1997年12月12日
西洋キリスト教史3  文学部 2回生


<はじめに>
 最近マニアックなレジュメが多いなか、唯一分かりやすいテーマを取り上げて大好評を得ているこのシリーズも第三回を迎えました。前回の終りで四回完結のシリーズにすると発表しましたが、 氏のわがままによりアイルランドヘのキリスト教の伝播を扱ってしまったため、予定がずれてしまいました。したがってシリーズ完結迄には5,6回かかりそうです。苦情は 氏の方にお伝え下さい。それでは十字軍の遠征を中心に中世キリスト教の世界を見ていくことにしましょう。

<叙任権闘争の決着>
 ウルバヌス二世の後、1099年にパスカリス二世が教皇位を継いだ。その頃ドイツではハインリヒ四世親子の対立が深まって、叙任権どころではなかったが、1105年ハインリヒ四世が譲位を強制され、ハインリヒ五世が位につくと、叙任権問題が再燃した。ハインリヒ五世は陰謀によって教皇を捕らえ、都合のよい協約を押しつけたが、これには各所から多くの非難が上がり、協約は破棄された。その後も皇帝と教皇の対立は続いたが、ハインリヒ五世は前の教皇に対する仕打ちがドイツ国内でも不評を買っていて、また、グレゴリウス改革の精神が次第に国内にも浸透しつつあることをさとり、教皇との和解を考え姶めた。そして、1119年のランスでの会議では交渉が決裂したものの、1122年のウォルムスでの会議で合意に達し、「ウォルムス政教協約」が成立した。協約の内容はシャルトル学派の解決法に基づいており、俗人による叙任を絶対に拒絶するという初期の理念からは後退した妥協案であるが、ここで叙任権闘争はようやく終結したのであった。

<十字軍遠征前夜>
 七世紀以降、イェルサレムは異教徒に支配されていたが、キリスト教徒の聖地巡礼は絶えるどころか盛んであった。そのためイェルサレムには巡礼のための宿泊所、救護所のようなものが存在していた。こうした施設は徐々に増え、修道院や病院なども建てられ、また、自衛的な武力も持つようになった。(これらは1113年にヨハネ騎士団となり、巡礼者の護身をすることになる)しかし、十一世紀末にイェルサレム支配がセルジューク・トルコに移ると、巡礼の受け入れが厳しくなり、キリスト教徒の不満が現れてくる。こうしたとき、セルジューク・トルコの脅威を強く感じていたビザンツ皇帝アレクシウス一世が教皇ウルバヌス二世に援助を要請したのである。ウルバヌス二世はこの援助要請を重大に受け止め、十字軍編成のため1095年クレルモン公会議を召集した。会議では、叙任権のことや聖職者の堕落についてなど様々なことが話され、最後に「教会のために異教徒と戦うものが、その行動中にこの世の生命を終えたときは、罪の赦しを得ることができる」と言うことが決議された。会議終了後、ウルバヌス二世は外に待ち構えていた民衆に対して、十字軍に関する演説をしたが、その演説を聞いた民衆の多くは遠征に参加することを懇願した。しかし、民衆はこの演説だけによって立ち上がったわけではない。十字軍への熱意が燃え上がった背景には、当時の社会状況や巡礼熱の高まりなどがあった。ウルバヌス二世は聖地回復に熱意を燃やし、西・中部フランスを廻り各地で演説を行っている。こうして集まった軍団は五つの部隊に別れていて、その数、騎兵四、五千、歩兵約三万であり、その中には半武装の兵士や老人・女子供も含まれていたものと見られている。

<第一次十字軍>
 ル・ピュイの主教アデマールを総指揮官とする第一次十字軍は、1096年から徐々にイェルサレムヘ向けて出発した。コンスタンティノープルを経由して一行はニケーアとその周辺都市を攻略、1098年にはアンティオキアを陥落させた。ここでは虐殺と略奪が行われたが、その後は逆に占領軍のほうに疫病が蔓延し多数の死者が出た。(アデマールはこの疫病で死亡)1099年、十字軍はイェルサレム攻略を開始し、イスラム側の守備軍を打ち破ってイェルサレムを陥落させた。この時にイェルサレムのなかにあった巡礼者のための病院施設の関係者が、十字軍と連絡を取り都市攻略に一役買った。攻略の後にはアンティオキアと同じく殺戮と略奪が行われた。こうしてイェルサレムはキリスト教国のものになり、総主教の任命と君主の推挙が行われて、バイエルン主教アルヌルフが総主教に、第二軍団長ゴドフロアが君主になった。イェルサレム王国の誕生である。(イェルサレム総主教は本来、東方教会の管轄下であったが、この時西方教会が独断で総主教の任命を行ったため、ビザンツ帝国と西方教会との間にみぞができる事になった)その後ゴドフロアが一年で病死したため、弟のボードワンが後を継いだ。イェルサレム王国は成立したものの、難問も多く抱えていた。第一は占領人口の不足である。諸侯や騎士の多くは帰国し、原住民も占領地外に逃亡を続け、一般住民も各都市を満たすには到底足りなかった。この解決策としてまず大植民計画が実行された。しかし、僅かの戦闘員に守られ二十万ともいわれる人々がイェルサレムヘ向かったが、小アジアの山中でセルジューク・トルコのゲリラ部隊に襲撃され、ほぼ全滅、イェルサレムにたどり着いたのは僅かであった。したがってそれに代わるものとして、原住民との通婚の奨励、東方の単性論派キリスト教徒の入国招来、イスラム教徒に対する宗教的寛容政策による現地人の国外逃亡阻止などの政策がとられた。これらの政策はその後二、三十年間にある程度の成果を上げることができた。他の問題として、ヨーロッパとの交通貿易路の確立や、軍事力の増強などがあったが、前者は海路の発達によって解決され、後者は現地人傭兵の雇用によってなんとか危機を脱した。軍事力は宗教騎士団の誕生までは、傭兵に頼らざるを得なかった。

<第二次・第三次十字軍>
 イェルサレム王国が基盤を固めている間、セルジューク・トルコは領土奪回に乗り出しイェルサレム王国軍と戦闘を繰り返していたが、徐々に領土を回復し、1144年ついにエデッサを奪い返した。この時イェルサレム王国滅亡の危機が訪れたが、トルコ国内で内乱が起き軍が撤退したのでイェルサレムは滅亡をまぬがれた。このエデッサ陥落の報がシトー修道会のベルナルドゥスに届いたのは1145年のことであった。ベルナルドゥスは考えた末、新しい十字軍の必要を痛感、各地で演説をしたり、教皇を説得するなどして二度目の十字軍を編成した。第二次十字軍にはドイツの皇帝コンラート三世に率いられた軍団と、フランス王ルイ七世に率いられた軍団があったが、双方ともイェルサレムに着くまでにトルコ軍の攻撃を受けて多くの兵を失い、イェルサレムにたどり着いた兵は非常に少なかった。イェルサレムに着いた後、ドイツ・フランス両国王は領土的野心からダマスカスヘ向かうが、トルコ軍に大敗、ここにおいて第二次十字軍は失敗に終わった。その後、エジプトとシリアの支配権を握ったサラディンのアイユーブ朝が台頭、1187年のハッチンの戦いにおいてイェルサレム軍は大敗し、同じ年の十月にイェルサレムは陥落した。
 ハッチンでの敗戦とそれに続くイェルサレム陥落の報は西ヨーロッパに大きな衝撃を与え、ただちに第三次十字軍が編成された。これには英・独・仏三国の君主が参加し、さらに民衆兵と武士階層の騎兵が加わり、あわせて十数万の軍勢となって、1190年に出陣した。ドイツ軍は小アジア・ルートを進んだが、サラディンはこれを途中で阻止しようと様々なことを画策、ビザンツ帝国にもドイツ軍に援助・交易をしないよう要請し、ビザンツ帝国はこれを受け入れた。(この事がビザンツ帝国と西欧諸国との対立を深める原因となる)さらに皇帝フリードリヒ一世が小アジアのセレウキアで過って水死し、ドイツ軍の士気は低下、戦闘で破れたり兵士が船で帰国するなどして、兵力は半減してしまう。英・仏軍は海路によって目的地へ到着し、ドイツ軍も加わってアッコンヘの攻撃を開始した。アッコンは1191年に陥れるが、背後を包囲するイスラム軍とは停戦し、英王リチャード一世とその軍勢を残して大部分は帰国してしまう。リチャード一世はその後もイェルサレムを望んで攻撃を加えるが成らず、1192年九月、イェルサレムヘの巡礼の自由を条件にサラディンと三年間の休戦協定を結び、代理首都をアッコンに定めて帰国したのだった。

<第四次・第五次十字軍>
 西ヨーロッパではインノケンティウス三世が登位して(1198年)、教皇権の最盛期を迎えたが、彼は聖地回復にも意欲を燃やし十字軍を召集した。編成された第四次十字軍はヴェネツィアから艦隊を借りていたため、ヴェネツィアの希望に従いまずツァラを攻略した。この時コンスタンチィノープルでは権力闘争が起きており、十字軍は援助を求められて闘争に介入、コンスタンティノープルを陥れて皇帝を復位させた。しかしこの後、市民が反乱を起こしコンスタンティノープルは混乱、それに乗じて十字軍はコンスタンティノープルを攻略し、略奪・破壊・暴虐の限りを尽くした。十字軍はフランドル伯をボドゥアン一世として帝位につけ、国号をラテン帝国と称した。(1204年)教皇は十字軍の暴挙を嘆き、西ヨーロッパ人も十字軍の堕落を嘆いた。ここにおいて初期のイェルサレム奪回という十字軍の精神は失われ、十字軍運動は斜陽期に入っていくのである。(ラテン帝国は1261年、ミカエル八世にコンスタンティノープルを落とされて滅亡。ビザンツ帝国が復活する)
 第四次十字軍の方向転換があったものの、西ヨーロッパでは、レコンキスタの進展やアルビジョワ十字軍の成功などで、異端・異教徒の制圧への意識は衰えを見せず、第五次十字軍の編成が成された。また、時を同じくしてイェルサレム王国では、テンプル・ヨハネ・ドイツ騎士団の整備・統制が行われ、軍備が充実、イェルサレム奪回のためにまずエジプトを陥れようという計画がなされた。イェルサレム国王ジャンは精鋭を率いてナイル川の河口に上陸、河口から四キロほどの都市ダミエッタを攻略した。エジプトの政朝はあきらめて、イェルサレムをキリスト教国に明け渡して講和しようとしたが、そのとき十字軍が到着、総司令官ペラギウスは講和に反対し、カイロを陥れてからエジプトもろともイェルサレムを奪回すべしとした。しかしそれが失敗だった。1219年に総攻撃が開始されたが、戦線は膠着状態に陥り、士気は低下、帰国するものや略奪するものが続出した。さらに夏のナイル川の氾濫に因り作戦は頓挫し、逆にエジプト軍の反抗は勢力を増して、ダミエッタも陥落、1221年にペラギウス以下兵士ほとんどが捕虜になって、エジプト遠征の幕は閉じられたのであった。

<その後の十字軍>
 アイユーブ朝では1227年、内乱勃発の危機を迎え、カイロの統治者アル・カミールはイェルサレムと海岸都市幾つかを譲渡する約束で神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世に援助を求めてきた。フリードリヒ二世は条約を締結し十字軍遠征を遅らせて様子を見ていたが、相手方の急死で内乱は勃発せず条約の履行は怪しくなってきた。したがってフリードリヒ二世は十字軍を率いてアッコンに上陸、軍隊で脅しつつ条約の履行を迫って、ついにイェルサレムの返還をかち取った。ナザレ、ベツレヘムも同時に返されて、イスラムの聖所はイスラム教徒の居住区と共に治外法権地域として残し、安全通行権が相互に保証された。(ヤッファ協定)こうして1229年にイェルサレムは再びキリスト教国の手に戻ったのである。この後の第七次十字軍はまたしてもイスラム側の内紛にかかわって、元のイェルサレム王国の領土を回復した。しかし、イェルサレム王国は元の領土を取り戻したといってもそれをまとめ上げる人物に欠き、内部対立が続いて解体し始めていた。そんな時、エジプトの傭兵部隊のホラズム族がイェルサレムを攻撃し、イェルサレムは陥落、永遠にキリスト教徒の手から失われてしまう事になってしまう。(1244年)
 イェルサレム陥落の悲報を受け、第八次十字軍が計画され、フランス王ルイ九世が軍隊を率いて出発した。軍は1249年ナイルの河口に上陸し、ダミエッタをすぐさま陥れる。しかしこの後、第五次十字軍の時と同じようにエジプトからの講和を断りカイロヘと進撃、エジプトの反撃と軍の中に流行った病気にやられて軍はほとんど全滅してしまった。1270年には最後の十字軍が編成され、チュニスヘ向かったが、エジプトの講和戦術と軍の内部分裂によって何の成果もないまま軍隊は帰国した。こうして約二百年に渡る十字軍遠征は終りを告げるのである。
 1244年にイェルサレムが陥落した後もアッコンを中心としてイスラム教国に対抗してきたイェルサレム王国であったが、1270年以降はエジプトのマムルーク朝に領土を侵食されていき、1291年ついにアッコンを落とされてしまう。これにより残った他の諸都市の住民も危険を感じてキプロス島に難を逃れるのである。十字軍遠征によって中東に生まれたキリスト教国もここにおいてすべて消滅してしまうのであった。

<教皇権の隆盛>
 ウォルムス協約によって叙任権闘争は決着を見たが、この後も教皇と皇帝の小競り合いは続き、その権力は互いに均衡していた。そんな時代が約八十年続き、インノケンティウス三世が教皇の位に立つのである。インノケンティウス三世は三十八歳という若さで教皇に就任したが、それは彼の有能さをよく表している。インノケンティウスは教皇の権力を皇帝の上に置こうとする以前の教皇の念願を実行しようとし、教皇権の優位を強く主張した。そのために教会内の綱紀の粛正や諸都市の服従に乗り出し、さらに神聖ローマ帝国の皇帝の選定に干渉して皇帝を自分の権力下に置こうとした。この皇帝選定の騒動の後、1215年に皇帝になったフリードリヒ二世はインノケンティウスに支持されて皇帝になったので、インノケンティウスには頭が上がらなかった。(そうはいってもインノケンティウスは1216年に死去している)この後1215年十一月に第四ラテラノ公会議が開かれた。この会議にはフリードリヒ二世や西欧諸国の国王の全権使節、イタリア諸都市の代表者や教会の聖職者など、総勢千五百人を越える人々が参加し、中世最大の公会議となった。(しかし東方教会からの出席者はなかった)会議では、聖職者の規律や組織に関することや、異端の禁圧を厳しくすること、主教選挙への俗権の排除、十字軍に関することなどが決められた。十一世紀前半のレオ九世から、教会の改革が始められ、教皇は教皇権の伸長に努めてきたが、こうした教皇権の高まりは周辺諸国の君主をして進んで教皇に土地を献じて、改めてそれを封土として受け取るものの出現をもたらした。こうしたことは十一世紀の中頃から行われていたが、インノケンティウス三世の時代になって益々増大した。教皇の封土はローマの周辺だけでなく、東欧の幾つかの国からスペインのキリスト教国にまで広がり、イギリスについてもジョン王を臣従させ、その土地を封土として王に与えた。インノケンティウスはフランスに対してもフィリップ二世の離婚問題に介入して復縁を追り、それを実現させ、権力の強大さを見せている。この様にインノケンティウス三世の時代に教皇権は最盛期を迎えたが、1216年にインノケンティウス三世が死ぬと、最盛期は長く続かず教皇権は揺らぎ始めるのである。

<教皇権の動揺>
 インノケンティウス三世が死ぬと、それまで影に隠れていたフリードリヒ二世が本性をあらわし、教皇に対して強気な態度を示し始める。彼は教皇の十字軍要請を受けたにもかかわらず出発を延ばし続け、また、シチリア王国の統合と北イタリアの併合を進めるのであった。こうした態度に業を煮やし教皇グレゴリウス九世はフリードリヒ二世を破門するが、皇帝はこれを気にせず破門されたままパレスティナヘ出発、イェルサレムを回復しイェルサレム王国の国王にもなった。これに対してグレゴリウス九世は皇帝の破門を解いてしまう。この後もフリードリヒ二世に対して、教皇側は破門や廃位の宣言などで対抗するが、皇帝の帝位は揺るがず、結局この闘争が解決したのはフリードリヒ二世の死(1250年)によってであった。フリードリヒ二世の後、神聖ローマ帝国では反乱が起きるなど国内は不安定であり、シチリア支配も揺らいで、フランスにその支配が移っていく。また、教会内でも教皇派と皇帝派の対立を避けて、イェルサレム総主教であったフランス人のウルバヌス四世が1261年、教皇となり、以後フランス人が相次いで教皇位に就くのであった。この後教皇庁では親フランス的態度が取られていく。こうした中、ドイツは大空位時代を迎え国力は衰え、その後の領邦君主時代に突入していくのであるが、そこヘヨーロッパの大国としてのし上がってくるのがイギリスとフランスであった。そして教皇権に関していえば、フランスが新たな抗争の相手になっていくのである。


―おわりに―
 前回の反省にもかかわらず、また短期間で仕上げたレジュメになってしまった。調べが足りない部分もあるかと思うが許していただきたい。しかし、今回は予定していた範囲まで進むことができたので満足している。これからはアイルランドなどには一切触れず、レジュメを作っていきたいと思っている。


〜参考文献〜
『西洋教会史』  小嶋 潤  刀水書房
『キリスト教史3』  M.D.ノウルズ  平凡社ライブラリー
『キリスト教史4』  M.D.ノウルズ  平凡社ライブラリー
『キリスト教〜その思想と歴史〜』  久米 博  新曜社
『キリスト教史T』  半田 元夫・今野 國雄  山川出版社
『アラブから見た十字軍』  アミン・マアルーフ  リブロポート


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