独走時代となり相撲人気も低迷を見せ始めた。時津風理事長は40年初場所から一門別総当たり制から部屋別総当たり制に変える英断を下した。これまで対戦することのなかった同じ一門同士当たることになり多くの好取組を生んだ。中でも新進の玉乃島(後の玉の海)が大鵬を破った一番は評判になった。42年に出羽海部屋の九重親方(元千代の山)が独立を許さぬ部屋の伝統に背き九重部屋を作った。背景として、常の山の次の出羽海は彼のものという期待に反して元出羽ノ花が継ぎまた佐田ノ山が婿に入ったため今後の希望も断たれたことにある。独立を寛大に許し破門という形で示しを付けた出羽海の決断は称賛された。この時に移籍した中に北の富士がいた。それ以後、九重は高砂の一門となる。44年春場所2日目の大鵬・戸田戦で審判委員により戸田の勝ちとされたが新聞写真では明らかに大鵬の勝ちであった。前年秋場所2日目から45連勝中であったため取り返しのつかぬ大失態となってしまった。「世紀の大誤審」といわれ以後判定にビデオが導入された。この年名古屋場所に柏戸が引退し大鵬も二年後に引退、柏鵬時代は終わった。優勝回数は大鵬32回、柏戸5回であった。
(12)北玉時代
 44年初場所後、北の富士と玉乃島(玉の海)が同時横綱昇進した。豪快でプレイボーイの北の富土と双葉山を髣髴とさせる玉の海の対決は「北玉時代」といわれ期待されたが二年後の10月に玉の海が肺動脈幹血栓で急死した。協会の力士の健康管理や過労に課題を投げ掛けた出来事であった。ライバルを失った北の富士は翌年から衰えた。優勝回数は北の富士10回、玉の海6回。
(13)輪湖時代
 48年初場所後に琴桜が昇進。真面目な性格が災いし硬くなり「無気力相撲」と叩かれるなどでなかなか努力が実ることがなかったが晩年に執念を見せた。夏には輪島が昇進。学生出身の初の横綱で左下手投げが得意であった。「柏鵬時代」の豊山と共に学生力士の先駆けとなった。翌年名古屋場所後北の湖が昇進。琴桜、北の富士の引退にも助けられた。21才2ケ月。最年少記録の更新である。人気では大関貴ノ花と輪島で「貴輪」だが実力は「輪湖」であった。しかし53年から輪島が衰え北の湖独走になった。この年に初場所から秋まで5場所連続優勝を成し遂げている。これは大鵬の6場所連続に次ぐ記録だ。また48年名古屋場所から56年秋場所まで連続50場所勝ち越しの記録も樹立。この間、53年に若乃花(二代目)、翌年に三重ノ海が昇進したが主役たり得なかった。55年に三重ノ海、翌年に輪島が引退した。優勝回数は輪島14回、北の湖24回であった。
(14)千代の富士時代
 56年に昇進した千代の富士は翌年から衰えた北の湖に代り土俵の覇者となった。58年、隆の里が昇進。糖尿病を克服し「おしん横綱」と呼ばれた。王者千代の富士に強いことから期待されたが短期間で引退。60年初場所、春日野理事長(元栃錦)の下で両国国技館が借金なしで完成。「新国技館完成まで頑張る。」と言っていた北の湖はこの場所で引退。翌年、北尾が22才11ケ月の若さで昇進、双羽黒と改名した。優勝なしでも上げたのには一人横綱だったための協会の政策の匂いが強い。授与式で吉田司家が出席せず、以降絶縁状態である。稲葉修の反対があったのがきっかけで全会一致も崩れた。翌年、優勝がないまま師匠と衝突して脱走、優勝制度以来唯一優勝なしの横綱となってしまった。62年名古屋で千代の富士の弟弟子の北勝海が昇進。九州で大乃国が昇進。千代の富士は63年夏から九州場所千秋楽に大乃国に敗れるまで53連勝を達成した。その一番が昭和最後の相撲となった。翌年平成元年名古屋場所、千代の富土と北勝海が12勝3敗で同部屋決定戦を行い千代の富士が勝利した。翌年九州で31回目の優勝。大鵬に次ぐ記録である。この年名古屋で旭富士が昇進。この頃から若花田・貴花田兄弟が台頭、翌年夏初日に貴花田が千代の富士を破り、2日後に千代の富士は引退した。
(15)その後
 千代の富士引退に続き名古屋で大乃国引退。3年は場所毎に好調なものが優勝する混戦模様を呈しだした。残る北勝海・旭富士も振わぬこの期間に場所毎に綱盗りがささやかれ実質的王者であったのはハワイ出身の小錦であった。翌年初場所に旭富士、夏場所前に北勝海が引退し60年ぶりの横綱不在となった。しかしこれに先立ち、昇進に良い顔をしない協会の態度から出た付け人の人種差別発言が問題化。協会は態度を更に硬化させ、この頃の2度の優勝を含む毎場所の好成績に拘わらず小錦の昇進は夏に小錦が衰えを見せたこともあり遂にならなかった。しかしこの間題が5年初場所の初の外国人横綱となる曙昇進の追い風となったのは争えない。この時、貴花田も大関昇進、貴ノ花(二代目)と改名。「曙貴時代」といわれた。曙はしばらく優位を保つがやがて不振に陥る。貴ノ花は優勝を繰り返すが今一つ勝てず昇進できない。貴乃花は6年九州場所に30連勝で2場所連続全勝をして昇進するまで7回の優勝をしている。これは玉錦の5回を抜く記録である。これ以降も貴乃花独走が続いている。今後はどう展開していくのだろうか。
(16)終りに
 横綱の歴史といいながら単なる各横綱の紹介、横綱に関係ない事項のしめる部分が多くなってしまったと思う。しかし通史・大体の流れを紹介することはできたと思う。
(17)参考文献
日本全史ジャパン・クロニック(講談社)
大相撲通になる本(双葉社)
物語日本相撲史(川端要壽著、筑摩書房)
大相撲ものしり帖(池田雅雄著、ベースボール・マガジン社)
大相撲力士名鑑平成九年度版(水野尚文・京須利敏編著、共同通信社)
大相撲親方列伝(石井代蔵作、文藝春秋社)
昭和の横綱(小坂秀二著、冬青社)


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