1998年6月12日
鄭和の西洋下り  岡田雅志


◆ 初めに
 鄭和といえば、ヨーロッパの大航海時代に先立つ15世紀の初めに明の成祖永楽帝の命により、いわゆる南海大遠征を行った人物として知られているが、彼が行った航海の実体、その目的や内容についてはあまり知られていないし、実際、明らかになっていることは多くない。今回は、鄭和個人の人生を振り返ると共に、明初に行われたこの鄭和の西洋下りという大事業について述べていきたい。


§1.鄭和の航海以前のアジアの海
 まず最初に、鄭和の西洋下り以前のアジアの海洋世界がどのようであったかを見ておきたい。古代よりアジアの海では季節風を利用して様々な貿易船や使節が往来してきたが、唐末の頃から、造船技術、航海術の進歩などがあって、東西交易の中心がオアシスロードなどの陸上交通から、海上交通に移り始めた。このため、アジアの海はこれまでにない活況を呈することになる。
 海上交易が盛んになると、アラビア、ペルシア、インド人などのムスリム商人が活躍し、海上東西貿易の中心を担うことになり、中国にも多くのムスリム商人が訪れた。一方、中国人の海外進出も盛んになり、インドやペルシア湾方面まで進出して貿易を行った。こうした動きは東西のネットワークが統一された元代に頂点を極め、交易路上にある港市は発展を続け、中国では泉州、広州などが世界的な海港都市として繁栄したのである。鄭和の船団が航海するのはこうした海であり、すでに形成されていた海洋貿易のネットワーク上をたどったのが鄭和の西洋下りなのである。


§2.鄭和の西洋下りを可能にした造船、航海技術
 鄭和が航海を行った明代初期は、宋、元代と発達を続けた中国の造船能力が頂点に達した時期であった。造船所が沿海部、長江流域を中心に全国各地に設けられ、沙船、福船、広船、烏船などの様々な型の艦船が数多く建造された。当時の明帝国の海軍規模は世界一と思われ、英国の科学史家ニーダムによると、1420年(永楽18年)頃の明帝国が保有した艦船数はヨーロッパ諸国の船の合計数より多かったという。又、船数だけでなく、その性能、規模においても世界の最高水準にあった。中国の船の特徴は、多くのマストを持つ帆船であること(無風時用の櫓もついていた)、隔壁構造を持つこと、そして安定性のある、船体の横幅の広い大型船であることであった。(ヨーロッパ、イスラーム世界では小型船が中心であった)こうした造船技術の上に立つ鄭和艦隊の偉容は、27.000人以上を載せた60余隻(大型船を補助する小型船を含むと200隻以上といわれる)の大艦隊で、その中心となる宝船と呼ばれる大型船は、型は喫水の浅い平底の沙船か、竜骨のあるV字底の福船かはっきりしないが、その大きさは最大級のもので長さ約150メートル、幅約60メートルもあり、排水量を推測すると約3100〜8000トンであるといわれる。説によって差があるが、鄭和の半世紀以上後のコロンブスの艦隊(艦船数3隻、乗組員120人、旗艦サンタ・マリア号―200〜250トン級)やヴァスコ・ダ・ガマの艦隊(4隻、170人、旗艦サン・ガブリエル号―120トン級)の規模と比べれば、鄭和艦隊の規模の大きさと、当時の明の国力、中国の造船能力の高さがうかがえる。
 鄭和艦隊を支えたもう一つの要素である航海技術については、第一に挙げられるのが、宋代に使用が始まったとされる羅針盤の存在である。これにより船の進路を正確に知ることができた。また航海では、中国船の通い慣れた東南アジアの海域では、海底の深度、特色や、沿岸地域の景観によって船の位置を把握する、伝統的な沿岸航法を用い、外洋航海を必要とし、ムスリムの船が活躍するインド洋では、北辰星(北極星)や華蓋二星(こぐま座β、γ星)の高度をカマール(牽星板)と呼ばれる天体観測儀を使って計り、それによって現在位置の緯度を知るムスリムの天体航法を用いた。鄭和艦隊の航海は中国とイスラーム世界の先端の航海技術を使ってなされたのである。


§3.鄭和の西洋下りの目的と永楽帝の対外政策
 鄭和の西洋下りの目的については、昔から様々な説があるようだ。俗説としては、西方の雄ティムール帝国の東征の動きを牽制するのに、その隣接諸国と軍事同盟を結ぶためであるとか、海上に残存する反明勢力を鄭和艦隊に組み込んで、倭寇などと結びついて反乱を起こすのを防ぐため、などがある。しかし、どちらも妥当であるとは考えにくい。「明史」では、その目的を、靖難の変(1399〜1402)で南京陥落の際、命を落としたはずの建文帝が実は異国の地に落ちのびたのではないかと永楽帝が疑って、これを探し出すということと、諸国に明帝国の威光を示すこと、としている。しかし、生きているかどうかもわからない前皇帝を探すのに、これほどの大艦隊を組織する必要があるとは考えられないし、なぜこのときに明帝国の威光を示す必要があるのかはっきりしない。この大事業がなされた目的を知るには元から明への王朝交代に伴う対外関係の変化に目を向ける必要がある。
 東西の陸と海とのネットワークを掌握し、非常に盛んに貿易が行われた元代が、明の太祖洪武帝によって終わりを告げると、洪武帝は一転、海禁政策をとり、朝貢貿易以外、民間の自由貿易を厳しく取り締まった。これに対し、永楽帝は積極的な対外政策をとり、側近である宦官を諸外国に派遣し、ヴェトナム征服や5回に及ぶモンゴル親征を行った。こうした政策は永楽帝が元のような対外的に開かれた大帝国を理想としたからであるが、貿易に関しては、自由貿易は初代洪武帝の祖法に触れるため実施できなかった。そこで、海禁政策で滞っていた輸入物資(特に香料や奢侈品)に対する国内需要の高まりに対応するためもあって、大明帝国の威光を示す使節としての役割と、朝貢貿易による恒常的な大規模貿易圏の確立という使命を担った大艦隊が組織され、その指揮官に鄭和が任命されることになるのである。


§4.鄭和という人物
 鄭和の西洋下りは、永楽帝の命でなされたものであり、鄭和は命令されたことを実行しただけであるが、この大艦隊をまとめ上げ、外交使節としても、貿易船団の長としても、成功を収めたということは非常な功績である。しかし、その偉大な功績にも関わらず、その生涯はあまり明らかになっていない。その中でではあるが、鄭和が大航海に発つまでの経歴を簡単に追っておく。
 鄭和は現在の雲南省昆陽州の人で、1371(洪武4)年に生まれたとされている。生家の姓は馬氏で、貧しいムスリムの家庭であった。父の名は馬哈只(ハッジ)、祖先は西域系であると思われる。12歳の時に父を失った後、当時北平(北京)に燕王として封ぜられていた朱棣(後の永楽帝)の下で宦官として仕えるまでの経緯は不明であるが、おそらく、元の残存勢力が割拠していた雲南を明が征服したときに明軍に連れられ、宦官にされた上、燕王に献上されたと思われる。その後、靖難の変で戦功を立てたことで燕王の信頼を得、即位して永楽帝となった後、鄭姓を賜り、宦官の最高官職である内官監太監(土木・建築を司る内官監の長官)に任命された(太監となったため、鄭和はしばしば三保[宝]太監と呼ばれる。三保は鄭和の幼名。)。永楽帝の側近宦官としての鄭和の人物像について、当代一の人相見は「身長は九尺(約180センチ)、腰回りは十囲(1メートル以上)、顔は四角張って鼻は小づくりであるが、貴相である。眉目は秀麗、耳は白くて長い。鼻は貝のようであるが、歩く姿は虎の如く、声言は喨々としている。」と書いているが、およそ宦官らしくない風体である。それはともかく、鄭和はその才能と、ムスリムであるというイスラーム世界に行くのに有利な特徴が認められ、西洋を巡る大艦隊の指揮官に任ぜられた。


§5.鄭和の西洋下り

【第一回航海】
 1405(永楽3)年6月15日に艦隊派遣の命を受けた鄭和は、長江下流の港町劉家港において、宝船(大型船)62隻、乗組員27.800余名からなる艦隊を組織し、航海に出発した。鄭和艦隊はまず、福建の五虎門で秋まで風待ちをした後、占城(チャンパ)の玄関口新州港(クイニョン)に入って、国王の歓迎を受け、無事詔勅を与え、朝貢を約した。占城滞在後、艦隊は次の目的地、爪哇(ジャワ)に向かった。当時のジャワを支配していたのは、マジャパヒト王国であったが、この頃には分裂状態にあり、東王ブレ・ヴィラビューミと西王ヴィクラマヴァルダナとが争っていた。鄭和艦隊は領内の港に停泊中、西王の軍が東王を襲って倒すという事件に巻き込まれ、西王軍に170名の兵士が殺された。西王は過ちを悔い、謝罪使を艦隊に同行させ、後に賠償金を払って解決し、以後明に朝貢するようになった。鄭和は爪哇の次に旧港(パレンバン)[当時はマジャパヒト王国の領内であったが、明の海禁政策以降、密貿易に携わる華僑勢力の拠点となっていた]を訪れたが、華僑の有力者、梁道明、施進卿の勢力と、対立する陳祖義の勢力の対立に顔を突っ込み、鄭和艦隊をだまし討ちしようとした陳祖義を生け捕りにし、施進卿を明の属官として、現地華僑社会を支配させることで解決した。これは鄭和艦隊の数少ない本格的戦闘の一つとなった。艦隊は次いで、満刺加(マラッカ)、スマトラ島の亜魯(アルー)、蘇門答刺(サムドラ・パセー)に寄港しながら、マラッカ海峡を通過し、ベンガル湾に入った。そのまま西に航海して錫蘭(セイロン)にいたり、南インドの小葛蘭(クーロン)、柯枝(コチン)に寄港しながら、今回の最終目的地であり、インド洋貿易の中心港である古里(カリカット)に到着した。カリカットの支配者はヒンドゥー教徒であったが、すでに明へ何度か使節を派遣しており、鄭和は詔勅と銀印を彼に与え、外交的使命を果たした。鄭和はこのときに航海の記念碑を建てたという(現存せず)。艦隊はしばらくこの地に滞在して貿易を行った後、帰路につき、1407年9月2日諸国の使節を伴って、無事帰国した。この航海は東南アジアの貿易拠点である旧港を明の対外貿易の拠点とすることができたほか、諸国の使節と、鄭和艦隊の宝船は「西洋取宝船」とも呼ばれるのであるが、その名の通り、莫大な諸国の貴重品を積んで帰ることができ、大成功に終わった。

【第二回航海】
 首都南京に戻った鄭和は休む間もなく、同月13日永楽帝より第2回航海の命を受け、あわただしく出発することになった。今回も最終目的地は古里で、コースもほぼ同じであったが、一つだけ、第一回航海にはない目的地があった。それは暹羅(シャム)である。当時の暹羅は台頭著しいアユタヤ朝の支配時期に当たり、満刺加や蘇門答刺に派兵し、貢納金を要求するなどマラッカ海峡方面への進出をねらっていた。これに対し、永楽帝は1406年にヴェトナム征服を行った事実を利用して、陸からも、宦官張原を派遣して圧力をかけた。その動きと連動する形で鄭和もメナム川を遡って、首都アユタヤに入り、警告を与えた。その結果、時の国王インタラジア1世に銀印を与え、明との冊封関係の維持を約束させた。また、第2回航海の帰路に鄭和が錫蘭に建てたといわれる石碑は現存しており、漢文、タミル語、ペルシア語の3カ国語で書かれ、それぞれ仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教を意識した内容になっており、当時の錫蘭の国際性と、鄭和の宗教的な寛容さを示すものとして注目を集めている。

【第三回航海】
 1409年夏頃に帰国した鄭和艦隊であったが、次の航海の命令はすでに前年9月に出されていた。艦隊は急ぎ準備を整え、同年10月には宝船48隻に27.000余人の乗組員で劉家港を出港した。今回の航路も、占城の新州港から暹羅行きの別働隊を出した以外は第1回と同じであり、再度の暹羅への戒告の使者派遣と、満刺加の国家体制の整備を行い、明の朝貢国としたため、暹羅は南方進出をあきらめ、情勢不安は収まった。しかし、鄭和艦隊には7回の航海を通じて最大規模となる戦闘が待っていた。このことは後のマラッカ王国の発展に大きな影響を与えたということができ、以後、マラッカは鄭和艦隊の重要な中継拠点となり、マラッカと明との友好関係はポルトガルによりマラッカ王国が滅ぼされるまで続いた。その事件は前回の航海で石碑を建てた錫蘭で起こった。対外との友好に不熱心な国王アラガクコナール(亜烈苦奈児)が、錫蘭の港に寄港していた鄭和艦隊を、金銀などを献上すると偽っておびき寄せ、その間に主力軍5万で港の艦隊を襲い、鄭和の帰路を絶とうとしたのである。鄭和は途中で王の謀略を察知して、手勢2千を率いて間道から守りの手薄な王宮へ攻め込み、王とその一族を捕らえた。その後、異変に気づいた主力軍が攻め寄せてきたが、激戦の末これを撃破し、港の艦隊に合流した。鄭和は国王を明に連行したが、皇帝は彼の帰国を許した。錫蘭国では賢人の噂の王族パラク・カーマ・ボフ6世(耶巴乃那)が王位を継ぎ、明との友好を保つようになった。これ以降、錫蘭は鄭和艦隊の中継基地として大きな役割を果たすことになった。

【第4回航海】
 第4回は最終目的地が古里からペルシア湾にある国際貿易港の忽魯謨斯(ホルムズ)までのばされ、第3回航海からの帰国後、1年以上の準備、休止期間がおかれた。そして、1412(永楽10)年11月15日、第4回航海の勅命がおり、優秀なペルシア語通訳の確保などの準備を行った鄭和艦隊は、イスラーム世界の商港に赴き、招諭(朝貢の要請)を行うという新たな命を受け、出航していった。途中、蘇門答刺の王位を巡る内紛に介入することになるが、これを解決、蘇門答刺を明に服属させることに成功した。蘇門答刺を出港する際に、鄭和は艦隊を二つに分け、溜山(モルディブ)経由、アフリカ東岸行きの分遣隊を出し、自己は錫蘭、古里方面経由で、忽魯謨斯に向かうことにした。本隊は古里より1ヶ月ほど西航して忽魯謨斯に着き、国王に勅書を手渡し、貿易を行った後、そのまま1415年7月8日に帰国した。この忽魯謨斯は鄭和本人が訪れた最遠の地である。一方、分遣隊は、溜山で貴重な香料である龍涎香(マッコウクジラの内分泌物で、溜山の特産)を手に入れ、アラビア海を横断してアフリカ東岸に到着し、木骨都束(モガディシオ)、卜刺哇(ブラワ)、麻林(マリンディ)の諸港を訪れた後、北上し、アラビア半島の要港阿丹(アデン)、祖法児(ズファール)などを経由して、忽魯謨斯に至り、本隊と同じ帰路を通って1416年に帰港した。このとき帰国した分遣隊に同乗してきた麻林の使者はキリンを貢物として献上した。このとき、伝説の聖獣と同じ名をもつこの珍獣に、永楽帝は大喜びしたという。

【第五回・六回航海】
 第五回航海の命は1416(永楽14)年に下りた。第五回では前回と同様、アフリカ東岸方面への分遣隊を出したが、本隊も古里でもう一度アラビア海を横断し、阿丹方面へ向かう隊と、忽魯謨斯に向かう本隊に分かれるという多方面に枝分かれする航海となった。この航海では前回からのキリンの他、獅子、金銭豹(ヒョウ)、西馬(アラビア馬)、花福禄(シマウマ)などの珍獣がもたらされた。
 少し間をおいて1421年には第六回の航海が行われた。このときもアフリカ東岸まで行ったと思われるが、詳しい航路は不明。このときもう51歳の鄭和は蘇門答羅までしか行かず、後は部下に任せていたという説もある。あと、この回は今まで海上からは訪れていなかった榜葛刺を訪れ、国王にあつくもてなされた。

【第七回航海】
 第六回航海から鄭和が帰国した1422(永楽20)年の2年後、鄭和を信頼し、艦隊の指揮を任せてきた永楽帝がモンゴル親征の帰路病死する。それにより、西洋下りの事業は幕を閉じたかに見え、鄭和は陸に上がり、南京守備部隊(都はすでに北京)の司令官となった。しかし、永楽帝の死後、即位し、対外政策が消極的であった洪煕帝が1425年になくなり、永楽帝が目をかけていた宣徳帝が即位すると、1430年、もう一度鄭和に艦隊指揮の命が下るのである。この航海は最後にふさわしく大規模で、今まで訪れた地をほとんど歴訪し、さらに、今までなされなかったこととして天方(メッカ)を訪問し、巡礼が初めてなされたことが特徴である。この艦隊が帰国した1433年を以て、29年間7回に及んだ明初の盛事西洋下りは本当の幕を閉じた。


§6.西洋下り以後
 鄭和は最後の航海からの帰国した翌年、64歳で人生の幕も閉じてしまう。続いて翌年には最後の航海を命じた宣徳帝も38歳の若さでなくなってしまい、それ以後、明帝国の対外政策は一気に消極的になってしまう。そして、この大事業は、明初の無駄遣いとして悪評すら受けることになり、のちに宮廷に残された航海の報告書さえ、海外出使を疎ましく思う大臣によって焼却されてしまうのである。
 こうして、中国の造船技術の発達と、中国、イスラーム世界の人々によるアジアの海の活況の時代の最後を飾るあだ花のような形になってしまった鄭和の西洋下りであるが、本当にあだ花たるべきものなのだったのだろうか。永楽帝が築こうとした、恒常的な貿易のネットワークは着実に実を結んでいたようにも思える。しかし、現在では、鄭和の大航海を偲ぶものとしては、東南アジアの各地にある鄭和を祠った三保[宝]廟のみである。


★参考資料
 @『鄭和の南海大遠征 永楽帝の世界秩序再編』(宮崎正勝、中公新書、1997)
 A『中国の大航海者 鄭和』(寺田隆信、清水新書、1984)
 B『永楽帝』(寺田隆信、中公文庫、1997)
 C『馬歓 瀛涯勝覧―鄭和西征見聞録―』(小川博訳注、吉川弘文館、1969)
 D『新編鄭和航海図集』(海軍海洋測絵研究所・大連海運学院航海史研究室編、人民交通出版社、1988)
 E『鄭和下西洋資料匯編』上下(鄭鶴声・鄭一釣編、斉魯書社、1980)
 F『宦官』(三田村泰助、中公新書、1963)
 G『大航海』上下(伴野朗、集英社文庫、1987)

 今回のレジュメは@〜Bを主に使って書いた。Cは鄭和の第4,6,7次の航海に通訳として参加している馬歓が訪問地の風俗などを記述した「瀛涯勝覧」の訳本。部分的に使用。D、Eは中国の出版物だが、ほとんど中国語を読む必要はなかった。タイトル通り、図集と、西洋下りに関係する漢文史料集成である。Dは図の引用のみに使用し、Eはもっと活用すべきであったが、ごく一部しか参照していない。Fは宦官を扱った本の中では名著らしい。一応全部目は通した。Gは小説。鄭和の西洋下りを扱った歴史小説なのに、鄭和の影が薄くて、そのかわりに倭寇となった楠正成の子孫や、妖術使いが活躍したりする(ティムールもこの妖術使いに殺されてしまう)ある意味すごい小説。歴史小説としてはあまりおすすめできない。


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